作者芥川龍之介が登場して解説した「傍観者の利己主義」説をさらに深く検証します。
この言葉は一見人間の普遍的真実であり、内供が苦労して鼻を短くしたのに「つけつけと嗤う」周囲の冷たい心を説明しているように思えます。
いやいや、そうではない。これは「内供の内心、彼の感情を説明しているんだ」と前号にて明らかにしました。さらにこの件を深掘りします。
[以下前号]
5 芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)1〜10
[ 1 ] 鼻が短くなると予想外の反応が
[ 2 ] 周囲の反応と傍観者の利己主義説
[ 3 ] 内供の豹変とその理由?
[ 4 ] 作者はなぜ理由を解説したのか
[ 5 ] 作者から読者への挑戦状
[ 6 ] 周囲の反応123を検証する
[ 7 ] 内供には明が欠けている?
[ 8 ] 内供に理由がわからなかったわけ
[ 9 ]「傍観者の利己主義」説、最重要語は?
[ 10 ] 二つのたとえ話
[今 号 小見出し]
6 芥川龍之介『鼻』の授業実践(後半)11〜18
[ 11 ] 人の不幸とは?
[ 12 ] 推理と邪推
[ 13 ] 我々はいつでも傍観者の利己主義を発揮するか?
[ 14 ] 普遍的真実ではなく内供の邪推
[ 15 ] 漱石を土台として『鼻』はある
[ 16 ] 鼻が元に戻った内供の未来を予想する
[ 17 ] もう一つ「ありのままに生きる」未来予想
[ 18 ] 漱石へのオマージュ
[以下次号]
7「前節復習と『鼻』の新解釈」
[11] 人の不幸とは?
これまで作者芥川龍之介が解説した「傍観者の利己主義」説について「これは周囲の人が見せた内供への敵意を説明するものではなく、内供の感情を説明している」と解析しました。
このように解釈すれば、作者は「明の欠けた人間」ではないし、なぜ作者が登場したのか――なぜ「作者」を登場させなければならなかったのか、そのわけもわかります(ここで一読法なら、前の作者に「 」はないのに、なぜ後の作者には「 」を付けたのか、疑問を書き込むところです)。
しかし、まだまだ深読みしないと、この経緯は納得してもらえないので、授業は続きます。
そこで、私は傍観者の利己主義説から出てくる「人の不幸」について問題提起します。「そもそも問いたい」と言って。
「一つ目、そもそも我々が長い鼻を持つことは不幸なのだろうか。
二つ目、内供がそれを不幸であると感じていたなら、周囲の人はどうやって内供の内心を知ったのか。
三つ目、内供がその不幸を克服しようと努力していることを周囲はどうやって知ったんだ?」と。
たとえば、長い鼻の場合、人間界に長い鼻を持つ人はいまだ一人も発見されていない。だが、猿の世界には「テングザル」と言って正に内供のような長い鼻を持つ猿がいる(知らなければ昔は百科事典で、今ならネットで確認させます)。
「では聞きたい。テングザルは自身長い鼻を持っていることを不幸と感じるだろうか」と。
生徒「喋らないからわからないけど、たぶん感じないだろうと思います」
「そうだね。内供の悩みはそれが自分一人しかいなかったことだ。もしも長い鼻を持つ人がたくさんいたら、彼は食事の時など不便を感じたとしても、自分を不幸とは思わなかっただろう。
そして、これでわかることがある。たとえば、私たちは片腕のない人を見ると、それは不幸だと思う。目が見えなければ、それも不幸だと思って同情する。だが、当人が不幸と感じているかどうか。不便であると感じても、不幸とは感じていないかもしれない。
自分のことを不幸だと感じていれば、それは不幸なことだ。だが、不幸と感じていなければ、それは不幸でも何でもない、ごく普通のことになりはしないか。もしかしたら、不幸とは事実そのものではなく、不幸と感じることが不幸なのかもしれない……」
