四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 36

「仏教回帰」その6


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第113 ―論文編 36号

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           原則月1回 配信 2017年 2月10日(金)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字(今号は本文中にかなりふりがなを付けています)
・六度万行(ろくどまんぎょう)・七覚支(しちかくし)・四念処(しねんじょ)・施(ほどこ)す・瞋恚(しんに)・従容(しょうよう)・厳(おごそ)か・観想(かんそう)法・止観(しかん)・筏(いかだ)・煩悩(ぼんのう)・棹(さお)・静慮(じょうりょ)・忍辱(にんにく)・威(おど)かし・究(きわ)める・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)
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*********************** 空海マオの青春論文編 *********************************

 『空海マオの青春』論文編――第36「仏教回帰」その6

 第36「仏教回帰」その6  極楽に行くための「六度万行・七覚支・四念処」

 前号では六道輪廻を脱して極楽に行くため、人が守るべき「十善戒」、そして正しい道を歩みなさいと説く「八正道」について触れました。もう中身をお忘れでしょうから再掲しておきます(^_^)。

 《十善戒
 ・不殺生(ふせっしょう、生き物を殺さない)
 ・不偸盗(ふちゅうとう、ものを盗まない)
 ・不邪淫(ふじゃいん、よこしまな恋情を抱かない)
 ・不妄語(ふもうご、うそをつかない)
 ・不綺語(ふきご、見栄を張って飾り立てた言葉をはかない)
 ・不悪口(ふあっこう、人の悪口を言わない)
 ・不両舌(ふりょうぜつ、二枚舌を使わない)
 ・不貪欲(ふどんよく、あらゆるものを必要以上に求めない)
 ・不瞋恚(ふしんに、激しい怒りや恨み、憎しみを持たない)
 ・不邪見(ふじゃけん、誤った見方、考え方にとらわれない)

 《八正道
 1 正 見(しょうけん、正しく物事を見る)
 2 正思惟(しょうしゆい、正しく物事を考える)
 3 正 語(しょうご、正しい言葉を使う)
 4 正 業(しょうごう、身口意の三業を正しくととのえる)
 5 正 命(しょうみょう、正しい仕事をする)
 6 正精進(しょうしょうじん、正しく励み精進する)
 7 正 念(しょうねん、仏道を常に心に思い念ずる)
 8 正 定(しょうじょう、上記全てをととのえて心身を安定させる)

 この十善戒と八正道、儒教(道徳)の仁義忠孝とかなり重なります。儒教で有名な「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」との格言は、孔子が「仁(じん)や恕(じょ)の眼目は何か」と聞かれたときの言葉です。孔子は道徳の根本は《思いやり》であり、それは「自分がしてほしくないことを人にしないことだ」と答えました。

 たとえば、自分が殺されたり、自分の物を盗まれたり、うそをつかれたり、悪口を言われるのはたまらない。いじめられるのは死にたいほどの辛さであり、事実自殺する人も多い。だから、人のいやがるようなことをするべきではない……十善戒は儒教・道徳とかなり重なっています

 これらの戒めは儒教・道徳国家であり、ときに仏教国家でもあった中国・韓国・北朝鮮・日本など東アジア諸国で広まった教えであり、今も家庭や学校で大人から子どもへと受け継がれています。集団生活を営むに当たって最低限のエチケットやマナー、基本的ルールとして反論しようのない教えでしょう。

 しかし、ならばなぜ世の中はこの教えが実行されないことが多いのか。むしろ近年「自分がしてほしくないことを人にして平気な人間」が増えている気がします。
 たとえば、いじめはなくならないし、パワハラ・セクハラもなくならない。人の上前はねてうまい物食うやから。愛してくれない相手を傷つけ殺す。自国のために敵と見なした国の人間を拉致する。領土を巡っていつ戦争が起こってもおかしくない状態になっている等々。

