四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 27

「山岳修行」その1


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第104 ―論文編 27号

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           原則月1回 配信 2016年 2月10日(水)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『三教指帰(さんごうしいき)』・『聾瞽指帰(ろうこしいき)』・現人神(あらひとがみ)・烙印(らくいん)・出挙(すいこ)・俯瞰(ふかん)・虚空蔵(こくうぞう)求聞持(ぐもんじ)法・金の嶽(かねのたけ)・金峰山(きんぷせん)・石鎚山(いしづちやま)・仮名乞児(かめいこつじ)・万葉仮名(まんにょうがな)・古神道(こしんとう)・渾然(こんぜん)一体・太龍山(たいりゅうざん)、南の舎心(しゃしん)岳・千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)・比丘(びく)・比丘尼(びくに)・沙門(しゃもん)・沙弥(しゃみ)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)
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 『空海マオの青春』論文編――第27「山岳修行」その1

 第27「山岳修行」その1 山岳修行の年代を確定する

 本論の前に、前四号のまとめ的余談から入ります(^_^;)。
 これまで空海マオが寺を離れ山岳修行に乗り出した理由について、僧侶個人と南都学問仏教への失望、大寺院の経済活動や護国仏教への異和感という観点で眺めてきました。

 マオには仁義忠孝の儒教という基本がある。当時の仏教界が「腐敗堕落している」との桓武朝廷の認識も知っている。それを受け、《新しい仏教創始》を目指して南都仏教――大安寺に乗り込んだ。このような下地があるからこそ、マオは南都仏教を批判的に眺めることができたのです。しかし、ひるがえって朝廷が目指している鎮護国家仏教もマオにとって目指す仏教ではありませんでした。
 もっとも、最後はある意味当然です。たとえば資本主義体制を採っている国に対して「資本主義は素晴らしい」と言ったり、キリスト教が多数派の国に対して「キリスト教の素晴らしさ」を力説しても、誰も「新しい主張だ、斬新だ」と思ってくれないでしょう(^_^)。資本主義体制下で社会主義を訴えたり、キリスト教徒が多数を占めるところで、イスラムとか仏教の良さを主張してこそ「新しさ」があります。

 しかし、空海の著書からこのような心理の流れとか観点を読みとることはできません。入唐帰国後はもちろん、書かれてしかるべき『三教指帰』にも書かれませんでした。
 私は書かなかった点に山岳修行に乗り出した理由を読みとろうとしました。以前書いたように時代の理屈や感情を調べ、その反照としてマオの内心を探ったのです。

 これ学術論文的には異端の方法でしょう。あるいは、刑事物ドラマで言うと、とうとうと推理を述べる刑事に対して、犯人と疑われた人間が「あなたの言うことは全て想像であり、状況証拠に過ぎない」と言うのに似ています(^.^)。
 本物の事件はしっかり直接的証拠を探してほしいけれど、文学作品・作家研究としては《書かなかった》ところに作家の深い理由を見てもおかしくないと私は思います。

 たとえば、昭和十年代の日本。国全体が「天皇を現人神として尊崇し、ひとたび戦争となれば、臣民は国のために命を投げ出し、全身全霊その目的に向かって生きるべきだ」とされた時代。多くの人がそれを当然と思っているとき、その体制や感情に異議申し立てをするのはとてつもなく難しいことです。
 反論すれば刑務所に入れられ、協力しなければ非国民の烙印を押されて差別、迫害される時代でした。多くの作家・芸術家が戦争に協力する作品をつくらざるを得ないとき、黙っていることがやっと自己の良心をほのめかせる生き方でした。日記でもあれば、その心中を知ることができます。しかし、なければわからないままです。

 空海マオが南都仏教に飛び込んだ頃、日本全体は鎮護国家仏教であり、大寺院は高利貸しのような出挙によって運営費を捻出しており、南都仏教は仏典より解釈仏典を信奉して「空無」についてあれこれ論じている。そして、一般の僧侶は葬式仏教で布施を稼ぎ、お経は読めるだけで中身を知らない……そのような時代でした。そのことを表向き批判できるでしょうか。しかも、仏教に入門してやっと一年ぺえぺえの人間が(^_^;)。
 ここでマオが選んだ道が沈黙だったと思います。彼は護国仏教について語らない。空無観についても語らない。ただ、仏教の基本だけを書いた。そして、「南都寺院内で研究しても、新しい仏教を生み出せない」――そう思って山岳修行に進んだのです。

