199「『続狂短歌人生論』公開のお知らせ」1


○ エネルギー与える道に進んだが うまくいかずに元の木阿弥


|本文 | 狂歌ジンセー論トップ | HPトップ|



ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」     2023年2月01日(水)第 199号



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
===================================
********************** 「狂短歌人生論」 ******************************

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ エネルギー与える道に進んだが うまくいかずに元の木阿弥

 (^_^) ゆとりある人のための10分エッセー (^_^)

 【 『続狂短歌人生論』公開のお知らせ 1 】

 昨年2月から12月まで(2007年に出版した)『狂短歌人生論――愛することより大切な』をメルマガ公開しました。
 最終号にて本書に入らなかった部分を「拾遺集」として公開すると告知しました。

 ところが、その後あることで迷ってしまいました。
 それは表題を「――拾遺集」とするか、「続――」とするか。

 どっちも「同じようなもんだろう」と思われるかもしれません。
 さにあらず、私にとってはずいぶん違うのです。

 実は続編を出版したいとの気持ちはずっと持っていました。
 二著の下書きとなる「長文原稿」(^_^;)は当時完成しており、『狂短歌人生論』はその半分くらいを取捨選択して作成、自費出版したものです。

 続編を出したいとの思いがくじけてはや十数年。
 出版できなかった理由はオゼゼが枯渇したからにほかならず、この状況は今に至るも改善されておりません。どうも年金貧乏は続きそうです(^.^)。

 昨年『狂短歌人生論』のメルマガ公開に踏み切り、12月に終えたとき「もう続編の出版はできそうにない。ならば下書きの残り部分もメルマガ公開するか」と思いました。
 ここで先ほどの問題にぶつかったのです。「拾遺集」とするか「続編」とするか。

 前者なら下書きから手当たり次第に拾ってランダムに公開すればいい。
 しかし、後者だともう一度構想を練り、構成を考え、(十数年の経過を含めて)書き直さねばなりません。

 特に問題なのは「狂短歌」を新たに作らねばならないことです。『狂短歌人生論』は各節を本の見開き2ページ(まれに3ページ)にまとめ、見出し代わりとして先頭に狂短歌を置きました。
 メルマガをお読みになった読者は「御影祐にしては珍しく一回分が短いな」と感じたのではないでしょうか。私だって短いのを書けるのです。えへん(^_^;)。

 ということは残った原稿は各節が短くなく、狂短歌もないってことです(^_^;)。
 そこから始めねばなりません。

 すでに気持ちとしては「各節を無理やり短くすることはやめ、狂短歌もない節が出るだろう」と半ばあきらめています。短くするにはエネルギーがいるのです。

 再度、ということは「各節が長くなる」ってことです。読者の迷惑顧みない長文エッセーの再開となります(^_^;)。

 しかし、皆さん方は一読法を学びました。もう長い文章も丁寧にじっくり読み、一度だけ読んで理解度60に達しているはず(?)。

 かくして結論は「続編にしよう、『続狂短歌人生論』としてメルマガ公開」と決めました。副題は「――感情の根源を探る旅」です。

 も一度「かくして」再構成と執筆に少々時間を要します。
 ある程度書き上げたらメルマガ配信しますので、今しばらくお待ちください。

 その前に再度『狂短歌人生論』の最終章「エネルギーを与え合うドラマ」の4を再掲載いたします。

 なぜかというと、後記に記した件を思い出し、実践していただきたいからです。

 後記末尾には以下のように書きました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その間試みてほしいことは「脅迫・批判・傍観・受容」のドラマをやめ、人にエネルギーを与えるような付き合い方をすること
 そのとき内心どのような感情が芽生えるか、そして相手との関係はどうか。
 可能ならメモ程度で良いので、書き留めることもお勧めします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 どうでしょう。後記末尾から二か月余り。実践できたでしょうか。

