アンコール・ワット、プレ・ループ遺跡
御影祐の偶然に学ぶ 3




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ゴルフコンペ顛末記

 目  次
 ・ 初めに
 ・ 利根川河川敷Aゴルフクラブ
 ・ 荒涼とした(?)ゴルフ場
 ・ 打ち込み
 ・ バイキングパーティー
 ・ 声太の姉妹ロッカー
 ・ 表彰式
 ・ 偶然の意味




 ・初めに

 小生、12月2日(日曜日)北関東T市のAゴルフクラブで行われたゴルフコンペに仲間3人と参加しました。それもいつもの仲間内のコンペではなく、他流試合とも言うべき大きなコンペでした。大会名はDスポーツ主催の「エイジアンカップ」、男女合わせて計218名の参加でした。我々にとっては初めてのかなり大きなコンペでした。ここで(やはり偶然と言っていいでしょう)とても面白いことがありました。以下はその顛末記です。原稿用紙40枚分はあります。長いので、暇なときにご一読を。

 ところで、詳細を語る前に「新ペリア方式」というゴルフのハンデ算出方法を少々説明いたします。知っている方は飛ばして先へお進みください。 →本 文

 ゴルフはうまい人には小さなハンデ、下手な人には大きなハンデが与えられて成績を競うスポーツです。大会は通常全18ホール(パー72)を終えた上がりのスコア(グロスと呼ぶ)から、ハンデを差し引いて、その数値(ネットと呼ぶ)で順位を決めます。
 例えばグロス90の人がハンデ20だとネットは90−20で70。ハンデ30の人がグロス100で上がれば、100−30でネットは70。ともに70となり、同順位になります。ちなみに、ネット同値の時は年上の人が上位となります。年寄り頑張ったね――のご褒美ってところでしょうか(^.^)。
 ところで、初対面の人同士で競うアマチュアのコンペの場合、その1回のスコアだけでハンデを算出しなければなりません。これは全18ホールのスコア全てを使って計算するのではなく、そのうちの約半分の9ホール分(これがどのホールかは前もって明かされないので、隠しホールと言います)を使って計算します。
 例えば18ホールパー72のホールで、A氏が全てボギーで上がったとしましょう。1打×18=18だから、72+18=90、グロスは90になります。かたやB氏が18ホールのうち半分をパー、半分をダブルボギーで上がって来ても、2打×9=18だから、72+18=90。B氏もグロスはA氏同様90となります。グロスは全く同値となって差がありません。
 ところが、隠しホールの現れ方では、このA・B二人は全く正反対のハンデが付けられ、順位にも大きな差が出てしまうのです。
 全てボギーのA氏は隠しホール9ヶを全てプラ1で上がっているから1×9=9でハンデは9となります。A氏はこれ一種だけで変化はありません。ちょっとしたシングル級の腕前ですね。対してパーが半分ダボが半分だったB氏は、もしそのパーばかりの所9ホールが隠しホールだと、全てパーだから、0×9=0。つまり、ハンデ0(!)というプロ級のアマチュアとなります。だが、もしダボの9ホールが全て隠しホールだと、2×9=18。つまり、この場合のハンデは18となり、まあ中級上の腕前の人となるでしょう。

 このようにパーやダボが半々だったB氏の場合は、隠しホールによって、0〜18という極端なハンデがついてしまうことになるのです。(実際はこれに0.8をかけて小数点をつけます)
 だから、新ペリア方式では各ホール同じようなスコアの人よりも、大波小波型の人の方がハンデは大きくなる可能性が高いのです。参加者に前もって隠しホールを教えないのは、その隠しホールで意図的に大たたきして、それ以外でパーを取るようにすると、必ず上位にいけるからです。もっともハンデは36が上限なので、ほぼ全ホール大叩きする初級クラスは、どうやっても上位に入らない。上位入賞するには、大波小波タイプでグロス90を切っておくこと。そうすると、隠しホールによってはかなり可能性が高いことになります。 ――と長々とゴルフのハンデと順位の出し方を説明した後で本題の顛末記へ。なお、私御影祐以外の3人は仮名といたしました。