 さて、ここからは今号の伏線的余談です(^.^)。
 そろそろお忘れではないかと思って書きますが、空海初の著書『三教指帰』には私小説的側面があることを論証しました。それはただ単に儒教・道教・仏教を対比して仏教の優位を述べただけでなく、空海自身の思想遍歴を語っている。それによって空海自身や周辺の事実が私小説のように露呈したと。ただし、完全な私小説ではなく、戯画化というコーティングが施されたとも。
 何を言いたいかと言うと、『三教指帰』に書かれた空海マオの来歴はかなり信頼できると言いたいのです。それは「阿刀」の名を出すなど「序」において顕著です。空海マオが「志学」すなわち数えの十五歳で上京したこと、「二九」すなわち十八歳のとき大学寮に入学したことは事実であった。さらに、「序」には仏教入門後山岳修行に乗り出したこと、二度の求聞持法百万遍修行に励んだこと、一度目は阿波の国太龍山であり、二度目が土佐の国室戸岬であることも書かれています。これもまた間違いのない事実と考えられる――それをまず言っておきたいと思います。
 そして、空海はなぜ百万遍修行を二度行ったのか、今号ではその謎解きにも挑戦いたします。


 ※ 「山岳修行」その1――年代を確定する

 さて、これからしばらく空海マオが山岳修行に進み、求聞持法百万遍修行を経て『三教指帰』を完成させたところまでを眺めていきます。私の考察結果も含めて仏教入門後の流れを俯瞰すると、以下のようになります。

・大安寺入門(十九歳)→仏教修行、儒教・仏教対比の『聾瞽指帰』草稿執筆→南都仏教に失望して山岳修行を決意。
・山岳修行開始→金峰山・石鎚山登拝→『聾瞽指帰』草稿に道教編と仏教編前半を付け加えて『聾瞽指帰』完成。
・太龍山南の舎心岳にて最初の求聞持法百万遍修行→室戸岬双子洞窟にて二度目の求聞持法百万遍修行、明星神秘体験を得る→『聾瞽指帰』の序を書き直し(本論はほぼそのままで)『三教指帰』と改題して発表(二十三歳十二月)。

 十九歳から二十三歳の年末まで正味五年。慌ただしく、また濃密な五年であったことがわかります。各項の詳細はこれからとして、本号ではそれぞれの年代(何歳の時の出来事か)を確定したいと思います。
 と言うのは、そもそも二度の百万遍修行は一体何歳のことなのか、いまだ確定していないからです。マオはそれらの体験の結果として『三教指帰』を完成させ公開しています。それゆえ、山岳修行(取りあえず)の終点が延暦十六(七九七)年十二月――すなわちマオ二十三歳の年末であることははっきりしています。しかし、それまでにいつ、どのような山岳修行に励んだのか、その年代はいまだ確定されていません。

 年代確定の前に、各項でこれまで登場しなかった語句について説明しておきます。一つは「金峰山・石鎚山登拝」、もう一つは「求聞持法百万遍修行」です。

 空海マオの山岳修行の中に「金峰山・石鎚山登拝」があることは『三教指帰』の中にあります。仏教編において私度僧「仮名乞児」が自らの来歴を語る中に「あるときは金の嶽に登って雪に降られ難渋し、あるときは石鎚山に登頂して食糧が絶え散々な目にあった」(福永光司訳)とあります。これもまた空海の事実だったと考えられます。

 この二つの山の名、原文では「金巖・石峯」となっていますが、空海の自注が万葉仮名によって書かれています。「金巖」には「加弥乃太気(カネノタケ)」、「石峯」は「伊志都知能太気(イシヅチノタケ)」と読みがふられます。
 「イシヅチノタケ」は現在でも修験の霊地として名高い四国石鎚山、「カネノタケ」は同じく修験の聖地、吉野の金峰山であることは間違いないでしょう。マオの山岳修行の中に金峰山・石鎚山登拝があったのです。

