東京競馬場誘導馬 御影祐の偶然に学ぶ 2





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ネット・サーフィン見聞録

     [原稿用紙41枚分]

 パソコン通信がADSLのつなぎ放題になってから、結構HPをばんばん開いている。いわゆるネットサーフィンてのが、だんだん実感としてわかってきた。
 今回サーフィンしたネットは次のような流れだった。(HPはホームページ)

 高専の恩師K氏の年賀状→ハンス・カロッサ検索→HP「ハンス・カロッサ」「カロッサ」等々→「コギト総目録」→HP「鯨の目」→HP「ナリタミキオポエム」→HP「成田三樹夫」→HP「天気草(てんきそう)サイト」

 初めに以下の短詩を紹介したい。HP「鯨の目」の中にあった。
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・鯨の目人の目会うて巨星いず
・散歩のたびにつと青年の樹にさわりおり
・痛みとともに掌(てのひら)宙を舞いはじめ
・時計の音それはピノキオ妻来る日
・咳こんでいいたいことのあふれけり
・目あくれば晒(さら)した顔をまだ見ている妻
・あさき眠りに影立ち悲鳴あぐ
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 一読後ぐっと迫り来る短詩だった。自由律俳句に似たこれらの短詩は、「成田さん」なる人の作品。病床での作句らしい。

 上記の句に行き当たったのは、私の高専時代の恩師K氏とやり取りした年賀状すれ違い事件(?)が発端だった。今年の正月大分市在住のK氏へ送った私の年賀状は宛先不明で戻ってきた。彼からの年賀状は私に届いており、見ると住所が宮崎県となっていた。どうやら都城市へ転居したらしい。私はもう一度切手を貼って私の賀状を送った。氏は丁寧に転居不通知をわびるハガキを返して来た。そこには私の賀状への感想とともに、「老妻の施設移りにつれて転居が多く……」とあった。K氏は私が高専の時確か五十代だったと思う。だから、おそらく現在は九十歳近くになられたはずだ。
 私は自分の年賀状の中で、昨年書き上げ(出版を諦め)た人生論的評論「自立と成熟への道」について記していた。K氏はその題名からハンス・カロッサの名を思い起こしたようだ。
 K氏は次のように記していた。
 「カロッサの『成年の秘密』を思い出させられました。深く惹きつけられて大事にしていましたが、数次の転居で紛失してしまったようです。もっとも、ハンス・カロッサ、戦後は日本でもその名を口にする者は無くなったようです」――と。
 私は今執筆中のSF作品を完成させたら、「自立と成熟への道」を改稿して出版しようと考えていた。だから、K氏が想起せられたという「ハンス・カロッサ」がとても気になった。そのような人名は今まで聞いたこともなかったからだ。

 そこで、インターネットでハンス・カロッサを検索してみた。驚いた。これでさえ一九三件も関連HPがあった。(むしろ普通は数千件から一万件もヒットするから少ない方かもしれない)
 もっともハンス・カロッサについてきちんと説明されているHPは数えるほどで、後は単にその言葉が出てくるだけだった。
 それをいくつか開いてみて、ハンス・カロッサなる人が、第一次大戦から第二次大戦を通じて生きたドイツの医師であること、詩や小説を書き、ゲーテの流れをくみ、ヘルマンヘッセと並び称された文学者だったことを知った。(そんな文学者、全く知らなかったァ!)
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 HP「ハンス・カロッサ」
?《http://dmi.vis.ne.jp/authors/germany/436.html》(2004年3月現在ホームページ不明)
 ハンス・カロッサ(1878-1956)
 開業医を父としてオーベル・バイエルンのテルツに生まれる。
 医科大学を卒業の後、父業を継いだ。第1次世界大戦には軍医として従軍し、負傷した。ナチス時代には、その御用機関である「ヨーロッパ作家連盟」の会長を押しつけられる。
 若い頃は流行の文学にはほとんど触れず、もっぱらゲーテに傾倒していたという。それが彼の文学の底流をなし、古典主義的な「静けさ」を彼にもたらした。
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 ナチス時代には御用機関の会長だったというところに、私は少々興味を持った。
 それに関しては東京家政学院筑波女子大学の三石善吉(みついしぜんきち)氏の論考があった。氏は大学の紀要に掲載した研究論文をHP化していた。

