四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 55

「『聾瞽指帰』と『三教指帰』」その7


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第132 ―論文編 55号

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           原則月1回 配信 2019年 2月10日(日)



『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・蛭牙(しつが)公子・梵釈(ぼんしゃく)寺・松明(たいまつ)・招聘(しょうへい)・神祇神道(じんぎしんとう)・陰陽(おんみょう)道・忸怩(じくじ)たる・考聖(こうしょう)・筐底(きょうてい)・虎渓三笑(こけいさんしょう)の図・・藤原冬嗣(ふゆつぐ)・沙弥(しゃみ)・求聞持法(ぐもんじほう)・顕教(けんぎょう)・明一(みょういつ)和尚・勤操(ごんぞう)・行賀(ぎょうが)・六道輪廻(りくどうりんね)・廬山(ろざん)東林寺(とうりんじ)・慧遠(えおん)・儒教の陶淵明(とうえんめい)、道教の陸修静(りくしゅうせい)
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 『空海マオの青春』論文編――第55「聾瞽指帰と三教指帰」その7――『三教指帰』の文学史的位置付け

 第55 「聾瞽指帰と三教指帰」その7――『三教指帰』の文学史的位置付け

 本節をもって「聾瞽指帰と三教指帰」論は終了。最後のテーマは『三教指帰』の文学史的価値というか歴史的位置づけです。
 一般的には「空海二十三歳の著『三教指帰』は儒教・道教・仏教の三教比較論であり、仏教の最上位を述べた思想書である」と評価されているようです。

 儒道仏三教の比較論であることに異存はありません。ただ、堕落者の「甥」蛭牙公子とは空海自身であり、彼自身の三教遍歴が書き込まれた結果、私小説的要素をかなり含んだ書であると補足せねばなりません。
 たとえば、仏教編に儒教の内容が繰り返されたことは論文と見るなら下手くそと言わざるを得ない。しかし、儒教仏教間を揺れ動いた悩みを告白するには必要な表現であり、それは仏教編にしか入らない。だから、私小説と考えれば欠陥でも何でもない。「論文執筆の成熟度に欠けていた」などと批評してほしくないもんです。

 またこれまで何度か書いてきたように、「仏教の最上位を主張した」とのまとめもあまりに浅薄であり、天才と言われた空海さんに対して「この上なく失礼な解釈である」と考えています。
 ではどうまとめるか。『三教指帰』は歴史的・文学史的にどう位置付けられるのか。
 私は新説を提起して読者各位の判断を仰ぎたいと思います。

 私なら「『三教指帰』とは《習合していた儒道仏三教を弁別し、改めて三教融合を目指した著書》である」とまとめます。

 仏教の日本伝来は六世紀。当初仏教導入積極派と排斥派に分かれ、やがて導入派が勝ちます。もしもこの伝来当初に空海が誕生し仏教を学び、やがて『三教指帰』が書かれたなら、「儒道仏三教を比較して仏教の優位を述べた」との説は「なるほどそうか」とうなずけます。

 しかし、空海マオが『三教指帰』を書きあげたのは延暦十六(七九七年)年。
 時代は八世紀末――平安京遷都の三年後であり、仏教公伝より二百年のときを経ています。延暦治世の天皇桓武・朝廷はその頃民に盛んに仏教を勧めています。
 たとえば、梵釈寺の創建が宣言された延暦十四年には、仏教は「ありがたい仏教、このうえなく勝れている仏教」であり、「暗やみを照らす松明」のような教えであり、梵釈寺創建によって「宝界(浄土)が尊さを増し、下は仏教の教えが全国に及び、よく治まり、すべてが喜ばしく」なる。仏教によって「内外共に安楽で冥界も現世も長く幸福」となり、「慈しみの雲を見つつ迷いの世を出て、日光のような仏教の知恵を仰ぎ、悟りの道を進むことになろう」と仏教をたたえ、人民に「仏教を信仰せよ」と勧めています。
 また、延暦十七年には「西方のインドでおこった仏教は東方の日本へ伝わり、暗やみを照らす松明のごとく人を導き、船の楫(かじ)のごとくありがたい教えである」とも言います(『日本後記』より)。