 石鎚山や金峰山は現在でも修験の修行場所として有名です。空海マオは仏教だから「修験道は違うのではないか」と言われそうです。しかし、当時の日本宗教が《習合》していたことを忘れてはなりません。つまり、古神道・修験道・道教・仏教がよく言えば渾然一体、悪く言えば「ごちゃまぜ」状態でした(^_^;)。山岳修行にはかたや古神道修行者、かたや仙人を目指す道教信者、そして仏教修行者たちが集まっていたはずです。

 次に空海マオが実践した求聞持法百万遍修行ですが、正式には「虚空蔵求聞持法」と言います。詳細は後日として簡単にその内容を説明しておくと、ある意味とても簡単です。それは次の真言を一日一万回、計百日間となえることです。

 のうぼう、あきゃしゃー、きゃらばや、おんありきゃー、まりぼりそわかー

 後日詳しく説明したとしても、実践に関してこれ以上の説明はありません(^_^;)。とにかく一日一万回この真言をとなえる。それをひたすら百日間続ける修行です。数の勘定は数珠を使うとのこと。「ある意味とても簡単」と書きました。しかし、これがいかに難しいか、そちらは追々語っていきたいと思います。

 ともあれ、一日も休まずやる場合は百日間――つまり三ヶ月強かかります。ときどき間が空いても構わないとすれば約四ヶ月から五ヶ月でしょうか。一説によると、修行の場所がお堂内の場合は壁に穴が開いており、「月を見ながら」とも言われます。しかし、本来は外で、明けの明星を見ながら行うのが基本のようです。虚空蔵求聞持法の「虚空蔵」とは虚空蔵菩薩のことであり、その化身・象徴が《明けの明星》だからです。

 空海マオの場合、一度目の太龍山南の舎心岳、二度目の室戸岬双子洞窟とも、修行の場所は東と南に開けており、明けの明星を見ながら行った――これははっきりしています。宵の明星は西の空に浮かぶので、舎心岳や双子洞窟から見ることはできません(舎心岳とは太龍山の東側中腹にある断崖の名)。

 そうなると、百万遍修行の第一原則はまず明けの明星の期間であること、もう一つは外でやる以上冬ではなく、春から秋に行われたと想像できます。
 現在滝行の中には冬に行われる場合もあるようですが、最も過酷と言われる延暦寺の千日回峰行は春から秋の数ヶ月実践されます。いろいろな意味で真冬に毎日、それも数ヶ月にわたって修行を続けるのは最初から想定されていないのではないでしょうか。それに明けの明星を見ながらだから、曇天の多い冬は避けたいところです。

 そこで、マオ十九歳(延暦十二年)から二十三歳までの五年間で明けの明星がどの時期にあったか調べてみました。ありがたいことに、ネット時代の現在、それが一発でわかるサイトをつくってくれた方がいます(^_^)。
 それによると、この五年間で明けの明星は以下の通りです。末尾の[ ]に宵の明星も入れました。また、○△×は春から秋にかけて百万遍修行が可能かどうかを示しています。

 年齢 明けの明星の   期間=可[宵の明星の期間]
 19歳  1月 1日〜4月 3日=×[4月から12月末]
 20歳  3月14日〜11月30日=[1月から2月末と12月](平安遷都794年)
 21歳 10月21日〜 12月31日=×[1月から9月末]
 22歳  1月 1日〜7月 7日=[8月28日から12月末]
 23歳  5月31日〜12月31日=[1月から5月18日]

 十九歳とは仏教入門の年です。その年の春から秋は宵の明星だから、百万遍修行はできません。もっとも、可能であったとしても、入門後は仏道修行、仏典研究、『聾瞽指帰』草稿執筆などが入るので、十九歳は最初っから除外されるでしょう。仮に仏教入門を大学寮入学一年後の十八歳としても状況は同じです(十八歳の明けの明星は8月10日〜12月31日だからできないことはない)。
 よって、この五年間で百万遍修行ができるのは二十歳、二十二歳、二十三歳の三回です。

 先ほど書いたように、マオは山岳修行に乗り出してから最低限「金峰山・石鎚山登拝」を体験しています。それを受けて『聾瞽指帰』草稿に道教編を加筆して『聾瞽指帰』を完成させました。十九歳から起算して仏道修行→『聾瞽指帰』草稿執筆→山岳修行に乗り出して金峰山・石鎚山登拝→『聾瞽指帰』完成。これに要する年月を最低でも一年から二年と考えると、二十歳のときに百万遍修行とは考えづらいところです。
 そうなると、結論として一度目の百万遍修行が二十二歳、二度目の百万遍修行が二十三歳とするのが妥当でしょう。