HP「ハンス・カロッサ――ナチス政権下における『精神的抵抗』――」
? 《http://www.kasei.ac.jp/library/kiyou/2000/3.MITSUISHI.pdf》(PDFファイル)「現在リンクできず」
 これはHPと言うより、論文そのもののコピーのようだ。かなり長いので、私はそのうち読もうと思った。

 また、他の「書誌・書籍」類のHPによって、カロッサの全集は最大で十巻程度あり、ほとんどが絶版状態になっていることもわかった。作品としては、詩集の他に彼自身の幼年時代を描いた「幼年時代」、「美しき惑いの年」、第一次世界大戦従軍に取材した「ルーマニア日記」、ドイツナチスの時代を描いた「狂った世界」、そしてK氏が印象に残ったという「成年の秘密」。その他「熟年の秘密」もあった。(私は全く読んだことがない!)
 私はそこら辺まで検索した後、ネットサーフィンもまあこの辺で終わりかなと思った。しかし、今回は何となく「ハンス・カロッサ」の言葉が出てくるだけのHPもいくつか開いてみようと思った。

 その中で「車輪の下に」と題した小さなHPがあった。
?
《href="http://homepage2.nifty.com/aquarian/Book/Bk8.htm"》)「現在リンクできず」

 これは制作者が「読書を通しての自分史を綴ろう」と、大学時代ドイツ語の授業で出会ったヘルマン・ヘッセやハンス・カロッサについてその印象を語っていた。短かったのですぐ読んだ。中心は「車輪の下に」の読後感で、カロッサの作品については何も語られていなかった。

 それから、「20世紀から21世紀へ羽ばたこう」と題したHPものぞいてみた。
?
《http://www.shok.kindai.ac.jp/okitsu/essay/essay4.htm》)「現在リンクできず」

「興津ゼミを巣立つ皆さん!」と呼びかける言葉でそれは始まっていた。どうやら六十歳になった大学教授らしき制作者が、自分史風のホームページを作ったようだ。彼が大学時代のとき、やはりドイツ語の講義でハンス・カロッサを学んだことが記されていた。他にドイツ留学やアメリカ旅行体験、六十歳になっての小学校同窓会などが語られていた。

 さらに、「コギト総目録」なるHPにもぶちあたった。
?
《http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/cogito/cogitolist1936.htm》)「現在リンクできず」

 1936(昭和11)年発行の文芸誌『コギト』の10月号で「ハンス・カロッサ特集」がなされたらしい。HPにはその目次が掲載されていた。
 昭和初期の雑誌『コギト』は私もその名を聞いたことがある。日本浪漫派の文芸雑誌で、保田與重郎や萩原朔太郎が中心になって活動していた。目次には二人の名とともに伊藤静夫の名もある。その年の1月号には伊藤静夫の著名な「自然に、充分自然に」の詩が掲載されていた。この詩を読むと、私は今でもK氏の授業を思い出す。講義の内容は忘れてしまったけれど、先生の情熱的な口ぶりが記憶に残っている。