 すでに桓武・朝廷が仏教はこの上なく良いものだと述べているとき、無名の修行僧に過ぎぬ空海が「仏教は素晴らしいです。儒教道教の上を行きます」との論文を発表したとして、一体誰が感銘・感心して聞いてくれましょう。「そんなこたあお前に言われんでもわかっとる」との反応が返ってくるだけです。
 空海さんはそんなことさえ感じ取れないノー天気にして鈍感なる存在だったのでしょうか。

 いえいえ、そんなこたあありまっせん(^_^)。
 空海さんは時節をしっかり把握していた(と私は思います)。

 桓武朝廷が腐敗堕落した南都仏教にうんざりしていたこと。新都長岡京、続く平安京に南都大寺院を招聘しなかったこと。しかし、神祇神道・陰陽道・儒教道徳の力が弱い以上、仏教の力に頼らざるを得ないこと。だからこそ《新しい仏教を求めている》こと――それらをよーく知っていた。

 四国の片田舎から突如南都仏教に入門したのではありません。彼は藤原南家に連なっていた叔父阿刀の大足の下で数年間儒学に励み、大学寮に入学した人です。私は充分シティーボーイだったと思います。田舎弁丸出しだったとしても(^.^)。しかも、その学年トップクラスの優等生でもあったのです。

 現代を例にすると差しさわりがあるので、明治時代を例に挙げましょう。あの時代、某帝大に在籍したエリートたちは「日本の現状を鋭く見つめ、西欧列強に伍するにはどうすればよいか考え、生きて戻れないかもしれない留学さえいとわぬ」人が多数集まっていました。空海さんとは正にそのような人材だったろうと思います。

 しかしながら、十八歳のマオは大学寮に挫折し、官僚への道をあきらめます。後ろ盾のない彼は出世してもせいぜい大学寮助教か教授くらい。官僚になっても天皇にお目通りのかなわぬ外(げ)従五位下止まり。天皇側近の政治家になるなどあり得ない。それほど「蔭位(おんい)の制」という身分制度が立ちふさがっていました。結果、叔父の勧めによって「新仏教創始を目指して」仏教に入門した……。
 これまで私が論証してきた仏教入門までの流れをまとめるとこうなります。
 ならば、世に問う処女作は「新しい仏教が書かれた書」であるべきでしょう。

 ところが……ここからが浅い読みしかできなかった読者の責任と、「これが新仏教だ」と公言できなかった空海マオの忸怩たる心境が想像できます。
 もしも二度の百万遍修行を終えて「これが新仏教です」と言えたなら、当然作品に書いたでしょう。その内容を詳しく説明したはずです。

 私は拙著『空海マオの青春』で、三教比較論を書こうと決めたマオが友人の考聖に構想を説明するところを描きました。そのときマオは以下の『聾瞽指帰』構想図を見せます。

 《『聾瞽指帰』構想図》

        | 儒教 |
        |(忠孝)|
  ――――       ――――
  道教(自然)      仏教(解脱)
  ――――       ――――
        |     |
        |     |

 考聖は聞きます。「三教ならなぜ三又にしない。なぜ十字なんだ」と。
 マオは答えをぼかすけれど、「ここには私が生み出した新仏教を入れたい」と考える……私はそう推理しています。
 そして、この思いは後に「密教(全肯定)獲得」として実現します。

 しかし、『聾瞽指帰』執筆から『三教指帰』改稿の段階ではまだ新仏教として提示できるものではなかった。そもそも「百万遍修行」はどこに入るのか。仏教か、あるいは、もう一節立ち上げるべきか。いまだ何もわかっていなかったと見るべきでしょう。
 しかも感情的には「ほんとにこれでいいのだろうか」と納得していなかった。それゆえほぼ完成形だった『聾瞽指帰』も筐底深く仕舞われたのです。