[12] 推理と邪推
そして、後の二点に移ります。こちらははすぐに答えが出ます。
内供は物心ついて以来、表面では長い鼻を気にしないような顔をしていた。内心はかなり悩んでいたので、消極的・積極的な解決法を探ってきた。だが、全く効果がなかった。この全てを誰にも打ち明けていない。だから、内供の内心を知る人はいない。
「かと言って内供の悩みが深刻であることを誰一人気付かなかったか?」と問えば、これまた「そんなことはない」。
我々は前半をしっかり読んできたので、「気付いた人がいる。最低限鼻の治療をした弟子だけは内供の悩みが深刻であること、治療法を探していること、それらを隠していることを知っていた」との答えが返ってきます。
私はここで「もう一人、内供の内心を気付いた人がいるんじゃないか」と質問します。
後半で登場した「ある侍、下法師、中童子」と読みあげれば、「鼻もたげで失敗した中童子だ!」との答えが出ます。
「そう。以前中童子が鼻を持ち上げるのを失敗した場面で、内供はどのような態度を取ったか、深く検討しなかった。だが、ここに来て内供が誰でも意地悪く叱りつけるようになったとき――その中に当然中童子も入っているだろう、内供はお粥事件を思い出して中童子には特に厳しく接したかもしれない。
そうなれば、中童子だって内供への反感を強める。自分だけ集中攻撃されていると思って強い敵意を感じたはずだ。だから、中童子は鼻もたげの板をもってむく犬を追い回し、『鼻を打たれないようにしろよ』と内供への敵意を露わにした。
ならば、鼻もたげで失敗したとき、内供が取った態度や言葉を想像できるのではないだろうか。内供は果たして『いい、いい。誰でも失敗はある』とか『大したことではない』と言っただろうか」
これに対して生徒からは「かなりきつい、厳しい言葉で叱られたのではないか」との答えが出てきます。
「そうだね。あのときは知らなかったけれど、鼻の治療をしたとき、鼻自体は熱湯に浸かっても熱さを感じないとあった。つまり、長い鼻を熱々のお粥に落としても、別にヤケドするわけではなかったんだ。だが、自分の鼻が、つまり自分が粗末に扱われたと思えば、内供はかなりの剣幕で怒ったと想像できる。
また、内供は寺の長だ。その他大勢の僧侶や修行僧は集まって食事を摂るけれど、内供の食事は一室で、鼻もたげの弟子と二人だけだったはず。中童子が鼻もたげを失敗したとき、内供は他の僧がいないこともあって余計に激しく叱責したかもしれない。
結果、中童子は内供の内心と表面の違いに気付いた。彼が反感を覚えたことはそれを笑い話として言いふらしたことからもわかる。
かと言ってまだ少年の中童子はそれを根に持つほど意地悪い人間ではないようだ。今や内供の長い鼻は短くなった。はじめてそれを見たとき中童子はぷっと吹き出す程度だ。下法師たちの笑いと大差ない。反感はあったとしても、ただおかしかっただけだ。
そのとき内供は聞けば良かった。『何かおかしいことでもあるのかい?』と。
中童子は正直に『内供様の鼻が突然短くなったのでびっくりしました。でも、短くなって良かったですね』と答えたかもしれない。
だが、内供は聞かない。自分の内心を打ち明けないように、彼は人の内心を聞こうとはしない。結局、内供は推理するしかない。結果、周囲の「笑い」は嘲笑であり、それ以上にひどい敵意を自分に示しているに違いないと考えた。
その後内供が中童子を標的としてきつく叱っているなら、鼻もたげの失敗を、単なる推理ではなく邪推した可能性もある。邪推とは人の気持ちを悪く推し量ること。自分に悪意をもっていると疑ってかかることだ。
