四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 33

「仏教回帰」その3


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第110 ―論文編 33号

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           原則月1回 配信 2016年11月10日(木)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・貪瞋癡(とんじんち)・貪(むさぼ)る・蚤(のみ)・永劫(えいごう)・讒言(ざんげん)・厭(いと)い悔(く)いる・嫉(そね)み・誹謗(ひぼう)・汚辱(おじょく)・鋸(のこ)・鑿(のみ)・殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・綺語(きご)・瞋恚(しんに・しんい)・兜卒天(とそつてん)・無色(むしき)界・色(しき)界・欲(よく)界・他化自在天(たけじざいてん)・化楽天(けらくてん)・焔摩天(えんまてん)
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 『空海マオの青春』論文編――第33「仏教回帰」その3

 第33「仏教回帰」その3  六道「人間界」について

 前号では六道のうち天界・修羅界について詳しく眺めました。今号は六道の上から二番目に位置する我ら人間・人間界について『三教指帰』の解説を眺めたいと思います。

 まず六道を再掲します。
 《六道》[迷いの世界]
 1 天人界……仏教を弘布・守護する天人が住む
 2 人間界……貪瞋癡に苦しむ人間が住む
 3 修羅界……仏教を守護し闘い続け、負け続ける阿修羅が住む
 4 畜生界……人に使役される牛馬が住む
 5 餓鬼界……常に飲み物食べ物を求めて得られぬ餓鬼が住む
 6 地獄界……各種地獄で責め苦を受ける罪人が住む

 空海マオは貪瞋癡にとらわれ苦しむ人間について仏教編の中で解説しています。これはマオ独自の見解と言うより、仏教が説く一般的な人間観でもあります。

 空海マオ――仏教は人間を魚や動物にたとえ、主としてその内面(本質?)を次のように説明します。(引用は福永光司訳)

 いわく「貪欲なもの、怒りっぽいもの、ひどく愚かなもの、ひどく欲ばりなものがおり、〜この大魚は泳ぐかとみれば海中に沈み、心の動きが気まぐれで財物を貪るかとおもえば飲食を貪り、性根がねじまがっている。〜欲が深くて、将来の災いなど念頭になく、鼠のように蚤のように貪りくらって、あわれむ気持ちも可哀そうだと思う気持ちもない。誰もみな永劫の時間にわたる輪廻の苦しみは忘れ果て、ともどもにこの世かぎりの出世と幸福だけを望んでいる」と。

 さらに、鳥類にたとえて「へつらいだますもの、讒言しおもねるもの、そしるもの、悪口をいうもの、おしゃべり、どなりちらすもの、人の顔色をうかがうもの、くよくよと厭い悔いるものなどがあり、翼をととのえて道にはずれた方向に飛びたち、高く羽ばたいて気楽なところに飛んでゆく」とも言います。

 また、その他の動物にたとえて「おごりたかぶりと腹だち、ののしりと嫉み、自己賛美と他人の誹謗、遊蕩放逸と恥知らずの厚顔、不信心、無慈悲、邪淫、邪見、憎悪と愛着、栄誉と汚辱、殺し屋の仲間、闘争内紛の一味などがあり、外見は同じでも心はさまざま〜鋸のような爪、鑿のような歯をもっていて慈愛の心などほとんどなく、穀物を餌とする」など人間についてさんざんな評価です。

 そして、人間とはこのような動物であるから十悪を犯すと続きます。
「十種の悪業の沢辺で羽ばたきする。〜飛んでは鳴いて眼前の豊かな生活にあくせくし、生まれては死んで未来の苦の果報を忘れる」と。

 十悪とは次のような十ヶの悪しき行いです。
 ・殺生(生き物を殺す)
 ・偸盗(ものを盗む)
 ・邪淫(よこしまな恋情を抱く)
 ・妄語(うそをつく)
 ・綺語(見栄を張って飾り立てた言葉をはく)
 ・悪口(人の悪口を言う)
 ・両舌(二枚舌を使う)
 ・貪欲(あらゆるものを必要以上に求める)
 ・瞋恚(激しい怒りや恨み、憎しみを持つ)
 ・邪見(誤った見方、考え方にらわれる)

 さて、ここまで読んでみなさんはどう感じたでしょうか。
 先に私の感想を言わしてもらうと、仏教って「どうしてこんなにも人間の負の側面ばかりを強調するのだろう」と思います(^_^;)。

 四苦八苦もそうでした。人として生まれ、人として生きる苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみ――すなわち「生老病死」の四苦を強調し、生きるにあたって日々起こる四つの苦しみを指摘します。愛する人と死別・離別しなければならぬ愛別離苦(あいべつりく)。いやなやつと日々会わなきゃならぬ怨憎会苦(おんぞうえく)。欲しいものがたくさんあるのに求めて得られぬ求不得苦(ぐふとっく)。
 最後にそれらを苦しいと感じてしまうのは人が生きて活動し感じる心があるから。すなわち、人間活動が盛んなるがゆえの苦しみ――五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦。