 以下最終章「エネルギーを与え合うドラマ4」です。
「もう読んだぜ」とおっしゃらず再読して下さい。

***********************************

4 お互いがエネルギーを与え合う その生き方に いま進むべき

 いかがだろうか。エネルギーを与え合う三つのドラマを描いてみた。
 読者はこれらのドラマを「ほのぼのドラマ」「非現実的偽善ドラマ」として軽蔑するだろうか。
 いろいろなほめ言葉を「軽々しいお世辞」としてバカにするだろうか。

 だが、自分のタイプを知り、批判や傍観をやめることで、このドラマは現実となるのである。
 傍観者タイプは積極的に人と交わり、批判者タイプは自分の批判を抑える。
 それによってまず自分が変わり始める。同時に相手も少しずつ変化を見せるようになる。

 このドラマは決して作り事ではない。自分のタイプに気づき、その原性格を変え、相手にエネルギーを与えるつき合い方をすることで、徐々に良い人間関係を築いていけるのである。

 最後に四タイプごとに注意すべき改善点をまとめてみた。

 脅迫者

 自分が脅迫者であることに気づくこと。人を暴力的に支配しようとしていること。人が自分のペースに合わせるよう求めていること。相手の気持ちを無視して、自分の信条や価値観を押しつけていること。
 いつも脅迫的、暴力的、命令的であること――その脅迫のドラマを認識し、それをやめること。

 そして、人の価値を認め、相手の言うことにまず耳を傾けること。相手の遅いペースを許すこと。人間の弱さを弱さとして認めること。
 脅迫をやめ、威嚇をやめ、命令をやめ、暴力は絶対に使わないこと。「百日の説法屁(へ)ひとつ」と言う。たった一度の暴力であなたには脅迫者の烙印が押される。
 自分の感情(特に怒り)を表に出しすぎないよう注意することである。

 批判者

 自分が批判者であることに気づくこと。周囲の人を批判することによって自分の言うことに従わせようとしていること。自分のペースに合わせるよう求めていること。自分の価値観が絶対正しいと思い、それを相手に押しつけていること。

 完璧主義であること。自分が完璧であり、人が平均以上でないと満足できないこと。しかめっ面で批判や文句、悪口を言っていること――その批判のドラマを認識し、それをやめることである。

 そして、人の価値を認め、相手の言うことにしっかり耳を傾けること。人の主張を認め、相手の遅いペースを許すこと。つまり、まず相手をありのままに認め受け入れることである。

 完璧主義をやめ、人の悪口を言うのをやめること。人の弱さや過ちを許すこと。欠点をすぐに気づくあなたなら、相手の良い点もきっと見つけることができる。ならば、心から人をほめることができるはずだ。

 傍観者

 自分が傍観者であることに気づくこと。あらゆることを傍観していること。無関心であること。人に関わったり、人が自分に関わることを恐れいやがっていること。
 ミスや失敗を恐れていること。言おうと思った一言を言わないでしまうこと。見て見ぬ振りをすること。喜怒哀楽を表に出さず、いつも無表情で白けている――その傍観のドラマを認識し、それをやめることである。

 そして、人と積極的に交わること。自己への関心だけから脱却すること。こちらから人に話しかけ、その喜怒哀楽に関わること。自分の意見を主張すること。誰でもミスや失敗は必ず犯すと思うこと。

 ほんとうのことを言えば相手が傷つく。そう思って黙りこんだり、嘘をついたりすることをやめること。言おうと思った一言はすぐに言ってしまうこと。見て見ぬ振りをやめること。自分だけで解決しようとせず援助を求めること。
 無表情をやめ、喜怒哀楽をもっともっと身体全体で表現することである。

 受容者

 受容者タイプはエネルギーを人に与えるという点では、四タイプの中で最もよく実行しているタイプである。笑顔や感謝、ほめたりねぎらったりする点において受容者タイプに問題はない

 だが、内心の感情はそれに満足していない。その態度が心からのものでないことを、正反対の泣き言やぐちで表わしている。やはり受容者タイプも自分を変える必要がある。
 人に言いなりで、最悪奴隷のような生き方をしているなら、そこから抜け出さねばならないからだ。