回り回った笑い話は内供の耳にも入る。お粥事件を喧伝した張本人は中童子しかいない。内供は思う。『あのとき中童子はわざとくしゃみをしたのではないか。はじめから私を貶(おとし)めよう、笑い者にしてやろうと、策を弄したのではないか』と」
ここで生徒から「先生、そりゃあ考えすぎです」との言葉は出ません。内供こそ鼻の治療をしてくれた弟子に策を弄した人ですから。
もちろんこの想像は策を弄する人ほど、他人の策に敏感であるという傾向を使っています。そういう人ほど相手は自然で素直な言動を取っているのに、策略ではないかと疑ってしまうのです。
最後に私は中童子がむく犬を追い回した理由について解説します。
「このように考えをめぐらせれば、内供が中童子に対して特に意地悪く叱りつけるようになったことは充分想像できる。中童子は鬱憤がたまったのではないか。内供を殴ってやりたいと思ったことがあるかもしれない。だが、偉い人にそのようなことはできない。それくらいはわかる。結果、中童子は内供への敵意をむく犬に向けた。
これはいじめを受けた子がいじめっ子に歯向かうのではなく、年下の子をいじめたり、小さな動物を虐待するのに似ているね。中童子は内供に直接手をあげることはできない。だから、むく犬を内供と見なし、鼻もたげの板を使って追い回したんだ。
この場面でも中童子がまだまだ子どもとわかる表現がある。彼は最初から広々とした境内でむく犬を追い回しただろうか。いや、おそらく隅っこの方だ。そこにたまたま捨てられた鼻もたげの板を見つけた。もう使われることはないと捨てられたのだろう。中童子はすぐそれに気付いて手に取る。
さらにたまたま野良犬が尾っぽを振りつつ近付いてきた。よく見かけるむく犬だ。寺で残飯にありつけるので人なつっこいはずだ。自分がひどい目にあうとは思ってもいないだろう。
中童子はむく犬の顔を鼻もたげの板でぱちんぱちんと叩いた。内供を殴っている気がして気持ちよかったはずだ。そのうち叩き方が強くなる。
すると、犬はいやがって逃げ始めた。中童子はそれを追っかけた。彼はそれに熱中して広い境内に出てきたことを忘れ、周囲に人が集まり始めたことにも気付かず、『鼻を打たれないようにしろよ』と言ってむく犬を追い回した。
これもまた多くのいじめが初めはひそかに行われているのに、やがて大っぴらになるのとよく似ている。近くにいる人はそれに気付く。だが、いじめられている方が叫び声をあげないと、遠くにいる人は気付かない……」
最後の話は「ちょっと本題から逸れるけどね」と言いつつ、私は内供と周囲の未来予想のところに、さらに以下の言葉を追記します。「明が欠けた生き方」とは自分を語らず、周囲の内心を聞こうとしないことであり、「明のある生き方」とは自分を語り、周囲の内心を聞くことだと。
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※ 内供の期待
「もう誰も嗤うものはないのにちがいない」
(普通の人としてみてくれるはず、陰で嗤うことがなくなるはず)
明が欠けた生き方=一つしか考えられない。自分を語ることなく、周囲の内心を聞こうとしない。
※ 周囲の反応
(ア)内供に興味関心がない人。(気付かないかも?) 傍観者
(イ)内供を愛している人(母親)。(黙っている?) 愛情
内供に同情しているが、黙っている人。
(ウ)内供の鼻が長くても、短くてもそれでいいと思える人。 ありのまま
明のある生き方=可能性をいろいろ考えられる。自分を語り、周囲の内心を聞こうとする。
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[13] 我々はいつでも傍観者の利己主義を発揮するか?
