ゆうさんごちゃまぜHP「久保はてな作品集」 2026年01月07日(水)第15号
『Y高文芸部物語』より抜粋1「地味ィな青春論」
2026年あけましておめでとうございます。m(_ _)m
今年もよろしくお願いします。
さて、なぜ「久保はてな作品群」を当時から30年近く経って公開するのか。
その理由について以前以下の狂短歌を詠みました。
○ 30年 前に埋もれた文芸部 今掘り起こすことに意味あり?
きっかけはY高文芸部OB――遠野喬志君が文学フリマ(文学作品展示即売会)「もじのイチ」を主宰したことです。
彼から「先生もぜひ参加を」と誘われ、「それじゃーあの頃のことを書こうか」とほんとに久しぶりに当時の作品を読み返した。そして「面白い(^_^)」と感じ、「現代にも通じるテーマが盛られているではないか」と思いました。
さらに、短文SNSが跳梁跋扈(?)するネット世界。[跳梁跋扈、読めず意味不明の方は検索を]
たった一言感想を書いて終わり。人のあることないこと、誹謗中傷を書き込んで満足する。ゆがんだ感情の表出があふれかえる現代、「《自分の心のつぶやき・真摯な叫び》を描きたい、じっくり書いた作品を読んでほしい」と思う人が増えている。
それは自作小説や詩・エッセーなどを並べて買ってもらう文学フリーマーケットの隆盛から読み取ることができます。いま日本最大の文学フリマは2000を超える出店があるようです。遠野喬志君もその一翼を担って1月12日(祝日)3回目の「もじのイチ」を開催する。私もちょいと協力しようと思いました。 [東京都立産業貿易センター浜松町館にて(入場無料)、JR浜松町駅北口外]
そのような経緯で前号『Y高文芸部物語――遠野喬志誕生秘話』(PDFファイル)を公開したわけです。
しかし、いつもの「悪い癖」(^_^;)。完成作は原稿用紙にすると280枚もの大作に。
配信が年末になり、多忙な読者各位は「そんな長いの読んでられっか」とうっちゃられている可能性高し(^_^;)。
そこで今号と次号2回に渡ってその中の「ぜひ読んでほしい」部分をここに掲載します。
そろそろお餅もおせちもあきたでしょうから、ごちそうとは言えないけれど、地味ィな青春論という噛み応えある小品を召し上がってください(^.^)。
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*********************「久保はてな作品集」 ***************************
あらゆる男女に子ども時代がある。あらゆる人に思春期が訪れ、男子はおちんちんに毛が生え、朝立ちと夢精が始まる。かたや女子は初潮が始まり、胸がふくらみ、月に一度血を流す。
おそらくそのころから青春が始まるのだろう。そして十代前半、後半を経て二十代末(か三十代初め)くらいに「青春が終わった…」と感じるのではないか。
テレビドラマや映画に描かれた「青春時代」を見ると、高校や大学の部活動がよく舞台となっている。
たとえば、野球、ラグビー、サッカー、バスケ、テニス等々。友情は大きなテーマであり、チームワークを必要とする集団競技で部員が困難を乗り越え、夕日に向かって走り叫ぶ……なんてことも(^.^)。
そして、男女のほのかな恋、片思いや三角関係の悩み。初恋が失恋に終わるのはよくある話。
だが、成就するや天にも昇るほどの歓喜。
手をつないで歩き、一面の花の中を二人で駆け、海岸でじゃれ合ったりする……正直ちょっと恥ずかしくなるような映像(^.^)――を見て少年少女は「青春ってあのようなものなんだろうなあ」と思い描く。
ここで使用された顔文字[(^.^)]を見て読者はどう思われただろうか。
それが青春だと思った人、さらにそのような小説、脚本を書いている方々は
「この顔文字(^.^)は御影祐の皮肉だ、情けねえヤローだなあ」と感じた(かもしれない)。
一方、テレビや映画の青春を描いた表現は典型であり、ステレオタイプと感じている人は
「これ(^.^)はトーゼンの顔文字であり、鋭い指摘だ」と思ったはず。
ステレオタイプとは勧善懲悪の物語が正に「典型」。正義の主人公VS悪の帝王、その下っ端が戦う絵柄のこと。アメリカ映画に多い。
たとえば、「スーパーマン」に「バッドマン」、「スパイダーマン」。
日本なら「ウルトラマン」に「仮面ライダー」、「スーパー戦隊」。
私が子どもの頃は「鉄腕アトム」に「鉄人28号」。「月光仮面」、「七色仮面」、「怪傑ハリマオ」、「白馬童子」……いくらでも書ける(^.^)。
棒を刀にしたり、おもちゃのピストルを手に、風呂敷を頭巾やマントにして大いに遊んだものだ。
SFの名作「スターウォーズ」もストーリーは勧善懲悪(ただ、ルークとレイア姫がダースベイダーの子という構想は新鮮だった)。
日本ならかつての時代劇――遠山の金さん、将軍吉宗、大岡越前、水戸黄門など。
現代なら明智小五郎、(金田一耕助の孫)金田一少年に名探偵コナン。
正義はあくまで正義、悪はどこまでいっても悪という典型的物語。
私は授業の雑談で時折青春論を語った。
「ドラマや映画のように男女がお花畑や野原を駆けたり、海岸でじゃれ合ったりするのが青春であり恋だと思っているとすれば、それは現実にはなかなか起こらない。特に初恋は……」と。
続けて「もちろん中には大きな三角関係や得恋があるかもしれない。だが、多くは振り返ったときにわかる、感じる。片思いに終わったあれが自分にとっての初恋だったとか。教室の隅で文化祭の準備中、ちょっと語り合った。そして、それで終わって発展することはなかった。
あのときなぜかときめいてなんとなく楽しくて振り返ると切なくなる。あれが初恋だった、あのころが青春だったなあ」と。
この何とも地味な(^.^)青春論に同意してもらえるなら、ひそかに(あるいは堂々と?)創作家を志す少年・少女が「現在進行中の自分の青春や初恋」を書きたいと思ったとしよう。
それはほぼ不可能であると言わねばならない。
「できないってことはないでしょう」と反論されるなら、一歩下がって「とてつもなく難しい」と言いたい。
この理由を語る前に、もう一つ「小説論」について少々。
小説最大の特徴は何か?