 ・利根川河川敷Aゴルフクラブ

 さて、舞台となったAゴルフクラブは利根川のすぐそばにある平坦な河川敷コース。全部で27ホールだが、台風でインコースの半分が修復中だった。そのためコンペはアウト9ホールとイン4ホール、西コースの5ホールを使っての変則的なラウンドで行われるらしい(と申し込んだとき知らされた)。
 私がその日自宅を出たのは早朝5時前。JRのK駅で遠山勝実(私たちは彼をカッチーと呼んでいる)、森松両氏と待ち合わせ(車はカッチーの車)、それから白鳥氏を拾って茨城を目指す。道中は初めての他流試合に話が弾んだ。
 私が「Dスポーツの主催だけど、T市やA市など近隣の市や町の教育委員会が後援なんだ。たぶん先生方も結構参加しているのでは」なんて話をすると、ちょっと驚きの声があがった。私は既に退職したが、同行三名も教員だったからだ。さらに「一位賞品は海外旅行だよ」と言えば、「おー!」、「30位まではDスポーツに名前が載るそうだよ」、「えーっそりゃあ困るなー」、「ない、ない。特にあんたはない」なんて声も。昼食・パーティーなど全てバイキングの食べ放題飲み放題。だから「晩飯はそれで済ますからね。終了後のパーティーではジャズ演奏もあるらしい」などといろいろ語りながら東名から首都高を抜け茨城へ向かった。コースに着いたのは午前8時前だった。
 カートがクラブハウス前の斜面にぎっしり並んでいた。外はやや曇って結構寒かった。だが、12月にしては暖かい方か。
 既にかなりの人が受付をしていて、係りの人やら何やらでざわついている。私たちは受付で参加費16000円を支払う。別に開会式などはなく、各グループで勝手にラウンドして、最後に表彰式兼パーティーがあると言う。私たちのスタートは8時54分。ロッカーに行くと、私の番号はなぜか001番だった。トップのスタートではないし、受付だって一番ではなかった。妙な偶然なので、私は「こりゃあ今日はホールインワンてことかなー」とまずひとかまし。10番ずつ離れた所で、同行者から笑い声が上がった。
 二階レストランでサービスの軽い朝食を食べる。カッチー、森松氏はもう飲み放題のビールを口にしている。私は一足早く外に出てパター練習、と意気込みの違いを見せつけた。
 そして、午前九時前インコースの10番400ヤードからスタート。乗用カートでキャディはいない。この頃には雲はかなり消え晴天が広がっていた。だが、風が強く相変わらず寒い。見回すとずーっと平らなホールが続いている。右手遠くに数メートルの高さで堤防が見える。どうやらその向こうが利根川のようだ。パー72とは言え、全体的に距離も短いので、私はみんないいスコアが出るのではと期待していた。私自身最近の練習でドライバーやアイアンがそこそこ当たっていたので、ぜひ90は切りたいと秘かに期するものもあった。コンペとは言え、私たちにとっては全く初めてのコース。だから、常連さんと比べると当然不利がある。もっとも知ったコースであっても、私たちの実力では上位入賞など考えられなかった。辛うじてグロス平均90前後で回れる森松氏が、ハンデによっては30位以内があるかな……という程度だった。
 私たちの前の組は年輩の男性二人と女性二人。この女性二人がプロに習ったかのようないいフォームだった。打球もしっかり飛ばしていて我らからほーっの声があがる。いよいよ次が我々の番。ティーグラウンドに立ってみると、そこはほとんど土で芝がない。早速同行者から「何だこのひどいティーグラウンドは」と文句がひとしきり。しかも近くの樹木など大きいものほど枯れ木状態になっている。約3メートルの植え込みは緑色だったが、土に汚れてやけにきたない。しかも、下半分が一部白っぽくなって枯れている。ティーグランドにいた係りの人によると、昨年の台風で辺り一面水浸しになったらしい。

