カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第45号

提言編U 新しい教育システムの構築

 1「中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ――長寿社会の教育」


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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第  45号

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           原則月刊 配信 2020年11月13 日(金)



 このひと月ほど、提言編をどのように書きつなぐか、過去の記述を読み直したり、いろいろ検討していました。
 結果、「新しい教育システムの構築」と題して『一読法からの提言』全体の結論風、まとめ風に書いていくことにしました。「新しい教育システム」とは主として中学校と高等学校6年間の教育に関する提言です。当然「新しくこれこれをしませんか」が主ながら、「やめませんか」も含まれます。

 目指す到達点は以下の通り。
 1 高校入試をやめ、大学入試共通(一次)試験をやめる。
 2 中学校・高校の教育内容を(本当に)半減し、残りは選択とする。
 3 中学校・高校を午前必修、午後選択とする。
 4 午後の選択には校内の活動だけでなく、校外活動(運動系文科系活動・高校生のバイト・自宅での自由研究など)も全て単位として認める。
 5 中学校・高校への再入学・再履修を認める。

 我ながら「愚論暴論ここに極まれりか」とバカにされそうな提言です(^_^;)。「教育内容の半減」なんぞ「ゆとり教育で失敗したではないか」と歯牙にもかけてもらえないでしょう。
 が、「(本当に)半減し」と「残りは選択とする」に注意してください。ここは「あれっ、ちょっと違うな」とつぶやいてほしいところです(一読法なら「違う」と気づきます)。

 全員一律の半減ではない。残り五分は選択にする。国数英に理科社会、音美体に技術家庭など、もっと勉強したい生徒だけに履修してもらおうということです。根底には「もう教育の均等・均質主義、全員一律をやめよう」との思いがあります。

 これを一例として新システムにおける学校とは、生徒がいやいややらされる勉強ではなく、12歳から18歳まで自分の好きなこと、得意なことを勉強しよう(練習しよう)というのがコンセプト。学ぶことが遊びのように楽しい学校をつくる。思い描くのは子どもたちがわくわくするような、「ぜひ行きたい、勉強したい」と思うであろう学校です(^_^)。

 それを実現するため、中高における必修(授業)は午前中のみとして午後は好きなことをやる。全教科だけでなく、部活動のみも可。学校外に飛び出してもいい。そして、英語にせよ、他の教科にせよ、高校卒業後「必要だ」と感じたときに、もう一度再入学・再履修して「勉強し直そう」というシステムの構築です。

 もちろんこれまで述べてきたように、相対であろうが、絶対だ観点別だろうが、生徒への数字による成績評価は全て廃止します。ただし、本人による1年間の活動報告、関係教師・保護者・外部指導者の文章による報告を求めます。

 これらの提言を順不同で――ある意味思いつきで、これから書いていきます。
 まずは上記5項目について総論風に語り、義務教育制度について発想の転換を求めます。長寿社会の到来がキーワードです。

 [以下今号
 新しい教育システムの構築
 1 中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ――長寿社会の教育
 [ 1 ]人はなぜ長寿になったか
 [ 2 ]人の一生を四分割してみる
 [ 3 ]義務教育制度の発想転換
 [ 4 ]ただし高校全入とはしない

 以下次号 新しい教育システムの構築
 2「学校と入試が勉強嫌いの日本人をつくる」


 本号の難読漢字
・自然淘汰(とうた)・無辜(むこ)・丁稚奉公(でっちぼうこう)・破綻(はたん)・開闢(かいびゃく)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』提言編U  45

 新しい教育システムの構築 1

 中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ――長寿社会の教育

[1] 人はなぜ長寿になったか

 さて、日本人(や世界の先進国の人々)はなぜ「人生80年・100年」と言われるほど長寿となったのか。本節はこの考察からスタートします。「人はなぜ文明の進化と共に寿命が延びたのだろうか」と。

 一読法読者なら、ここで立ち止まって「考えたこともなかったが、確かになぜだろう?」と自分なりの答えを探し求めてから本文を読みます。「長寿」の言葉をネット検索してみたり、「人はなぜ長寿となったのか」と打ち込んでみる手もあります。

 ……と書きつつ、別にネット検索しなくとも、ちょっと考えればいくつか思いあたる理由を列挙することができます。
 経済成長によって食べ物が豊かになったこと、医学の進歩、日本の皆保険制度等が貢献したことは間違いないでしょう。ただ、私はもっと別の人類的文明進化的(?)理由があるのでは、と考えてみました。