こう問われるなら、私は「地の文」であると答えたい。
ほとんどの小説(物語)は会話と地の文に分かれる。
会話が登場人物の言葉を記すなら、地の文は(昔なつかし?)5W1Hが書かれる。
When(いつ)、Where(どこで)、Who(誰が)、What(何を)、Why(なぜ)の5WとHow(どのように)の1H。
余談ながら文芸部1年時に〈「ある〜時、ある〜所に、おじいさんとおばあさんがいました」を冒頭に「物語」をつくる〉課題を設定した。
これは5W1Hの3点を初っ端から決めたことを意味している。
時・所・人を小説の三要素と言う。
たとえば「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました」はこの1行だけで「いつ・どこで・誰が」の3要素を含んでいる。
よって、あとは「What(何)」を「How(どのように)」描くかだけ。「Why(なぜ)」は書いてもいいし、書かなくても構わない。小説(物語)の訓練として最適の方法である。
部員に感想を聞かなかったけれど、提出された作品を読めば、筆が進んだ――すなわち書きやすかったことがわかる。「小説の地の文の書き方」を体得できたのではないかと思う。
ちなみに、私は部員に会話部の書き方を指導したことは一度もない。
原始時代から現代、未来。老若男女の人間に赤ん坊。野性動物やロボット、アンドロイドなど。
あらゆる登場人物(?)の会話は何を、どのように書いても構わない。
外国語は主述など構文がしっかりしていないと伝わらない。が、日本語の会話は「何でもあり」である。たとえば「私はあなたを愛している」は英語では「I love you.」一つしかないが、日本語なら「あなたが好き」でも「好きだ。あんたが」でもいいし、「お慕いしています」から「惚れとうと」もある。よって会話を書くのは難しくない。正にしゃべるように書けばいい。
だが、地の文をつくるのは難しいし、訓練が必要。文芸部で文字スケッチや体験を文章化する課題を設定したのはあくまで地の文を書く訓練だった。
閑話休題。
現在進行形の青春を描く際も当然5W1Hをきっちり書き込まねばならない。
これは難しいというより「めんどくせえ」と言うか、「そんな余裕はない」と言った方が正確だろう。
たとえば、あなたが泳げないとしてあるときあるところで水に落ち、手足をばたつかせて溺れかけている――。
大変だ、緊急事態だ。「だれか助けてくれ!」と叫びたい。
これを5W1Hで言うなら、場所はどこか。海か川か池か、流れの急な水路か、足が底につかないプールか。もっと具体的に「都道府県は? 市町村は? 地名や目印となる近くの建物は?」
なぜそこで落ちたのか。なぜ一人だったのか、いや、そばに誰かいるのか……。
これらもろもろを語るのが地の文である。
みなさん方は緊急事態で警察とか消防に電話したことがあるだろうか。
警察だとまず「事件ですか、事故ですか」と問われる。こちらはどこで何が起こっているか――すなわち5W1Hを詳しく語らねばならない。
どこかの川で溺れかけて(辛うじて携帯・スマホを持って)いるとき、消防に助けを求める。そこで最低の5Wを語るなんて「そんな余裕はない!」と叫びたいけれど、どこで何が起こっているか――は伝えなければ、消防も警察も助けに来てくれない。
ゆえに、多くの場合通報するのは近くにいて目撃した人――ということになる。
ここで一つ名言を提起しよう。
川や海で溺れないためには水泳の訓練をすればいい。
小中高では学校にプールがあって水に浮くこと、泳ぎ方を学ぶ。
だが、《青春や初恋という海は前もって訓練できない》。
それは突然やって来て……気づくと終わっている。
初恋が成就しないというのは有名な話だけれど、少年少女にとって初の体験である。
川や海で溺れているようなものだから、泳げず沈んだとしても不思議ではない。
そもそも青春の渦中にいても今の自分が「青春」だと感じない、わからない。言い換えれば、過ぎ去ってみないとそれが「青春」だと気づかない。
もっと言えば、過ぎ去ってやっと「ああ、あのころが自分の青春だった」と感じる。
すでに過ぎ去った読者各位なら、「確かに」とうなづいてもらえるのではないだろうか。
ただ、今の自分が「青春だ、初恋の渦中にいる」とわからなくとも、日記を書く習慣がある人は今起こっていること、自分の感情を日記に書き留めることができる。
では、この日記はそのままで小説になるか――と言えば、小説として読める作品にはならない。
日記をそのまま原稿用紙に転写すれば「私小説」になりそうだが、小説とは呼べない。
