『般若心経』解説 ――誤解と空無清浄観 導入  御影祐    『般若心経』の誤解 1へ

 『般若心経』は六百巻に及ぶ経典 『大般若経』の真髄が説かれていると言われます。その「空無」は硬貨の表であり、裏には「清浄」と刻まれていた――この結論を導き出した二つの仏典とは、一つが空海によって日本に招来された『理趣経』であり、もう一つは『大般若経』の「第十段、般若理趣品(ほん)」です。 この第十段は『大般若経』の中心であるとして今でも『大般若経会(え)』で読誦されます。また、『理趣経』は副題として「般若波羅蜜多理趣品」とあり、第十段の縮約経です。
 『理趣経』には「男女の恋と交わりは清浄である」と説かれ、空無の『般若心経』とは全く別物のように思われています。しかし、「第十段般若理趣品」には「空寂(=空無)と清浄は菩薩の境地」とあり、「色(しき)は空寂清浄、耳鼻舌身意も空寂清浄」とあって空無と清浄が合体しています。もちろん『理趣経』の「適悦(てきえつ、男女の交わりは)清浄」もあります。つまり、『大般若経』の核心を表す言葉は《空無清浄》です。『大般若経』の縮約経をつくるにあたって《空無》だけを取り出して短くまとめられたのが『般若心経』であり、《清浄》は全て『理趣経』に移転されたのです。よって、三経の関係をまとめると以下のようになります。
 『大般若経』の中心=第十段般若理趣品、そのうち《空無》――→ 『般若心経』
 『大般若経』の中心=第十段般若理趣品、そのうち《清浄》――→ 『理 趣 経』
 《空無と清浄》は本来合体していた。「空無」の裏には「清浄」が隠れている。ならば、『般若心経』の「空無」を「清浄」に置き換えることができる。私はそう思って 『清浄般若心経』をつくりました。
 そして、表と裏を見通して解釈するなら、『般若心経』とは《ものごとは全て空無であり、清浄である。ものも人も身体も心もないと見なそう、全て清浄だ、清らかだと見なそう》と説いているとの結論に達しました。
 さて、ここからは「空無清浄般若心経」の基礎に立って『般若心経』がいかに誤解されてきたか、さらに《空無清浄観=全肯定》の素晴らしさを解説したいと思います。
 [次ページより文字はまた一つずつ現れます。めんどうだとお思いでしょうが、なぜこのような形式としたか、意図があります。本稿の最後にそれを説明しますので、どうか先をあせらずゆっくりお読み下さい]

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