 簡単に言えば、原始の狩猟採集時代、必要な学びとは仲間内で言葉を通じ合えること、食料に関して「これは食べられる、これは毒だ」という知識と、男は狩りをするための体力・技能、女性は出産と子育ての知恵や経験の伝承で充分だった。

 しかし、今は国語・数学・理科・社会、家庭に技術。国語は現代文に古文・漢文。理科は生物・化学・物理に地学。社会は日本史・世界史、地理に政治経済。体育で身体を鍛え、保健を学ぶ。外国人とも付き合うから世界共通語の英語……と学習の内容はものすごく、ものすごく増えています
 江戸時代の寺子屋から明治時代の小学校でも、庶民の基本は「読み書きそろばん」でした。つまり、国語と算数(ピタゴラスの定理も因数分解もないレベル)。なんという違いでしょう。

 そこで、全く科学的根拠のない推理ながら、私は「人の寿命が延びたのは、文明の進化とともに、学ばなければならないことが増えたからではないか」と考えました。
 造物主としての神を信じるなら、「神は文明の進化とともに人を長寿となるようつくられた」と言えるし、自然淘汰説を採用すれば「文明の進化とともに短命の人間は淘汰され、長命の人間が生き残るようになった」と言うこともできます。

 いや、人間はもともと80年は生存できる生き物であった。だが、生まれてすぐの赤ん坊の死亡率が高ければ、それで10年くらい下がる。幼児期を生き延びても、結核、コレラ、ペストなど感染症や病気による死によってさらに10年下がり、最後に戦争に駆り出された若者や無辜(むこ)の民が死ぬことで、平均寿命は10年下がった。
 かくして、長らく平均寿命50年の時代が続いたけれど、医学の進歩と栄養バランスのいい食事、(日本など先進国では内紛や大きな戦争のない)平和な社会の到来によって「本来の寿命80年が顕在化した」と解釈するのが正しいかもしれません。

 それはさておき、私が言いたいことは以下。
 なんにせよ日本人の寿命は延びた。そして、学ばねばならないことはめっちゃ増えた。よって、義務教育という名の「15歳までに学びの基本を全て教えよう」との考えは高寿命の時代に合わなくなったのではないか――と言いたいのです。


[2] 人の一生を四分割してみる

 江戸時代末期まで日本人の平均寿命は40歳〜50歳であった、と言われます。
 奈良平安の貴族から江戸時代の武士まで、かつて男子の元服=成人式の年齢は15歳でした。「十五にして立つ」の言葉どおり、人の独立は数えの15歳(満14)が区切りでした。15歳までに世の中のルールやもろもろを学び、独立して大人として活動し始める。
 ところが、今や日本人の平均寿命は80歳から90歳です。ほぼ倍になりました。

 40歳→80歳で考えるなら、前者の4分の1は10歳、半分は20歳。そして、後者の4分の1は20歳、半分は40歳。
 江戸時代のころ商売をやっている人は40歳になったら、子どもに家督を譲って隠居したと言います。「私の人生もあと10年か」と思うからでしょう。
 しかし、平均寿命80歳の現在、40歳は働き盛り。病気さえなければ、「私の人生もあと10年か」とつぶやく人などいないと思います。

 たとえば、人の一生を以下のように四分割してみます。
 A 生まれて成長し、いろいろ学ぶ期間
 B 社会に出て働き、結婚相手を探す期間
 C 結婚して子どもを産み育てる期間
 D 子どもを独立させ老後を過ごす期間

 ――と分ければ、人生50年(老後10年〜5年)だと、40歳〜45歳までにABCを終えねばなりません。

 A 学びの期間は15歳まで。独立して働き始める。
 B 結婚までの猶予は5年間。20歳前後に結婚して子を産む。一人、二人、三人……。
 C 20歳から40歳までの間に(15年〜20年)かけて数人の子どもを育て順次15歳で独立させる。
 D よって、子育てが終わるのは35歳から40歳。子を産むことが遅れても45歳までに独立させる。老後の10年〜5年を経て50歳が近付くと孫の成長を見ながら、人生の終わりを意識するようになる……。

 寿命が40〜50年の時代に自分の人生を見通せば、20歳のころには子どもを産んで育て始めねばなりません

 余談ながら、これは貴族や武士の話で、農民、商人、職人の独立はもう少し早くて10歳くらい。独立と言うより親離れであり、見習い生活の始まりです。そのころ親元を離れて、丁稚奉公したり、職人の見習いとして修行を始める。百姓の子どもは10歳になったらもう田んぼや畑で家の仕事を手伝い始めたようです。
 戦前の初等教育は「尋常高等小学校」と呼ばれます。尋常課程(4年)が義務教育で、卒業は10歳でした。その後見習い・丁稚・女工として働き始めるか、親に理解があり、家にお金があれば、さらに2年から4年「高等小学校」(庶民)か「中等学校」(都市部の中流以上)で学ぶ。

