四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 18

空海の最終境――観念論と唯物論

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第95―論文編 18号

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           原則月1回 1日配信 2014年12月 1日(月)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・観念論(かんねんろん)・唯物論(ゆいぶつろん)・滅却(めっきゃく)
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 『空海マオの青春』論文編――第18 空海の最終境――観念論と唯物論

 その2 観念論と唯物論

 さて、そろそろ『般若心経』や『理趣経』に触れ、空海の最終境について詳しく語っていきたいところです。
 しかしながら、まだまだ前置きとしていくつかの言葉を解説しておかねばなりません。

 と言うのは『般若心経』について最も一般的で、妥当として評価されている解釈が、どうもわかりにくいからです。
 『般若心経』はとにかく「ないないない。なんにもない」と説いています。これまでそれは観念論として解釈されてきました。観念論は「ものごとは存在しない。我々があると思っているものは我々の心に映った像に過ぎない」と主張しており、『般若心経』の「空」や「無」はそれと同じことを言っていると理解されてきました。

 そこで《観念論》とは何か、もう少し知っておく必要があり、同時に観念論の対極にある《唯物論》についても語った方がいいと思ってこの節を設けました。
 もっとも、私は哲学の専門家ではないので、二語の詳しい内容は専門書やネット事典をご覧下さい。私が浅く薄く理解している範囲で説明したいと思います(^_^;)。

 この二語は「心が先か身体が先か」の論争であり、「ヒトは神がつくったか。あるいは、ほ乳類が進化して人間になったか」の論争でもあります。
 前者に関して観念論は「心が先だ」と言い、唯物論は「身体が先だ」と言います。かたや観念論は「人間は神がつくった」と小声で主張し、かたや唯物論は「ほ乳類が進化して人間が生まれた」と自信を持って断言します。

 観念論の代表は宗教であり、唯物論の代表は自然科学です。多くの宗教は「人間や世界は神がつくりたもうた」と主張し、神は存在すると言います。
 対して自然科学は「人間は元をたどればアメーバーのような原始生物であり、それが進化した結果、魚類、両生類、は虫類、ほ乳類、類人猿に進化してやがて人類が誕生した」と説明します。唯物論の側は「進化の過程に神は関係ない。神なんぞ存在しない」と主張します。

 私たちは身体が存在するから心で思い感じることができます。身体がなくなる、つまり死ねば感じたり考えたりすることはできません。また、心の元とも言える脳を取り去ったら、生きているとしても、やはり感じたり考えたりすることはできません。よって「心が先か身体が先か」の論争は唯物論の勝利のように思えます。

 しかし、ことはそう単純ではありません。厳密に言うと、脳を取り去れば人は死にます。そして、死後の世界は一人もそこに行って戻ってきた者がいません。ゆえに肉体が消滅することは間違いないとしても、魂があるかないか、死後の世界があるかないか、いまだ証明されていないのです。
 そこを指して観念論者は「死後の世界、魂は存在するのだ」と言い、唯物論者は「死後の世界も魂もあることが証明されていないので、存在しない」と言います。

 もっとも、この唯物論者は少々頭が固いと思います(^.^)。まっとうな科学者なら「存在が証明されていないものは存在しない」などと言わないでしょう。それでは科学が成り立ちません。
 最近ようやく存在が証明された素粒子の「ヒッグス粒子」などいい例です。ずっとその存在が予想されながら証明されていませんでした。科学者は「それが存在するはず」と信じて実験を続けたはずです。
 よって、観念論者のように「死後の世界、魂はあるのだ」と断言できないとしても、頑固な唯物論者のように「そんなものはない」とも言い切れない。正確には「わからない」と言うべきでしょう(^_^)。

 それはさておき、一時(今も?)観念論者は「我々が外界にあると思っているものは本当は存在しない。我々の心に映じた像に過ぎないんだ」と主張します。
 映画を見れば、それが写された像に過ぎないこと、そこに実物が存在するわけでないことは明らかです。それと同じように我々が見ているものは心の映像に過ぎない。なぜなら、「自分が見ているものが本物かどうか我々は確認できない。さらに、人によって見ているものが変わるからだ」と観念論者は言います。

 たとえば、かつて大人気だったテレビの『スパイ大作戦』(近年映画になって『ミッション・インポッシブル』)。そこではスパイ達がターゲットとする悪役を陥れ、だますために様々な活動を行います。ターゲットが自宅に帰って日常生活を送っている。夜になると雨が降り出して雷が鳴る。その後次々に妙なことが起こり始め、悪役は次第に精神状態がおかしくなる……。
 ところが、彼が自宅と思っている家は実はスパイ達がこしらえた全く同じ外見・間取り・室内備品の家であり、雨も雷もスパイが作ったにせものであるというわけです。これをいたずらでやれば現代のバラエティ番組「ドッキリ」になるでしょう。大物歌手がテレビ局の控え室に入ってくつろいでいると、壁や天井から突然お笑い芸人が飛び出してびっくりする……。
 自分がこのターゲットになったと想像すれば、「物はほんとうに存在するかどうか疑わしい」というのがよくわかります。自分は確かに窓から外の景色を見ている。雨が降る様子を眺め、雷の音を聞いている。あるいは、テレビ局に入って「ここは控え室だ」と思っている。しかし、それが「ほんとうかどうか確実ではない」と観念論者は言うわけです。