 東アジア諸国の大人や一部の子ども、国のリーダーもこの教えを実践しているように思えない、そう感じるのは私だけでしょうか。
 誰もが「大切なのは思いやりであり善行だ」と言うでしょう。だが、いざ実行するとなると、その思いや戒めは雲散霧消する。それは一体なぜか。
 ――と大上段に構えた問題提起はここまでとして本題に入りたいと思います(^_^)。

 ただ、最後の問いに対する私の答えは以前も書きました。
 人のいやがることをするな、との言葉は所詮《理屈》に過ぎない。お題目と同じ。理屈は感情と一体にならない限り、心から湧き出る思い・心からの行動として表れない。ゆえに、その理屈が感情として身に付いていない人は、人のいやがることをする……と私は思っています。

 さて、こうしたモラル低下の状況は現代だけでなく、空海マオが生きた時代も同じだったようです。空海は『三教指帰』の中で十善戒を実践することはとてつもなく難しいと認めています。
「『五戒』すなわち不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五種の戒めによる悟りの世界への小舟も荒波に漂わされ」、「十種の善行による精進の車も強大な邪悪の力に引きずられて悪魔鬼神の近くへと、音すさまじく駆けてゆく」と。

 ではどうするか。空海は次のように言います。
「されば『勝身(しょうしん)』すなわち仏道をめざすすぐれた心を悟りの因として夕べに起こし、『最報』すなわち最上の報いをその因の果として朝(あした)に仰ぎ求める」べきである。それを「しないかぎり、果てしない生死(まよい)の海をその根底から引っこ抜き、偉大な仏の悟りの境地に到達することは、なにびとにも不可能なのである」と。
 要するに、十善戒や八正道の根底に悟りを目指す仏道を置くべきだというのです。

 これは八正道の七つ目「正念(仏道を常に心に思い念ずる)」を言い換えていると思われます。つまり、十善戒や正しい生き方を道徳的に実践するだけではいずれ挫折する。徳目として「これをするな、あれをするな」とか、「これをしなさい、あれをしなさい」と言うだけでなく、根底に悟りを目指し、六道輪廻を脱して極楽浄土を目指す意志というか、心がけが必要だと言うのです。

 その上で空海――仏教は極楽へ行くためには十善戒・八正道だけでは足りない。さらに「六度万行」・「七覚支」・「四念処」が必要だと言います。

 まず「六度万行」ですが、これは六波羅蜜(ろくはらみ)とも言われ、京都にある六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の由来となった言葉です。

 《六度万行――六波羅蜜》
 1 布施(ふせ、困っている人に施しをしたり助けたりする)
 2 持戒(じかい、うそをつかず、言行を一致させる)
 3 忍辱(にんにく、我慢と忍耐を心がける)
 4 精進(しょうじん、何事も努力する)
 5 禅定(ぜんじょう、心を静め反省する)
 6 智慧(ちえ、六度万行を実践する)
      注……禅定は『三教指帰』の注では「静慮(じょうりょ)」

 八正道と重なっていますが、「布施」は初登場の言葉です。よく法事でお経をとなえてもらったお坊さんに「お布施」としてお礼を差し出します。それが有名ですが、ここで言う布施とは「困っている人がいたら助ける」と理解していいと思います。

 六度万行で特徴的なことは八正道同様肯定形の表現になっていることです。
 十善戒が「あれをするな、これをするな。貪欲・瞋恚など思うな、感じるな」と否定形の戒めなのに対し、六度万行は同じような内容ながら、「これをしなさい、あれをしなさい」と肯定形で呼びかけています。我慢と忍耐を心がけ、努力精進して困っている人を助けなさいと。

 儒教道徳が説く「自分がしてほしくないことを人にするな」も否定形でした。同内容で正反対の表現がキリスト教の聖書にあります。それは「自分がしてほしいことを人にしなさい」という言葉です。
 人として認められ、尊敬され、愛されることはとても気持ちがいい。ならば、それを人にしてあげなさい。内容は同じでも肯定で言うか、否定で言うかはかなり違って感じられます。