もう一つのたとえは、以前紹介した「両親や親友が入院したらどう思うか」という具体例です。「傍観者の利己主義――人が不幸を克服すると、周囲の人はもう一度同じ目にあわせたいと感じる。人間はそのような意地悪な心を持っている」との説は人間の普遍的真実を語っているように思える。だが、本当にそうだろうか、と検討するためです。
「たとえば、君のお父さんやお母さん、または仲の良い友達がひどい病気にかかって入院したとしよう。その後治って退院したとき、君はもう一回病気になれと思うか」と聞きます。
この問いに「はい」と答える生徒はまずいません。ほぼ全員が「自分は違う。そんなこと思わない」と答えます。ごくまれに「父さん(または母さん)に対してそう思うことがある」と内心を正直に打ち明ける生徒もいます。「でも、本当に病気になったら、やっぱり早く治ってほしいと思う」と続ける生徒がほとんどです。
では――と私は質問を変えます。
「もしもその人が君の嫌いな人間で、もっと言えば君をいじめたことがあるクラスメイトだったらどうだ。その子がひどい病気になって入院したらどう思う? そして、その子が病気を克服してまた登校してきたらどう思う?」と。
この問いによって生徒はあることに気付きます。それは人が本質的に他人の不幸を喜ぶような意地悪な心を持っているとしても、その気持ちは相手によって表したり、表さないことがある、ということです。このように考えれば、内供の周囲にいた人は《内供を嫌っていたので、意地悪な気持ちを表した》ことがわかります。つけつけ嗤う嘲笑として、消極的な敵意として。
――と安易に「意地悪な気持ちを表した」と書きました。だが、ここでも先程と同じ質問を、今度は内供さんにしなければなりません。
「一つ目。ある侍がじろじろ内供の鼻ばかり見ていたこと、中童子が可笑しそうに吹きだしたこと、下法師たちがくすくす笑ったこと。それは本当に嘲笑なのか、敵意なのか。
二つ目。内供さん、あなたはなぜそれが嘲笑だ、敵意だとわかったのか。周囲の内心をどうやって知ったのですか?」と。
すでに我々は侍や中童子、下法師が見せた笑いは「嘲笑ではない、敵意ではない」と確認しました。では、内供はなぜそれが嘲笑であり、敵意だとわかったのか。
周囲の僧俗が内供の内心を聞かないように、内供もまた周囲の内心を聞くことがない。よって、周囲の反応は嘲笑であり、敵意だと確かめたわけではない。内供が《そう感じた》に過ぎないのです。
私は「このように周囲は自分に対して敵意を持っている、自分は迫害されていると感じることを、精神用語では被害妄想という」と補足します。
そして、こう考えてくると、周囲が示す嘲笑と敵意は同じではないことに気付きます。
内供は鼻が長かったとき、「嗤われている、嘲笑されている」と感じていた。だからと言って意地悪く叱りつけたり、暴力をふるうことはなかった。嘲笑だけなら、内供の暴言暴力は起こらない。
だが、今回はそこに敵意が加わった。だから、内供は鼻のことを話題にしないという防御の姿勢から、相手を責める攻撃へと打って出た。
たとえば、ケンカや国同士の戦争はどちらが先に手を出したか、しばしばそれが問題となります。衝突が起こって「お前が先に手を出したな」と指摘すると、「先に手を出したのはこちらだが、相手が挑発したからだ」というのもよく聞く言い訳です。
もしも(逮捕された?)内供さんに「あなたはなぜ周囲の僧俗に敵意を示し、暴力までふるったのですか」と事情聴取するなら、内供は「彼らが先に敵意を示したのだ。だから、私も対抗せざるを得なかったんだ」と答えるでしょう。
そうなると、内供には嘲笑以上の理由――「それは敵意だ」と感じられる理由(理屈)がほしい。「そちらがそのように敵意を見せるなら、こっちだってタダではおかない。私だって敵意を返すぞ」と納得できる理由を知りたい。
そこで《内供は》推理した。周囲の反応を敵意と見なす理屈を(作者が登場しなければ、小説はこのような流れになります)。
それが「人間という生き物は確かに他人の不幸に同情する。だが、その人が不幸を克服すると、何となく物足りないような心持ちがして、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたい気持ちになる。そうして、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようなことになる」という理屈だった。
ただ、内供はこのように説明できません。この理屈を感じただけです。文学的表現を拝借するなら、内供は心の中でささやく声を聞いた。「これが彼らの嗤いを敵意と見なす理由だ」と。
[14] 普遍的真実ではなく内供の邪推
