○ 大分なら私もコネでなったよと 告白のとき迎えていたか
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2008年 7月 29日(火)第100号
暑中お見舞い申し上げます。m(_ _)m
猛暑酷暑の日本列島、体調にはくれぐれもご自愛下さい。
私は昼飯時の散歩と時折のゴルフで体調を整えていますが、炎天下ゴルフは水分補給が欠かせません。だいたい1ラウンド2リットル近く水を飲んでいます(^_^)。
さて、04年2月4日『四喜八喜』の見出しで本メルマガを開始してから、今号で区切りの100号を迎えました。
足かけ4年と数ヶ月。よく続いたなと思います。
創刊号の狂短歌は《四苦八苦悩みばかりの人生と 嘆かず見ようよ四喜八喜》で、これは私の基本的人生観でもあります(^_^)。
そこで100号記念の今回も「絶望か希望か、悲観か楽観か」と題して、いま世界的に問題となっている地球温暖化、エネルギー・食糧危機などについて「希望は持てる、楽観できる」との趣旨で書こうと思いました(^_^)。
というのはテレビの特集番組などで、この話題はしばしば絶望的悲観的スタンスで取り上げられ、人類の将来に対して暗〜い気分が蔓延しているからです。四喜八喜論者としては「いやいやそんなに悲観することはないよ」と主張しようかなと思ったのです。
ところが、7月になって私の故郷――大分県が連日のようにニュース・ワイドショーをにぎわしております。
ご存じのように大分県の教員採用や管理職昇進をめぐる不正・収賄事件です。
特に教員採用試験では、コネと金、口利きがまかり通り、合格者の半数はそうした不正によって教員になったと言われ、議員・県教委・校長等々組織ぐるみの不正が底なしの様相を呈しております。
今から約30年前、私は数回にわたって大分の教員採用試験を受けました。結局、神奈川の高校教員となりましたが、23年間教壇に立った身として、この問題をどう考えるか避けて通れないのでは、と思いました。
四喜八喜の観点からはとても明るい気分になれない話題ですが、この件を100号記念のテーマとして取り上げることとしました。(以下「である」体にて)
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 大分なら私もコネでなったよと 告白のとき迎えていたか
本メルマガで何度か取り上げたが、誰でも過去を振り返れば「あそこでAに行くかBに進むかで、自分には全く違う人生があったのでは」と思うことがあるだろう。
私の場合は大分の教員となるか、神奈川の教員となるかでその分かれ目があった。
私は大学卒業の年から数年間にわたって故郷大分の教員採用試験を受けた。最後の年はほとんど採用寸前までいった。そのとき私が「イエス」と答えていれば、私はいま大分の教員だったろう。
そして、おそらく大分の女性と結婚して子どもを育て平凡な家庭の父となり(^.^)、今も教員Aとしてどこかの高校に勤めていると思う。
それが神奈川の教員として23年間働き、独身にして45歳で退職して作家を目指す――などというB人生を送ってきたのだ。
大学卒業の年には大分の他に島根、大阪、埼玉、神奈川の5県を受験した。私の頃はまだ複数受験が可能だったからだ。もちろん専門の国語科である。
そうして大分と神奈川で二次の面接まで進んだ。合否結果は二県ともABCのB判定だった。Cだと不合格で、Aはまず間違いなく正式採用。Bは空きがあれば正採用だが、なければ非常勤の可能性が高かった。
実はそのころから教員採用にはなんらかのコネが必要――というのは公然の秘密だった。一次試験に通りさえすれば、議員か県教委か有力校長に口利きを依頼する。つながりさえあれば、大なり小なり誰もが行っているだろうと思ったし、そう言われていた。
私の父は田舎の郵便局ながら集配局の局長だった。ご存じの通り郵便局の全国局長会は自民党の集票マシンだった。我が父も当然のように自民党員で、地元選出の自民党議員を応援していた。
父が私の採用に関して口利きを依頼するであろうことは大いに予想できた。しかし、私もまだ若くて正義感にあふれていたので(^.^)、父に「誰にも頼まないでほしい」と言った。父は一応うなずいていた。
そのときは大分より先に神奈川から正式採用の通知が来たので、私は神奈川の高校教諭となった。
神奈川では全く縁故なき受験だったから、どこにも働きかけのない《きれいな採用》だった。
当時神奈川は国語科だけでも約百名が採用された。大分は高校全体の採用が十数名。国語科はわずか数名。だから私は神奈川に受かったと思ったし、大分の正式採用がいかに狭き門であるか、わかっていただけると思う。
そして、翌年から2回私は教員を続けながら大分を受験した。結果は2度ともB判定で、翌年3月に「非常勤でどうか」という話が来たことがある。
だが、神奈川で正教員なのだから、非常勤では受けるわけにいかない。このときも私は父に「誰にも頼まないで」と伝えていた。
どうにも大分は受かりそうにないので、その後数年間受験はやめ、神奈川でずっとやっていこうと思った。
しかし、三十歳直前になって「これで最後」の気持ちで大分を受験した。結果はやはりB判定だった(^.^)。
このとき父は(おそらく)国会議員か県会議員に働きかけたようだ。いくら金を使ったか父は言わないままだった。
あるいは、三十年前なら「物」だけで済んだかもしれない。今も書いたとおり父は自民党員で地元選出議員の選挙参謀だったこともある。議員側からすればそこで見返りがあるから、当選御礼として教育関係の大物議員を紹介してくれたのかもしれない。