 受容者タイプもまず自分が受容者タイプであることに気づく必要がある。
 全てをあきらめていること。全てを許してしまうこと。自分が受けている迫害にしか関心がないこと。ミスや失敗を恐れていること。相手の顔色ばかり気にしていること。自分を主張できないこと。
 自分は世界で一番弱くダメな人間だと思っている――その受容のドラマに気づき、それをやめる
ことである。

 そして、あきらめないこと。全てを許したりしないこと。自己を主張すること。どんなに強く見える人でも、心の弱さを持っていると知ること。ときには虚勢を張ってでも、厳しい表情を見せること。人は人、自分は自分、人間は弱くて構わないと思うことである。

 要するに、脅迫者は脅迫のドラマをやめ、批判者は批判のドラマをやめる。
 傍観者は傍観のドラマをやめ、受容者は受容のドラマをやめることである。

 それを一言でまとめるなら、脅迫者は怒りのドラマをやめ、批判者は批判(悪口)のドラマをやめる。傍観者は事態をただ眺めるだけのドラマをやめ、受容者は弱者のドラマをやめることである。

 このドラマをやめることによって、相手からエネルギーを奪うことがなくなる。エネルギーが奪われなければ、人は不快感やむかつき、苛立ちを感じなくて済む。

 次に自分の持つエネルギーを人に与える生き方に進むべきである。

 私たちが人と接して明るくなり、元気とやる気が出るなら、それは相手からエネルギーを得たことを意味している。つまり、その人が自分にエネルギーを与えてくれたのである。

 では、どんなときに私たちはいい気分になり、エネルギーが湧いて元気になるだろうか。

 それは人から認められたときであり、ほめられたときである。励まされ、ねぎらいを受けたときである。「よくやった」と言われることはうれしい。人に何か良いことをしたとき「ありがとう」と感謝されることは特にうれしい

 たとえば、電車でおばあちゃんに席を譲ったら、にこにこしながら「ありがとうございます」と言われた。それだけでささくれだった暗い気持ちがいっぺんに吹き飛ぶ。正にエネルギーが与えられたことを意味している。

 要するに、エネルギーを人に与える基本とは笑顔と感謝、好意と援助である。相手をあるがままに受け入れ、許すことである。譲ることであり、賞賛とほめ言葉である。

 それが人にエネルギーを与える基本である。そのような交流を果たしたとき、私たちは「明日もやるぞー」と元気もりもり、活発なエネルギーを生み出せるのである。

 このように自分の原性格を理解し、その問題点を改めることは自分を変える第一歩である。
 そして、私たちはいずれ身近の人を変える道にも進むだろう。そのときエネルギーを与えるつき合い方は大いに役立つはずだ。

 周囲の人々も四タイプのいずれかであり、その悪しき性格を垂れ流している。私たちはより良い関係を築くために、彼らにも変わってもらいたいと思うだろう。
 だが、脅迫や批判によって相手を変えることはできない。傍観もダメだし、相手を全て受け入れる受容でも変わってもらうことは難しい。感謝と笑顔で相手にエネルギーを与えていれば、きっとその人を変えられるはずである。

***********************************

 後半に「人にエネルギーを与える生き方」が書かれています。

 後記公開から二か月ほど経ちました。
 この生き方を実践できたか。そのときの気持ちはどうだったか。

 ここで「続編」を先走っての推理です。
 おそらく実践できなかった、あるいは難しかっただろうと思います。
 やってみた。だが、うまくいかなかった――と推理します。

 相手にエネルギーを与えるような付き合い方をしてみた。だが、相手は変わってくれなかったし、自分も元の木阿弥になって相変わらず相手を批判したり、黙って傍観する状態に戻ってしまった。

