『続狂短歌人生論』60 「変えることに失敗」した理由


○ 何ゆえに 変えることにしくじった むやみやたらに戦ったから


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年04月24日(水)第60号


 『続狂短歌人生論』60 「変えることに失敗」した理由

 今号より『続狂短歌人生論』最終章に突入します。
 昨年2月に『続編』を開始して当初腹積もりでは12月に終える予定でした。
 が、思わぬ展開となって1月に執筆意欲減退。これはすぐに回復したものの、2、3月に「『杜子春』を一読法で読む」を入れたため、最終章がここまで延びてしまいました。
 まっ、それもまた人生。想定通りにことは進みません(^_^;)。

 先に最終章の見出しと狂短歌を掲載する――つもりでしたが、いまだ完成していません。
 できあがったら、披露することにしてゆっくり書いていこうと思います。
 [本文は「である」体]



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 何ゆえに 変えることにしくじった むやみやたらに戦ったから

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』60 「変えることに失敗」した理由 】

 前号(37号)、再読してもらえただろうか。
 注意したいことは四タイプの中でも脅迫者と批判者は「自己を変えようとして失敗する」ことが多い。逆に傍観者・受容者は「自己を変え、身近の人を変えようとして失敗しやすい」ことだ。
 本号は四タイプがなぜ変えることに失敗したのか、そのわけを探りたい。
 大ざっぱな結論を言えば、戦術もなくむやみやたらに戦えば負けは目に見えているってこと。

 人は「正しいことを言ったり、やったりすれば、みんなわかってくれる」と思いがちである。だが、こちらが正しいと思っても、向こうは正しいと思わない。そんな例はごまんとある。だから、口論が起こり、そこに感情が入れば口げんかとなり、国や民族、主義・宗教は力づくで解決しようとする……。

 まずは殊勝にも(?)変える道を歩み始めた脅迫者と批判者の失敗を眺めてみよう。


※ [脅迫者・批判者タイプの失敗]

 脅迫者・批判者が失敗した理由はただ一つ。
 あなたが「怒り」と「腹立ち」の感情を抑えつけたことにある。

 ――と書けば、
「おいおい、あんたが怒りと腹立ちを抑えろ、脅迫的・批判的ドラマをやめろと言ったんじゃないか。だから私は怒りと腹立ちを抑えたんだ。何なんだ! それは!」とお怒りになり、腹を立てるのはごもっとも。
 だが、失敗の理由は正しくそこにある。

 その後、脅迫者・批判者はどうなったか……(再掲すると)
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 ところが、何日か経って、相手がミスをしたり、だらしなかったり、悪いことをやったりすると、あなたの心中の「怒り」と「腹立ち」の虫が、もぞもぞと頭をもたげてくる。だが、あなたは我慢する。怒ってはいけない、批判をしてはいけないと思う。だから、相変わらずの笑顔と「誉めること」で、周囲の人と「いい関係」を保とうとする。
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 ……ずっと誉め続けていると、人はそれに慣れてしまう。実際日々の生活で誉める事柄はそれほどたくさん起こらない。
 新しいことがなければ、いつもと同じことを誉めるしかない。だが、同じ事ばかり誉めていると、誉められた方はそれに慣れてしまってありがたみを感じなくなる。つまり、空気になる。

 それに、脅迫・批判のあなたは誉めることを「おべんちゃら」であり、「お世辞」だと思って居心地の悪さを感じている。
 あなたは相手を心から誉めることがとても苦手な人だ。だから、あなたの「お誉めの言葉」はどこか真実みに欠ける。本人も言っててくすぐったい。

 ただ、下手くそながらも誉めていた。しかし、相手があなたの意図する方向に変わってくれないと、あなたはむずむず、むかむかしてくる。それは今のところやむを得ない《正直な感情》である。
 それなのに、あなたは「怒ってはいけない、批判してはいけない」と我慢した。だから、爆発したのだ。

 日本にはこの状態を「堪忍袋の緒が切れる」と的確に言い表す言葉がある。耐えることのできる傍観者と受容者は堪忍袋をさほど破裂させない。ふくらんだ風船をぱんと破いて怒鳴ったり、叱責・小言を言いまくるのは脅迫者と批判者である。

 では、どうすれば良かったのだろうか。簡単だ。
 あなたは怒って良かった。批判をして良かったのだ。

 問題はあなたの怒り方、批判の程度にある。あなたは「待つ」ことができない。この一瞬、この三〇分、この一週間で、全てを自分の思い通りにしようとする。
 だから、脅迫者のあなたの「怒り」はさらなる怒りを呼び、最後は暴力に走る。
 また、批判者のあなたの「腹立ち」はさらに二倍の腹立ちとなって増幅され、くどくどくどくど、くどくどくどくど批判(悪口)を言うことになってしまう。