 ・荒涼とした(?)ゴルフ場

 前の人たちが半分以上進むと、いよいよ我らのティーショット。10番はかなり激しいアゲンスト(逆風)だった。私も含めてみんなそこそこドライバーは当たった。しかし、行ってみるとグリーンまで残り240ヤードもある。距離は400ヤードだから、160ヤード前後しか飛ばなかったことになる。かなり風に押し戻されたようだ。結構いい当たりだっだけにちょいとショック。その後もこの強風にはかなり悩まされることになる。
 フェアウェイは芝がはげたようになっていて、至る所修理地だらけ。しかも、除草した芝がうず高く積まれていたりする。砂がまかれ、フェアウェイとラフの区別などない。地面はぶよぶよしていて何だかベアグランドで打っているかのような感触。早速私の2打目3打目はダフったりトップしたりして打ち損なう。森松氏他二名もかなり苦労している。 やっとグリーンに近づいた。グリーンは土饅頭のように中央部が高い。これも一応緑のグリーンではあったが、今度はすごく固い。当然球の転がりは早い。寄せでグリーンにオンしたかと思うと、転がって奥にこぼれてしまう。こりゃー手前に落とさなきゃダメだ、と手加減するとダフってグリーン手前にぽとり。バンカーにずっぽし。二ホール目以降も似たような状況だった。
 そして、ホールが進むにつれて風景はますます悲惨の一語をたどってゆく。切り株状の大木の根っこが地面から飛び出している。たぶん台風で倒れた後切断したようだ。むき出しの根っこは枯れている。ぽつりぽつりと立つ木も枝の根本から切られ白木の枯れ木状態。何だか生きているとは思えない、灰色の世界だった。同行者から「こんなのゴルフコースじゃないよなー」の声がどんどん増えてくる。私はそうだねと相づちを打つ程度だった。
 何しろこのゴルフコンペへの参加を三人に呼びかけたのは私だ。(私はDスポーツを毎日購読しているので)この大会を紙上で知り、日曜だし、翌日辺りから高校は期末試験が始まる。そこで先生業の森松、カッチー、白鳥三氏に声を掛けたところ、みな快諾してくれた。なおかつ一泊して一杯やって翌日もゴルフをしようという算段になっていた。我ら四人は北海道までゴルフ旅行に行くほどだから、単にスコアの良し悪しだけでなく、コースにもうるさかった。このAゴルフクラブは、台風があったとは言え、どう控えめに見てもひどいコースだった。
 インコースの五番目から後は西コースに入った。こちらは至る所沼地のような池だらけ。距離が全て二百数十ヤードと中途半端な距離。ドライバーを使って少し左右にずれると妙なところに飛んでいく。距離は短いのに、我々のスコアはひどくなるばかり。カッチーなどいつもの「もうダメだ。スコア付けるのやーめた」と投げ出す言葉が出る。こちらの芝やグリーンもインコースと同じように荒れている。木々も枯れている。しかし、ほとんどのホールでキャディやボランティア、そして大会関係者らしい中年おじさんがいて、フェアウェイやグリーン近くで世話をしてくれた。私はその人達に「ありがとうございます」と声をかけた。
 結局午前のラウンドはスコアがまとまらないまま終了した。森松氏が辛うじて最高の46。後は私が49、カッチーが50、白鳥氏が51という結果。上位入賞を狙うには40台前半が最低条件。しかもこれだけ平坦で短いコースなのにこのスコアだから、みんな浮かない顔。カッチーはいつも通りの愚痴オンパレード。もうこれで終わったと言う。そして、コースの悪さを非難する言葉が激しくなればなるほど、参加を発案した私も心中穏やかならず――であった。