 自分が困っているとき、誰であろうと助けられることはこの上なくうれしい。感謝の気持ちが芽生え、いつか恩返しをしたいと思う。ならば、困っている人を見かけたら、可能な限り助けましょう――これは肯定形の教えです。十善戒に言う否定形の教えは儒教道徳に限りなく近いけれど、六度万行は聖書に近いと言えそうです。

 そうなると、仏教とは一体何ぞや。思いやりの儒教・道徳に近く、愛のキリスト教にも近いとなって「仏教の独自性は?」と聞きたくなります(^.^)。
 これもまたいずれ論じることとして取りあえず「七覚支」・「四念処」について解説します。

 極楽に行くための七覚支。これは「七覚」とも言われ、ネット事典には「悟りに至るための道程であり、修行の段階でもある」とあります。内容は以下の通り。

 《七覚支
 1 念覚支 (ねんかくし、気づき、心で今の瞬間の現象を自覚すること)
 2 択法覚支(ちゃくほうかくし、法の中から真実のものを選ぶ)
 3 精進覚支(しょうじんかくし、努力する)
 4 覚支 (きかくし、喜びに住する)
 5 軽安覚支(きょうあんかくし、心身に軽やかさ・快適さを感じる)
 6 覚支 (じょうかくし、心が集中して乱れない)
 7 覚支 (しゃかくし、対象にとらわれない)

 123は八正道の正念・正思惟・正語・正業・正精進の実践であり、それを自覚・認識することであると言われます。つまり、ここでのポイントは「覚」にあるようです。自覚の《覚》であり、覚悟・覚醒の《覚》でもあります。

 意外と知られていないようですが、自覚とは本来仏教用語であり、「覚」は訓読みだと「覚る」――すなわち「悟る」とつながります。それゆえ七覚が悟りに至るための七つの道程と言われるのでしょう。「覚る」と「悟る」を足せば「覚悟」です。

 ネット事典によると《覚悟》とは「危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること」とあります。「苦労は覚悟の上だ」などと使われます。これが仏語では「迷いを脱し、真理を悟る」の意味になります。
 しかし、両者は別物ではなく、一般的に使われる覚悟には仏教用語としての意味がこめられているようです。
 ここらに「悟り」とは何か。その意味も含まれている気がします。それは危険なこと、困難なこと、不利なこと――つまり本当は受け入れたくない、いやなことも《受け入れる》ということです。

 以前「修行者が悟ったかどうか、どうやってわかるのだ。悟り試験でもあるのか」といちゃもんつけました(^.^)。そもそも「悟り」とは何か、わかっていないではないかと。

 ここに一つの答えがあります。悟りとは覚悟であり、それは要するに、どうにも受け入れがたいことを静かに受け入れること――と言えるのではないでしょうか。つまり、全てを肯定して受け入れる全肯定です。私は「悟り」の最終境とは《全肯定》であると考えています。

 もう一つ、以前同じ天人なのに、菩薩はすでに仏であると言われ、一般天人とは一段違う存在と見なされている。では、一般天人と菩薩の違いは何なのか、とこれも問題提起しました。
 そのとき「推測するに、すでに仏であるなら、弥勒菩薩は天人最後の五衰現象など苦痛とは感じず、人間として生まれ変わることもいやだなどと思いもしないのでしょう。もしかしたら、そこが天人と菩薩を分けている違いかもしれません。一般天人は五衰現象を苦痛と感じ、生まれ変わる世界に不安や嫌悪、恐怖を覚える。だが、菩薩は従容としてその全てを受け入れ、心乱れることはない」と書きました。
 悟りを得ることが菩薩・仏になる条件なら、良いことも悪いことも全て静かに受け入れる――それが《悟り》であり、菩薩や仏はそれができた存在であると言えないでしょうか。悟りの正体は《全肯定》なのです。