 また、セクハラなぞは《本人次第でものごとが変わる》端的な例でしょう。
 男性上司が女性社員の肩を抱くようにして「がんばれよ」と言ったとき、それがセクハラかどうかは女性社員の感じ方次第です。好意と受けとめればセクハラではないし、不快な行為と受けとめれば、セクハラとなります。
 いま私は「肩を抱くように」と表現しました。「それは間違いなくセクハラだよ」と言われそうです(^_^;)。では「女性社員の肩をぽんと叩いて」と表現したらどうでしょう。微妙ですよね。

 我々の感じ方次第で見ているものが変わるようでは「それが本当に存在するかどうか」わかったものではありません。事実多くの裁判で「その行為があったかなかったか」が争われます。かたや「なかった」と主張し、かたや「あったではないか」と主張します。人はうそをつくし、映像や音声で証拠が残されていない限り、ほんとうのところはわかりません。つまり、ものごとが存在するかどうかは人間一人一人によって変わっているのです。

 この最たるものが「心頭滅却すれば火もまた涼し」でしょう。燃え盛る火は熱いものです。しかし、心の持ちようで熱い火さえも涼しく感じられる。だから、火も「我々が心に映し出した映像に過ぎない」と観念論者は言います。
 もっとも、これに関して唯物論の側は「それはあなたの心の問題に過ぎない。熱い火が燃えていることは間違いない。温度を測れば、百度を超えており、手をかざせばヤケドをする。だから、燃えている火がそこにあることは間違いなく、ゆえに全ての物は我々の心に関係なく存在するのだ」と断言します。

 さすがにこれらの論争は唯物論の勝利のように思われます。物が先であって心は後である。ものごとは我々の心に関係なく存在する。人間という物がまず存在し、脳という物体があるから、いろいろ感じたり考えたりすることができる。デカルトは「我思う。ゆえに我あり」と言った。唯物論者に言わせると、これは間違い。「我あり。ゆえに我思う」と言うべきであると。

 しかし、観念論者がひるむことはありません(^.^)。
「そりゃあ確かに火は百度以上で燃えているだろう。さわればヤケドをする。しかし、夏の暑さをどう感じるかは人次第ではないか。気温30度で暑いと言う人がいれば、それほどでもないと言う人がいる。そもそも湿度が高いと25度でも蒸し暑くて不快になり、湿度が低ければ30度でもからっとして今日は涼しいなどと言ったりする。それゆえ気温30度は暑いと言うのは真実ではない。湿度によって、人によって違うのだから」と反論します。夏の真っ盛りにクーラーをがんがんに利かせて室温20度にすると「寒い」と思います。しかし、真冬に気温20度となれば、「今日はとてもあったかい」と言うでしょう。

 面白いことに唯物論の代表自然科学の中の物理学(量子論)では、「物は人間と無関係に存在しているわけではない」と言います。原子や陽子という微少世界では、その微小粒子の動きを観測しようとすると、見ている人間の視線、つまり光によって動きが変わってしまう。よって、素粒子の正確な場所を特定できない。物が人間によって影響を受けていると言うのです。

 あるいは、数学のカオス理論に「バタフライ効果」というのがあります。
 とある場所で一匹の蝶が羽ばたいた。それは世界の動きに全く関係ないと思われている。ところが、そこから何千キロも離れた場所の天候にその羽ばたきが大きな影響を及ぼすというのです。
 一匹の蝶にそれが言えるなら、一人の人間がどう感じ考え、行動するか。その動きは遠く離れた地域の物事に影響を及ぼすと言えるでしょう。つまり、《外界のものごとは一人一人の人間と無関係に存在しているわけではない》ということです。

 さすがに一匹の蝶云々は言いすぎのような気がします。しかし、先進国や発展途上国の人々が文明の利器や石油・石炭の化石燃料を大量に使っている。それが地球を温め氷を溶かし、海水面を上昇させる。その結果遠く離れた太平洋に浮かぶ小さな島が海中に沈もうとしている。これは一人一人の行為が遠く離れたところに影響を及ぼす実例と言えそうです。

 自然科学は我々の心や見え方に関係なく物が存在すると見なさなければ、進化発展しなかったでしょう。我々には太陽は地球の周りを回っているように見える(もっと正確に言うと、太陽は東から現れて西に沈むだけと見える(^_^;)。けれども、科学は地球が太陽の周りを回っていると明らかにしました。科学が宇宙船をつくりだし、宇宙空間にぽっかり浮かぶ地球の姿を見せてくれることによって「地球は間違いなく丸い」とわかりました。もっと言うなら、我々はみな宇宙船「地球号」の乗員であることを教えてくれました。

 以上、観念論と唯物論について語りました。哲学用語の解説はここまでとして次号より『般若心経』について語ろうと思います。
 これまで「ないないない。なんにもない」と説く《空無》の『般若心経』は観念論として理解されてきました。
 「我々が見ているもの、聞いているものはない。目はなく、耳もなく、鼻も舌もない。ものごとはなく、身体も存在しない。あらゆるものは我々の心に映った像に過ぎないんだ」と。
 私はこの解釈が『般若心経』最大の誤解であり、誤読、誤訳であると思っています(^_^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:相変わらずのんびりした歩みで申しわけありません。この調子ではそのうち公開する予定の「般若心経講話」がさらにさらに先になる恐れが出てきました。そこで、一足先にホームページの方で公表することにしました。今月10日頃『般若心経の真実』と題してアップします。そちらはこの論文と違い、『般若心経』についてもっとわかりやすく、短く(^_^;)解説しています。ぜひご覧下さい。また、来月より毎月1日発行を10日発行に変更いたします。御影祐

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