 そして、あるHPを紹介する見出しには次のように書かれていた。
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HP「narita mikio poem」
 …温子はどんな本を読んでる?」と突然聞かれ、焦りながら今まで読んだ数少ない本を挙げました。その中で太宰治の名前が出ると、「太宰は僕も好きだよ。あとね、ドイツの作家なんだけどハンス・カロッサと言う人の…
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 私はこの数行に何となく惹きつけられたので、そのHPをクリックした。
?
《http://www.asahi-net.or.jp/~gr3t-tkhs/mikio/poem.html》)「これはリンク可」
 それは「鯨の目」というホームページで、そこに以下のような文章を見出した。ちょっと長いけれど、その前後の文章をそのままここに掲載したい。温子(あつこ)さんと言う方と、そのご主人成田さん(そのとき温子さん19歳、ご主人32歳)との思い出が語られている。その中にハンス・カロッサが出てくる。
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ある日日比谷へ映画を観に行き、その帰りに食事をしていた時です。
「温子はどんな本を読んでる?」と突然聞かれ、焦りながら今まで読んだ数少ない本を挙げました。その中で太宰治の名前が出ると、
「太宰は僕も好きだよ。あとね、ドイツの作家なんだけどハンス・カロッサと言う人の本なんか温子にいいんじゃないかなと思うんだ。透明感があってサラッとしている文章で読み易いよ。何と言う事ない様でいて読後が清々しいんだ」
帰ってから早速本屋さんへ行ったのですが、絶版と言う事でしたので古本屋さんへ回ってみました。三軒目のお店で『ハンス・カロッサ全集』を見つけ買い求めました。
それは今でも私の大切な本となって時々読み直したりしています。カロッサの本でもう一冊大事にしているのは成田の叔父の訳した本で、その叔父から私へと頂き感激した事を覚えております。
十年位前になると思いますが、ある女優さんへの結婚祝として地方の出版社に有りましたカロッサの在庫を取り寄せてお送りさせて頂いた事もありました。
「何でも一生懸命読まなきゃ駄目だ。詩でも小説でも作者は命懸けで書いているんだ。だから読む方だって命懸けで読まなきゃ失礼なんだ」
そして、「そうでなければ字面(じづら)ばかり追うだけで本当の宝物は作者は見せてくれないんだよ」
言われている事は分かるのですが、私などには到底そういう読み方はできそうにもありませんでした。
結婚してから初めて京都へ行った成田から手紙が届いた事がありました。その手紙の中に非常に成田らしい個所が有りますのでそれを書き出してみます。
・・・中略・・・カロッサも毎日少しづつでも続けて下さい。そして人並みはずれて誠実な人間がどんなことを考え続けどんな具合に生きていったかを少しでも分かって欲しい・・・中略・・・。僕もこの辺でもう一つ腰をおとして勉強の仕直しをするつもりです。
とにかくもっと自分をいじめてみます。男が余裕を持って生きているなんてこの上ない醜態だと思う。ぎりぎりの曲芸師のようなそんな具合に生き続けるのが男の務めと思っています。色気のない便りになって御免なさい・・・後略・・・。(「鯨の目 序にかえて」)
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 私はこの部分を読んでとても感動した。もうそれだけでちょっとした短編小説になっていると思った。まるで戦前の堀辰雄の小説か立原道造の詩のような雰囲気がある。温子さんと成田さんの関係、何より成田さんなる人の真面目で誠実な言葉に驚いた

 これを読んだとき、この成田さんなる人は一体どこの文学者――もしくは文学青年なんだろうと思った。そして、さらにこの前後の文章を読んで行くに従って、これが「鯨の目」と題されたHPで、その成田さんは既に亡くなっており、彼が病床で詠んでいた短詩がある事を知った。
 標題には「narita mikio poem」と書かれていた。なりたみきお、なりたみきお……誰だっけ? どこかで聞いたような名前だなと思った。
 そのうちこのHPに突然「成田三樹夫さんのこと」なる追悼文が出てきた。
 筆者は「渡瀬恒彦」とある。何と俳優の渡瀬恒彦氏だ。

 ここにきて私は漸く成田さんが誰だかわかった。成田三樹夫。あの悪役で有名な、一度見たら二度と忘れないほど個性的で、どぎつい顔した俳優の成田三樹夫氏だったのだ。
 逆三角形のようなひょろ長い顔、ふてぶてしくまた憎らしげに語るゆがんだ口、ドスが利いていながら妙に高音の声。彼は正義役からよく殴られ、目の周りに青あざを作っては親分役から叱られどつかれ、大概無様な死に方をしていた。そんな彼の容貌や演技がすぐ目に浮かんだ。成田三樹夫はとても存在感のある悪役だった。確か十年ほど前彼が亡くなったと聞いたことがあった。そうか、成田さんてあの悪役俳優だったんだ、とわかった。

