カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 26号

実践編? 8「傍観者の利己主義とは何か」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 26号

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          原則2週1回配信 2019年11月26日(火)



 ようやく『鼻』の実践報告終了です。最後に『鼻』の中に突如挿入された「傍観者の利己主義」について深堀りします。
 なお、今回も長くなったので、本日は[4]までとし、次回は「利己主義が持つ裏の感情」と「傍観者」についてさらに探求することにしました。

  [以下今号 小見出し
 8「傍観者の利己主義とは何か」
 [ 1 ] 傍観者の利己主義とは?
 [ 2 ] 明(めい)が欠けた内供、愛すべき内供
 [ 3 ] 内供が陥った□□□過剰
 [ 4 ] なぜ自分の内心を明かせないのか

 以下次号
 9「利己主義が持つ裏の感情」
 [ 1 ] 利己主義者が抱く裏の感情
 [ 2 ] 傍観者が抱くひそかな感情
 [ 3 ] 批判を悪口と受け取る利己主義者
 [ 4 ] 遠くの傍観者と近くの傍観者
 [ 5 ] 時空を決定する近くの傍観者
 [ 6 ] 『鼻』の語り手は作者か?


 本号の難読漢字
・癒(いや)される・喝破(かっぱ)・操(あやつ)る・破綻(はたん)・偏(かたよ)る・羨望(せんぼう)・凋落(ちょうらく)・自縄自縛(じじょうじばく)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』実践編?

 8「傍観者の利己主義とは何か」

[ 1 ] 傍観者の利己主義とは?

 さて、ようやく『鼻』の実践報告最終章です。
 至る所で提起した「作者なぜ?」の疑問はほとんど解明された(と思っています)。残された課題は二つ。
 一つは「敵意を感じた」と書けば済むのに、作者はなぜ「傍観者の利己主義」と書いたのか。そもそも「傍観者の利己主義」とは何か。
 もう一つ、作者は内供を「明が欠けている」と批判しつつ、「愛すべき内供」とも書いた。これも掘り下げたいと思います。

 内供は鼻を短くしたのに笑われたことを、嘲笑だけでなく敵意が含まれていると感じた。内供の内心を説明するなら、「消極的な敵意」とすれば充分だと思える。ところが、作者は「傍観者の利己主義を感じた」と書いた。なぜ「傍観者の利己主義」だと明示せねばならなかったのか。
 この件をずっと保留としたのは、『鼻』を解釈するなら「敵意」の方がわかりやすいからです。と同時に「傍観者の利己主義」そのものを理解するにはかなりの時間を必要とするので、最後に持ってきました。

 一つの解釈として『鼻』の前半に出ていた「自尊心の毀損(きそん)」と関連づけたと言うか、対照させたことが考えられます。自尊心の毀損とは自分が尊い、大切だと思う心であり、それが傷つくこと。

 なぜ心が傷つくのかと言えば、原因が人間関係にあることは明らか。私たちは海岸で朝日や夕陽を眺めたり、山頂から絶景を見て心が傷つくことはまずない。むしろ「自然に癒される」と言う。
 何が癒されるかと言えば、人間関係に疲れた心。私たちは人とともに生き、人と付き合うことで心が傷つく、傷つけられる。
 もちろん同じ自然でも自然災害によって住みかや愛する人を失えば、心は大きく傷つく。しかし、穏やかな日常生活をかき乱すのはやはり人間関係でしょう。

 人はなぜお互い傷つけ合うのか。夏目漱石はその理由を、『草枕』冒頭において「智」であり、「情」であり、「意地」であると喝破しました。「山路(みち)を登りながら、こう考えた。智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と。
 余談ながら「情に棹させば流される」の意味を誤解している人が多いようです。川の流れに棹を差して「流れに逆らう」という意味ではありません。そもそも棹一本で流れに逆らうなど不可能。
 「情に棹さす」とは集団の感情、時流という大きな流れに乗るという意味であり、それも棹をうまく操って船が難破しないよう世渡り上手であるという意味です。みんながみんな「隣の国と戦争するぞ」と言っているとき、時流に逆らうより乗った方が楽ではありませんか。あるいは、集団が逆らうことを許してくれません。日清、日露戦争しかり。漱石は見ることなかった日中、日米戦争しかり。

