アンコールワット
現在充実主義と


半々主義


[原稿用紙17枚分]


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 現在充実主義と半々主義

 現在充実主義

 今から2年前の初秋、大学時代の友人が肺に異物があるということで、手術することになりました。
 そのとき私は彼に次のようなメールを書き送りました。その中で私は「半々主義」を語ることにしました。

 そうですか。肺に異物が……
 どう返事を書こうかと考えているうちに1週間が経ちました。正直返事を書きづらかったです。しかし、自分も癌に襲われたら、同じように貴君に知らせるだろうし、友の言葉をさりげなく受け止めるであろうから、感じたところをそのまま書いて返事としたいと思います。
 病巣が軽いというのは不幸中の幸いです。手術や術後の経過がうまくいくことを祈るのみです。それからきちんと検査を受けているのはえらいなと思います。私は最近胸の息苦しさがあり、夜中に突如胸全体が締め付けられるような痛みがあるので、たぶん狭心症か不整脈の心臓系の病気だろうなと思っています。いずれ検査に行こうと思っているのですが、のばしのばしにしていて我ながら困ったもんです。

 ただ、私は基本的に現在充実主義を実践しているので、来るべきものが来ても仕方がないと言うか、死を怖れる気持ちはあまりありません。それはもしかしたら貴君も同じなのかもしれません。
 貴君が八月に論文を送ってきたとき、同封されていた手紙が興味深かったです。そこには松江を再訪したいとの思いが書かれ、同時に「ともあれ三十年。生きて、笑い、怒り、哀しみ、一切を楽しんだ! 幸せな日々に乾杯!」と書き留められていたからです。私は「えっ?」と思いました。それが貴君の心からの言葉ならば、素晴らしい境地に達したなと思ったからです。その考えを推し進めるなら、いつ死んでも悔いはない――そのことを述べているように思えたからです。(あるいは、私の勘違いかもしれませんが……)

 実は私自身はいつ死んでも悔いのない生き方を日々送っている(と思っています)。それがまあ現在充実主義なんですが、特に数年前からは退職して文筆生活に入った。そして、自分の好きなことを好きなようにやっている。創作はいくつかたまった。しかし、発表までに至っていない。もし明日にでも事故や病気で死ぬなら、その多くは未完のまま。友人は執筆活動だけでなく、ゴルフに競馬と遊んでいる私を見て、もっと本腰入れて書いたらと言う。もし私の命があと一年てことになったら、その友人たちはもっと「書け書け」と言うのだろうか。いや、私自身がそう思ってぎりぎりと書き始めるのかも知れない。しかし、今は自分のゆるやかなペースを変えるつもりはない。仮にあと一年の命となったとしても、創作はやるし、ゴルフも競馬もやり続ける。それでその日を迎えてもたぶん後悔はしないと思う(と思いこんでいる?)。

 今日創作に集中し、明日は創作に行きづまり、明後日は怠け、四日後はゴルフを楽しみ、また創作に戻り、土日は競馬に明け暮れる。その毎日毎日が楽しいから正に私も「幸せな日々に乾杯!」なんです(恋人はいないけどね)。
 人は私の行為のいくつかを無為で無駄で無意味と見るかも知れません。だが、私はそこに浸ってそれを味わっている(と思っている)。だから、楽しい。だから、充実している(くどいけど、そう思っている)。それが私の現在充実主義なんですね。そして、それは私の「半々主義」から出てくる考え方なんでもあります。

 半々主義

 半々主義――それは中途半端主義から出てくる以下のような考え方なのであります。
 苦しみや悩みは半分、楽しみと喜びも半分。全て(砂漠の)コップ半分の水。どちらにもとらわれ、どちらにもとらわれない。半分しか水がないと絶望することはないし、半分も水があるとぬか喜びすることもない。神を信ずれば半分の水は永遠にわき出る――と思うこともない。半分の水はあくまでも半分の水。
 しかし、それを三日持たせて砂漠を歩き続ければ、オアシスにたどり着けるかもしれない。だから、歩ける限りは歩き続ける。そして、幸運――緑と水のオアシス――が自分にやって来たとき、それは全て自分の力だったとうぬぼれることはない。半分は自分の力だけれど、もう半分は、大いなるものが自分を生かしたのかもしれない、と思う。

 だから、私にとっては「死」でさえも半々主義なんです。
 今私は死をそれほど怖れていない。死による苦しみは半分、楽しみも半分かなと思うから。死ぬことによって現世では体験できない世界へ行くことが出来るかもしれない。少なくとも死ぬことで、生きることに伴ういろいろな苦しみはなくなる。それは間違いないこと。だから、人は自殺するのだと思う。  そして、死後が地獄にせよ極楽にせよ、四次元世界にせよ霊魂の世界にせよ、死ぬことで新たな楽しみがやってくる可能性がある。未だ誰も帰ってきて伝えてくれない、その世界へ行けるかもしれないからだ。あるいは、ただ単に死んで無に帰するだけなのかもしれない。何にせよ死後の世界を新たに体験できると思えば、わくわくもしようではないか(と思いこんでいる?)。
 それが半分の気持ちなら、もう半分は死ぬことによって、少なくともこの世に生きてあることの喜び・楽しみはたぶん全て消滅するのだと思う。死んだら(たぶん)ゴルフはできない、競馬は地獄や天国じゃやっていないだろう。生きているからこそ感じる喜び、楽しみ、充実感は全て消えてなくなるのだと思う。
 そして、死とはそのいずれかではないと思う。死ぬことでバラ色の天国生活がやって来るかもしれないが、そのとき人間生活の楽しみと喜びはないのだろう。逆に死ぬことで現世の苦しみはなくなるかもしれないが、地獄の苦しみがやって来るのかもしれない。もし地獄が本当にあるなら、うそをついたことのない人間、生き物を殺したことのない人間は(赤ん坊を除いて)この世に存在しないから、われわれはみんな地獄に送られると思う。言わばまあ、私にとっては死でさえも半々なんですね。

