○ いつからか小さなうそが大うそに されど気づかずうそを続ける
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2014年 2月 21日(金)第 162号
先月から今月は話題豊富な一ヶ月でしたね。
今号はそれらを振り返りつつ、本論はこんな「(-.-)」顔文字になる二つの話題を取り上げたいと思います。
キーワードは「現代のベートーベン」と「人間のクズ」発言です。いつものように長くなったので、2回に分けて配信いたします。
ところで、念のため漢字の読みを一つ。「破綻」は「はたん」と読みます。
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ いつからか小さなうそが大うそに されど気づかずうそを続ける
厳寒から春のような陽気になったと思ったら、一転また極寒となり、関東では数十年ぶりの大雪でした。
なおかつ大雪は一度で終わらず、先週さらに激しい豪雪で車の立ち往生、集落の孤立化など関東は大変な事態になっていました。被害にあわれた方、この場を借りてお見舞い申し上げます。
ちなみに、九州ながら内陸にある私の実家周辺も積雪30センチでした。生まれて初めて雪下ろしをやって屋根から落ちかけました(^_^;)。
この間冬季オリンピックも始まりました。そのせいか早くも忘却の彼方といった気配ですが、先月は嬉しい話題満載でした。
まずローザンヌ国際バレエコンクールで日本人高校生が1位、2位、6位に入るという快挙。次にiPS細胞に続くSTAP(スタップ)細胞を発見したのは若き日本人リケ女でした。こちらはとても簡単な方法なのに、今まで誰も気づかず、バカにされ無視されたのを跳ね返した点が喝采ものでした。彼女はファッションに気を遣い、おばあちゃんの割烹着を実験服にしているユニークな女性でもありました(^_^)。
そして、ソチ冬季オリンピックが始まり、早くも閉会式を迎えます。開始前はメダル有力候補にプレッシャーをかけまくる相変わらずのメディアと、「メダルじゃなきゃ意味がない」みたいながっかり報道や感性にうんざりしつつ、日本選手がメダルを獲ってくれれば「よっしゃあ!」と叫ぶ自分がいたりして(^_^)……四年に一度のオリンピックはやはり面白いですね。
日本最初の銀と銅を獲ったのはハーフパイプ十代の二人。初の金メダルも男子フィギュア十九歳の若者でした。これら十代、二十代の活躍は《ゆとり教育》が生みだしたのでしょうか(^_^)。
いずれも明るい気持ちにさせてくれるお話としてメルマガに書きたい材料ばかりですが、ここは敢えて別の話題を取り上げたいと思います。ともに創作家・表現者として悲しい事例でした。
一つは「現代のベートーベン」と賞賛された全聾の作曲家の作品が代作であったこと。もう一つはある著名作家が東京都知事選の応援演説で発した「他の候補はみな人間のクズだ」発言です(-.-)。こちらは四十代、五十代の不甲斐なさと言ったら、言い過ぎでしょうか。
被爆二世で全聾の作曲家がヒロシマをテーマに交響曲を作った。その作品を聴いたとき、私も感銘を受けた一人です。NHKスペシャルも見ました。
それがゴーストライターによる作品だったと知って少なからずショックを受けました。全聾でさえ嘘偽りであるなら、だまされていたことは間違いなく、「ペテン師」と非難するのもうなずけます。
悲しいのは「私は共犯者です」と告白したゴーストライター氏です。十八年前から作品を提供していたとか。そのとき彼は二十代です。今四十代の彼がとぎれとぎれに語る様子はいかにも地味でした。こつこつ地道に作品を作る人は得てしてカリスマ性のある、宣伝力豊富な人に負けます。自分の作品を売って有名にしてくれるなら、ゴーストライターでも構わないと思ったのでしょうか。
芸術には制作者本人がどのような人間――家族を犠牲にしても作品制作にのめりこむ人、あるいは極悪非道の人間――であろうと完成品が素晴らしければ、人の感動を呼び、賞賛されるところがあります。あの交響曲は作品そのものとして素晴らしいと思うし、だからこそ多くの人を感動させたのだと思います。彼はゴーストライターとしてでなく、自作として発表できなかったのだろうかと思います。