もうおわかりでしょう。「傍観者の利己主義」説とは作者が人間の普遍的真実を語ったのではありません。内供の内心を、その感情を説明してあげた。そして、内供はこの一つしか思いつけなかった。「私に対して不当な敵意が示された」と。
愛すべき内供さんは明が欠けている。周囲が見せた言動もいろいろ理由が考えられるのに、彼は「敵意」という一つしか思いつけない。だから、理由も一つしか書かれなかった。
作者芥川龍之介は明のある人です。「傍観者の利己主義」はいつも誰に対しても発揮されるものではないと知っている。
意地悪な心は確かに誰でも持っている。だが、それを示す人がいれば、示さない人がいる。嫌いな人間が病気になれば、「いい気味だ。もっとひどい目にあえ」と思う。それが愛する人なら、とても心配するし、「病気が治ってほんとうに良かった」と心から思う。あるいは、嫌ってもいないし、好きでもない人なら、「大変ですね」と言いつつ、内心何も感じていないこともある。
作者芥川龍之介は人が見せる言動には可能性がいくつもあることを知っている。
だが、内供はそのように考えられない。一つのこと、一つの可能性しか推理できない。
なぜなら、内供は「明が欠けている」人であり、多くの可能性を考えることのできない人だから。
内供は「あの連中は自分をもう一度不幸に陥れようと敵意を示している。そうにちがいない」と感じた。一つのことしか予想できない内供は「いやいや、あれは単なる笑いだ。別に私を嘲笑しているわけではない」とか、「周囲が私に敵意を示すはずがない」と考えることができなかった。
ここで作者と内供の関係を、ちょっとテレビドラマや映画風に表現してみると、次のようになります。
作者は悪魔となって内供の耳元でささやいた。「お前にあいつらが見せた嗤いのわけを説明してあげよう。あいつらはお前の鼻が長いときはバカにした、嘲笑した。だが、今やお前が不幸を克服したので、物足りないと思ってもう一度不幸に陥れようとしている。なんてやつらだ。あいつらはお前の敵だ! お前は攻撃を受けた。報復するのは当然じゃないか」と。
そのそばで作者はまた観音菩薩になってこうも語りかけているはずです。
「悪魔の言うことは間違っている。お前の鼻が長くとも、お前の母親はお前を愛していた。それを見せてあげよう。子ども時代お前は確かにいじめられた。だが、お前を見守っている人もいた。お前がいじめられていると訴えさえすれば、お前を助けてくれる人がいた。なぜそれを信じなかった?
僧侶になってお前は一生懸命勉強して出世を果たした。それはお前一人の力だろうか。仏典の難しいところを先輩僧に尋ねたとき、彼らは快く応じてくれたはずだ。そのとき長い鼻を持つ者に、質問する資格はないと言われたか。お前もまた鼻のことなど忘れて先輩僧の言葉に耳を傾けていたではないか。
これまでお前が出会った人はみな長い鼻を嘲笑しただろうか。もちろん嘲笑する者がいたことは否定しない。だが、お前に同情して治療法を探してくれる人がいた。お前の鼻が長かろうが、短かろうが、あるがままでいいと思って接してくれた人もいる。
だが、残念なことにお前は一つの見方しかできない。彼らに聞いてごらん。お前の心を打ち明けてごらん。そうすれば、彼らが敵意など持っていないことがわかるはずだ」と。
[15] 漱石を土台として『鼻』はある
私は以前「傍観者の利己主義」説について次のように書きました。
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私はこの部分を作者芥川龍之介による読者への挑戦状と受け取りました。まるで「ぼくは周囲が示した反応の理由を一つだけ書きます。読者は傍観者の利己主義説に賛同されますか。そんなことはありませんよね。もしも同意されるなら、あなたは内供さんと同じですよ」とでも言うかのように。
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作者は周囲が見せた反応の理由を一つだけ書いた。「それでいいのですか」とひそかに問うている。もしも読者が「傍観者の利己主義」説を使って周囲の反応、対する内供の言動を全て説明しようとするなら、それは作者が仕掛けたわなにかかったことを意味する――と。
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残念ながら、多くの読者は作者のわなにかかり、傍観者の利己主義説に振り回されたのではないかと思えます。
私には『鼻』を書き上げた作者がもらしたであろう不安のつぶやきが聞こえます。