 ・打ち込み

 午前を終えて昼食。ここでも飲み放題で、つまみはバイキング。カッチーはもう諦めたと、ビール四杯。森松氏も同じくビール二杯に日本酒一杯。定食が用意されていて、私と白鳥氏は鮭の包み焼き定食、カッチーと森松氏はハヤシライスを注文した。来るのに時間がかかった割には、ちっとも暖かくない。しかもまずい。みんなもまずいと言う。何だかだんだんうんざり気分が蔓延(まんえん)していく。しかし、午後はアウトコースの9ホールだ。スコアカードを見ると距離もそこそこあるようだし、長いパー4やパー5もあるので、私は期待していた。
 ところが、午後になってもあまり状況は変わらない。なおかつ2ホール目では前の車が数台止まって二十分近くも待ちぼうけを食らわされた。天気は良くぽかぽか陽気になったので、私はカートで昼寝。その後もやっては待ち、またやっては待ちと時間はかかる一方。パー3のホールが結構距離が長く、バンカーもあったりしてアウトの進行は時間がかかるばかりだった。それに参加者をかなり詰め込んでいる感じだった。(このときは全体で218名、つまり、最低でも50台以上のカートが回っていたと言うことになる。普通多くても40台くらいだからかなりの多さだろう。)
 当然待った後のショットはうまく行かない。午後も風は強く、フォローではかなり飛ぶ。しかし、アゲンストでは逆に風に押し戻される。相変わらずグリーンに近づくと、地面が土状態に近いので、打ち損なうことが多い。東コースはインコースや西コースほどではなかったが、それでも台風の爪痕生々しかった。私はもう痛々しいほどに荒れ果てたコースに悪口を言う気にもなれなかった。しかし、同行者は口々にひどいコースだと言う。森松氏は午後の出だし3ホールで全てダボだった。それで80台が望み薄になった。森松氏以外の面々は100を切れるかどうかの状況。とうとう森松氏は「こんなコース二度と来るもんか」とか、「こんな企画を持ち込んだ祐さんも祐さんだ」みたいな言い方をする。いつもの彼の腹に仕舞いきれない正直な吐露だ。私は慣れているので、別に気分を害することはない。ただ、せっかくの大きなコンペに参加したのに、こんな感じで終わっては、と少し悲しい気分になった。それもそのときの私の正直な気持ちだった。
 悪い気分の時には悪いことが重なるものだ。アウト半ばのホールで、森松氏はとうとう前の組に打ち込んでしまう。300ヤードのパー4で、風がフォローだった。前の組はもうグリーン近くだったので、いいだろうと打ったのだが、一人だけまだ右のラフにいたようだ。最初に打った森松氏のボールはそのあたりに飛んでいった。二人目が打ち(これはフェアウエー真ん中)、私が三番目にティーグランドに立ったとき、右ラフから男性が一人フェアウェイ真ん中辺りに出てきて、ものすごい怒声を上げた。私は思わずびびった。さすがにみんなで「すみませーん」の声を出した。おかげで私はドライバーを打ちそこなった。
 後で行ってみるとグリーンまでまだ数十ヤードあった。前の人のいた場所から考えると、森松氏の球が上から落ちてきたわけではなく、転がって自分の後ろに近づいた(打ち込むと言っても大概これが多い)ことを怒ったものと思われた。ボールが当人に当たったわけではない(終了後本人や主催者からの苦情もなかった)。普通そこまで怒鳴りはしないので、打ち込んだ森松氏などは、かえって不快な顔で文句を言う。私たちにとってもあれほど怒鳴られたのは初めてだったので、これも不快な出来事となって意気消沈となった。ただ、さすがにその後は前の組の進行をしっかり確認して打つようにした。

 ・バイキングパーティー

 そんなこんなで午後のラウンドがようやく終了。午後は三時間以上もかかり、終わったときは四時近かった。結局、トータルスコアは森松氏が一番良くて94。しかし、彼にとってはもちろん不満足な結果。私が99、カッチーが100、白鳥氏が104だった。他の連中ももちろん満足行くスコアではない。本格的なコンペなので、終了後は各自スコアカードを清書して提出しなければならない。だが、カッチーや白鳥氏は放棄するとか、スコアは控えていないから書いといてくれと言う始末。係りの人は各自で書いてほしいと言う。結局、全員自分で書いたけれど、みんなは今すぐにも帰りたい(宿屋に行きたい)感じで、風呂にも入らないままだった。森松氏は風邪気味なのか悪寒がすると言う。終了後のパーティーも飲み放題食べ放題のバイキングだから、私はそこで夕食も兼ねるつもりだった。朝受付をしたとき、最終組は午前十時の出発だから、午後四時半頃には表彰式ができると聞いていた。だから、飲み食いをしていれば、そのうち表彰式が始まるだろうと言って取りあえず二階のレストランへ向かった。
 階段下のロビーでは簡易グリーンを使ってパター大会が行われていた。ボール五ヶを打って三ヶ以上だと小さな包みの賞品や灰皿、帽子などがもらえるようだ。数人が並んでやっていた。係りの男性が一人、ボールを拾ったりして世話をしている。カップインするとちょっとした歓声が上がる。うまいなーの声ももれる。
 こりゃー面白そうだと、私たちもみんな列に並んだ。私が初めにやって3ヶを入れ、賞品を一つゲットした。だが、残りの三人は誰も二ヶ以下、カッチーなど一ヶも入らなかった。
 その後レストランに移動した。既に広い室内はほぼ満席状態。うわーんという声の渦。テーブルのバイキング料理は無惨な食べ尽くし状態。至る所で既にかなりの赤ら顔ばかり。みんな終了後の解放感に浸っているようだ。
 部屋の前の方にはドラムスやキーボード、ベースにサックスなどが置かれたステージらしきものがしつらえられている。そのすぐ前に空きテーブルがあったので、私たちは漸くそこに落ち着いた。先ほど下に聞こえてきた歌と演奏はここで行われていたようだ。我々は手分けしてビールを運び、残りかすのバイキングも少々持ってくる。ろくにつまみもなく、「これでパーティー?」の気分だった。そのときウェイトレスが重箱一つのおせち料理を持ってきた。近くに中華料理屋があり、一組に一箱試食だという。盛んに注文して欲しいと言う。「遠くから来たので」と断っても、宅配も受け付けていると、結構しつこい。しかし、無料ということで置いていった。ところがなかなかどうしてこのおせち料理、とてもうまかった。
 やっとまともなつまみが揃ったので、四人でお疲れさまの乾杯。宿まで運転の白鳥氏はウーロン茶。初めは私も運転しようと思っていたので酒を控えた。しかし、白鳥氏がいいと言うので、結局私も飲み始めた。そのうち一度なくなったバイキング料理も二度目が来始め、つまみも増えてやっと飲み放題食べ放題の気分に浸れた。カッチーはひたすらビールを飲む。森松氏もビールをあおり、寒い寒いと言う。白鳥氏は飲めないので食べるばかり。彼は「食べ終わったら表彰式には出ないで、宿に行かないか」と言う。と言うのは10位以内は全員賞品が出るけれど、それ以上は五つ刻みの飛び級。新ペリア方式によるハンデ算出では上位は90を切らないとかなり苦しい。だから、私たちのスコアでは、せいぜい100位近辺の飛び級の可能性しかないだろうと思われた。私は「せっかく外部のコンペに来たのだから、表彰式までいようよ」と説得した。