その一方、私も小説やエッセーを書き、趣味で作った作曲集をホームページに公開している身として彼の心境は痛いほどわかります。自分ではどんなに良い作品だと思っても、売れない、売れそうにない、多くの人の目や耳に触れることなく埋没している……そう思ったとき、何か方法はないか。それが不正なこととわかっていても、手を出してしまう。それは表現者として抑えようのない欲求みたいなものかもしれません。
芸術家に作家、一芸に秀でた職人など、力があっても宣伝する能力がない。作るだけで精一杯でそんな余裕はない人。一方、創作の力はないけれど、宣伝するのは巧みな人。その二人が出会ったと言えるかもしれません。
ただ、私には彼らを「うそつき、ペテン師」として糾弾する気持ちが湧きませんでした。
キリストの言葉として「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、この者に石を投げなさい」とあるように、かつてうそをついたことのない人がいるだろうか。
「そりゃあ、うそをついたことはある。でも、利益を得たことはないよ」と言うなら、たとえば、農業漁業に従事する人で収穫したものは全て正直に申告しているだろうか。小売業で売り上げをごまかしたことのない人はいるだろうか。公務員で仕事をさぼったことのない人はいるだろうか。めんどうな仕事が舞い込むと、うそに近い理由をつけてやらなかったことはないだろうか。
アイドルなら年齢やスリーサイズをごまかし、雑誌記者ならでっちあげや、いいかげんな記事を書いたことのない人はいるだろうか。それは全て自分が楽したいからであり、売らんがためであり、利益を得るための《小さなうそ》ではないだろうか。この程度なら「許される」と自分で決めていないだろうか。
こう書くと、「それを言っちゃあ、振り込め詐欺師でもストーカー殺人犯でも何でも許さなきゃならなくなる」と言われそうです。
でも、どこか引っかかります。彼は被爆二世だった。それは間違いのない事実。聴覚障害も全聾でなくとも、難聴だったのではないか。彼は二十代の頃歌手志望で、一時は有名ロック歌手の後を継げる逸材と評価されていたそうです。しかし、彼はその道に進まなかった。進めなかったのかもしれません。難聴がその頃始まったなら、ミュージシャンにはなれないでしょう。そして、うそをつく人生を歩んでしまった。
そこに見えるのは心の弱さです。重荷を背負っている自分はうそをついてもいい。弱い自分が生きていくためにはうそをついても許されると思ったのではないでしょうか。
私は他ならぬ自分自身を振り返ります。私は十代の頃自分が精神的に弱々しくてしばしばうそをついていたことを思い出します。中には人を喜ばせるためについた道化的なうそもあって太宰治に惹かれたのもその頃です。あるいは、人を傷つけないためにつくうそもありました。
その傾向は二十代になって高校教員になっても続いていました。そして、三十歳を前にして私は取り返しのつかないうそをついて両親を苦しめました(この内容はいずれ書きたいと思います)。
そのとき私のうそを知った父は電話口で泣きました。父は強い人でした。私を殴ったことはないけれど、何かあれば、強い口調で叱責する人でした。私はこれまでのように父から激しく叱られるだろうと思いました。
ところが、父は電話口で怒ることも叱ることもなく、ただ泣きました。そのときようやく「自分はなんてひどいことをしたんだろう」と自覚したのです。
それ以来です。自分の弱さを理由にしてうそをつくのはやめようと思ったのは。小さなうその積み重ねはやがて大きなうそも平気でつくような人間になってしまう。そして、それがばれたとき人を傷つけ、深く悲しませる――それは間違いのないことでしょう。
おそらくうそをついたことのない人はいない。《小さなうそ》で利益を得たことのない人もいないと思います。ただ、人を傷つけるような大きなうそはつかないようにしたい、そう思っています。
くだんの「現代のベートーベン」氏はその後直筆ファックスで謝罪しました。彼はこれからうそをつかない人生を歩んでくれると信じたいし、あの作品は作品そのものとして後世に残ってほしいなと思います。
○ うそをつく生き様いつか破綻して 人は傷つき深く悲しむ
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:全くうそをつかないのは不可能でしょう。では、心の中を全てぶちまけて生きることは正直な生き方と言えるのか。
次号はそこのところを掘り下げたいと思います。
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