今回は前号で問題とした「文章の先に答えがあるのに、途中で立ち止まってあれこれ考えるのはなぜか」について深掘りします。これは当初「実践編 まとめ」の中に短く書いていました。
が、それだけでは弱いと考え、芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として詳しく語ることにしました。この件は一読法が「通読をやめて最初から精読するべきだ」と主張する理由でもあります。
なお、今号より、冒頭の目次は今号と次回のみといたします。全体の目次は「一読法を学べトップページ」をご覧ください。
1「一読法はなぜ通読をしないのか」
[以下次号]
2「『鼻』の授業実践前半――三読法と一読法」
三読授業はいつでもどこでも[通読→精読]です。三読法にとって、まず全体像を把握するための通読は必須。それからもう一度読んで精読する。前号で述べたように、これは美術(絵画や彫刻)の理解・鑑賞法です。
しかし、学校を離れると、人は文章をさあっと読む、ぼーっと一度読むだけで終わる。精読しないので、文章の理解度三〇である。
ちなみに理解度三〇とは記憶残存率でもあり、とある小説を読んで「いい作品だったなあ」と思った。ところが数年経ったら、「どんな内容だったか、どこに感動したか」全く思い出せない……。
対して最初から精読するのが一読法。通読しないので、全体像はつかみづらい。だが、音楽を聞くように、部分をゆっくりじっくり読むことで全体像はやがて明らかになる。難語句はその都度辞書を引くかネット検索する。「あれっ?」と思ったり、「ちょっと難しい」と感じたら、そこで止まって考える。前に戻って部分の二度読みをやり、「さて、この後どうなるんだろう?」と予想するなど、あれこれ考えつつ読む。
これによって一度読みだけでも、理解度は合格点の六〇に達する。そして、記号・傍線を付けた部分を再読すれば、作品の理解・鑑賞度、記憶残存率はもっと上がる。
音楽の二度目、三度目は全く同じ時間を必要とします。しかし、一読法なら、二度目、三度目は初読時間の十分の一。内容も感想もしっかり語ることができるし、数年経っても思い出せる。忘れたとしても、あるいは、後に必要となったときは記号と傍線だけを再読すればいい。初読時間の十分の一で当時の印象が鮮やかによみがえる。十年、二十年経ってみると、以前と違う部分に惹かれ、読み直して別の感想が涌くこともある。
――と、これまでの論述をまとめればこうなります。
私にとって三読法と一読法を比較するなら、「一読法の優位は明らか」と思って一読法授業を開始しました。ところが、生徒は拒否反応を示した……(もっとも、当時このような理論面からスタートしなかったことは反省点です)。
開始当初は「一読法に慣れていないからだろう」と思いました。が、ある時期から「どうもそうでもないようだ。生徒は立ち止まっていろいろ考えることに、心理的抵抗を感じている」と気づきました。そこんとこ前節で以下のように書いています。
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私は授業において立ち止まったところで「なぜか」と問い、答えが出ても「それだけじゃないだろう、まだあるはずだ」としつこく尋ねます。答えが出なければ、「この可能性もある、めったにないけどこう考えることだってあるぞ」と確率1パーセントの可能性まで列挙します。〜略〜
ともあれ、末尾まで読んだ生徒は「先に答えがあるじゃないか」とうんざりし、先を読んでいない生徒も「なぜこんなにあれこれ考えさせるんだろう」と辟易した……。
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確率1パーセントは言い過ぎながら、立ち止まり地点では生徒から疑問や感想のつぶやきを提起してもらうのが基本です。
しかし、何も出ないこともしばしば。そのときは私の方から「なぜ?」と尋ねたり、「この後どうなるんだろう」と問うことになります。
先を読んでいる生徒は当然答えを言えます。作品内ではもちろんそれが正解。
ところが、一読法はもちろん三読法においても、私は「他にあるだろう。違う可能性が考えられるんじゃないか」と十分、二十分かけて追及します。もちろんそれまでの表現・内容から推理しますが、書かれていないことまでも、可能性としてあり得る未来予想を求めます。そして、それらを板書して派生する問題についてさらに考えます。これは一見すると、作品をどんどん離れているように感じられる(ようです)。