 そして、次に驚いたのは、そんな役者さんが若い頃、恋人にハンス・カロッサをすすめ、彼女は直ちに全集を買い求めた、(そうせずにおれないほどの)人柄だったことだ。上記カロッサのお話は一九六七年のことらしい。
 俳優に成り立ての若い成田氏は彼女に言っている。
 「何でも一生懸命読まなきゃ駄目だ。詩でも小説でも作者は命懸けで書いているんだ。だから読む方だって命懸けで読まなきゃ失礼なんだ。そうでなければ字面ばかり追うだけで本当の宝物は作者は見せてくれないんだ」と。

 物を書く側に入ろうとしている私にとって、それは何て素晴らしい言葉だろうと思った。この言葉を見たとき、自分は命懸けで書いているだろうか、自分は今まで命懸けで読んだことがあるだろうかと振り返ってみた。そして、それにしても命懸けで読んでくれる読者なんかいるのだろうか……と思い、でも、命懸けで読んでくれる読者がいたら、作者にとっては最高の幸せだろうな――とも思った。
 さらに彼は「カロッサも毎日少しづつでも続けて下さい。そして人並みはずれて誠実な人間がどんなことを考え続けどんな具合に生きていったかを少しでも分かって欲しい」と語っている。それがあの悪役の、ちっとも誠実そうに見えなかった俳優成田三樹夫氏の言葉だから驚く。悪役はあくまで役柄でしかなく、俳優その人を表しているわけではない。それはわかっている。わかってはいても、私は彼の容貌と役柄だけで彼の人となりを判断してしまっていた。げに人は外見だけでは、ちっともその人のことをわからないんだと知らされた。自分の不明がホントに恥ずかしくなった。
 そして、彼が病床で(確か病名は癌だったと思う)、こつこつ書きためていた句のいくつかが最初に上げた作品だ。私は中でも次の数句に惹きつけられた。

・散歩のたびにつと青年の樹にさわりおり
・痛みとともに掌(てのひら)宙を舞いはじめ
・咳こんでいいたいことのあふれけり
・目あくれば晒(さら)した顔をまだ見ている妻
・あさき眠りに影立ち悲鳴あぐ

 成田三樹夫氏は一九三五年山形県酒田市に生まれた。五四年山形大学英文学科入学(ハンス・カロッサはこのとき知ったのかもしれない)、四年後大学を中退して俳優を目指し上京、六三年俳優座卒業後大映の映画に出演し始めた。一九六九年に温子さんと結婚、二女をもうけたが、一九九〇年永眠した。享年五五歳だった。(この略歴は「名優成田三樹夫」HP
?
《http://www.asahi-net.or.jp/~gr3t-tkhs/mikio/index.html》 から))「リンク可」

 これら病床の句には彼の深い思いが感じ取れる。癌の痛みとともにてのひらが宙を舞う、浅い眠りの中で何かの影に怯えて悲鳴があがる、散歩のたびに、「青年の樹」にさわる。言いたいことがあふれているのに、咳の中で声にならない。おそらく奥さんに、そして子ども達に言いたかったことがたくさんあっただろう。病床にあって死の影を感じ始めた成田氏があげる悲痛な声。これらの句は癌と闘う彼の痛切な思いをわからせてくれる。

 成田三樹夫氏が「命懸け」で絞り出した句であり、「人並みはずれて誠実な人間がどんなことを考え続けどんな具合に生きていったか」がわかるような句だと思った。悪役という仮面を被り続けた役者の素顔の素晴らしさを見せてくれた――そんなホームページだと思った。