 そもそも相手をねぎらったり誉めたりしたら、相手は元気になったけれど、自分自身の元気が失われたような気がした……のではないでしょうか。
 人を認めたり、ほめたり、ねぎらったりするって(必要なことだけど)「疲れる…(-_-)」ってところでしょうか。

[ここで「元の木阿弥」を「前号『W杯日本チームの活躍〜』にも出てきたな」と気づいた方は前号を一読法で読んでいます。気づかなかった方は前号末尾の再読を勧めます]

 前号では、元の木阿弥になるのは「理屈と感情が一致していないから」と理由を説明しました。これは実践がうまくいかなかった解説になっています。

 しかし、誉めたりねぎらったりという「相手にエネルギーを与える」生き方がどうして難しいのか
 やってみたけど結局元に戻った……なら、どうしてそうなるのか。

 これにはもっともっと深い理由があります。そこんところを続編で語ることになるでしょう。
 副題を「感情の根源を探る旅」とした理由でもあります。

 どうかいま一度、人にエネルギーを与える生き方を実践してみてください。

 家族内はもちろん、外に出ての友人関係、同僚との付き合い等々、実践してこそ、そしてその交流で生まれた感情を把握してこそ、次に語られる「理屈」が重みをもちます。「だから実践できなかったのか」と納得できる理屈に出会えます。

 まだ試みていない人も、試みた人は再度「人にエネルギーを与える生き方」を実践してみてください。


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:相変わらず「ぼーっと、さーっと読んでしまう」方に一読法の復習です。

 一読法の基本は読みながら「これは何だ、どういう意味だ?」とか「へーっ面白い」などとつぶやいて読むことです。
 そして「これは初めて聞く言葉だ」と思ったときは《ネット検索》して意味を確認すること。
 前号では「塞翁が馬」と「駿馬」のところで「知らなければ検索を」と注意喚起しました。

 初めて見る言葉なら検索するでしょう。問題は薄ぼんやり知っている言葉だと何もしないことです。
 結果ぼーっと読んでスルーします(^.^)。頭に残りません。

 前号「元の木阿弥」をネット検索した方は今号を読んだとき「ああ前号に出ていたな」とすぐ気づいたはず。ところが、何もしなかった方は「出てたっけ?」とつぶやく。

 ではどうしてネット検索しなかったか。そのわけは「元の木阿弥」の意味をぼんやり知っているからです。「何か良いことをやってみたけれど、結局元に戻ってしまった」の意味だと。そして、これで終わり。

 ここが真の一読法を実践できるかどうかの分水嶺です(「分水嶺」を読めず意味不明なら検索を)。

 元の木阿弥の言葉を見たとき、「意味は知っているけど考えてみたら妙な言葉だな。どうして木阿弥なんだ?」とつぶやくかどうか。これが肝心。

 こうつぶやいた方は「元の木阿弥」をネット検索します。
 そして、「へーっ、こんな由来があるんだ」と驚くことでしょう。
 結果、頭に刻み付けられるので、前号後半の文章もしっかり記憶に残ります。

 元の木阿弥、検索してみてください。
 某大河ドラマ主人公と「関係あったんだ!」と驚くこと間違いなし(^_^)。

 ところで、これまで何度も書いてきました。
 こうしたひと手間を「めんどくせえなあ」と感じるのは皆さん方がなまけものだからではありません。学校で一読法を学ばなかったからです。
 本稿はパソコンにて読んでいるはず。よって、ネット検索はすぐにできます。
 どうか途中で立ち止まっていろいろつぶやき、「?」と思ったらネット検索する――そのくせを身に着けてください。

 なお、このホームページでは最初の何節かの公開となります。
 興味関心ある方は『狂短歌ジンセー論』メルマガの購読申し込みされるようお勧めいたします。もちろん無料です。↓

   『ゆうさんの狂短歌ジンセー論』メルマガ登録  






200 へ

| 狂歌ジンセー論トップ | HPトップ|
ページトップ




Copyright(C) 2023 MIKAGEYUU.All rights reserved.