 それなら、二度の百万遍修行を終えたとき、なぜ改稿『三教指帰』は公開しようと思えたのか。明確な新仏教の提示がないのに「公開しよう」との結論に至ったのはなぜか――これが次の疑問となります。

 まず言えることは《理屈と感情の合致》。理屈としては「仏教が最も素晴らしい、もう仏教に突き進むしかない」とわかっている。だが、感情がそれを認めていなかった。心の底からそう思えず、ゆえに自信もなかった。
 それが二度の百万遍修行によって理屈と感情が一致し、心の底から「仏教こそ最上である」と言えるようになった。そして、自身の到達点として著書を公開しようと考えた――そう言えるでしょう。
 ただし、相変わらず新仏教は表現できない。新仏教の提示はないけれど、何か別の「世に問う」要素はないか。そう考えたとき「これだ」と言えるものが見つかったのではないか。私はそう考えています。

 ここで仏教公伝から二百年経過して当時の日本宗教界が陥った特異な状況がヒントになります。その状況とは「神仏習合」です。古代神道、仏教だけでなく、道教・修験道も伝来しており、ごちゃまぜ状態となって日本に溶け込みつつあった。

 ここでコロンブスの卵的逆転の発想が必要だと思います。空海は「儒道仏三教を比較して仏教の優位を述べた」のではなく、「習合した儒道仏三教を、これは儒教、これは道教、これは仏教だときれいに弁別した」ということです。さらに目指したのが「三教融合=三教全肯定」であった。
 このまとめなら、日本にそれまでなかった書であり、堂々と公開できるのです。

 私は拙著『空海マオの青春』では、空海自身がそのことに気付くと言うより、二人の先達によって「教えられる」との形を取りました。
 一人は「百万遍修行を学んだ沙弥(しゃみ)」であり、もう一人は大安寺の高僧「行賀」です。完成させた作品はいまだ『聾瞽指帰』の名であった。それを二人の示唆によって『三教指帰』に改題したとの構想です。

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 3 習合仏教弁別

 奈良に戻ると、マオは冷静に『聾瞽指帰』を読み直した。読み終えて確かに冬嗣や叔父の言うとおりだと思った。ここに書かれた主旨は儒教と道教と仏教を比較して仏教の優位を主張したに過ぎない。マオが室戸岬で獲得した境地は全く説明されていなかった。
 二年前『聾瞽指帰』を書き上げたとき、何かが足りない、未完と感じて原稿は一旦行李に仕舞われた。ところが、百万遍修行を終えてみると「これでいい、完成している」と思った。ほとんど加筆修正していないのだから、主張が変わっていないのは当たり前である。しかし、仏教の結論が平凡と指摘されると、マオはかえって奇妙な思いにとらわれた。ではどう書き直したら良いのか、さっぱり思いつかないのである。これは一体どうしたことだろう……とマオは頭を抱えた。

 三月半ば頃、マオは雪が溶けた生駒山に登った。百万遍の沙弥を訪ね、この疑問をぶつけてみることにしたのである。
 沙弥はマオの話を聞くと、口をすぼめて「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」と笑った。久しぶりに再会した沙弥は歯が欠け、とても老けて見えた。
「なーに、それは簡単なこと。お前さんが今まで読み蓄えた書物の中に、求聞持法百万遍修行によって感得した境地がどこにも書かれておらんからじゃ。求聞持法は秘密仏教じゃ。お前さんがこれまで学んだ仏教はすべて顕教。顕教の理屈をいくら書き連ねたとて密教の境地を描くことはできん。求聞持法は密教の世界なのじゃ」