 ・声太の姉妹ロッカー

 そのうち五時前になってステージで歌と演奏が始まった。「マリコ&カヨコ」と言う名の女性二人組のボーカルだ。姉妹だと言っていた。しかし、聞いたことも見たこともない歌手だった。何となくこういう企画に登場する、ある種ドサ回り的歌手のような雰囲気だなと思った。妹の方は二十代半ばに見えたけれど、お姉さんの方は外見からは年齢不詳。我がテーブルでは、ある者は四十を超えていると言い、別の者はいや三十代半ばだとかんかんがくがく。ただ、二人とも鼻筋高く何となく日本人離れした顔立ちだった。特に妹さんは美人だった。私は「人ォに〜聞かれェりゃァ、お前のこーとを、年の離れ〜たァ、妹とォ……の歌もあるから親子じゃないの」と言うと、なるほどとうなずく者も。
 ところが、この自称姉妹ボーカリスト二人、ものすごく歌がうまかった。それも声質がものすごく太い。最近アイドル系の細い声ではなく、地声の強い迫力ある歌唱だった。特に「お姉さん」がすごい。マイクとスピーカーの良さを差し引いても、のびのある素晴らしい歌声だった。私たちのテーブルは最前列だったから、スピーカーの音が強烈で話もできなかった。曲は四十代から五十代が多数の観衆に合わせたのか、1950、60年代の懐かしいポップスが中心。何より酒ばかりかっ食らっているような聴衆の中で、彼女たちは明るく元気があった。特に(彼女らのオリジナルかどうかわからなかったが)民謡をロック調にアレンジした(マリコお姉さん名付けて)「民謡ロック」が良かった。
 彼女はヤーレンソーランのソーラン節、ドンドンパンパのドンパン節、そして「朝寝、朝酒、朝湯が大好き」の会津磐梯山を歌った。ロックと民謡が見事にマッチしていた。ドンパン節の時は、私も手を叩きながら声を出した。すると妹さんが寄ってきて私の口にマイクを近づけた。私は精一杯声を張り上げた。しかし、私の声はちっともスピーカーから聞こえてこない。私のはか細い声質だと嫌が上にも納得させられた。彼女らはその後二曲ほど歌って休憩。あともう一回歌うと言って引き下がった。
 それが終わったのが五時十五分頃だった。それからまた酒盛りが始まる。暫く待つけれど、どうにも表彰式が始まりそうにない。もう帰ろうの声がまた出始める。私はもうすぐ始まると思うから残ろうよと言い続ける。「たぶん表彰式が終わった後で最後の歌になるだろう。だから、そのときは歌は聞かないで帰ろう」と。