「この作品は短編にするため、いろいろなことを省略した。だから、読者には書かれていないことまで想像をふくらませてもらわねばならない。大丈夫だろうか。読者はしっかり読みとってくれるだろうか」と。
一方、「いや、我々は漱石を読んできた。彼の小説を学んでいれば、内供と周囲についていろいろな見方ができると気付いてくれるはずだ」とも。
短編小説『鼻』は夏目漱石逝去の年(一九一六年)に発表されました。漱石の晩年、彼の邸宅に集まった俊秀たちは漱石の後を継ぐべく議論を重ね、小説を書きました。芥川龍之介にとって、その成果がデビュー作となる『鼻』であり、同時期に書かれた『羅生門』です。
私は「作者芥川龍之介は明のある人間」と書きました。では、芥川龍之介はどこでどうやって《明》を学んだのでしょう。それこそ夏目漱石の小説群です。
夏目漱石は『こころ』(一九一四年)の中で「先生」に語らせています。「悪い人間という一種の人間が世の中にいるのではない。平生はみんな善人であり、少なくとも普通の人間なんだ。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだ」と。
小説『羅生門』の主人公「下人」は正に普通の人間が、明日の食事もない、住むところもないという状況に陥ったとき、「生きるためには何をやってもいいんだ」と決意して悪の道に突き進む物語でした。
そして、『鼻』は「明の欠けた、一つのことしか考えられない人間禅智内供」を描きました。
内供は悪人ではない。だが、内心を知れば善人とは言い難い。ただ、寺の長として見れば、周囲にとっては「普通の人」でしょう。それがあるとき突然暴言を吐き、暴力までふるう人間に豹変した。芥川龍之介は漱石が(長編で)描いた世界を、短編によって見事に描ききったのです。
私はここまでを締めくくる言葉として生徒に次のように話します。
「どうだい。もうわかっただろう? 作者が登場して解説した傍観者の利己主義説とは内供と周囲の関係全体を説明する言葉ではない。内供の内心だけを説明した言葉だ。だから、理由は一つしか書かれない。だって、内供にはこの一つしか思い浮かばないからだ。
内供は周囲が示した反応は自分に対する敵意としか感じられなかった。もうちょっと冷静に『敵意ではないかもしれない』と考え直すことさえなかった。なぜなら内供には『明が欠けている』から。
明が欠けている人は自分のことも周囲のことも、現在も未来も一つの答えしか推理できない。作者がここで描いたのはそういう『明が欠けている』人の姿だ」
[16] 鼻が元に戻った内供の未来を予想する
こうして一読法も結末部に至ります。
内供は中童子が鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回しているのを見て「中童子の手からその木の片(きれ)をひったくって、したたかその顔を打」ちます。彼はこれをどう振り返ったか。
ここでも「なまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった」と、自分がどうして暴力をふるうまでになったか、そのわけをいろいろ考えるでもなく、原因は「鼻が短くなったことにある」と思い、依然として《鼻》一つに集約していることがわかります。
そして、ある夜、鼻がむずむずし始め、翌朝また元のように長くなったとき、内供がつぶやいた言葉も……、
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――こうなれば、もう誰も嗤うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら。
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ここに至るも、内供は依然として一つの未来しか予想していないことがわかります。
そうなると、作品を読み終えた我々の未来予想はどうなるか。作品全体をゆっくりしっかり読んできた我々には、いろいろな「内供のその後」が予想できるはずです。大きく分ければ次の二つ。
《悲観的未来》
・ もしも内供が自分の生き方を振り返り、反省することなく、今後も不機嫌であり、意地悪く叱りつけるようなことが続けば、周囲の人はもはや以前のように内供に同情することはないだろう。両者の敵対関係はもっと激しくなるに違いない。
《楽観的未来》
・ 内供の内心が変わらなかったとしても、外見は以前のように戻るのではないか。今後内供の不機嫌が治まり、意地悪く叱りつけることがなくなれば、周囲の人だって同情が復活する。そして、反感を覚えながらも、穏やかな関係を築けるのではないだろうか。
