カンボジア・アンコールワット遠景

 御影祐の小論

一読法を学べ 第 5号

「四 結論が大切か途中が大切か」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 5号

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           原則月3回 配信 2019年 4月18日(木)


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 目 次
 前置き
 一 国語(現代文)の授業は三読法
 二 人の話を三読法で聞けるのか
 三 結末に早く到達したいと考える悪癖
 四 結論が大切か途中が大切か ――本号
 五 一読法の読み方
 (1)題名読みと作者読み (2)つぶやきと立ち止まり読み (3)予想・修正・確認 (4)共感・賛同・反発
  読み終えたら……
 (5)記号をたどって作品を振り返る (6)短い感想を書く
 六 まとめ


 本号の難読漢字
・掲載(けいさい)・出征(しゅっせい)・見聞(けんぶん)・戸惑(とまど)う・挫折(ざせつ)・その都度(つど)・謳(うた)う・撲滅(ぼくめつ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 5

  四 結論が大切か途中が大切か

 もう一つ、じっくりゆっくり読めない理由に、とにかく早く結末に到達して「全体として何が書かれているか知りたい」という意識があります。
 我々は文章を読んだとき、結末を早く知りたがる傾向がある。この悪癖もまた三読法から派生すると私は考えています。

 三読授業では二度目の読みである精読を終えると、「結論は何か、作者は何を言いたいか、作品のテーマは何か」と問うことが多い。覚えがあると思います。
 私は小説のテーマとか「作者は何を言いたいか短くまとめること」はほとんど無意味というか、特にやる必要のないことだと考えています。論説文とか意見文なら、それを尋ねる意味があります……少々ですが。

 たとえば、「いじめについて」とか「戦争について」書かれた論説文・意見文なら、「作者は何を言いたいか」に対する答えがあります。しかも、だいたい本文の最後に書かれています。
 前者は「いじめとは良くないことであり、命を大切にして仲良く暮らすべきだと作者は訴えている」とか、後者なら「今も世界で戦争がなくならない。まず話し合い、相手を受け入れる必要があると作者は主張している」などと結論を言うことができます。もっと短くまとめると、「いじめは良くない・戦争は良くない」が作者の主張であり、結論と言えるでしょう。

 しかし、この結論を知ることに一体どんな意味があるのか。誰もが「その通りです」と賛成する、わかりきったことを言っているだけではありませんか。
 もしもこれが正反対の主張――「いじめられたくらいで死ぬようでは強い人間になれない。大いにいじめるべきだ。いじめられたら報復しろ」とか、「敵が攻めてくる前に先制攻撃をするべきだ」といじめ賛美・戦争賛成論が主張されているなら、それをまとめる意味があります。しかし、九九パーセントの人が賛成するような結論なら、わざわざまとめる必要はないでしょう。

 また、読書とは作者対読者の関係です。つまり、話し手対聞き手の関係であり、私たちはしばしば一対一で話し合います。
 それが単なる雑談でなく、相手は何か主張しようとしている。だが、あっち行きこっち行きして何を言いたいのかよくわからない。
 ならば、一言こう聞けば済むことです。「あなたは何を言いたいのですか」と。
 だから、私は文章においても、「作者は何を言いたいか、特に考える必要はない」と言っているのです。

 繰り返しになりますが、論説文の結論や主張は最初か最後にあります。そこを読んでもわからないような文章なら(そして作者が健在なら)、作者にメールして「あなたが書いた文章は何を言いたいのですか」と聞けば良いのです。
 作者は答えてくれるだろうし、そもそも論説文で結論とか主張がわかりづらい文章なんぞ、へたくそな作品と言わざるを得ません。小論文を書くとき、「序論・本論・結論の三部構成で書きなさい」と指導されるように、結論を知りたければ、最後を見ればわかります。

 それなら論説文の授業で、なぜ先生はいつも「作者は何を言いたいか、考えよう」などと質問するのでしょうか。
 私は「入試問題の論説文を意識している」からではないかと考えています。
 教科書の論説文はだいたい数頁でしっかり完結しているから、結論・主張は最後か最初にある。だから、すぐにわかる。
 ところが、入試問題の論説文は(まれに教科書の論説文も)完結しているはずの文章を途中で切り取って掲載することが多い。そのため結論が書かれていない。
 または、論説文的エッセーなる作品もあって結論がぼやかされている。入試問題作成者はこのタイプがお好きなようで、「本文における結論とか作者の主張」が問われます。
 それを意識するから、学校はなんでもかんでも「結論は? 作者の言いたいことは?」と聞かざるを得ないのでしょう。

 しかし、ここにも重大な勘違いがあります。
 それはある文章を読んだり、人の話を聞くとき、《大切なことは結論なのか、途中なのか》という問題です。
 作者は何を言いたいか、その主張を知ることに重きを置くべきか。あるいは、その主張が生み出された背景とか事情・理由を知る方が大切なのか。どちらでしょう。ちょっと立ち止まって考えてみてください。