 とにかく四人の中の誰かは飛び級に入る可能性があった。それに私はこのとき何となく最後までいたいような気がしていた。いや、最後までいるべきではないかと思っていた。それはコースの人たちと大会関係者の心意気に応えたいという気持ちからだった。確かに台風の河川増水で冠水した後の、痛々しいほどに荒れ果てたコース、酷いコースだった。だが、各ホールに立って世話していたキャディーさんやボランティアおじさんたち。特にボランティアおじさんは地元教育委員会の関係者のように見えた。ロビーのパター合戦で世話をしていた若者もそうではなかったか。そして、元気のいい女性ボーカル二人組。彼女らはもう何度かこのコンペにやって来て歌っていたようだ。
 それに対してイマイチ盛り上がりに欠ける、おじさんおばさんゴルファーたち。それでも彼女らは明るく一生懸命に場を盛り上げ、表彰式までをつなごうとしている。(もっとも勝手に前に出て肩組んだり、阿波踊りの曲じゃないのに万歳姿で踊るおっさんもいたりして、それなりに盛り上がってはいたけれど。)
 このとき私は何となくそんな大会関係者の心意気に報いるべきじゃないかという気持ちになっていた。茨城にはたくさんのゴルフ場があるはずだ。それなのに、こんな酷いコースで大会を開催した。それはコース修復のための資金集めもあるような気がした。三人はこんなコース二度と来たくないと話している。正直私もその気持ちは同じだった。日曜で16000円、平日でも12000円はとるようだ。茨城では既に数千円のコースさえ現れている。こんなコースでは平日はおろか日曜でもそんなに人が来ないのではないかと思う。しかし、関係者は荒れ果てたコースを生き返らせようと懸命に頑張っている。私はそんな人たちの心意気に報いたいと思った。それは表彰式の最後まで残って上げる事だと思った。
 この頃になると室内はかなり空席が目立ち始めた。レストラン内には百人以上は残っていたと思うが、参加者218名から考えると、少なくとも3分の1は帰ったようだ。私たち四人も帰ったって大したことはない。白鳥氏から帰った後で入賞していたらどうするんだろうと聞かれたので、私は「たぶん飛び級などで当たったら、着払いで送ってくれると思う」と答えた。しかし、私は「もうすぐ始まると思うから残っていようよ」と言い続けた。
 そのうち白鳥氏は下のパター合戦に行き、賞品一つをゲットしてきた。すると、寒い寒いと言っていた森松氏も回復してきたようで下りて行った。そして、同じくパター合戦の賞品を三ヶも持って戻ってきた。もうやる人もいないらしく、賞品が残っているので何度でもやらしてくれたと言う。どうやら奥さんへのお土産ができたようで、にこにこしている。私はああこれでどうやら森松氏は飛び級が外れても取りあえず賞品ゲットで帰れるなと、その嬉しさそうな顔を見て一安心。だが、カッチー一人だけ賞品を取れないままだった。彼はまた飲み放題のビールを取りに行った。
 五時半を過ぎてもまだ表彰式は始まらない。そのうち、姉妹ボーカル最後のステージが始まってしまった。最後はしっとり聞かせるラブソングが多い。そして、再び民謡ロック。秋田竿燈(かんとう)祭りの「えーェ、それやァ、え〜〜ェ」の長く伸びた艶のある歌声が素晴らしかった。最後に「浜千鳥」を英語化したものを現代風にアレンジした歌を歌い終了。それもまた変わった雰囲気で良かった。押しつけのアンコールもかわいいものだった。

 ・表彰式

 姉妹のアンコールが終わったのが六時頃。数分後にやっと表彰式が始まった。いくつか挨拶があって最初にニアピン、ドラコンの表彰。ドラコン飛ばず、ニアピン寄らずの私たちには全く無関係な表彰だ。女性陣のドラコン・ニアピンの一人は私たちの前の組の女性だった。さすがにフォームや打ち方がしっかりしていたからなと感嘆の声。そして、ブービーに始まって200位から五つ刻みで表彰が始まる。100番まではスコアを言ってくれないので、名前しか出てこない。その200番から100番までに、私たちの組からは誰も名前が挙がらない。ただ、この辺りの賞品は小物ばかりで、そんなにほしいようなものは見えない。ほとんど名誉賞と言って良かった。それでも名前を呼ばれた人は嬉しそうに出てくる。しかし、名を呼び上げても返事がなく誰も出てこないことがある。帰ったようだ。一瞬しらけた空気が流れる。司会の男性は拍子抜けというか、ややさびしげな感じだった。
 私たちの予想では、自分たちは飛び級で100番前後にあるかもしれないというもの。100番まで表彰したところで、ベスト・グロスが発表された。
 男性のベストスコアは76。さすがの成績に室内から大きな拍手がわき起こる。女性のベストグロスは94で、やはり私たちの前の組の女性だった。その後100番から先の表彰に移る。我々のスコアは森松氏が94、私が99、カッチーが100、白鳥氏が104だった。
 そこから先はスコアを言ってくれるので、見当が付く。たまに、100とか、99というスコアを聞くと、「おっ?」とお互い顔を見合わせる。しかし、呼び出される名前は違う人。この辺の順位の人はほとんど悪くても百と一けたのスコア。私は隠しホールのホール番号を聞いたとき、(私が大きく叩いたところがかなり入っていたので)結構上位にいるのではないかという予感があった。しかし、我ら四人の名前は読み上げられないまま、とうとう30位まで来る。ここから先は新ペリアだと大概80台が入賞する。だから、もう私たちから入賞の可能性はないと思われた。しかし、この辺りでもハンデによってはまれに90台があって、あれ? まだ希望があるのかな、とダメだダメだと思いながらも、かすかな期待で我が名を待つ――そんな心境だった。
 30、25、20、15位とやはり我々の名前は出てこない。白鳥氏はもう入賞はないものと決め込んで、「行こう」と言う。彼は運転があるので、酒を飲めず、歌の時もいわば乗り切れず、酔いきれず状態。つまり、つまんないという風情だったから一刻も早く宿に行きたいようだ。
 とうとう10位からの発表となった。司会者はもう一度、ぜひ最後までいてほしいと言う。もう望みはないので、私は気づかれないようにひそかに一人ずつ出ていこうかと思った。しかし、我々は最前列にいたし、ここまで来たらもう出るわけにはいかない。そう白鳥氏に言うと、彼は部屋を出ていった(後で聞いたらトイレに言ったとのことだった)。