後者の予想の面白いところは内供が明ある生き方に進まなくとも、内供と周囲の関係は以前のように戻る、と予想していることです。
もちろん以下のように、内供は「反省する」という予想もあり得ます。これは明ある生き方に進むという予想でしょう。
《明のある生き方を始める》
・ 内供は観音菩薩の声を感じて自分の生き方を反省し改める。そして、自分のことを語り、周囲の声をよく聞き、いろいろな見方を学ぶことで、周囲とより良い関係を築けるようになる。
しかし、ここに至っても、一つのことしか考えられない内供が、果たして明ある生き方に進めるか、疑わしいところです。生徒の多くもそのような感想をもらします。
私は「今後内供と周囲がどうなるか。それはある意味無限大にあり、どう予想するかは読者の自由だ。内供は一貫して一つの見方しかできなかった。だから、明ある生き方に進むのは難しい気がする。ただ、次のような未来予想も可能だ」と言って以前「周囲の反応」で取り上げた《ありのまま》について語ります。
もしも内供が「私の鼻は長いままでいい」と感じたなら、それは《ありのまま》を認め、受け入れたことになるのではないかと。
[17] もう一つ「ありのままに生きる」未来予想
こう考えると、「なまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった」との気持ちも少し違う読みができます。ここは「相変わらず内供は一つの見方しかできない。愚かな人間だ」と軽蔑的に見られがちなところです。
一般的な話として長い鼻を短くした後、元に戻ったら普通の人はどう思うか。
おそらく「せっかく鼻を短くしたのに、また長くなった。治療は失敗だった」とがっかりするはず。そして、「もう一度治療するしかない」と鼻を踏んづけてもらう人もいるでしょう。
ところが、内供は短くしたことを後悔した。つまり、元のように長くなれと暗に願ったことになる。なぜそう思ったかと言えば、このままでは身の破滅だと感じたからでしょう……。
ここまで解説したところで、話を中断して「内供が身の破滅だと感じたのはどこだろう?」と問えば、「中童子を殴ったとき」との答えが返ってきます。
「そうだね。中童子が鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回したのは寺の庭だった。むく犬は『けたたましく吠えて』いた。内供が何事だと思って外に出たなら、他の僧俗だって外に出てきた可能性が高い。そのとき中童子が持つ棒が鼻もたげの板だと気付いた人が何人いたことか。もちろん内供はすぐに気付いた。
そして、内供がその板を取り上げて中童子の顔をしたたかに打ったとき、そこにいた人たちは凍り付いたのではないだろうか。ちょっと文学的に表現するなら、むく犬は逃げ失せ、しーんとなった境内で内供は我に返った。そして、『私はなんてことをしたんだ』と思った。
これまで内供は意地悪く叱りつけることはあっても、暴力をふるったことはない。もしかしたら、これが人生で初めて人を殴った瞬間かもしれない。
禅智内供は寺の僧であり、仏教を信仰している。仏教は慈悲の心、優しい心を持ちましょうと説いている。自分はその教えに背く、正反対の暴力をふるってしまった……そのことに気付いたとき、内供は鼻を短くしたことで、自分は暴力までふるう人間になったと思った。短くなった鼻を恨めしく思い、長いときの方が良かった、と感じたのは正にこのときだろう」
そして数日後、願い通りに鼻が長くなったとき、内供は「鼻が短くなった時と同じような、はればれとした心持ちが、どこからともなく帰ってくるのを感じ」、「こうなれば、もう誰も嗤うものはないにちがいない」とつぶやいた。
ここも《情けない人》として批判的に見られがちなところです。私は次のように話して内供を弁護します。
「だが、この『はればれとした心持ち』は決して鼻が短くなったときの感情と同じではない。あのときは『やっと鼻が短くなった。これでもう誰も私を嘲笑しないだろう』という安心だった。『今後鼻が長くなれと願うことがあるかもしれない』など、夢にも思わなかっただろう。
だが、鼻を短くしたことで、悪いことがどんどん起こる。鼻を短くしなければ良かったと思い、鼻が長くなることを願った。そして、その通りになったとき、内供は『もうこのままでいい。別に短くすることはない』と感じた。
鼻が長いことは不幸であり、不便だと思い続けてきたのに、それを受け入れることに決めた。鼻よりも周囲の人と穏やかな関係を築く。その方が大切だと考えたからだろう。結果、内供は鼻が長いことを、ようやく心から受け入れた、とも言える。