 ここでも先程例として取り上げた、大人が問題児に説教する場合を考えてみます。
 大人が説教しようとすると、彼らはよく「うるさいなあ。わかっているよ」といやがって話を聞こうとしないことがあります。
 なぜでしょう。

 私はそのわけを「結論がわかりきっているからだ」と思っています。
 大人が子どもに説教するときの結論はほぼ次の通りです。
「お前は勉強もしないで遊んでばかりいる。頭髪服装も乱れてだらしない。遅刻は毎日だし、校則も守らない。だから、反省して生活態度を改めなさい」と言いたいのです。
 話し手の結論(主張)が見え見えです。だから、子どもは「聞きたくもない」となるのです。

 あるいは、「戦争は良くない。平和が大切だ」という結論に対して一体誰が反論できるでしょう。
 みな「その通り」と答えるしかありません。つまり、結論も主張も明々白々なのです。
 ところが、同じような結論であっても、「戦争は確かに良くない。だが、隣の国が攻めてきたら、戦わざるを得ない」という結論の場合はどうでしょう。これも「その通り」と言いやすい結論です。
 両者の違いはどこにあるのか。それは結論を読む(聞く)だけではわかりません。途中を知る必要があります。

 同じ結論、微妙に違う結論であっても、その言葉を誰が言っているか、どのようなことが書かれているか。結論の前段階――小論文で言うなら《本論》を読むことで、ようやく違いがわかります。
 私たちは結論ではなく、途中を読んだり、聞くことによって、自分の感想や意見を生み出すのです。

 たとえば、戦場で活動する医師や看護士、牧師さんの言葉か。地雷で足を失った兵士の言葉か。出征した我が子を亡くした親の言葉か。爆撃で親が殺された孤児の言葉か。
 あるいは、いまだ戦場に行ったことのない兵士の言葉か。国民によって選ばれた議員や国のリーダーの言葉か。独裁者の言葉か。武器商人や武器製造企業の社長さんの言葉か。そこで働く従業員の言葉か……。 結論はみな同じであっても、途中は全く異なる言葉や文章となるでしょう。

 大切なのは結論ではありません。途中です。話の途中で語っている言葉に耳を傾け、しっかり聞くことが大切なのです。

 極端に言うと、百人の人がいれば、百人の途中がある。自らの体験や見聞に基づいた意見が語られる。文章を読んだり、人の話を聞くとき、結末や結論、主張はどうでもいい。《途中=部分》を聞き取ってこそ意味があります。
 そして、部分をしっかり読もう、部分を熱心に聞こう、それも「一度目で」という読み方・聞き方が《一読総合法》なのです。

 三読法のように一度目はさあっと読む訓練ばかりでは、そしてもう一度読んで、「結論だ、主張だ。それを把握しよう」という授業ばかりでは、人の話を聞く際、「途中は上の空でぼんやり聞いてもいい。最後の結論だけしっかり聞こう」という子どもしか育ちません。
 やがて結論や主張がわかりきった話は聞こうともしない。そのような子どもになり、大人になるでしょう。

 今までのことは主として論説的文章について語りました。もっとくだらない質問は、文学的文章である詩や小説にまで「結論や作者の主張」を求めることです。

 詩とか小説は必ずしも作者の主張が書かれている訳ではありません。作者が健在なら、「あなたが書いた詩や小説は何を訴えたかったのですか」と聞いたら、多くは戸惑って口ごもると思います。
 もちろん答えられる場合もあります。我が『空海マオの青春』について聞かれたら、「私は空海の青春時代を描きたかったし、それを描いたつもりです」と答えるでしょう。

 あるいは、「あなたの言いたかったことを五十字以内にまとめてください」と言われたら、普通の作家は怒ると思います。「言いたいことを五十字でまとめることができたら、小説なんぞ書かない。詩にしない!」と言って。
 再度拙作についてもしもそう要望されたら、「私は空海の挫折や絶望、恋、悩みを重ねた後、中国に渡って夢を叶えた空海の青春時代を書こうと思いました」とまとめます。これで四十九文字。
 さて、このまとめに一体何の意味があるのでしょう。題名を読めば想像できる言葉、「青春時代」から連想される普通の言葉が並んでいるだけではありませんか。
 もしも読者がこの短いまとめを聞いて作品を読み終えた気持ちになったとしたら、作者にとってこれほど悲しいことはありません。多くの作者が「作品を短く解説してください」と要求されたら、「どうか作品を読んで下さい」と言うでしょう。
 広島や長崎原爆の語り部、大津波や大災害も体験を語る人がいます。語り部は最低でも三十分、一時間は語るでしょう。それを五分か十分で「短く語ってください」と言われたら、「お断りします」と答えるはずです。