 しかし、もうずっと前から書いているように、《全肯定》はとてつもなく難しいことです。空海論文編の初めに書いた部分を再掲します。
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 あらゆることを――いやなことも辛いこともあわせて全て肯定できる。それも理屈として肯定するだけでなく、感情でも肯定できる。つまり、心から「これでいい」と納得して許せる。それが密教最終境なのです。
 もっと現代風に言うなら、いじめられても、親から虐待されても、友人から裏切られても、失恋しても……それを肯定できる。仕事で辛いことがあっても、セクハラ・パワハラを受けても、差別されても、迫害されても、大病を患っても、事故で片腕を失っても、レイプされても……それを肯定できる。あるいは、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺されたり、戦争や災害で失っても……それを肯定できる。
 それも理屈として肯定するのではなく、心から肯定して許せる。これこそ密教最終境です。
 このように書くと、《全肯定》とは簡単な言葉ながら、この境地に達するのは相当難しいことがわかると思います。普通の人にはほとんど不可能とさえ思えます。
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 ここでは全肯定=密教最終境として書きました。しかし、実は全肯定=悟りであり、それは仏教が《最初から》説いているところなのです(と私は理解しています)。

 お坊さんや仏教学者に「悟りとは何ぞや?」と聞けば、多くの人は「奥深く神秘的な境地としてとても一言で言えるものではない」と厳かに答えるでしょう。

 どうしてそんなにも仏教を難しく神秘的なものにしたがるのでしょうか。
 こう答えればいいのです。
悟りとは全てを受け入れることができる境地ですよ」と(^_^)。

 ちょっと脇道に(でもかなり本質的なところ)に逸れたようです。
 本題に戻って七覚支・四念処について解説を続けます。

 たとえば、十善戒・八正道・六度万行の生き方を実践しようと決意する(とします)。その決意は果たして何日続くでしょうか。三日坊主の言葉もあります。
 たとえば、大晦日に「来年は禁酒するぞ」と決意する。ところが、元日のお屠蘇を前にして「この程度ならいいだろう」と言い、夜には「正月くらいは」となって三日目以降いつものように晩酌に励んでいる(^.^)。「うそをつくのはやめよう」も一日で無理だと知る。「今年は何事もがんばるぞお」も気づいたら、いつものようにだらしなく生きている。

 そこで必要になるのが《自覚》。自分の状態をしっかり認識して自覚せよというのです。
 要するに、七覚支とは十善戒・八正道・六度万行の生き方を実践する際、その都度「覚支」――気づきと言うか、自己の状態を自覚しなさいというのです。
 そうすることによって八正道の生き方を継続できるし、さらに素晴らしい効能も得られる。それが4以下の「喜・軽安・定・捨」だと言うのです。

 正しい生き方を実践していくと、次第に貪欲、怒り・憤りなど瞋恚(しんに)の感情が薄れていく。すると、4喜覚支――喜びが湧いてくる。生きていることが楽しくて嬉しくて仕方ない感覚でしょう。次には5軽安覚支――心や身体が軽くなって安定する。つまり、めんどくさいと思うことがなくなり、なんでも軽々とできるようになる。

 そうすると6定覚支――安定して物事に集中できる。あれが気になる、これも気になって集中できない不安定な状態ではなく、やり始めたことにじっくり集中できる。結果、そのことを深く鋭く洞察でき、味わうことができるようになる。その都度自分の心や体の状態を自覚する。「おっ、今日は心が軽いな」とか「落ち着いているな」などと。

 これらの道程を経て最後の7捨覚支に至る。もはやちょっとしたことでは動じない。何事も公平に平等に見つめることができるようになる……。
 「捨」とは正しく「捨てる」でしょう。悩みは重い。苦しみも重い。心が重くなれば身体も重い。それらが軽くなるとはつまり、悩みや苦しみが捨てられ(消すことはできなくとも小さくなり)、身も心も軽くなることを意味しているのでしょう。

 ここらに来ると《悟り=全肯定》の正しさも見えてきます。何事も公平に平等に見つめ、受け入れられるようになると言うのですから。
 ただし、心から受け入れねばなりません。口で「許す」と言っても、心から許していなければそれは全肯定と呼べないでしょう。