 ここで読者のつぶやきが聞こえます(^_^)。
「おいおい、空海は明けの明星の期間についてそんなに明確に知っていたかなあ」と。それに関しては後日として今は結論のみ書きますと、
「空海は知らなかったかもしれない。しかし、世話役というか百万遍修行には先達がいてその人はある年の明けの明星がいつからいつだと知っていたはず」と思います。

 それはさておき、問題は二十二歳の年の百万遍修行。この年は明けの明星が一月一日から七月七日までしかなく、暖かくなる四月の開始では休みなしでも百万遍に達しません。最低限三月半ばに始める必要があるし、曇天・降雨で明星が見えない日でも、真言をとなえねばなりません。
 しかし、私はむしろその点にこそ二十二歳が百万遍修行一度目だった可能性が高いと考えます。と言うのは最初の百万遍修行が失敗に終わった――感ずるものはあったけれど、物足りなかった。だから「もう一度やろう」と決意したのではないかと思うからです。

 これが空海マオがなぜ百万遍修行を二度行ったのか、その理由にもなります。
 二十二歳の明けの明星は一月一日から七月七日までです。三月半ば頃百万遍修行を始めれば、休みなしで六月末に百万回に到達します。ぎりぎり達成できるけれど、終盤は梅雨の季節に突入します。空が曇りがちだったり雨が降れば、明けの明星を見ることができません。それでも真言をとなえ続けねば百万回に到達しません。
 これでは何かを感得すると言うより、まるで仕事としてやっているかのようで、物足りなさを感じても不思議ではないでしょう。そこで「もう一度やり直そう」と決意したのではないか。

 翌年明けの明星は六月から年末までたっぷり七ヶ月あります。六月初めに開始すれば、最短の満願は九月半ば。雨天曇天で中断することが可能だし、毎回明星を見続けての修行でも問題なく百万回に達することができます。こうなると「明星が口中に入る神秘を得た」ことは充分うなずけるところです。

 かくしてマオは帰京後直ちに『聾瞽指帰』改稿に取りかかった。ところが、本論において書き直したいところがなかった。不思議に思いつつ、二度の百万遍修行によって何かしらの感得があったことだけは書き加えたい。それゆえ、序を大幅に書き換え、そこに百万遍修行体験を追加した。そして、十二月『聾瞽指帰』を『三教指帰』と改題して発表した――このような流れです。

 ここでもう一つ七九四年、空海マオ二十歳という年は明けの明星が四月から十一月まで輝いており、百万遍修行が問題なく実行できる年であった――この点に触れたいと思います。
 私はこの年マオが山岳修行に励んでいる最中、どこかで《百万遍修行を実践する修行者》を見かけたのではないかと推理しているのです。

 空海マオが求聞持法百万遍修行を誰に学んだか、これも明らかではありません。一般的には大安寺の勤操から学んだと言われます。が、空海の著書に勤操の名はなく、他の実名も出てきません。
 実名なんぞ出さなくて当然だろうと言わないでください(^.^)。先ほど述べたように、『三教指帰』には私小説的な事実が書かれているのであり、叔父阿刀の大足の名を出しています。その流れからすれば、百万遍修行を教えてくれた人が勤操なら、「勤操大徳」とか「大安寺の大徳」などと書かれて良さそうなものです。しかし、『三教指帰』の序には「ここに一人の僧侶がいて、私に虚空蔵求聞持法を教えてくれた」とあるだけで「勤操」と書かれていません。これわざと匿名にしたと思われがちですが、私はむしろ《事実を書いた》と見ています。

 と言うのはこの「一僧侶」、原文では「一沙門」となっているからです。訳せば確かに「一人の僧呂」となります。
 しかし、もしもその人が正式な僧で、なおかつ匿名にしたいのなら、ここは「一比丘(びく)」と書かれるべきです。
 当時具足戒を受けた正式な得度僧は「比丘」(尼は比丘尼)と呼ばれ、修行僧(私度僧)の場合は「沙弥・沙弥尼」と呼ばれました(他に「優婆塞・優婆夷」も在家信者)。つまり、「沙門」とは出家した僧でなかった、私度僧である可能性が高いのです。
 私度僧なら小説やドラマでは「名もなき」と冠がつけられるでしょう。すなわち、「一沙門」とは「名もなき一人の私度僧」と解釈できるのです。