 マオは頬をふくらませた。
「ひどいなあ。それがわかっていてなぜ教えてくださらなかったのですか。では密教の教典を読ませてください」
「ばっかもん!」沙弥は一喝した。「秘密仏教はのう、経典をいくら読んでも、体験しなければわからん教えじゃ。体験と修行より学ぶことこそ密教の神髄。それに、わしは密教の経典なんぞ一巻も持っておらんわ」
 沙弥はあっけらかんとしている。マオは「ええっ!」と叫んで口をとがらせた。
 沙弥はそれを見て大笑した。マオはうらめしげな目で見返した。
「ただ……」と沙弥は思わせぶりにマオを見た。いつもの流れである。もはや目は笑っていない。
「ただ?」
「密教に経典があると聞いたことはある。だが、どこにあるかは知らん。本朝のどこかに隠されているかもしれんし、どこにもないかもしれん。なければ唐まで行かぬと見つからんじゃろう。わしはもう教典なんぞに興味はない。探すならやってみるがいい。確か大日経とか言うたはず」
「大日経? あの大日如来の大日経ですか」
大日如来かどうかは知らん。とにかく大日教という仏典じゃ」
 大日教……マオはその名を心に刻みつけた。自分が獲得した境地がそこに書かれているなら、ぜひ読んでみたい。一体どのようなことが書かれているのか。探してみようと思った。
(〜中略)

 休憩をとったとき、沙弥は「ところで」と再び『聾瞽指帰』について語り始めた。
「お前の聾瞽指帰だが、わしはただ単に三教を比較して仏教の優位を述べただけとは思わん。あれは朝廷が勧める仏教とは全く違う。聾瞽指帰はむしろ習合仏教を三教に分けたと言えるのではないかな」
「習合仏教を三教に分けた?」
「日本の仏教は儒教・道教・仏教が混在しておる。日本古来の神祇信仰も混じっておる。神社に仏様や仏塔があり、寺に鳥居があるのがいい例よ。修験道も神祇か道教か仏教なのか、わからんところがある。お前がまとめた仏教には祈祷が全く書かれていなかった。聾瞽指帰は習合仏教から、純粋に仏教のみを取り出したと言えるのではないか。ある意味わしも参考になった。なるほどこれは儒教だったか。山岳修行のあれは道教であったかと。そう言う意味で今まで誰も書かなかった書だ」
 マオは沙弥の言葉がうれしかった。そうかと膝を打ちたい気持ちにもなった。確かに自分はこれまで仏教と呼ばれていたものを儒道仏の三教に弁別したのだ。であるなら、題名は「三教指帰」にした方が良いかもしれない。マオは帰り道そんなことを思った。
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 ここにあげた『密教』・『大日教』などは今後大きく意味を持つ言葉であり、空海青春期後半の伏線でもあります。マオは「お前の書いたものは三教弁別の書である」と誰かにいわれたのではないかと推理しての表現でした。

  次は「三教融合」について。これは中国(当時の隋・唐)に出典があります。詳細はネット事典などをご覧下さい。代表的なものは「虎渓三笑の図」。
こちらも『聾瞽指帰』を『三教指帰』と改題する際、誰かから聞いたのではと思ってこのことわざを使いました。

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 4 改題『三教指帰』

 三月二十七日、東大寺三綱上座――明一和尚が入滅した。享年七十一歳。南都七大寺の高僧が集まり、大安寺からも善議、勤操など主だったところが参列した。マオもお供をした。明一から『聾瞽指帰』の感想は聞けないままとなってしまった。
 興福寺大僧都行賀が弔辞を読んだ。
「明一和尚こそまことに優れた仏門の導師であり、仏の大宝と言えるお方でありました。唐土(もろこし)に簷(のき)という花があります。それはしぼんでもなお周囲を照らす華やかな花です。また、蘭の葉は半ば枯れても、なお十歩先まで芳香を放ちます。そのように明一和尚も老いてなお輝きを放つお方でした……」
 マオは詩の一節のような素晴らしい弔辞だと思った。