 そして、9、8、7、6、5、4位と発表。意外にもまだ100台前後がいる。もちろん全員男性。こんな順位でもグロス99や100があったので、私たちはまた顔を見合わせた。しかも、私と同じ99のスコアの人が3人も入賞していた。そして、ここでも表彰者の帰宅があった。司会者はがくっと膝を折る。確かに90台までで、しかも遠くから参加して翌日仕事があれば、上位入賞しないと決めつけてさっさと帰るだろう。私たちだって今夜泊まることにしたから残っているだけで、日帰りだったら終了後すぐに帰っていたはずだ。そして、とうとうベスト3の発表になった。
 カッチーが「終わったな」とつぶやく。私や森松氏もうなずいた。白鳥氏は戻ってこない。すると、カッチーと森松氏は10位以内に来ても賞品がちゃちだなーと盛んに悪口を言い始めた。あんなのだったら貰ってもうれしくないよな、などとほとんどイソップ物語のブドウとキツネ状態だ。
 3位の人はグロスが84。予想通り80台だ。賞品はさすがに大きな旅行バッグ。おー良いなーの声がもれた。そして、2位はグロス90。ゴルフのクラブ1本。もちろん私たちは無関係。そして、最後に1位の発表。
 「それでは最後に1位の発表です。賞品は海外旅行ですので、目録に替えさせていただきます。1位の方はインが〜〜、アウトが〜〜」と私には数字がよく聞き取れなかった。さらに、「ハンデ22.8、グロス94……」と言う。
 私達は顔を見合わせ、あれっ? 森松氏と同じスコアじゃん、でもまさかねーと(後で確認したらみんなそう)思った。
「グロス94、栄えある1位は……森松様!」司会者が叫ぶ。
 我ら三人全員ガーン(後で確認した)。森松氏は一瞬ぽかーん。
 まさか! ウッソー! の気分。私とカッチーはええっ! 1位? 海外旅行ォ!? と鳥肌が立った。しかし、森松氏はすぐに立ち上がり、満面の笑みで司会者の元へ。
室内は最大の拍手。森松氏は目録を渡され、マイクを向けられ、優勝の一言。初めて参加したとか、神奈川から来たとか、何だかぼそぼそぼそと上の空状態の言葉。それから、でっかい目録入り祝儀袋を持って我らがテーブルへ凱旋(がいせん)してきた。
 私とカッチーは拍手と握手。だが、この場に我が組のもう一人白鳥氏はいなかった。後で「この感激の場面にいないなんて何やってたんだ」と非難と憐れみの言葉さえ飛び出した。彼はそのときトイレだった。
 こうして表彰式は終了。さきほどの姉妹ロッカーが近くに座っていて、握手とおめでとうの声をかけてくれた。そして、目録の中を見せてと言う。森松氏がでっかい祝儀袋を開く。中は二つ折りの和紙でえらく長い。それを大きく開く。表を見て裏を見る。ところが、何も書かれていないのだ。???――の気分。ホントに1位なの?
 急に不安になった。私は森松氏を急かせてちょっと司会者に聞いてみたらと言った。森松氏もあわてて司会者の元へ。どうやら間違っていなかった。ホントに1位だった。担当者の名刺をもらって戻ってきた。海外旅行とはグァム三泊四日らしい。
 もし途中で帰っていたら、私たちは当然森松氏の優勝を知らないままだ。そして、主催者側にとっては優勝者が現れないと言う最悪の終わり方になったろう。私は最後まで残っていて本当に良かったと思った。
 帰りの車中はもちろんこの話で持ちきりとなった。カッチーや私はこんなことあるんだなあと、しばらく上の空。森松氏は「生涯初の快挙だ。でもスコアがイマイチなので」とか、「ハンデ次第だった」などと喜びの中にも喉に小骨が刺さったかのような発言が多い。私やカッチーは「いやいやそれでもすごいことだ」と言った。森松氏もうなずき、「これもコンペの参加を呼びかけてくれた祐さんのおかげだよ」と言った。このときには車内爆笑の渦となった。森松氏はラウンド中にこんな企画を持ちかけた私を責める発言があっただけに、おかしかった。
 カッチーは私が最後まで残ろうよと言い続けたことは「敢闘賞もんだな」と言った。私ももし帰っていたら、栄えある1位が「帰りました」となって、かなり白けたラストになっていただろう。何となく残っていようと思った自分の勘が生きて、そして関係者の意気に応えることができて良かったと話した。また麻雀で九連宝中(チュウレンポーチュン)あがったようなもんだから、森松氏はしばらく謙虚に生きるべきだ。これを期に酒を控えてもっと長生きすべきだとかいろいろ語り合った。それから、三人一致してぜひ奥さんと海外旅行に行って欲しいと言った。