 漱石が列挙した三語を「知・情・意」とすると、哲学者カントはこれこそ人間の精神を形作る三要素だと言いました。人は喜怒哀楽の《感情》を生まれた直後から持っている。乳をくれ、抱いてくれと泣きわめき、それが満たされると笑顔を見せる。人として生きる道を、しつけや教育によって学び《知識・知恵》を深める。そして、《意志》の力で正しく良いと思うことを実行し、間違っていると思うことを正そうとする。
 知情意は人間と人間世界を進歩発展させる原動力であるかに思えます。

 これに対して漱石は「いやいや、知情意の発現こそ人間関係をおかしくするんだよ」と語っているようです。
 そこは私も同感で常々思っていることがあります。漱石の言葉をまねするなら、「山道を登りながらこう考えた。自分が正しく相手が間違っていると思うから、夫婦、親子にけんかが起こり、与党野党が対立する。国は他国と戦争を起こす。自分が正しいが相手も正しいと思うことができれば、争いは起こらないだろうに」と。

 漱石の知情意に対する言及はむしろカントと真逆かもしれません。二つ目の「情に棹させば流される」とは人情・感情・時流に棹を差す――すなわち人や世の中と関われば、否応なく流されてしまう。だから、関わらない方がいいと読みとれるからです。では、関わらない生き方とは何か。

 たとえば、『草枕』冒頭を次のように置き換えてみます。
 角(かど)が立つから、智を頼りとして人に働きかけることはしない。流されるから、情に棹さすような、人との関わりは避ける。窮屈だから、意地を通すことはやめる。
 どうでしょう。こうすることで、我々は「とかくに人の世は住みやすい」と思えるでしょうか。
 これこそある意味敗北宣言であり、人や世の中に興味関心を示さず、自分を主張することもせず、傍観者として歩む生き方ではありませんか。

 そして、確かに夏目漱石は文学史的に「余裕派」と呼ばれ、それは「人生を余裕をもって眺める」などと説明されます。
 そうか漱石は人々に傍観者になることを勧めていたんだ――とつぶやけば、彼の小説を一つでも読んだことがある人は「とんでもない」と言うでしょう。
 そこに描かれたのは流れに飛び込み、苦闘する主人公ばかりです。川岸で眺めるだけの人物など皆無だと思います。強いて傍観する主人公を探すなら、『吾輩は猫である』の「吾輩」でしょうか。

 それはさておき、夏目漱石がカントを読んでいたか、芥川龍之介がカントと夏目漱石をどこまで読んでいたか、浅学な私にはわかりません(生存はカント→漱石→芥川)。ただ、芥川龍之介が『草枕』を読まなかったとは到底思えません。『草枕』は一九〇六年の発表、芥川十四歳のときです。
 その後本格的に小説を書き始めたとき、彼は漱石を意識して「傍観者の利己主義」を思いついたのではないか。人間というものは「人の幸福よりも不幸を喜ぶ意地悪な心を持っている。それが人を傷つける」と主張しているかに思えます。これは「情(感情)」の根本を説明する理屈かもしれません。
 よって、『鼻』は「自尊心の毀損」に対して「傍観者の利己主義」を提起している――との解釈が可能です。「傍観者の利己主義」の正体を何も明らかにしていないのに、結構説得力ある見解です。

 ただ、これに関しては、以前《敵意》について考え、我々は人と付き合うとき、いつも誰でも敵意を見せるわけではない。敵意を示す人がいれば、そうでない人もいる。周囲の「笑い」を敵意と感じたのは内供の誤解であり、邪推である。そのとき自分の内心を明かし、周囲の内心を聞いていれば、敵意と感ずることなく、穏やかな関係を築けただろうに……と読み解きました。

 ここで一つ書き忘れたことを補足します。おそらく読者各位は「周囲に内心を聞いたとしても、正直に話してくれるとは限らない」とつぶやいたのではないでしょうか。
 確かに我々は心で思ったことをそのまま話しているわけではない。内心相手を軽蔑したり嫌悪していても、当たり障りのない言葉を吐く。心優しき人は相手を傷つけるようなことは口にしない。平たく言えばうそをつく。《人間はうそをつく生き物である》もまた普遍的真実であると思えます。

