アンコール・ワット、プリアカーン寺院の壁
中途半端主義



[原稿用紙13枚分]



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 中途半端主義

 以下は、大学時代の友人へ書き送ったメールです。
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 いろいろご教授いただき、なおかつご心配かけてありがたく思っています。
 貴殿のメールの中に以下のような言葉がありました。
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 実体験、ということでどこかのセクトに入信するとか、海外取材をするとかで、「消滅」してしまわないように、くれぐれも。じつは、「決断」してどこかへ「飛ぶ」のではないかと、常日頃心配しています。
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 近辺の友人達も、私の宗教臭さ(?)を心配する声があり、ご意見恐縮至極(しごく)の体です。
 しかし、自らをかえりみれば、とてもそんな積極性やら行動力を持っていないようです。何しろ中途半端な我が人生。宗教には行かなかった(行けなかった)し、何やらの主義にも入れず(入らず)、うじうじぐずぐず悩みつつ、ギャンブルしつつ負けつつ生きてきたわけで……そうたやすく聖なる道へは突き進めなかった(入れてもらえなかった)のです。

 このところ、鈴木大拙著『日本的霊性』について、宗教色を離れ、「霊性」のみについて考察しています。
 例えば霊的生活――魂の声を感じて生きる生き方とは何か。それは矛盾のまっただ中にいる生き方のようです。一言で言えば、とらわれているのに、とらわれていない人生。不安なのに、不安ではない生き方。恐怖を感じているのに、怖くない。絶望しているのに、希望を忘れない――生き方のようです。
 普通前者の恐怖と不安と絶望にとらわれた生き方は動物的生き方であり、後者は霊的(宗教的・主義的)生活だと言われています。不安と恐怖、絶望感にとらわれると、人はかたくなになり、自暴自棄になる。本能的衝動的になり、攻撃的になる。人の愛など信じられないし、他者を許し、受け入れることなぞなかなかできない。
 通常の人にとって「自分に不安や恐怖はない」と言う言葉は「強がり」でしかないでしょう。ホンネではみんな不安があるし、怖いもの。また、「自分は一人で生きていく、愛されなくて構わない」という言葉だって強がりであり、ホンネではもちろん愛されたいと思っています。だから、自分を受け入れ全て許してくれそうな人にふっとホンネをもらす。
 だが、ある種聖なる境地に達した人は、心から「私には不安などない、恐怖もない」と断言する。そう言われると、大概の普通びとは不信感を抱く。あるいは、「明るい未来や人の愛を信じられる」と笑顔で言われたときも、不審感を抱くでしょう。
 なぜなら、自分はそう思えないからであり、それを表明する人は多く宗教・主義に入った人だから。その人達は宗教・主義を信じ、なおかつそれに殉じられる人ということなんでしょう。
 普通なかなかそうはなれないですからね。だから、何かに入った―飛んだ―人に対して、ある種うさん臭さを感じてしまうようです。かくして、「人の愛が信じられる」とか「未来は明るい」なぞとほざく私を、我が友人達は私が宗教的になったと言って心配してくれるようです。しかし、私自身はちっとも宗教的ではないのです。

 そもそも――、
 ナチュラリスト(自然主義者)になれば、自然を破壊するゴルフはやれない。
 ベジタリアンになれば、肉を食えなくなる。
 仏教徒になれば、飲酒・不純セックスはできない。
 キリスト教徒になれば、最愛の人が殺されても殺人鬼を許さなければならない。
 ヒンドゥー教徒になれば、豚肉は食えない。
 イスラム教徒になれば、聖戦の闘いに参加しなければならない。
 共産主義者になれば、全体のために個人の楽しみを制限しなければならない。
 無神論者に徹すれば、神を求める人の心の弱さを受け入れられない。魂や霊性を否定し、
  神の存在と声を否定する。

 しかしながら、私は……
 ゴルフをやりたいし、(通風持ちの現在は玄米穀菜食生活中心だけれど、時には)血のしたたるステーキ、からりと揚がった豚カツを食べたい。うまい酒を飲みたいし、相手がいないときは、金で片つくセックスもしたくなる。最愛の人を殺されたなら、加害者の殺人鬼を絶対に許せない。でもたぶん報復はしないと思う。
 戦争で死ぬのは怖いから闘いに行きたくない。全体を優先して個人の自由や楽しみを制限されたくない。神を信じる気持ちにはなれないが、人間の意思を超越する大いなる自然の声はあるような気がする。

 ――というふうに、私にはとてもいちずにして純粋、敬虔(けいけん)にして聖なる生き方はできそうにないのです。
 だが、かたや資本主義的自由、自由? 自由! の中で、

 牛肉・豚肉・鶏肉を私が食べるために、南の方で人が飢えているのはちと困る。
 酒を飲み過ぎて泥酔したりアルコール中毒になっている人もちと困る。
 人の迷惑かえりみず、自由なんだからと、自分勝手でやりたい放題の無法違法状態もちと困る。
 人を支配し、奴隷状態に置こうとする軍隊が責めてきたら、嫌だけど闘うしかないかなと思う。
 かたくなな無神論者になりたくはないけれど、神と教祖を信じて狂信的になっているのもちと困る。

 つまり、自分だけ良ければいい、他の人は知らない、自分の生が尽きるまでをのんべんだらり、刹那(せつな)の楽しみに浸って生きりゃあいいのよ、と開き直ることもできないのです。
 要するに、私はそんな中途半端な存在であるということ。とてもどちらか一方にかたよれないのです。
 昔中国の偉い人はそんな状態を「中庸」などと呼んで持ち上げたこともあるとか。だが、私の生き方はそんないいものではない。はっきり言って中途半端な生き方です。

 そして、物心ついてからずっと長い間、私は自分の中途半端さを嫌悪してきました。
 どちらか一方に徹底したいといつも思っていました。キリスト教に惹かれたことはあるし、共産主義の端っこに在籍していたこともあった。しかし、自分は一つに徹底できなかった。理想に向かって徹底できないし、刹那(せつな)の現実に浸ってどうでもいいやと放りきれない。
 強い戦士にゃなれないし、と言って、弱者を装って人に頼りっぱなしと言うのも嫌。自力で全てできないけれど、他力一本槍もイマイチだと思う。
 やはり、とらわれているけれど、とらわれない生き方をしたい。不安と恐怖と絶望にとらわれたまま、人の愛や未来を信じられず、瞬間の楽しみに浸るだけの生活はしたくない。それは単なる動物の生き方だから。魂を持つ、霊性を持つ――精神と心の柔らかさを持つ――人間として生きたい。かといって、自分以外の何か(神?)に頼って不安と恐怖と絶望なんかにとらわれていないと信じこんだ生き方もしたくない。
 そこで私は考えた。この中途半端な生き方を何とかいいものにできないかと。私は中途半端に命を吹き込みたい――今考えているのはそういうことです。
 そして、徐々にその秘密を見つけ始めた気がしています。そのいくつかをこのホームページで公開しているのです。


「混沌(こんとん)の主張」をさらに深く → :現在充実主義と半々主義 (^o^)

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