 人生には喜びや楽しみもあるのに、仏教の人間観は苦しみと悪しき人間像だけを見つめるかのようです。人間を性善説・性悪説で分けるなら、仏教は明らかに性悪説でしょう。「人を見たら泥棒と思え」にも似ています(^.^)。仏教は慈悲を説くのに、かくも悲しい人間観に基づくとは不思議です。

 もっとも、それゆえ仏教は人間の悪しき面を正し、より良い人間になるために「仏教を信仰しなさい、その教えに従って正しい生活を送りなさい、善行を積みなさい」と説くわけです(詳細は後日)。
 これは逆に言うと、「仏教に基づく生活を送らなければ、人は良い人間にならない」と主張するのと同じでしょう。

 余談ながら、この考え方は仏教にとどまらず、キリスト教やイスラム教など《全ての宗教》に共通した発想でしょう。宗教だけでなく、資本主義・自由主義に民主主義、社会主義や共産主義、独裁主義など全ての《主義》に通じる発想でもあります。

 よって、その宗教や主義を正しいと信じる人たちは国内を、世界を我が宗教、我が主義で覆い尽くそうとします。卑近なことわざに「類は友を呼ぶ」があります。これは同質等質の人間が集まれば友だちになりやすいということであり、異質の人間はそのままではなかなか仲良くなれない。ゆえに、全人類が同じ主義、または同じ宗教の下で一つにまとまるべきだ。そうすれば、世界から悪と争いがなくなるはず――と言うのです。
 我が主義が正しいという人、我が宗教を人に勧める人はそれを信じて活動に励んでいるようです。宗教指導者はもちろん、各国のリーダー、政治家もそう思っている人が多いでしょう。

 しかし、私は思います。そもそもこの発想そのものが間違っているのではないかと。世界を我が宗教、我が主義で覆い尽くそうと考えることがかえって世界中に争いを引き起こしているのではないでしょうか。

 このように思う根拠は単純です。人類が誕生し、やがて社会生活を送るようになり、宗教が生まれ、主義が生まれて数千年。人類はかつて一度も一つの宗教が世界を覆い尽くしたことがない。近代以後一つの主義が世界を覆い尽くしたこともない。宗教と主義は人の悪行も集団間の戦争もやめさせることができなかった。むしろ、対立する宗教・宗派間、主義対主義、主義対宗教など、異質間の戦争はより激しく悲惨になっている気がします。……

 ちと脇道が過ぎました。私は仏教や空海について論じながら、宗教と主義に対してとても懐疑的なのです(^_^;)。

 閑話休題、六道に戻ってその意味を考えてみましょう。

 六道のごく一般的な解釈は生と死の対比による輪廻転生です。つまり、人が死んだら生まれ変わる世界とされます。人は「善行を積めば天人界に生まれ変わり、悪行を積むと畜生や餓鬼として生まれ変わる。悪行が残酷で非道な場合は地獄に堕ちる」として人が死後生まれ変わるお話と見なされています。よって、死後の世界なんぞ信じられない唯物的人間は「輪廻転生なぞありえない、地獄は存在しない、作り話だ」と言うでしょう。

 かつて多くの人が地獄・極楽の存在を信じた時代もあります(と言い切っていいかどうか疑問ですが、とりあえず「信じていたであろう」としておきます)。今の世で「悪いことをしたら地獄に堕ちるぞ」との言葉を信じる人は少ないでしょう。
 幼稚園とか小学校低学年のいたずら坊主なら有効かもしれません。高学年になると「へーん。地獄なんかないよ〜」とあっかんべーされそうです(^.^)。
 ただ、妙なことに「地獄はない、人間の空想だ」と言いつつ、幽霊の存在とか魂はあると信じ、(地獄かどうかは別にして)死後の世界が存在すると信じる人は結構いるようです。

 六道には別の見方も存在します。六道とはつまるところ「総体としての人間・人間界」を語っているというのです。
 たとえば、四苦八苦、喜怒哀楽という観点から六道を眺めると、以下のようになります。
 《苦と喜怒哀楽の六道
 1 天人界……死の間際まで苦しみはなく、日々怒りや哀しみもない。あるは歓喜と快楽ばかり。
 2 人間界……生老病死の苦しみがあり、日々怒りや哀しみがあるが、喜びや楽しみもある。
 3 修羅界……闘いの連続ゆえ喜び・楽しみはなく怒りと哀しみしかない。
 4 畜生界……人に使役される牛馬に喜怒哀楽はない。
 5 餓鬼界……飲み物・食べ物を求めて得られぬ苦しみと哀しみしかない。
 6 地獄界……罪を償うための苦痛しかない。

 牛馬に喜怒哀楽の感情がない――とは言い過ぎかもしれません。丹精込めて育てた食肉用の牛は屠殺場への車に乗るのをいやがって悲しい声で泣くと言います。馬は笑うと言うし、競馬場でゲートに入ろうとしない馬のお尻をつつくと、後ろ足を跳ね上げます。あれ、きっと怒っているのでしょう(^_^)。
 とは言え、まー人間以外の動物の感情はわかりません。六道界の中では人間だけに全ての感情があります。それこそ五蘊盛苦です。