 正しい生き方をしているつもりでも、思いがけず人を傷つけたり、さらりとうそをついたり、自分に害が及びそうなときは見て見ぬ振りをしたりする。困っている人を見かけても、忙しいからとか自分は部外者だからと、そのまま通り過ぎる……。
 ときに十善戒を破り、ときに正しい生き方から逸れる。そうした場合があるでしょう。いや、十善戒も八正道も守れないことが多数で、日々正しくない生き方の連続だと、しばしば思います。

 しかし、ある意味できなくて当然です。この世は「強大な邪悪の力に引きずられて悪魔鬼神」が渦巻く荒波であり、我らが乗るのは小さな舟。とても順風満帆の航海ができるとは思えません。
 かと言って荒波に飲み込まれ、悪いとわかっていることを続けていいのか。迷いの海で溺れているなら、溺れていることを自覚しなさい。それが七覚支のようです。
 六度万行にも「5禅定(ぜんじょう、心を静め反省する)」がありました。これも七覚支です。

 そうして、この心を静め反省する時間、自省の時間、静かに瞑想する時間――それが最後の四念処のようです。これは座禅とか、多忙にして安らぐ事なき現代人に勧められている「マインドフルネス」などがそれに当たるのでしょう。

 四念処(「四念住」とも)はウィキペディアによると「釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法である」とあります。内容は以下の通り。
 《四念処
 1 身念処(しんねんじょ、身体の不浄を観ずる)
 2 受念処(じゅねんじょ、一切の受は苦であると観ずる)
 3 心念処(しんねんじょ、心の無常を観ずる)
 4 法念処(ほうねんじょ、いかなる事象も自分に非ずと観ずる)

 1は不浄観、2は一切皆苦、3は諸行無常、4は諸法無我とも言われます。
 この内容を詳しく解説するのは控えます。私自身よくわからないと言うか、四項目に若干懐疑的だからです(^_^;)。
 そもそもこの内容は(仏教観で有名な言葉ばかりながら)七覚支と矛盾しているように思えます。「身の不浄、一切は苦である、安定したものは何もなく無常である」とは七覚支の「喜び・軽さ・安定・全肯定」とどうつながるのでしょう。現在の私にはわかりません。

 ただ、私は朝目を覚ましたら、ふとんの中で般若心経をとなえ、夜お風呂に浸かったときも般若心経をとなえています。朝は早口、夜はゆっくり息を伸ばしてとなえます。その際今日一日の全てを受け入れようと思い、明日は無から、一からスタートするぞと思いながらとなえます(^_^)。おそらくこれ「瞑想」に入るんでしょう。

 さて、これらをまとめて空海は以下のように書いています。
「『六度』の修行を筏として、煩悩に漂う迷いの河から船出をし、『八正』の正しき道を船として、愛欲の河に船出の棹をととのえ、精進という名の帆柱を立て、静慮という名の帆をかかげ、忍辱の鎧を着て賊どもを防ぎ、智慧の剣をふるって敵どもを威かし、『七覚』の覚法の馬に鞭をくれて、すみやかに溺れ沈んだ迷いの海を乗り超え、『四念』すなわち身の不浄を念い、感受の苦を念い、心の無常を念い、法の無我を念う四種の修行法の車を御して高く世俗の世界を超越しなければならない」と。

 十善戒・八正道・六度万行・七覚・四念処の生き方を実践すれば、極楽往生が約束される。そして、「仏陀の秘法を与えられて未来の成仏を許可されるであろう」し、「仏道の最高の境地に到達することができるであろう」と言います。
 さらに「菩薩の修行する〜長い時間も、完全に究めつくして悟りを完成させること、それほど困難ではない」とも言います。

 かくして、人が背負う煩悩という「重い荷物をかなぐり捨てて常住不変の真理を悟れる者としての尊い位に到達し、〜煩悩を転じて菩提を得、生死を転じて涅槃を得るという高き悟りの境地に登り、常の住居である仏国土において真理の帝王とよばれるに至るのである」と高らかに宣言するのです。すなわち、全肯定の境地に達することができると。

 以上、「六度万行・七覚支・四念処」について解説しました。次号は本節最後の項目として「四弘誓願(しぐせいがん)」を取り上げます。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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