 もちろん弁論大会の主張などは十分で語れることがあるし、その練習をすることは意義があります。意見文なら原稿用紙五、六枚分は語れるでしょう。
 しかし、自己の切実な体験や思いを原稿用紙三十枚分書いた作品なら、それを「二百字にまとめなさい」と言われることは苦痛以外の何ものでもないでしょう。
 これを逆に言うと、「短くまとめてください」と要求することは、牛肉や豚肉を食べるのに「骨を下さい」と言うようなものです。骨を無理矢理食べて「いやあ、この肉はうまかった」とか「まずかった」とつぶやくのでしょうか。

 ところが、国語授業では平気で「この小説を通じて作者は何を言いたいか、テーマは何か、短くまとめてみよう」などと生徒に尋ねます。
 そうなると、何はともあれ最後まで読まなければならない。論説文の癖で結論や主張は最後にあると思っている。しかし、詩や小説は最後まで読んでも結論や主張が書かれている訳ではない。さあっと最後まで読んではみたが、感想らしい感想は生まれない。もちろん作者の主張やテーマもわからない。

 二度目の読みである精読を終えると、先生は「これが作品のテーマだ」と短くまとめる。多くの生徒は「なるほど」と納得するけれど、一部の生徒は「どこか違うんではないか」と感じる。だが、先生は《正解》を言っているはず。先生のまとめが正解なら、自分が感じたことは間違っていると思う。どうにも腑に落ちない……。
 かくして「どうも詩とか小説ってよくわからない、苦手だ」という感想が生まれる。そして、長編など最後まで到達できないと、途中で投げ出してしまう。

 ここで敢えて矛盾したことを書きます。
 長編に限らず小説を最後まで読み通せず、途中でやめたとしても、私は別に構わないと考えています。途中をじっくりゆっくり読んで、その都度その都度感じたり、考えたりすることがあるなら――との条件付きですが。

 とにかく大切なことは結論や作者の主張ではない。読者が部分部分で何を感じ、何を考えたか。ある小説を読み終えて感動したか、失望したか、何も感じなかったか。つまり、読者が感じ取った内容こそ意味があるのです。

 この点も音楽と似ています。ベートーベンの『交響曲第五番』について「作曲家の主張は何か、結論は?」と聞く人はいないでしょう。「何が描かれているか」と問う人もいない。
 しかし、「この曲を聴いて何を感じたか」なら、問うことができるし、言葉を絞り出して何とか答えることができます。
 たとえば、「運命の過酷さ」もいいし、「内に秘めた苦悩を解き放て、と心の扉を叩かれているような気がする」も良し。「暗すぎて好きじゃない」もいいし、「クライマックスは人間の素晴らしさを謳っているような気がする」も良し。この感想に正解はありません。百人の人は百通りの感想を語るでしょう。

  実は詩や小説を読む意味も音楽と同じなのです。作品の結論やテーマ、作者の主張を知ることではなく、《読んで感想を持つ》ことです。そして、音楽の感想に正解がないように、作品に対して何を感じてもいいのです。
 よって、詩や小説を書いた作者にとって最も悲しい反応は「読んだけど、特に感想はない」と言われることです。多くの作者はそれを聞いて絶望のどん底に突き落とされたような気持ちになることでしょう(は大げさですが)。

 しかし、「特に感想はない」と言う《感想》を口にするのは読者の責任であろうか。
 失礼な言い方ながら、読者のほぼ全員が作品を一度しか読まない。しかもさあっと目で追うだけだから、作品の理解度三〇でしかない。では、そのような読者を生みだしたのはどこの誰か。それこそ国語授業の三読法であり、作品のテーマや作者の主張を知ることに重きを置く授業形態であると言わざるを得ません。

 多くの人が「作品を読んで感想を言う」とは作品全体について、結論とか作品のテーマとか、作者の主張について「語らねばならない」と考えているはずです。そのように授業で習ったのだから。
 ところが、一度しか読んでいないからそれが何だかよくわからない。下手に感想を言って「それは違う」と言われたくない。だから、感想を喋らないという事態になるのでしょう。
 もしも詩や小説における感想は「何を言っても構わない、全体を読み終えていなくとも、部分について語って構わない」と学んでいれば、読者は感想を大いに語ると思います。

 文学的表現を少々拝借するなら、いじめ撲滅にせよ、戦争反対にせよ、作者(話し手)の魂の叫びは結論ではなく、途中にある。そこを読み取って(聞き取って)自分独自の感想を持つ。それこそ本を読み、人の話に耳を傾ける意味であると思います。
 くどいようですが何度も書きます。三読法は一度目の読みが理解度三〇で構わないとする読み方です。なぜなら、もう一度読んで理解度六〇を目指すからであり、二度読めば作品に対して疑問や感想を言うことができるからです。
 しかし、実社会で人は作品を二度読むことがない。ならば、一度読んだだけで疑問や感想を言える読み方、理解度六〇に達する読み方を学ぶ必要がある。その読書術こそ《一読総合法》である――これが短くまとめた本稿の結論であり、私の主張です。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:いよいよ次号にて「一読法」の具体的な読み方を解説いたします。
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