 また、人が生まれた境遇や環境、その後の生き方という観点から六道を眺めることもできます。
 《人生としての六道
 1 天人界……裕福な家の子として生まれ育ち、金持ちとして何不自由なく生きる人生。
 2 人間界……ごく普通の家の子として生まれ育ち、可もなく不可もなく、苦しみはあるが喜び楽しみもある、ごく平凡な人生。
 3 修羅界……貧富に関係なくどんな手段を使っても闘いに勝って金持ちを目指す人生。
 4 畜生界……貧しい家に生まれ育ち、こき使われて働くしかない人生。
 5 餓鬼界……貧しい家に生まれ育ち、あれがほしいこれがほしいと思ってかなわぬ人生。
 6 地獄界……貧乏であれ、金持ちであれ、親から虐待されて苦痛しか感じない人生。

 富裕層は人類の1パーセント以下ですから、私も含めて多くの人は普通か貧乏な家の子として生まれます。子ども時代、金持ちの子がおもちゃなどをたくさん持っているのを見て「あの家に生まれたかったなあ」と嘆息をもらした人は多いのではないでしょうか(^.^)。

 六道を人生として見ると、生まれ変わらなくとも現世で天人になる人が現れます。つまり、粉骨砕身働いて出世したり実業家になったり、類まれなる能力を発揮して芸能人、芸術家、アスリートになり、プール付きの豪邸に住む人たちです。六道とは人間や社会の縮図であるとも言えそうです。

 このように理解すると、前号に疑問として提示した「天人は仏教を弘布し守護する存在であるのに、どうして迷いの世界である六道なのか」の答えがわかります。
 裕福な家に生まれ育ち、何不自由なく暮らしている人がみな幸福かと言えば、そうとは言えないでしょう。貧乏人には貧乏人の、中流には中流の苦しみがあるように、金持ちには金持ちの苦しみと喜怒哀楽があると思います。

 富裕層と付き合った経験がないので、なんとも言えないのですが、どんな金持ちだって年を取るし病気になる。小国の国家予算並みの資産を持ったとしても、死後の世界に持っていくことはできない。息子や娘に欲しい物を何でも買い与えていたら、横柄でろくでもない人間になったと嘆く話は枚挙にいとまありません。少なくとも、天人が死の間際、地獄の十数倍もの苦しみを感じるというのは納得できます。

 年を取って寝たきりになった。何億、何十億の金を持っているのに、もう動けない。かつて絶世の美女とうたわれた人も老醜をさらすと人前に出ようとしない。「健康な身体がほしい、老いはいやだ、死にたくない!」との思いは富裕層ほど切実でしょう(^.^)。
 また、天人のような富裕層が仮に仏教信者であったとしても、彼らがすなわち解脱した菩薩や仏とはとても言えないでしょう。天人はやはり六道の一員なのです。

 最後にもう一つ、天人界は三界に分かれることを説明しておきます。
『三教指帰』の中に「兜卒天」が出てきます。仮名乞児は仏陀の後継者となった弥勒の即位を祝うべく「旅支度をととのえて出発した。昼夜晴雨にかかわりなく、弥勒の首都兜卒天に向かうところである」と。弥勒菩薩は兜卒天に住んでいるというのです。

 天界は「無色界・色界・欲界」の三界に別れており、兜卒天は最下層である欲界の中にあります。各層の説明は以下、ネット事典「ウィキペディア」をそのまま引用します。

 ・無色界……欲望や色(肉体や五感などの物質的世界)から超越した、精神のみの世界
 ・色 界……欲望からは解放されたが、色(肉体や五感などの物質的世界)はまだ有している世界
 ・欲 界……欲にとらわれた世界

 欲界はさらに六つに分かれており、六欲天と呼ばれます。
 ・他化自在天
 ・化楽天(天魔が住む)
 ・兜率天(弥勒菩薩が住む)
 ・焔摩天
 ・トウ利天(帝釈天が住む)[トウの漢字はりっしんべんに刀]
 ・四天王天(四天王が住む)

 弥勒菩薩はこの兜卒天に住んで、修行に励んでいるというのです。
 以前「弥勒菩薩は釈迦入滅から五十六億七千万年後の未来に、仏となってこの世に現れる」と書きました。なぜ五十六億七千万なのか不明でしたが、ネット事典によって数字の意味がわかりました。

 そもそも天人は人間の1年を1日としてそれぞれ寿命が定められています。兜卒天の1日はもっと長く、人間の四百年に相当するというのです。弥勒の寿命は四千年であり、生まれ変わるまでに4000×400×12×30=五億七千六百万年かかる。よって、本来なら六億年弱で下界に現れてもいいのに、なぜか後代になって五十六億に入れ替わったとのことです。
 五十六億に比べれば、五億は短いような気がします。しかし、恐竜の生誕から絶滅まで約二億年だから、五億でも長すぎますね(^.^)。

 天界がなぜ三つに分かれているのか、その詳細は勉強不足ゆえ、また『三教指帰』においても詳しく語られていないので、ここまでといたします。興味のある方はご勉強下さい。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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