 ・偶然の意味

 宿に向かいながら、私はあることに気づいた。私は「自分のロッカー番号は001だった。これは私のホールインワンじゃなくて、森松氏の1位だったのか」と言った。するとカッチーは「そう言えば、俺の車のナンバーは〈・・・1〉だね」と言う。白鳥氏は、少し違うが、ロッカー番号が010。つまり、1を持っていないのは森松氏だけだった。最後の最後に森松氏に1位がやって来て、これで四人全てに1が揃ったことになった。もちろんそんなことは単なる偶然だが、振り返ってみて面白いと思った。
 そして、配布された参加者の全成績を見比べてみると、この1位がかなり宝くじ的なものであることが判明した。最も端的には、グロス94の森松氏が1位で、グロス93の人が100位だった。たった1打差なのに、まるで天と地の差だ。森松氏は隠しホールがぴたりとはまって1位になったのだった。もちろんグロス94を出し、1位となったのは森松氏の実力ゆえだ。しかし、単純に実力最上位だったとは言えないわけで、そこがハンデを付けて争うゴルフの面白い点でもある。ちなみに私は23位、カッチーが83位、白鳥氏は123位だった。私は30位以内に入って取りあえず満足だった。

 翌日も千葉で早朝からゴルフをし、夕方には帰路に就いた。帰宅後私はコンペの出来事をいろいろ思い返した。今私は偶然を単なる偶然とはとらえていない。何か意味があるはずだと考えている。なぜ大いなる自然は、私(あるいは私たち)にあの荒涼としたゴルフ場を見せたのか。その意味するところは一体何だったのか。そして、森松氏に僥倖(ぎょうこう)のような優勝が訪れ、私はそれを見た。それはまた何を意味するのか。私はそんなことについて思いを巡らしていた。あの利根川そばにあった枯れ木だらけのゴルフ場、そして森松氏に優勝が転がり込んだことは、まず彼にとって大きな意味があるはず……などとぼんやり考えていた。
 翌々日、火曜のDスポーツ紙の片隅にエイジアンカップの記事が載った。「1位は森松さん」の見出しが燦然(さんぜん)と輝いていた。記事は簡単な経過と1位から10位までの氏名、詳しい成績が掲載され、11位から30位までは名前だけが記されていた。私の名前も23位にあった。私は次第に森松氏に起こった偶然の意味を解きつつあった。森松氏、カッチー、私の3人はそれぞれ生活習慣病を抱えていた。普段の食生活(特に二人は酒浸りの生活)を変える必要があった。だが、わかっていながらなかなか変えられない。あるいは、それでいいんだとあきらめの心境さえあった。荒涼とした風景はそんな我々3人の心の風景であり、森松氏に訪れた優勝という偶然は、彼が彼自身を変えるきっかけとなるのではないか――私の結論はそのようなものだった。私は日記にこの件を詳しく書き留めたが、二人に話してもなかなか理解されないだろうなと思った。

―了―

2001年12月





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