 脅迫者なら「一喝」で終わればいいではないか。
 批判者なら、1、2分の「小言」で済ませればいい
 相手が変わることを長い目で待てばいいのだ。
 そうして、また誉める材料を探す。

 さらに、これからは口先だけでなく「本当に心から誉めたい」ときに誉めるようにする。それも閻魔顔で誉めたり、しかめっ面で誉めるのではなく、心からの喜びを顔一杯に出して誉めることだ。
「素晴らしい! すごいじゃないか(^o^)!」と。

 もちろんこれは演技を必要とする(だろう)。だが、あなた方は怒りを閻魔と般若顔で表現すること、腹立ちをしかめっ面で表現することにおいて天下一品の人たち。素晴らしい俳優だ。必ず逆の「誉める演技」ができるようになる

 それに「我が子や身近の人間に誉める事柄が見つからない」なんて甘ったれた発言ではないか。
 あなたがたは人の悪い点を十のうち、八も九も気づく人だ。それほどまでに他者と事態をしっかり見つめているあなたが相手の良い点に気づかないはずがあろうか
 そもそも人の良し悪しは五分五分である。あなたが発見した悪い点はウラから見れば、良い点である可能性が高い。あなたはそれに気がつけばいいのだ。

 ゆえに、脅迫者と批判者のあなたに必要なのは《反省》である。「自分は怒り過ぎたのではないか」、「自分は(叱責・小言を)言い過ぎたのではないか」と反省できれば、あなたは脅迫と批判を小さくしたり、少なくすることができる。
 そして、あなたに対して「怒り過ぎているよ」とか、「小言を言い過ぎている」と指摘してくれる人(あなたの身内、友人、同僚)の意見を大切にすることである。


※ [傍観者・受容者タイプの失敗]

 さて、もう一方の傍観者・受容者タイプの無惨な失敗例

 まず、あなたがたは脅迫者・批判者に対する認識が甘いと言わざるを得ない。
 彼らは人と闘って(力や理屈で)相手に勝つことを生き甲斐としているようなタイプである。負けることはものすごい不快で、絶対に許されないと思いこんでいる。

 あなたはそんなやから[輩]と闘わなければならない。そのとき彼らが「強敵」と見なした相手に対して、情け容赦もない怒鳴り声や、猛烈な批判を浴びせてくるのはトーゼン予想される事態である。だから、彼らに下手に闘いを挑むと、ずたずたにやっつけられる可能性が高いのだ。

 対してあなたは武器を持たない傍観者であり、受容者タイプ(だった人)。
 こてんぱんにやられるのは「当たり前田のクラッカー(古いッ!)」ではないか。まずそれを認識するべきだった。[意味フメーの方は検索を]

 何かの会議で、あなたが笑顔で主張しようとした「良かれと思ったこと」とは何か。私はその内容を推理できる。
 あなたは傍観者・受容者が変わり、脅迫者・批判者にも変わってほしいという主旨を意見として述べようとしたのではなかろうか。

 例えば学校の生徒指導をめぐる職員会議において「殴ったり、きつく注意したりすることはやめよう」とか、「傍観しないで、もっと積極的に生徒と関係を持とう」とか述べることである。
 あなたのその主張は大袈裟に言うなら、何の準備も勝算もなしに、いわば丸腰で銃弾飛び交う戦場に飛び出すようなものだ。

 あなたの笑顔に笑顔で返してくれていた脅迫者・批判者はあなたの意見が彼らの思想・信条、考え方・感じ方に外れているがゆえに許せない。見過ごすことのできない意見だ(と思う)。彼らが怒鳴りまくり、強烈な理屈で反論してくるのは火を見るより明らかなのだ。

 そして哀しいかな、あなたの主張に理解を示す(はずの)他の傍観者・受容者タイプはあなたを援護してくれない
 救援に乗り出せば、自分も標的とされ攻撃されるからだ。結局、あなたは一人で闘い、正しいことを述べたのに孤立無援で「負け」てしまった……。

 それは無理な戦い、無謀な闘い方であったと思わねばならない。
 脅迫者・批判者タイプが怒鳴ったり、激しく責めてきたら、すぐに白旗掲げて降参した方がいい。
 自分を変えることさえとても難しいのだ。いわんや、他者や全体を変えるにはかなりの時間と準備を必要とする。自分の弱々しい原性格をやっとこさ変え始めたあなたはまだまだ弱い。直ちに戦場に出陣できるほど強くなっていない。それを知る必要がある。

 だが、心配しなくていい。あなたは脅迫者・批判者タイプの性格とその生い立ちを知った。また自分が傍観者・受容者タイプである訳も学んだ。「敵を知って己を知れば、百戦危うからず」のことわざもある。
 あなたはきっと強くなれる。愛エネルギーを与える生き方が必ず「いいもの」を生み出してくれる。