 ならば、人生80年(老後10年から20年)の現代において、40年時代のABCは単純計算すると2倍になります。
 A学びの時間は30歳まで、B結婚と出産は40歳まで。C子どもの独立は30年後、そのとき親は70歳前後であり、老後が始まる……と。

 さすがにこれはちと誇張が過ぎます。単純に2倍にはできない。だが、人生80年時代に以前と同じ人生40年時代のルールと言うか、習慣・伝統をそのまま適用することは理に合わないのではないでしょうか。

 かつて20歳前後に意識された結婚や出産は現在40歳前後まで延びています。高齢出産の危険性を指摘されながら、意識は「40歳の出産でもまだ育てられる」に変わっています。また、定年は55歳→60歳→65歳と伸び、年金支給は「70歳から」に変わろうとしています。
 ところが、学びの基本は依然として15歳終了のまま。

 要するに、人生80年時代において基礎的学習の終わりを15歳に設定する理屈はもう破綻しているのではないか。文明の進化、グローバリズムの世の中において学ばねばならないことはあまりにも増えた。「7歳から15歳までの9年間で全て習得するのはもはや無理」と考えるべきではないでしょうか。


[3] 義務教育制度の発想転換

 今でも中学校を卒業したら、無理して高校に行く必要はない。自由意志であり、働き始めて構わないことになっています。
 それなら、学校は15歳までに社会を生きるために必要な知識・技能を授けているだろうか。正直教わらなくてもいいムダな知識が多く、直ちに必要な法律的知識は皆無のままではないか。いや、それは18歳の高卒でも同じことです。たくさんのムダな知識――忘れても構わない知識を丸暗記する(させられる)ばかりで、実生活に必要な知識をどれだけ学んでいるだろうか

 たとえば、みなさんは塩酸、硫酸などの化学式をいくつ言えますか。楕円の面積公式を覚えていますか。
「円の面積ならパイアール二乗と言えるが」と答える昭和世代に対して、平成世代は「パイアールってな〜に?」と答える若者が少なからずいるようです。
 では、これを忘れると、世の中で生きていけないか――と言えばそんなことはなく、みなさんしっかり生きていることと思います。
 実生活においては楕円どころか円の面積でさえ計算することはまずない。むしろ住宅の面積が「何坪か、それは何平方メートルか」の方がよく使われるはず。なのに、後者は算数・数学で教わっていない(と思います)。

 あるいは、日本の1192年は何があったか。
「それならわかる。いい国つくろう頼朝さんだから、1192年は源頼朝が鎌倉幕府を開いた年だ」と昭和世代なら答えると思います。しかし、現在は二重の意味で「ブー」。
 正しくは「1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年」です。そして、それは鎌倉幕府開闢(かいびゃく)の年ではない。今の日本史は「1185年守護地頭制度の確立」をもって「鎌倉幕府の始まり」と理解されている(そうです)。

 もちろんわずか7年違いのこと。別にこの年号を一生覚えている必要はない(高大入試とクイズで正解を言えるために必要なだけ)。むしろ、「頼朝は武家政治を始め、その後武士が日本のリーダーとなった。なのに、同じ武家出身の平清盛はなぜ滅びたのか」という質問こそ答えられるようにしたいものです。

 鎌倉に外人さんを案内したとき、「わからない」とか、逆に(日本の歴史をよく知っている)外人さんから「平清盛は貴族化したそうですよ」などと説明されて「そうなんですか」と答えるなんて恥ずかしいじゃありませんか。

 15歳、18歳で社会に出るなら、知っておきたい、知る必要のある知識がある。
 たとえば、我々は世の中を生きるにあたってどのようなことが罪にあたり、どのような刑罰を受けるか知っているだろうか。人から危害を受けたり、会社から迫害されたとき、どのようにして相手や会社を訴え、どう裁判を進めればいいか、全く知りません。簡単に言えば、セクハラ、パワハラ、ストーカーなどにどう対応すればいいか、学校で学んでいないのです。

 さらに、ある日突然刑事がやって来て身に覚えのないことをあれこれ聞かれ、「あなたはこれこれについて疑わしいので逮捕します」と言われて収監される。そのときあわてふためくばかりで、どうしたらいいのか全くわからない。社会に出る前に、こちらの知識こそ必要だと思いませんか。