だが、このとき私は土壇場で父を裏切った。
十二月末には大分と神奈川の県教委間で私が大分に移動することで話がついていた。もちろん正式採用だ。
だから私が「イエス」と答えれば、翌年4月から大分の教員になっていただろう。
一月初め校長から最終的な意向を聞かれた。「大分に移動することでよろしいですか」と。
だが、そのとき私はある事情で「大分には帰りません」と答えたのである。
ある事情とは表向きは「好きな人ができて結婚できそうだった」からだ。だが、小説家への志をもっており、大分に帰って埋もれてしまうような人生を送りたくなかったという気持ちもあった。
私は大分に帰る意思をなくしたこと、校長からの意向打診で断ったことを父に打ち明けなかった。
すると一月末になって父は依頼していた議員から「あんたの息子は大分に戻らんそうじゃないか」と言われた。
県教委間の連絡がその議員、そして父に伝わったのだ。父はそこで初めて息子の裏切りを知ることとなった。
その夜父から電話があった。父は電話の向こうで怒るでも叱るでもなく、ただ泣いていた。
これはさすがにこたえた。父がすすり泣く声を初めて聞いたような気がした。私は父が怒鳴って私をののしると思っていたからだ。
父が涙する声を聞いて私は初めて「なんてひどいことをしたんだろう」と思った。
しかし、私は自分の意志を押し通した。この裏切り行為だけでも自分にいつ天罰が下ってもおかしくないと思っている。
さて、このようないきさつで私は大分の教員とならなかった。
大分県では過去2年間だけでも、小学校新採用の半数がコネと金で逆転合格しているという。
私がもしあのとき大分県に戻っていれば、私もまた「逆転合格組」の一人だったかもしれない。
その年も高校国語科の採用は数名だった。私は試験の成績だけで自分が十数名のトップ数名に入ったなどと、とても言い切れない。金は使われなかったとしても、少なくともコネで採用された事実がずっと私について回っただろう。
私の時代まではおそらく口利きによるコネが主流だったろうと思う。それがいつの間にか「金」が絡み、なおかつ一次試験から発揮されていたとは驚きである。
牛肉・うなぎ、高級料理屋など食品偽装、不正問題がこれだけ大きく取り上げられながら、ある意味採用試験の偽装である不正がなんの反省もなく続いていたのである。ほんとに痛い目にあわないと人は変わらず、システムを変えることができないことを示しているようだ。
ただ、幸いなこともある。これでもう大分では二度と口利きや金による教員採用試験は行われないだろう。全国の教員採用試験システムもかなり公平・公正に実施されるようになるのではないか。
今回事態が発覚したのは、収賄側がもらった高額商品券を金券ショップで現金化したからだという。現金化には身分証明を提示する必要がある。そして、警察はしばしば金券ショップに出入りしてあやしい客をピックアップしていた。そんな経緯で発覚したという。
ということは過去三十年か四十年、大分県の教育関係者はこの件に関してとても忠実に秘密を守り続けたことになる。誰一人として内部告発しなかったのだから。
皮肉ながら「県教委ナンバー2の幹部さん、よくぞ商品券をお金に換えてくれた」と言いたい。そのおかげで事態が発覚したのだから。
皮肉はまだある。全国46都道府県で教員採用試験のデータを保存する期間が内部規則で定められている。早ければ一年で破棄される。大方は数年で、トップは十年だ。その唯一のトップが大分県だから恐れ入る。当然のように過去2年間で答案などのデータはすぐに破棄されたので、誰が逆転採用なのかわからないという。
また、7月17日に各都道府県の教育長と教育委員長ら約二百人が集まる全国会議が開かれた。
この開催地が大分県である。なんという偶然、なんという間の悪さだろう。
聞けば、この会議が地方でなされるのは初めてのことで、大分は秋の国体のPRを兼ねてその誘致に取り組んだそうだ。
だが、これほど教員採用試験の公平公正化――改革に向けてふさわしい場はあるまい。大分に集まった全国の県教委幹部は痛切にその必要性を感じただろうから。
それにしても、私は教員になってから生徒に人生を語り、正義や勇気を語り、弱々しい生き方、不甲斐ない生き方でも生きる価値があると熱っぽく語ってきた。大分で教員となってもそのスタンスは変わらなかっただろう。
しかし、その根幹に《コネで採用された事実》があったなら、私はいまどうするだろうかと思う。
生徒から「先生はコネでなったんですか」と問われたとき、その事実を告白するのか。
あるいは「いや、私はコネで採用された教員ではないよ」と嘘をつくのか。
これは大分の教員はもちろん、全国の先生方に突きつけられた重い課題なのかもしれない。
○ 大分なら私もコネでなったよと 告白のとき迎えていたか
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:ある意味大分県人は口の固い人が多いとも言えますが、イエスマンばかり取り立てていると、こうした不正が続いてしまう例でもあるようです。私の友人によると、最近の教育界はますます先生方の反論を許さない風潮が広がりつつあるそうです。全国的に危険な徴候かもしれません。
ところで、8月は実家でのんびり過ごすつもりです(^_^)。本メルマガは休刊いたしますので、ご了承下さい。(御影祐)
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