 しかし、ここでも反論は容易です。確かに人間はうそをつく。正直に打ち明けてくれるとは限らない。だが、たとえば内供が自身の内心を明かし、相手の内心を尋ねたとき、「全ての人がうそをつくだろうか」と問えば、こう答えることができる。
 もちろんうそをつく人がいる。だが、うそをつかない人もいる
――これもまた具体的真実でしょう。

 人はいつでもどこでもうそをつくわけではない。むしろ一つのうそが次のうそを呼び、それがばれたとき、人間関係が破綻することも知っている。だから、できるだけうそをつかない生き方を心がける……けれど、様々な感情から、ついうそをついてしまう。

 よって、読者がそのようにつぶやいたなら、上記「敵意」のところを「うそをつく」に置き換えてみれば良かったのです。人はみな「誰かに敵意を示して生きているわけではない」ように、「いつでもどこでもうそをつくわけではない」と。
 お気を付け下さい。抽象的な言葉とか一見正しい言葉はしばしば我々を偏った方向に進ませます。それを防ぐには具体例をあれこれ考えることです。

 とは言え、そもそも「傍観者の利己主義」とは何か、じっくり検討する必要があります。
 まずは「傍観者」と「利己主義」の意味を確認するため、生徒に辞書を引かせつつ、次のように板書します。
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1 傍観者……他人に関心がなく、ぼんやり見ているだけで何も行動しない人。
2 利己主義……自分さえよければ、人はどうでもいいいと思うこと。
3 傍観者の利己主義……?
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 傍観者と利己主義、どちらも意味としてはよく知っている言葉でしょう。だが、二つが合体した点は[?]を付けたくなります。
 私は「試みに1と2の意味を単純に足してみよう」と、3の[?]を消して次のように書きます。
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3 傍観者の利己主義……他人に関心がなく、ぼんやり見ているだけで何も行動せず、自分さえ良ければ人はどうでもいいと思っていること。
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 すると、生徒から「123みんな同じ意味に思える」との感想が出てきます。
「そうなんだ。実は傍観者と利己主義者はほぼ重なっている。他人に関心がないというのは言い換えれば自分にしか関心がなく、それは利己主義者の特徴だ。逆に利己主義の、他人はどうでもいいと思うところは傍観者の特徴でもある。つまり、傍観者は利己主義的であり、利己主義者は傍観者になりやすい。
 だから、『傍観者の利己主義』を直訳すると、《事態を傍観するだけの傍観者も利己主義を持っている》となるけれど、むしろ人は傍観者になったり、利己主義者になったりすると理解した方が正しいと思う。
 以前夏目漱石の『人は普段は善人であり、せいぜい普通の人なんだ』との言葉を紹介した。それにならうなら、人はあるとき傍観者になり、あるとき利己主義者になる――ということができる。ずっと一貫して傍観者とか、利己主義者という人は少ないのではないだろうか」

 このように辞書的意味を確認すると、一つ妙なことに気付きます。『鼻』ではこの部分に「消極的な敵意を感じた」とあるからです。しかし、上記の意味に《敵意》は含まれていません
 内供が感じた敵意の理由は「彼らは不幸を克服した私を、もう一度その不幸に陥れようとしている」との理屈です。これは傍観者とも利己主義とも関係なさそうに思えます。敢えてこれにあてはまる言葉を探せば、ねたみ・そねみの嫉妬、うらやましいの羨望などが思い浮かびます。

 たとえば、好きになった人が自分以外の異性と歩いていれば、心穏やかでなく、もしもその異性が不幸になったら「いい気味だ」と感じる。嫌っている知人がある日突然有名人になる。金持ちになってうらやましいと感じる。だが、その人が何か悪いことをしでかし、バッシングを受けて凋落すれば、「ざまあみろ」と思う。嫉妬ゆえ、羨望ゆえに生まれるかすかな敵意でしょうか。