 神と信仰の宗教への理解はあると思っている。しかし、外なる神にせよ内なる神にせよ、それ一つで理由付けすることには違和感がある。つまり、半々主義の私にとって、どちらか一つには進めない、決められないってことですね。
 自分の過去や人のいろいろなことを見聞きすれば、当人の努力や力等々で全て事態は推移したなどと思えない。だから、何らかの大いなる力が関与している気はする。しかし、かと言って大いなるものの力とおぼしめしだけで自分や事態は動いた、「生かされた」とも思えない。敬虔(けいけん)な信仰者はしばしば「自分は生かされている」と言う。しかし、私に言わせればそれは半分。もう半分は私の意思と決断で運命を切り開き、生きてきたということになる。
 だが、(何度も言うけれど)それが全てではない。
 いろいろなターニングポイントで自分を支え、叱咤(しった)激励し、慰め許してくれた家族、友人達がいた。そして、不思議な偶然の巡り会いや出来事があった。
 物心ついてからの中学校生活、中卒後高専(五年制の工業高等専門学校)に進学したこと、悩んで結局3年で中退して大学を目指し、島根大学へ行ったこと。五年間の大学生活。文学青年らしい悩みや絶望感、恋とアホをやった日々。そして、その後の高校教員生活。教員としての悩みとその時々の目覚め。結局、結婚できず、さらに教員生活も全うせず、自主的に退職したこと。その中で幸があり不幸があった。不遇があり不運もあった。だが、厚遇があり幸運もあった。幸と不幸は全て半々であると私は思う。それを人と比べることはない。ただ、自分の中だけでそれが半々であることに気づけばいいのだと思っている。

 人は右に揺れ左に揺れる。善に振れ悪に振れる。上を向き明るく希望を持って生きるかと思えば、下を向き絶望と虚無に陥って暗く暗く生きる。人の心の動きを時と成長の軌跡で眺めるなら、それはらせん構造。普通の人は左右上下に揺れながら生きていくのだと思う。
 だが、人はしばしば右に揺れすぎ左に揺れすぎる。(妙な言い方だけれど)善に振れすぎ悪に振れすぎる。ひたすら明るく楽観的でありすぎ、どうしようもなく暗く悲観的でありすぎる。行きすぎると辛い。行きすぎた人を見るのも辛い。人が行きすぎたとき元に引き戻してくれるのが、家族であり友人であり、見知らぬ路傍の人であると思う。身近の他者、遠くの他者と付き合い、彼(彼女)と語り共に行動し、その言葉に耳を傾けることができれば、自分の「行きすぎ」は修正されるのではないでしょうか。

 未来を見通す力

 つらづら思うに故事格言の『禍福はあざなえる縄の如し』は真理であると思います(縄――それもらせん!)。
 不運・不遇・不幸は誰にも必ずやって来る。だが、幸運・厚遇・幸福もまた必ずやって来るのだ。要は未来を見通す力があるかどうか。この不運・不遇・不幸が次の幸運・厚遇・幸福の前段階であると思えるかどうか。
 人の脳には1と0と∞があるのだと思う。コンピューターには∞がない。だから、コンピューターは決断できず、未来を見通せない。人は自分と周囲の未来を見通せる。未来を見通す力がないと、動物的に目の前のことしか見つめることが出来ないし、自分で決断できない。だからこそ、目の前の不運・不遇・不幸にとらわれ悩み苦しむ。自分の不運を呪い、不遇をののしり、不幸を嘆き悲しむ。身近の他者を責めて甘え、思い通りにならない人生に絶望する。あるいは、先を見通す力がないと、目の前の幸運・厚遇・幸福に固執して足元をすくわれる。幸運・厚遇・幸福は永遠に続くと思いこみ、やがてやって来る不運・不遇・不幸に対処できない。
 未来を見通す力があれば、(あるいは、人に打ち明け、人の意見を聞く耳を持っていれば)必要以上に不運・不遇・不幸にとらわれずにすむし、幸運・厚遇・幸福に浮かれすぎることもなくなるだろう。右に揺れたら左に戻り、左に揺れたら右に戻る。善に振れたら悪に戻り、悪に揺れたら善に戻る。下降の次には上昇がやって来る。不運・不遇・不幸の次には幸運・厚遇・幸福がやって来る。らせんのように我が時空を正しく楽しく生きていく事が出来るのではないでしょうか。

 貴君が書いていた「ともあれ三十年。生きて、笑い、怒り、哀しみ、一切を楽しんだ! 幸せな日々に乾杯!」とは、上記のような心境に達した言葉であると見ましたが、いかがですか?
(その後2年たち、友は無事手術を終え、今も健在です。私も胸の妙な痛みは検査の結果異常なしと言われたのですが、通風持ちの身の上となり、2年経った今も通院中なのであります。(-_-;)

        → さらに「続き」がありますが、現在工事中です。


 

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