 では、どうすれば良いか。

 傍観者・受容者タイプのあなたはまず賛同者を作る必要がある。そのためには強敵の少ない戦場に、弁当持ってのんびり出かけることだ。
 もっと小さい会議で、なおかつ理想を言えば、その出席者が「傍観者と受容者タイプだけの場(^_^;)」であれば最高である。

 なぜなら、傍観者・受容者タイプのあなたが良かれと思う意見は他の傍観者・受容者タイプも賛同する意見であることが多い。
 たとえば、それは弱い相手を思いやる意見であったり、弱い自分たちにはなかなか難しくてできない――といった考えだ。せいぜい普通の批判者、または反省できる批判者タイプまでなら、あなたの意見は「ホンネを言ってくれた」として、とても尊重されるだろう。

 そして、このときあなたが他の傍観者や受容者に対して普段から「笑顔と愛エネルギー付与」を心がけて対応していたことが思いがけず生きてくる。

 あなたからエネルギーを与えられてきた傍観者と受容者は、おそらく積極的にあなたに賛意を示すだろう。あなたは「相手がちっとも変わってくれない」と失望しかけていた。だが、思いがけない彼(彼女)の変化に驚き、きっと嬉しく思う。何とあなたには「援軍」が現れたのだ。

 あなたは傍観者・受容者だった彼らが「変わっているじゃないか」と思うに違いない。
 でも、種明かしは簡単なこと。今まであなたが感じていたことを実は彼らも感じていた。しかし、それを発言すれば、脅迫者・批判者タイプの攻撃を受ける、それが怖くて黙っていただけである。誰かが矢面に立ってくれるとわかれば、傍観者・受容者だって発言できるのである。[「矢面」の読み、「やめん」じゃないですよ]

 その先頭にあなたが立ったのである。なおかつあなたは普段から彼らに「愛エネルギー」を与えていた。だからこそ彼らはあなたを信頼できる人だと思い、あなたを援助しよう――愛エネルギーのお返しをするのである。
 あなたはその場で、何となく「変えられるかもしれない」とエネルギーがわき起こるのを感じるはずだ。

 傍観者と受容者タイプはとにかく弱々しい。孤立無援では闘うことができない。事態がトラブルとなったとき「誰も助けてくれない」と感じやすい。
 そう思うからこそ傍観者・受容者は行動できないし発言できない。しかし、助け(というエネルギーが与えられれば)傍観者・受容者タイプだって元気と勇気を持つことができる。傍観者・受容者タイプこそまず援軍をこしらえるべきだ。

 だから、傍観者・受容者タイプのあなたは自分を変え「他者を変える」道へ進もうと思うなら、脅迫者・批判者タイプに対してはとても慎重に行動しなければならない。
 真っ先に闘う相手として脅迫者・批判者タイプを選ぶことはお勧めできない。
 まず傍観者・受容者タイプに働きかけて支援者を作ることだ。

 もちろん家庭内において親や夫(妻)(そして子ども)が脅迫者・批判者タイプであるなら、あなたはとても困難な闘いに乗り出すと自覚しなければならない。
 そのとき大切な点はあなたが自身傍観者、受容者であることを意識すること。
 具体的には強い脅迫者・批判者と一対一で戦うことはお勧めできない。話し合いの場には中立的な第三者か、(傍観・受容者タイプの)味方を参加させるべきだ。つまり、一対一で戦うのではなく、一対二とか一対三で。[援軍に脅迫者、批判者タイプを選んでいけない理由。もちろんわかりますよね?]

 要するに、「自分の原性格に基づくドラマをやめる」だけでは、当面、日常の闘いにおいて失敗する可能性が高い。だから、自分の原性格を許しつつ、他の三タイプの生き方を採用しようと言いたいのである。
 実はこれこそ「四タイプ統合の人格」をゆっくり歩き始める生き方である。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:考えてみれば「堪忍袋の緒が切れる」って面白い言葉ですね。
 英語では何と言うんだろうと調べてみたら、
 1 I can't stand it anymore.
 2 My patience has run out!

 1は「これ以上耐えられない」、2は「忍耐が尽きた!」って感じでしょうか。
 直訳的でちと面白みに欠ける。他には以下。これが近そうです。
 3 This is the last straw.

 strawって「ストロー」ですが「ワラ」のこと。「最後の藁だ」と言うのです。
 ちょっと意味不明。以下のように言うのが本来だとか。

 This is the last straw that breaks the camel's back.

 「camel's back」とはラクダの背中(背骨)。ラクダの背骨を破壊する最後のワラである……つまり、これ以上は無理というところまで荷物を背負ったラクダに、もう1本(一束?)藁を載せたら、ラクダが背骨を折って倒れたってこと。
 堪忍袋に我慢と忍耐を貯めに貯めたけれど、最後にぶち切らせた感じとぴったり合致します(^.^)。


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