 ただ、内供の長い鼻に関して羨望はおろか嫉妬を覚える人は皆無でしょう。それに近い感情を抱く人を探すなら、内供が寺の長であり、内道場供奉(ぐぶ)という、皇室や貴族とも交流する高僧であることが考えられます。「なぜあの人が」と思う人がいても不思議ではありません。
 しかし、これも他の寺の長とか「なぜ自分ではなく彼が長に選ばれたのか」と嫉妬する(?)高僧候補者に限られます。内供の寺で修行したり、働く僧俗でないことは明らか。『鼻』における人間関係とは内供と僧俗であり、傍観者とは内供の下にいる人たちのことです。
 そうなると「なぜ傍観者の利己主義から敵意が生まれるのか。作者はなぜ傍観者の利己主義を出したのか?」との疑問はますます深まります。

 この疑問に対して「内供の鼻が長かったとき、周囲の僧俗は優越感を持っていた。だが、鼻が短くなったことで優越感が失われ、均衡を取るために笑いが起こった」との解釈があります。
 このように解釈すれば、この「笑い」の根底には内供への敵意があると考えられる。それこそ敵意から生まれる《嘲笑の嗤い》となるでしょう。

 しかし、何か予想外のことが起こってぷっと噴き出したり、大きく笑うとき、人は常に心の底に嘲笑や敵意を持っているだろうか――と問えば、誰でも「そんなことはない」と答えるでしょう。それに、我々は内供の鼻が短くなったとき、周囲の反応を予想して《真の傍観者》を明らかにしました。

 周囲の人々のうち「内供に反感を覚える人、同情する人は傍観者ではない。真の――と言うと妙だけど、真の傍観者とは『内供の鼻が長くても短くてもどうでもいいと考える人』だ。
 そもそも他人に関心がない。だから、反感など抱かないし、同情もしない。「もしかしたら、内供の鼻が短くなったことさえ気付かないかもしれない」と。真の傍観者は内供の鼻が短くなっても、再度長くなっても笑うことはないでしょう。
 では、傍観者の利己主義とは何か。「内供は消極的敵意を感じた」と書けば済むのに、作者はなぜ「傍観者の利己主義」と書いたのか。これはほんとうに難問です。


[ 2 ] 明が欠けた内供、愛すべき内供

 私は「敵意云々はひとまず置くとして、辞書的意味を確認したので、傍観者の利己主義について次の問題を考えてほしい」と言って以下を板書します。

『鼻』の中で「傍観者の利己主義」を最も発揮している人は誰か?

「他人のことには関心がない。他人の内心を考えることなく、自分の言動が相手を傷つけているかもしれないと反省することもない。自分のことだけあれこれ考え、自分の心配ばかりしている人。それは一体誰だ?」と。

 このようにまとめれば、生徒全員「禅智内供です!」と答えます。

「そうだね。傍観者の利己主義を最も持っている人は主人公の禅智内供その人だ。そのことがはっきりわかる表現は冒頭部からあった。『五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の昔から内道場供奉(ぐぶ)の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んできた」と。さらりと書かれていたけれど、これはずっと自分の鼻ばかり気にしていたことを表している。

 それが過去から現在までなら、五十を越え、寺の長となった今だって変わらない。寺には多くの僧俗が出入りした。『内供は、人を見ずに、ただ鼻を見た』とある。それは自分と同じような鼻を見つけて安心したかったからだ。つまり、内供にとって関心があるのは他人の鼻だけだ。ならば、初対面の人と会話を交わしても、彼は相手の言葉を上の空で聞いていた可能性が高い。内供は人を見ずに、ただ鼻を見たんだ。
 内供は周囲の人間は傍観者の利己主義だと感じた。だが、自分はどうかと振り返ることはない。作者はそのような内供に言ってあげた。『あなたこそ他人に関心がなく、自分のことしか考えない、傍観者の利己主義ですよ』と。

 かくして傍観者の利己主義のところには二つの意味があることがわかる。
 一つは内供の内心に涌いた敵意の理由を説明する言葉。もう一つは作者による内供への批判。だから、あそこは『消極的敵意』で終わらせなかった。周囲が傍観者の利己主義を持っているなら、内供もまた周囲以上に際だった傍観者であり、利己主義者であることを明示したんだ」