すると、ここで不思議なことが起こる。長い鼻を受け入れるということは、今後長い鼻を嘲笑されても構わないことになる。いわば『嗤いたければ、嗤えばいい。私はこのままでいい』ということ。つまり、周囲の感情さえもありのままに受け入れる――内供の言葉はそれを表明したことになる。
内供はこの未来を予想した。それは長い鼻を苦に病むことのない未来、周囲の視線を気にする必要のない未来だ。だからこそ、彼は『はればれとした心持ち』になった。
そして、観音菩薩と自然も内供のこの思いを支持する。
鼻が元に戻った早朝、目を覚ました内供は『寺内の銀杏や橡(とち)が一晩の中に葉を落としたので、庭は黄金(きん)を敷いたように明るい』ことに気付く。さらに、塔の屋根に霜が降りて『まだうすい朝日に、九輪(くりん)がまばゆく光っている』のを見る――内供と周囲の未来は明るく、まばゆく光っている、と自然が教えてくれたのではないか」
さすがに、最後の部分は「先生、それは言い過ぎでしょ?」との言葉が出てきます。
「でもね、秋の紅葉は今年の役目を終えてただ枯れているに過ぎない。それを美しい、明るいと感じるのは人間だ。この場面、作家は『重苦しい曇天で雨がざーざー降っている』とは書かない。内供の内心にふさわしい自然を描くんだ。
それを自然が支持していると見るかどうかは置くとしても、とにかく内供は自分を、そして周囲も、ありのままに受け入れようと決めたのではないか。
もちろん長い鼻を受け入れると決心しても、一直線にその境地に達するとは思えない。ときには食事で不便を感じ、周囲の嘲笑を意識してやっぱり短い方がいいと思うかもしれない。そこんところ作者は作品の最後に『長い鼻を明け方の秋風にぶらつかせながら』と書いている。右に揺れ、左に揺れ、上下に揺れ、斜めに揺れる。まだまだ揺れ動くであろう内供を予感させる表現だ。
とは言え、この段階では間違いなく『鼻は長いままでいい』と感じた。よって、以下のように、もう一つの未来が予想できる。
《ありのままに生きる》
・ 内供は自分の長い鼻と周囲をありのままに受け入れて生きる道に進む。
この可能性もノートに書いておきたいね」
[18]漱石へのオマージュ
最後の未来予想はもちろん『鼻』全体の解釈として提示しています。
これをどう受け取るか、それもまた読者各位の自由です。ただ、『鼻』の結末十数行を読めば、作者はそのように描いているのではないか、と思えます。
そして、小説『鼻』と、この結末は芥川龍之介による夏目漱石へのオマージュであり、漱石が投げかけた問いに対する回答であると私は考えています(「オマージュ」が意味不明の方は立ち止まってネット検索してください)。
漱石は小説『行人』(1912〜13年)の中で、主人公の兄「一郎」に「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」と語らせています。
一郎は苦しみに満ちたこの世を誠実に生きるには、として三つの道を考えた。誠実に生きることをあきらめて死ぬか、気が狂うか。あるいは宗教に行って安心を得るか。
この問いに対して芥川龍之介は『鼻』を書いた。やや皮肉っぽく「宗教に進んでも、世俗と同じではないですか」と反問し、四つ目の生き方として「ありのままを受け入れて生きる道がありはしませんか」と投げかけた。
漱石はこの試みに対してなんと答えたか。死を前にして『鼻』を絶賛したことがその答えではないか、と思います。
ただ、芥川龍之介は『鼻』の結末が持つ意味に気付いていたかどうか。彼が最終的に選んだ道が自死であったことを思うと、もしかしたら気付いていなかったかもしれません。
作家は必ずしも明確な意図と目的をもって小説を書いているわけではありません。芥川龍之介が書こうとしたのは、長い鼻を意識しすぎて傍観者の利己主義に振り回されている、明の欠けた内供の愚かさであり、その不幸と悲劇――そこまでを描こうと思っただけかもしれません。であるなら、私の解釈は深読みに過ぎることになります。
あるいは、ありのままに生きる道があるとわかっていたけれど、できなかったか。
何しろあらゆることを、ありのままに受け入れることはとてつもなく難しいことですから。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:以前『鼻』を一読法によって読み返すことで「(私にとっては)全く新しい解釈を発見して『これはどうしても入れたい』と思うに至りました」と書いて公開を延期しました。
さて、最近気付いて追加した新しい解釈は二点あります。それはどこでしょうか。
次号これについて解説します。
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