 帰り道、マオは行賀に呼ばれた。並んで歩きながらマオの方から先に話し始めた。 「行賀様は明一和尚といくつ違いだったのですか」
「明一和尚が一つ上でした。まだまだ長生きできると思われたのに、残念なことです」
 行賀は唐より帰朝した報告の席で、明一から難しい質問をされ、答えることができずに罵倒された。周囲は「唐国に三十年以上も滞在して日本語を忘れたから」と見なした。だが、行賀はその後さらに深く仏教を学び研鑽したという。満座の前で恥をかかされながら、行賀はかえって奮起したのだろう。行賀と明一は論敵であるとともに、心おきなく語り合える友だったのではないか、とマオは思った。

「ところで、貴僧の聾瞽指帰ですが、先日読み終えました。儒教、道教、仏教の三教を比較して仏教の優位を主張する。対句表現や古書を巧みに引用した点など、まこと博覧強記とも言うべき深みを持った書だと感嘆いたしました。三教の書物を読み込み、よくぞあそこまでまとめあげたものです」
「ありがとうございます。ただ、仏教に関しては当たり前のことしか述べられなかったと反省しております」
 すると行賀は「ほっほっ」と小さく笑った。
「仏教の内容が無常観であり、六道輪廻や八正道としたことであろうか。貴僧は仏教編において興福寺法相、大安寺三論に触れていません。それが貴僧の仏教観を示していると思いましたが、そうではなかったのかな?」

 マオははっとした。行賀の言う通りである。確かに法相、三論にはほとんど触れなかった。それは別に意図していたわけではない。だが、南都仏教の教義を中心に据えなかったことは間違いない。結果としてそれはマオの仏教観を示し、南都仏教に対する批判になっていたかもしれない。だから、仏教界からあまり感想が返ってこなかったのか。
「恐れ入ります。その通りでございます。南都仏教は全くと言っていいほど取り上げませんでした。空や無について議論を重ねる仏教ではなく、仏教の基本に帰ろうと思ったものですから」
 そう言ってマオは頭を下げた。行賀はまた「ほっほっ」と笑った。

「あるいは、貴僧の書は南都七大寺に受けが良くないかもしれませんね。しかし、それでよろしいではありませんか。初めて貴僧とお会いしたとき、貴僧は仏教の何を学ぶのかとお聞きになりました。私は仏典が教えてくれるでありましょうと答えました。さらに仏教に何を求めるか、それによっても答えが違うと言いました。聾瞽指帰は正に私がお答えしたとおりの作品になっていますね」
 マオはこみ上げる熱いものを感じた。行賀和尚は『聾瞽指帰』をしっかり読んでくれたと思った。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、何より嬉しゅうございます」

「それに最終的に仏教の優位を述べつつ、貴僧は儒教も道教も否定していません。儒道仏の三教全てが人を導くと言いたかったのではありませんか
「恐れ入ります。それは意図しておりました。蛭牙公子は儒教を学び、道教に親しみ、仏教に感服する。仁の心は必要だし、無為自然も慈悲の心も、人が生きる上で必要だと思います。何か一つに絞ってそれのみで良し、とは思えませんでした」
「やはりそうでしたか。であるなら、聾瞽指帰ははっきり三教指帰と改題した方が良いかもしれません。三教が人が進むべき道を指し示すのですから。唐土でも私が滞在した頃、三教融合の議論はすでに出ておりました。虎渓三笑の図などその象徴と言えましょう」
「虎渓三笑の図?」