 そして、作者が内供を「明が欠けている」と批判しながら、かたや「愛すべき内供」と書いた理由についても考えます。しかし、改めて問うまでもなく、生徒の答えは明快です。

「作者はそのような内供を情けない人間として軽蔑しているだろうか。我々読者はどうだろうか」と問えば、生徒からは「軽蔑なんかできない。自分が内供だったら、長い鼻を持つ人間は世の中に自分一人しかいないと思ってとても心細いと思う」などの感想が返ってきます。
「私もそう思う。もしも自分が内供のように長い鼻を持っていたらと想像するだけで、『あなたは自分のことしか考えないひどい人ですね』などと非難できない。だからこそ、作者は『愛すべき内供』と書いたんだろう。

 ただ、物心ついてから内供の四十年間を考えるなら、ある誤解と言うか、勘違いがあったことは明らかで、そこを作者は『明が欠けている』と書いた。内供は周囲の人々について一つの見方しかできなかった。それは『みんな長い鼻を持つ自分を軽蔑している、嘲笑しているに違いない』と考えたことだ。
 そのような人は『ほんとうに愛されるだろうか』と思える。長い鼻を持っているから愛されないのではなく、そのように考えるから愛されないのではないか――と作者は言っているのかもしれない。つまり、『愛すべき』の言葉には、内供への皮肉もこめられていると言える」

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[ 3 ] 内供が陥った□□□過剰

 さらに、私は内供が陥った心の問題を探求します。
「今も触れたように、我々は内供の周囲にいる人の見方をあれこれ推理した。自分の周囲にいる人はいつも誰でも『傍観者の利己主義を持っている意地悪な人ばかりだろうか』と問えば、『そんなことはない』と言える。愛してくれる人がいるし、別に鼻が長かろうが、短かろうが、気にしない人もいる。
 ところが、内供は自分の長い鼻について『周囲の人間はきっと自分を軽蔑している、かわいそうだと思っているに違いない』と決めつけた。本当は周囲の人間は『そんなにあなたばかり見ていませんよ』と言えるのに、本人は『私に注目している、みんな私を見ている』と感じた……」

 ここで「最後のほにゃらら問題」として次のように質問します。
このように自分、自分と自分のことばかり気にしている、気にしすぎることを、漢字五文字の難しい言葉で□□□□□(ほにゃらら、ほにゃらら)と言うんだが、わかるかな?」と。

 これはさすがになかなか出てきません(本文にこの言葉はありません)。
 読者各位はいかがでしょうか。








9[考えるための時間と空白です。末尾二文字は「過剰」]

 末尾の二文字は[過剰]であるとヒントを出すと、『鼻』の前半に「自尊心」が出ていたことに気付く生徒がいます。が、[自尊心過剰]ではない、と振っていくと、[自意識過剰]の言葉が出ることがあれば、出ないまま私が答えを明かすこともあります。

 つまり、内供は周囲の人々が自分をどう見ているか、とても気にしている。その理由は自分が人並み外れた長い鼻を持っているからだと思っている。そう感じるのは仕方ないけれど、こだわりすぎると自分を不幸にし、周囲も不幸にする。それこそ自意識過剰が生み出す悲劇
 もしも誰かから「あなたがどんな外見を持っていようと、ありのままでいいんですよ」と言ってもらえたら、それを得心できたら、内供の自意識過剰は消え去るか、かなり減少したと思える。それが『鼻』の結末ではないか。作者は「自意識過剰を克服する生き方として《ありのまま》があるのではないか」と読者に提起した――と言うこともできます。


[ 4 ] なぜ自分の内心を明かせないのか

 また、《自意識過剰》が持つ、もっと奥深い意味も探求します。
生徒に「内供が明の欠けた生き方から、明のある生き方に進むには、とても簡単な解決法があった。それは《自分の内心を明かすこと、周囲の内心を聞くこと》だ。内供はどうしてそれができなかったのだろうか」と問います。

 この質問もかなり生徒を悩ませます。「自分の心の奥深くを探ってごらん」といろいろ問うていくと、ようやく「怖いから……ですか?」との答えが出てきます。
「そうなんだ。自分の内心を明かすのはとても怖い。人の内心を聞くのも怖い
 たとえば、内供が『私は鼻が長いことをとても気にしている。周囲の人々は私を軽蔑してあざ笑っていると思う』と告白したとしよう。
 相手が『軽蔑なんかしていません』と否定したとき、その言葉を信じられるかどうか。信じられなければ、『そんなはずはない。うそだ』と思って心が傷つく。
 ならば、『そうです。あなたをあざ笑っています。かわいそうだと憐れんでいます』との答えが返ったとしたらどうか。内供はこの答えを聞いて安心するだろうか。「思った通りだ」とつぶやいて結局こちらも心を傷つけるだけ。だから、内供は自分の内心を明かせない、人の内心を聞けない。