この立ち止まり授業に不興の風が吹いたのは読者各位も同感されると思います。もしもみなさんが私の授業を受けたら、「どうしてこんなにあれこれ考えさせるのか」と、うんざりされることでしょう。
これは通読→精読の三読授業と最初から精読する一読法授業最大の違いでもあります。小説にせよ論説文にせよ、三読法は結末を知ってから前に戻ることを許し、一読法はそれを許さない――と言うこともできます。
ここで読者が「許さないはオーバーだろう。別に先を知ってから戻って考えても構わないじゃないか」とつぶやかれるなら、私は「いえ、絶対に認めません」と言わなければなりません。なぜか。これからそのわけを語ります。
もう一つ、「おやー、三読法と一読法の違いは以前どこかで問題にしていたような気が」とのつぶやきが出たなら、「しっかり読まれてきましたね」と敬意を表したいと思います。
そのとおりでして「理論編のまとめ」に以下のように書いています。
「三読法は通読して精読する。対して一読法は最初から精読し、記号・傍線をたどってもう一度読むのが良い。つまり、一読法とは精読→通読のようなものだ」として、「だったら、三読法も一読法も同じではないか」との疑問が湧く。
これに対して「ぼーっと読む通読ではどこで何を疑問としたか忘れてしまう。一読法なら記号や傍線を付けて最初から精読するので、それを振り返ることで解決されなかった疑問が確認できる」と一読法の優位を説明しました。
しかしながら、この理屈は「一読法では先を読むことを許さない」にあてはまりません。
なぜなら、《精読しさえすれば、一読法も三読法も同じではないか》と反論されると、「そのとおりです」と答えざるを得ないからです。
要するに、一読法も三読法も精読が絶対条件。そして、どちらも精読すれば理解度六〇に達する。よって、「精読しさえすれば一読法と三読法に優劣はない」と言えることになります。
前号でも引用した実践編前置き(2)の部分でそう結論づけています。
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今後読者各位はさまざまな文章を読まれると思います。もしも理解度六〇に達したいと思われるなら、選択肢は二つです。「一言一句注意して疑問や感想をつぶやきながら一度読む」か、「一度目はさあっと読んで、もう一度考えつつ再読する」か。
ここでも読者のつぶやきが聞こえます。
「一読法ってかなりめんどうだな。そんなことなら二度読んだ方がいい」と。
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私はこの段階では「精読するなら、三読法でも一読法でも構わない」との気持ちで書いています。学校を離れると、人は多くの文書類を二度読まない。三読法が通読のみで終わるから問題なのであって、二度読んでくれるなら三読法も充分力を発揮する。精読しさえすれば三読法と一読法は同格・対等であると。
しかし、「精読をどの段階で行うか」との観点で比較すると、一読法と三読法は決して同等ではなく、大きな差がある。そして、それゆえに私は一読法の方がはるかに優れていると考えています。
この結論はとても簡単です。なので、当初は「実践編まとめ」に入れました。しかし、結論を披露するだけでは不充分だ。そう思って芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として詳しく語ることにしました。
なぜ『鼻』かと聞かれたら、「たまたま」だと思ってください。高校現代文の教科書によく採用され、私も三読法で何度かやったし、一年間だけ実践した一読法授業の中にたまたま『鼻』が入っていました。また、実践編七において平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』と『鼻』を並列した(けれど、『鼻』の解釈は提示しなかった)ことも関係しています。
さて、もしも余裕があるようでしたら、ここで立ち止まって「一読法は三読法より優れている」点について(先を読まずに)考えてみてください。
相変わらずのほにゃらら問題で恐縮ながら、結論はこうです。
「三読法とは人生を□□□□□地点から眺める読み方であり、一読法とは未来は何が起こるか□□□□□という地点での読み方である」と。
ひらがなだと五文字の空欄を埋めることができた人は「具体的に説明できるか」試みてください。ここまでを二度読みすれば、説明できると思います。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
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