「はい。唐の廬山東林寺の仏教僧慧遠は修行専念を期し、訪れた客人を見送るとき、寺の下にある虎渓の橋を越えることがありませんでした。ところがある日、儒教の陶淵明、道教の陸修静を見送ったときは、道中話が弾み、虎の鳴き声でふと我に返ると、いつの間にか虎渓の橋を越えており、三人は大いに笑ったという故事でござる。儒道仏の融合、三教一体を示す説話として有名でござる」
「そうですか。虎渓三笑の図……唐ではそのような故事があるのですか」
 それから行賀は昔を思い出すかのように唐土の話を続けた。
 マオは思った。先日は生駒山の沙弥が『聾瞽指帰』は日本の習合仏教を三教に分けたと言った。対して今日の行賀は『聾瞽指帰』が儒道仏の三教一体を示すという。相反する感想ながら、両方にとられるところが面白いと思った。
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 先程「新仏教の提示はないけれど、何か別の世に問う要素として『これだ』と言えるものが見つかったのではないか」と書きました。
 ただ、「神仏習合の三教弁別と三教融合を空海マオが意図して書いたか」と問われるなら、正直言い過ぎかもしれません(^_^;)。多くの読者が「『三教指帰』は儒道仏三教を比較して仏教の優位を述べている」と理解したように、空海自身も「そのつもりで書いた」と見るのが正しいでしょう。

 これはいわゆる《小説のテーマをどうとらえるか》という問題と関係しています。
 作者は「何を書こうとしたか」をテーマと見るか、「書かれた作品から読みとられること」をテーマとするか――の問題でもあります。

 余談ながら、近現代の小説を振り返ったとき、作者は「これを書こう」との意志をもって書き始めるでしょう。そして完成させる。だが、作品はできあがった瞬間に「作者を離れる」とは有名な話です。
 何を言いたいかと言うと、その後は「読者が作品を読み、何が書かれているかまとめ評価する」ということです。そのため作者は「えっ、そんな風に解釈するの?」と驚くことがあります。あるいは、空海と『三教指帰』の関係もこれと似ていたのではないかと思います。

 『三教指帰』のテーマを「作者は何を書こうとしたか」との観点でまとめるなら、「儒道仏三教を比較して仏教の優位を主張すべく書かれた」とまとめられる。かたや「作品に何が書かれているか」との観点なら、「三教弁別が書かれている」とまとめることができる。
 俗な表現で恐縮ながら、空海マオはそれを誰かに指摘されて「そうか。そのように読みとれるなら公開できる。表題も三教が人を導く『三教指帰』に変えよう」となったのではないか、ということです。

 多くの読者が「『三教指帰』は儒道仏三教を比較して仏教の優位を述べた」と理解した。空海マオも「そのつもりで」書いた。だが、できあがった作品は「日本の習合仏教――儒道仏のみならず、神道・陰陽道・修験道など習合宗教状態から儒道仏三教を取り出して弁別する」作品となった。
「そりゃあ言い過ぎだよ」とおっしゃるなら、私は百人に一人の読者と言えましょうか(^_^;)。この判定もまた本稿読者にお任せします。

 さらにこの書は「道教は儒教を否定し、仏教は儒教・道教を否定している」ように見える。だが、最後に「三教は人を導く」とまとめたように、「三教融合をほのめかす作品」ともなった。
 このようにまとめることで『三教指帰』の独創性と価値は一層高まると思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本論の内容はすでに著書の後編に入っています。が、論文はこれをもって前半(百万遍修行から『三教指帰』完成)の終了です。次号からは空海青春論の後半突入となります。その項目をちょいとばかし列挙すると、

 『空海マオの青春』論文編後半
 ・『三教指帰』公開後から入唐まで
 ・マオが見出した『大日教』とは
 ・いつ得度したのか
 ・遣唐使船乗船と入唐の経緯
 ・唐国到着、長安への旅と入京
 ・青龍寺恵果和尚・密教との出会い
 ・密教第八祖継承、帰国に至る事情

 ……などなどこれまた詳細不明で謎に満ちた話題ばかりです。
 後半もたぶん千人に一人の読者である私の珍説奇説が続々登場します(^_^;)。
 ただ、その準備としてひと月かふた月必要です。次号は4月か5月に再開したいと思います。しばらくお待ち下さい。(御影祐)

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