 ここで内供さんにとって辛い現実を突きつけねばならない。
「内供には心の底から信頼し合える友達はいたか。どうだろう?」と聞けば、生徒は全員「いなかったと思う」と答えます。

「私もそう思う。なぜなら、内供は自分の内心を誰にも打ち明けていない。周囲の内心を聞くこともしていない。友達になるのに最も可能性があった人は鼻の治療をしてくれた弟子だ。
 あのとき内供は素直に『ありがたい。実はずっと長い鼻を苦にしてきた。いろいろ治療法を試してみたが、全く効き目がなかった。すぐにでもやってみよう』と内心を明かせば良かった。

 だが、内供はそう言えない。それはすでに五十歳にもなっていたし、以前も言ったように、これまでずっとその生き方を続けてきた。それでうまくやってきたのであれば、変えるのは勇気がいる。また、相手は年下だ。長としてのプライドもあっただろうし、自分の内心を明かしてさらに軽蔑され、見下されることが怖かったかもしれない。

 むしろ内心を知られたくないあまり、策を弄して弟子の反感を買ってしまった。その後治療をした弟子は内供の豹変に対して『どうしたんですか』と心配することなく、声をかけることもなく、『地獄に堕ちるぞ』と陰口を言った。内供はたった一人、心からの友達を得る機会を失った。だが、内供は怖かった。自分の内心を明かすこと、相手の内心を聞くことが……。

 他にも軽い気持ちで悩みを打ち明けたけれど、『もう二度と打ち明けないぞ』と思うことだってある。親とか友人に自分の悩みを打ち明けたとき、相手から「そんな小さな事でくよくよするな」とか「その程度のことで悩んでどうする。もっと強くなれ」と言われたら、二度と悩みを打ち明けようと思わないだろう。

 内供の場合はもっと深刻だ。彼は物心ついてから五十になるまで、「長い鼻のことなど大したことではない、どうでもいいことだ」との態度を取ってきた。妙なことに、自分で決めたこの生き方が内供の自由を奪う
 もしも弟子に「実は内心とても苦に病んできた」と告白したとする。内供は相手がどう答えるだろうかと予想する。相手の言葉が「そんな小さな、大したことでもないことを、あなたはくよくよ悩んでいたのですか」だったら、どうだろう。心は深く傷つく。内供はその未来を予想するから、怖くて内心を明かせない。黙っていれば傷つかなくて済む。あるいは、内心を明かさないために、内供は相手を操ろうとした。

 こういうのを自縄自縛と言う。誰も縄をかけていないのに、自分で自分に縄をかけてその縄に縛られてしまっているんだ。
 そして、策を弄するのも利己主義者の大きな特徴だ。利己主義者にとっては自分の利益を最大限受け取ることが最も大切なこと。そのためには何をやったっていい。相手を傷つけるかもしれないなどと考える必要はない。自分のために、自分の目的を達成するために、利己主義者は策を弄する……。

 ここで私自身の体験を語りたい。私が通った中学校は郡部にあって一学年百名ほどの小さな学校だった。その三年間私には友達が一人もいなかった。いや、教室で日常会話を交わし、班行動の時はすぐに固まる数人のクラスメイトはいた。部活は三年間卓球部で、その仲間もいたから、自分に友達がいないなどと考えたことはなかった。

 当時私にはいくつか悩みがあった。将来の目的も夢もなく、なんのために勉強しているのか全くわからなかった。勉強が大嫌いで、中学校を出たら、働きたいと思っていた。成績は良かったけれど、劣等感にとらわれていた。家族は兄が一人の四人家族だが、父や母は優秀な兄に期待して私なんかどうでもいいんだと感じていた。そのような悩みを抱えていたけれど、私は同級生の誰にも自分の悩みを打ち明けたことがない。もちろん父母、兄にも話したことはない。
 あるいは、中一から好きになった初恋の人がいるんだけど、と告白したこともなかった。結局、私は中学校三年間で自分の内心を明かしたことはなく、だから友達の悩みを聞くこともなかった。