なぜなら日記には5W1Hがないからだ。
日記の主人公は「私」であり、脇役として家族、友人、想いを寄せる人などが登場する。そのいちいちに5W1Hを付け加え、日記原盤を再構成、再構築して文章化しないと小説にはならない。
逆に言うと、それをやれば「小説」になる。
だが、この作業は(先ほど書いたように)「しちめんどくさい」し、現在溺れているなら、その余裕はない。
その上私小説の弱点が露出する。それは自分の心理、感情は書けるけれど、想いを寄せる人の内面は書けない。相手が何を考え、何を感じているか。これは打ち明けてくれなければわからない。
ただ青春が――初恋が終わったか、終わりかけていると感じたときは、このめんどくささを乗り越えて書くことができる(可能性はある)。
比喩的に言えば、やっと海や川から脱出した。あるいは、足が底に着いてもはや溺れてはいない。
ところが……書き始めると最後にして最大の困難が襲来する。
それは自分の体験を小説化すると、書けば書くほど「これは自分の青春じゃない、自分の初恋じゃない」と感じることだ。
ここで最初の挫折が起こる。筆は進まず読み返してうんざりする。嫌気がさして書くことをやめる。
それでも書き続けてなんとかエンドマークを打つことができたとしよう。
自分が体験した青春や初恋を忠実に描けた――としよう。
できあがった作品を読み返してがっかりする。
それは映画やドラマ、アニメのように波乱万丈ではない。ドラマチックな青春と初恋が描かれていない。
先ほど書いたように、教室の片隅でちょっと喋ったことが自分にとっての初恋だった、3年間部活でがんばったけれど、大会で劇的な勝利をおさめることはなかった。
これを一言で言うと「地味ぃな青春、些細な初恋だった」。人に聞かせ、読ませるほどの作品ではない……ことに気付く(-_-)。
かくして書いたけれど、プリントアウトされた作品は小箱に仕舞われる。フロッピーディスクの中に閉じ込められる。30年後フロッピーからそれを取り出そうとしたら、今のパソコンで読み込めない羽目になる(^_^;)。
閑話休題。長々と青春、初恋、小説論を語った。
本稿として何を言いたいか。
当時文芸部1年後半から2年にかけて私が部員に仕掛けた罠。
それは彼らに部活を通じて青春と初恋(の雰囲気)を感じてもらい、現在進行形の青春小説を書いてもらいたいということ。
文芸部――のみならず創作活動は一人部屋にこもって想像世界を描くイメージが強い。現実世界と無縁である。残念ながら「それも青春」とは言いづらい。
やはり外に出て未知の人と遭遇し関係を持つ。集団の中で活動することで一人の異性にほのかな気持ちを抱く。ある女性(男性)をめぐってあるかなきかの三角関係に陥る……。
私はY高文芸部員に青春と初恋の舞台を提供したいと思った。
もちろんもう一点は私自身を一部員に託して同じく同時進行の青春、初恋を書くこと。
そのために外に出る活動、課題を設定した。
それを私小説として書いたのは久保はてな君だけ。
残念ながら部員10名は顧問の思い・狙いを感じ取ってくれなかった。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:1月3日アメリカがベネズエラに軍事侵攻して大統領夫妻を拘束、米国に連れて行くという「暴挙」が発生しました。これは「暴挙」と呼ぶべきでしょう。国連の決議はありません。
どんな言い訳をしようとそれはロシアが隣国ウクライナに侵攻したことと同じであり、イスラエルがガザを壊滅させたことと同じ――と私は思う。
これであることを感じるアジアの大国・小国がある。某大国は独立意識の強い隣の小島を軍事侵攻して統一を果たそうとするだろう。そして、核を持った小国は「いつ自分たちも攻撃されるかわからない」恐怖と不安に怯え、より頑なに、一層危険な存在になるだろうと。
某国P大統領がベネズエラ侵攻は「武力による侵略行為であり、国際法違反だ」と非難したとか。「あんたがそれ言う?」と思ったのは私だけでしょうか。
日本には「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがあります。だが、大国のリーダーにその自省はなさそう。自分勝手で暴力的なリーダーを当てにして愛想笑いするしかない小国の悲しさ……。
この状況を若山牧水「白鳥は〜」の短歌をまねて詠んでみました。
〇 小国は 悲しからずや 大国の 違法無法に振り回される
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