 それから、この成田三樹夫氏のプロフィールやらその出演作品リストをHP化したものも取り上げたい。制作者は映画ファンらしく、その中に氏への熱烈な称賛・鎮魂の言葉と、「HP制作の熱意」が書かれていた。
「名優成田三樹夫」HP
?
《http://www.asahi-net.or.jp/~gr3t-tkhs/mikio/index.html》
「成田三樹夫」の項
 〜略〜今あれだけニヒルな悪役ができる役者がいますか? あれだけ憎めない悪役ができる役者がいますか? あれだけ...。あの人が素晴らしすぎただけなんですよね...。
 俺は社会人になりインターネットをおぼえて実に色々なページがあることに毎日胸を躍らせてネットサーフィンをするようになりました。しかし無いっ!成田三樹夫さんのページが無い!!ちきしょー、なにがインターネットだ!なにがあらゆる情報がここにあるだ!肝心のが無えじゃねえか!ん?ちょっとまてよ。無いんだったら俺が作ればいいじゃんか。
 というわけで何の資料も集まっておらず、何の計画もないままスタートしたこのページ。もともと情報量の少ない邦画俳優の中で、メジャーではあってもあまりマスコミに出てこなかった成田さんだけになかなか製作も思うように行かないのが現実なのです。
 しかしエド・ウッドはとにかく映画を作らなければならない、という思いだけで映画を作っていました。それと同じ。俺はとにかく成田三樹夫さんのページを作らなければならないのです。俺がこんなページを作ろうと作るまいと成田さんの役者としての業績は、邦画史上に燦然と輝いていますし、人々の胸に焼き付いているでしょう。しかし俺は作るんです。誰も解ってもらえなくても。
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 「しかし俺は作るんです。誰も解ってもらえなくても」――うーん、これこそHP制作の熱意であり、基本姿勢かなと思った。

 成田三樹夫氏関連のHPを読んだ後、さらにHPの見出しを眺めていて「nituroku4.1」なるHPを見出した(につろく? 何だァ?)。その小見出しは以下のようだった。
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 「nituroku4.1」
…「鯨の目」を紹介していた。「朧夜の底をつきぬけ桜は散る」ね、いい句でしょ。悪役を演じる役者には、知的な人が多いと書いてある。そうかも知れないと納得する。彼は恋人にドイツの作家ハンス・カロッサを勧める…
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 これはハンス・カロッサその人についてと言うより、上記成田三樹夫氏のホームページを見て、その感想を記した文章のようだ。言わば孫引きに似た孫HPだろう。私はこれも何気なく開いてみた。
?
《http://www.geocities.jp/noruha12/nitiroku4.1.html》)「現在リンクできず」

 そうしたら、「nitiroku4.1」とは、この制作者の「2002年4月1日から15日までの日記――日録」のことだとわかった。その4月11日の所にハンス・カロッサが出てきた。
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2002年04月11日(Thursday)
 命がけ
 東京新聞をかれこれ十年以上、続けて購読している。購読料が安いのも購読の理由だが、それより、文芸欄がわりと充実しているのが、大きな理由だ。夕刊の「書物の森を散歩する」のコラム「書物浪漫」は、出久根達郎さんが、ずっと担当している。今夜は「命がけ」と題して、今は亡き俳優、成田三樹夫の遺稿句集「鯨の目」を紹介していた。「朧夜の底をつきぬけ桜は散る」ね、いい句でしょ。
 悪役を演じる役者には、知的な人が多いと書いてある。そうかも知れないと納得する。彼は恋人にドイツの作家ハンス・カロッサを勧める。成田夫人となる恋人は、その足でカロッサ全集を買ったと書いてあった。すごいね。ぼくカロッサを読んでいません。今度読もうと誓う。
 成田氏は言う。「どんな本も作者は命がけで書いているのだから、読む方も命がけで読まなければ……」ううーん。ぼくも命がけで書こう。命がけで読んでくれる人の為に。もしいたらねえ。
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 私はこれを読んだとき、「ふーん」てな感じで、それ以上の感慨は湧いてこなかった。
 しかし、またまた何気なくその前後の「日録」を読んでいった。そのうちこの人の奥さんが「抗癌剤治療」を受けていることがわかった。私はへえっと思った。
 ハンス・カロッサから(癌で亡くなった)成田三樹夫氏へ行き、そして、奥さんが癌治療をしている人の日記につながっていったのだ。さらにこのページには「こうたろうさん」なる人のホームページとリンクしたことも書かれていた。「こうたろうさん」は前年五月に、「大腸癌転移性肝腫瘍」と診断された人らしい。その他日記には末期癌のことなどいろいろと雑感が記されていた。この制作者はペンネームを「ikkou」と言うようだ。彼には子どもが二人(息子と娘が)いて、通院する奥さん、子ども達とのことなどが、独特の文体で書かれていた。どうやら同人誌で小説を書いている人でもあるようだ。