 なぜ内心を明かさなかったのか。一つは怖かったからだが、もう一つあった。それは相手を信じていなかったことだ。
 たとえば、ある女の子を好きになったと打ち明けるとしよう。『内緒だよ』と言っているのに、いつの間にか広まって『ひゅーひゅー』とはやされる。当時の言葉をそのまま使うと、『何だよ。お前はあんなブスに惚れたのか』とか、『あいつはサセ子だから誰でも付き合うぜ』とか。そういう風にうわさ話が交わされているのを見ている。だから、自分も誰かに話したら、秘密が漏れるだろうと思った。それはたまらないと感じて話せなかった……」

 もっとも、ブス云々のところは正反対で、「私の初恋の相手は中学校一の美少女だったんだ」と言うと、生徒から「ええーっ!」の声が漏れます。
「まー確かに私はハンサムでもイケメンでもなく、むしろブ男の類だから、とてもあの子が初恋の人だなんて口が裂けても言えないって感じはわかるだろう。

 部活に一人だけ秘密を打ち明けても大丈夫だろうと思える男がいた。だが、話してそれが周囲の知るところとなったら、秘密を漏らしたのはその男しかいない。内供と鼻もたげに失敗した中童子みたいなもんだ。秘密が漏れたら私は彼を決して許さないだろうし、当然彼との関係は壊れる。私は相手を信じることができなかった。

 結局、自分の悩みや初恋のことを誰にも語らないまま卒業した。すると何が起こるか。起こっていたか。誰も私に当人の悩みや初恋の相手を語らないんだ。それはずっと後になって知った。当時の仲間数人が集まって飲み会をやったとき、「中学校のころはああだった、こうだった」と思い出話が出る。秘密を打ち明けてもいいと感じた男が「当時好きだったのは誰それ」と語る。彼の友人たちはそのことをよく知っていた。だが、私には初耳だった。そのとき、ああ自分には中学校の時、心から語り合える友達が一人もいなかったんだと思った。

 小中の友人は今でも会えばちょっと語ったり、ときには集まって酒を飲んだりする。けれど、その後悩みを語り合うようになった友達と比べると、どことなくよそよそしさを感じる。真の友達とはたぶん内心を語り合うことから生まれるんだと思う。でも、中学校までは内供のように、私も自分の内心を語ることができなかった……。

 ただ、自分の名誉のために話しておくと、私は中学校を卒業して都市部の高専に進学した。通学できなかったので寮に入った。初恋の人は地元の普通高に通っていた。私はすぐ彼女に『文通してほしい』と手紙を書いた(生徒から「すごい!」や「積極的ィ!」の反応)。
 ダメモトのつもりだったけど、彼女は『私で良ければ』と返事をくれた。それから半年ほど手紙をやり取りしたし、夏休みには隣町で会って喫茶店で言葉を交わし、神社を歩いたこともある。だから、初恋は一応成就したんだ」
 ――と言うと、またも生徒から「ええーっ!」とか、「ひゅーひゅー!」の声があがります。

 それはさておき、内供に戻ると、彼はずっと内心を隠し続け、長い鼻に関しては「大したことではない」といった感じですましていた。正直になれない、外見と内心のずれ――「これも自意識過剰の持ち主の大きな特徴だ」と補足します。

 しかし、このように解釈してもなお《敵意》は説明されません。傍観者の利己主義に「敵意」は含まれるのか。含まれるとすれば、なぜ敵意が生まれるのか。そして、作者はなぜ「傍観者の利己主義」と書いたのか。次節にて探求します。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:次号まで一つ宿題を。
 利己主義者に敵意が生まれるわけは利己主義が持つ《裏の感情》ゆえです。以下(  )に入る「自分さえ良ければいい」の裏にある感情とは何か。考えてみてください。
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 [ 利己主義者 ]
   表の感情(自分さえ良ければいい)
       ↑
 人 人 人 人 自分 人 人 人 人 人
       ↓
   裏の感情(                   )[20字前後]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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