 そこで私が描いたマオと求聞持法百万遍修行との出会いは以下のようになります。

 ときは延暦十三年、世の中が平安遷都で浮かれているとき、二十歳となったマオは修行仲間と吉野か四国の山中にいた。深夜か未明、彼は遠くから流れてくる不気味な声で目を覚ます。不思議に思って月明かりの下、声の出所を探りに行く。すると、東に開けた断崖の突端で求聞持法の真言をとなえる一人の私度僧を見出した……そのような情景です。
 そのとき初めてマオは百万遍修行を知った。空に浮かぶ月と明星を眺め、マオは「このような修行があるのか」と心に留めた。修行者から百万遍修行の内容を詳しく聞いた可能性も高いと思います。そこで別れて以後再会することがなかったなら、「百万遍修行を学んだのはある私度僧だった」と書くでしょう。

 よって、十九歳から二十三歳までの五年間をまとめると以下のようになります。
 [仏教入門から『三教指帰』完成まで]
 1 大安寺での仏教修行、儒教・仏教対比の『聾瞽指帰』草稿執筆。
   南都仏教に失望して山岳修行を決意。[十九歳〜]
 2 山岳修行開始。金峰山・石鎚山登拝後『聾瞽指帰』草稿に道教編と仏教編前半を付け加えて『聾瞽指帰』完成。
   二十歳のとき山中で百万遍修行に励む私度僧と出会う[二十歳〜二十一歳]
 3 太龍山南の舎心岳で最初の求聞持法百万遍修行。[二十二歳]
 4 室戸岬双子洞窟で二度目の求聞持法百万遍修行。明星体験。[二十三歳]
 5 『聾瞽指帰』の序を書き直し(本論はほぼそのままで)『三教指帰』と改題して発表(二十三歳十二月)。

 マオは室戸岬双子洞窟において明星が口中に入る神秘体験を得ます。しかし、このときのマオは百万遍修行体験の意味をわかっていたかどうか。私はわかっていなかったのではないかと推理しています。なぜなら、百万遍修行を本編である「仏教編」に入れていないからです。この密教的芽生えとも言える体験の意味がわかるのはもっと後になってからではないか。しかし、「この体験にはとても重い意味がある。それだけはわかる」と感じた。だからこそ「序」に入れた。「阿国大滝嶽」によじ登り、「土州室戸崎」に「勤念」したと。
 そして、「谷不惜響、明星来影」と書きました。――谷響きを惜しまず、明星来影す
 こうして延暦十六年十二月、『聾瞽指帰』を改稿、『三教指帰』として完成させたのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:「万葉仮名」の解説を少々。万葉仮名とは漢字の音を使って表記された日本語です。古代日本でカタカナ、ひらがなが生まれる前は漢字を使って日本語が表記されました。特に『万葉集』が有名でこの名が付いています。ちなみに、万葉仮名の読みは「まんようがな」が一般的です。しかし、大学時代の一教授からお聞きした「《ん》の後のヤ行は拗音の《ゃ・ゅ・ょ》になるから『まんにょうしゅう』と読んだはずだ」との説に従って「まんにょうがな」とふりました。たとえば「陰陽師」が「おんようじ」ではなく「おんみょうじ」と読むようなことです。この現象、国語学的には「連声(れんじょう)」と言います。

 明けの明星、宵の明星についても少々。私はずっと明けの明星と宵の明星は一年間に半年ずつ出現するものだと思っていました。ところが、実際は一ヶ月前後の空白をはさんで八〜九ヶ月の間明けの明星であったり、宵の明星であったりするのです。
 ある年の実態を知りたい方は以下のサイトをご覧下さい。年号を打ち込むと、その年の明けの明星・宵の明星の期間がわかります(制作者のお名前不明)。 ↓「宵の明星,明けの明星」
    http://www.star.gs/cgi-bin/scripts/wakusei_i.cgi

 以上です。来月はわけあって休刊といたします。m(_ _)m
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