 私は気になったので、このHPの先頭ページを呼び出した。そこには「天気草(てんきそう)」と題された見出しがあり、その左にさわやかな絵が載っていた。優しい色彩で緑の背景の中、木のベンチに座る帽子をかぶった女性が描かれていた。
 その下に発刊(発HP?)の辞があった。私はそれを読んで驚いた。
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 平成13年12月1日。妻が肺癌の再発転移で、入院した。手術から1年。再発予防のため、できる限りの努力の甲斐もなく、妻の両肺に、癌細胞が散らばっていた。
 そうして、辛い治療の日々が続いた。妻は、まだ幼い子供たちのことを思って、下の子が成人するまで後10年、生かして下さいと、主治医に手紙を書いてもいた。辛い抗癌剤の治療も、入院ではなく通いでの治療を強く望んだのも、みんな子供の側にいたいが為の一心からだったろう。
 しかしそれらの願いもむなしく、平成14年11月15日、妻はどこかぼくたちの手の届かないところに、旅立っていった。
 今は、せめて、再発から旅立つまでの記録をここに残し、妻の面影よ永遠なれと願うばかりです。
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 既に彼の奥さんは亡くなっていたのだった。私が垣間見た日記は一昨年の4月1日から15日の分だった。その7ヶ月後に彼の奥さんは亡くなったのだ。

 それから私はこのHPの全体を眺め、所々を拾い読みした。どうやら、この人はかなり短編小説等を書き、絵心もあるらしく、日録の至る所の絵は彼の制作だった。そして、それはマックを使って描いたようだ。「突発的発刊の辞」と題された文章が、奥さんの発病からHP制作までの経緯を述べていた。

 それによると、平成12年11月7日、奥さんの「右肺に巣食った癌」を摘出手術。医師からは既にリンパ腺に転移していて半年後には再発かもしれないと言われた。クリスマスに退院後、抗癌剤治療を受けるがかんばしくない。ちょうどその頃奥さんの妹から「iMac」を譲り受ける。それから奥さんの再発予防の試みと彼のマックとの格闘が始まる。奥さんは呼吸法や食事療法に取り組み、癌患者の会に入り、早朝散歩から太極拳を始めたりする。ご主人はインターネットと接続し、マックは絵が描けると知り、その周辺機器の購入接続などで四苦八苦。フロッピーと接続できず、買おうとすると店員から「フロッピーはもう骨董品」だと言われてCD−Rを買う。そして、ヤフーBBとマック接続にまたまた苦労して漸くブロードバンドを開通させた。彼はある日銀座でホームページ制作ソフトを発見、格安だったので購入した。自分の小説をHP化しようと思ったらしい。
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 妻は癌の手術をして、一年が過ぎた。再発転移もなく一年が過ぎた。胸をなで下ろした。手術の日には、二人で飲みにいって乾杯した。長く辛い一年をよくぞ乗り切ったと、乾杯した。こうして一年、二年となにごともなく過ぎてくれと望んだ。やがて思い出となるまで。
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 しかし、奥さんはその後の検診で癌が再発転移していることが判明した。そんなときに彼はホームページを作ろうと思う。
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 右肺と左肺に小さな腫瘍がたくさん。すぐに入院の手はずが整えられ、妻は慌ただしく病院に行った。手術できない以上、抗癌剤で癌の増大転移を押さえていくしか道はない。抗癌剤は妻の癌に有効だろうか。頭がパニックになった。正直苦しい。どうしてやることもできない。座して指をくわえているだけで、妻の回復を祈るだけで、おろおろと歩くだけでいいのか。
 いきなりホームページを作ることを思い付いた。妻の応援サイトだ。本来は自分の作品を載せようと考えていたホームページを、妻の応援ホームページとしてスタートすることに、決めた。そうだ決めた。だからって妻の癌がどうなるもんでもないが、せめてこのような人生を生きたことを、記録しようと思ったのだ。せめて。
 考えてみれば、自分の作品のほとんどは、妻との事を土台にして、作り上げたものだった。妻なしにはなにも生まれなかったかもしれない。突発的に思い付き、突発的に作った。どうぞ興味がある方は覗いてやって下さい。2001.12.16記す。
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 私はこの文章にも感動していた。ここでも悲痛な「HP制作」の熱意が感じ取れた。こうしてこの人はHP「天気草(てんきそう)」を作ったのだった。
 奥さんが書き留めた闘病記をまとめた「明の闘病記」も読んだ(明は何と読むのかわからなかった、さやさんかな?)。

 明さんは五十歳の「節目検診」で最初の癌が発見されたらしい。闘病記は第一章から第七章まであった。私は読みながら何度も涙ぐんだ。淡々と書かれた文章も素晴らしく、癌と闘い、家族を思い、生きたいと願う彼女の心情が痛いほど伝わってきた。私の母が癌で亡くなったときのことも思い出した。

 最後の第七章は以下のような文章だった。
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「癌になって良かったと言える日が、きっと来るように」
 パソコンなんて興味なかった。手術して入院中に、妹にもらったパソコンは我が家にやってきた。娘が使えるようにと、しょうがなくパソコンに向かった夫はやがて夢中になり、ホームページを作った。退院するのを待つように、日記を書かされることになったが、日記なんて毎日書くものではないと思うし、書けとけしかけられるのはたまらなかったが、応援してくれる夫へのお返しの気持ちでしぶしぶ書くのを日課とした。パソコンの中には、癌と闘う人たちがいっぱいいた。日本全国様々な所で、雄々しく闘っている。癌は治る、治ってみせる、と頑張っている人たちの中にいつの間にか自分もいた。日記を毎日書いて積み重ねるというだけではなく、読んでくれた人がエールを送ってくれると、なんという嬉しさなのだろう。ほんとうに嬉しくて、心が踊る。心踊る気持ちで毎日を暮らせたら、癌も退散してくれるだろうか。生易しいものでないことはよく承知しているが。
 子どもの日々、共に育った妹は裏庭にばらまいたように咲いていた天気草を記憶してなかったけど、父は覚えがあるらしく、春になったら種を蒔こうと言った。覚えがあることに嬉しさを感じた。遠い昔のさり気ない記憶を共有して生きていた時があった事を、時を経た今思い出して、あの頃確かにあの天気草が咲いていたよね、と言い合える嬉しさ懐かしさ。共に生きたと言い切れることを多く積み重ねたい。娘と息子は、大人になってどの私と対面してくれるのだろうか。これからも共にいっぱいいっぱい生きて行く。癌になって良かった、と言える日がきっと来るように頑張ろう。
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 最後に「突発的刊行の辞」の中にあった文章を引用したい。最初の手術後奥さんが退院したとき、夫のikkouさんが記した言葉だ。
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 年末に退院してきた妻は、家にいることの幸せを味わっていた。もちろんぼくも小学5年の娘も小学2年の息子も、かあちゃんがただそこにいることの至福を、しみじみと感じていたものだ。この平凡な暮らしが、どれほど貴重なものだったか、どれほど奇跡に満ちたものだったかを、思った。失われてはじめて分かるたくさんの事。
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 私は思った。しばしば言われることであるけれど、普通の暮らしがいかに貴重であるか。失って初めてわかる大切なもの。それを教えてくれる「天気草」HPだった。

 私は高校時代の恩師K氏の一語「ハンス・カロッサ」を起点としてネットサーフィンの海を漂った。そうしたら、思いがけずとても深みのあるホームページに到達した。趣深くまた意味深い偶然だと思った。この一件は探索のみで終わるのか。あるいは、さらにハンス・カロッサを読むことまで進むのか。あるいは、私のSF執筆に何かを付け足すのか、それはわからない。

―了―

2003年1月アップ
2004年3月リンク等修正
2019年リンク等修正





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