 今までは15歳までに国社数理英、保健体育、美術音楽、技術家庭、さらに道徳、生活など(私に言わせれば)ありとあらゆる知識・技能・ルールが児童生徒に詰め込まれました。結果、子どもたちはアップアップしている。学ぶことに疲れ、いやがっている。
 私は現在中学校卒業(15歳)までに学んでいる内容を5年伸ばして20歳にするべきではないか、と言いたい。さすがにそこまでいかなくとも、高卒(18歳)までを学びの基礎期間に変える
 つまり、「現在の中学校卒業までに求められている内容は高卒までに習得すれば良し」とするのです。

 すると、あることに気づきます。公立学校においては中学校入試がありません。同様18歳までを学びの基礎期間とすれば、高校入試は必要ない。むしろそのための勉強をしなければならない分、学ぶことがその場しのぎとなり、いやいやの丸暗記となってどんどん忘れる。
 結論として18歳まで中高の6年間で(全員は)現在の中学校卒業レベルを学び、高校入試は廃止する――そのように変えるべきだと思います。
 平べったく言えば、中学校までの教科書を中高6年間で学ぼうということです。


[4] ただし高校全入とはしない

 読者各位は本節表題の「中学校までの教科書を中高6年間で学ぶ」を読んだとき、「なんじゃそりゃ」と叫んだでしょうか。実はこの表題、当初「長寿社会に合った義務教育の改革」としていました。それをこのように変えたのは「なんじゃそりゃ」と叫んで立ち止まってほしかったからです(^_^;)。
 さらに、前置きで書いた「中学校・高校の教育内容を(本当に)半減し、残りは選択とする」のところで、「ゆとり教育」を想起してもらうため表題を変えました。おそらくすぐに「ゆとり教育失敗」が頭に浮かび、愚論だと思われたことでしょう。

 中高の教育内容を単純に減らすだけでは、教育内容を半減した(厳密には中学校で3割減らして高校で3割増やす朝三暮四的だまくらかしであった、ゆとりなき)「ゆとり教育」復活に過ぎないと言われかねません。

 私の提言はひと味違います。中学校の教科書を中高6年間で学ぶのは「基本科目」として全員対象(午前)とする。そして、現在の高校3年間にあたる内容は「選択科目」として中高6年間(午後)に入れるのです。

 選択科目だから、もちろん全員の履修ではありません。さらに、1科目だけ数時間、1時間ずつ数科目でも良しとする。具体的には「午後の選択は全て国語のみとか社会のみ、数学のみになってもいいし、国社数の3コマとなっても良し」ということです。
 もちろん生徒によっては午後全て体育、技術家庭、美術、音楽となることもある。中高の6年間、午後は好きな科目だけ勉強する――なんて考えただけでわくわくするじゃありませんか。

 ここでもう一つ言いたいこと――それが「教育の均等・均質主義をやめませんか」という提言です。
 全員に同じ内容を履修させるのは中学校の教科書までで充分である。それを3年間ではなく高卒までの6年間で習得する。現在の高校段階の内容は全員に履修させる必要はなく、希望者だけにすればいい、と言いたいのです。

 直ちに出てくる反論は「PISAの到達度試験は15歳だぞ。どうするんだ」でしょうか。試験の結果順位が下がったことが学力低下として「ゆとり教育」廃止につながりました。
 自分で考えろと言いたいところですが、知識面に関しては「日本は15歳ではなく18歳で実施します」と言えば済むことです。15歳で直ちに働き始める発展途上国の人と日本人の15歳を同等にする必要はありません。

 そもそも日本人は言葉の面――ひらがな・カタカナ・漢字の習得という面で大きなハンデを負っています。そこに英語まで学ばねばなりません。諸外国より学びの基礎期間を長く取る必要があるのです。世界(国連機関)から「それでは困る。足並みが乱れる」と言われたら、「我が国はPISAの試験に参加しません」と言うだけのことです。

 ここでもう一つただし書きがあります。
 ただし、私の提言は「高校まで義務教育化しよう」ではない。私は高校全入に反対です。
 理由はとても単純で、勉強――特に五教科の座学をやりたくない子どもたちを、無理矢理学校に行かせる必要はないと思うからです。
 教室に座って我慢する時間は彼らにとって拷問のようなものです。無意味でムダと感じる3年間。いやいややる勉強が身につくはずもありません。
 15歳になって働きたい生徒は中卒後働けばいい。別に学校に縛り付けることはない。勉強が嫌いですぐにでも働きたい。ならば働いてお金を稼げば良いではありませんか。

 あるいは、プロの野球選手、サッカーやテニスのプロを目指して中卒後すぐプロの下部組織に入り、一日中練習したい人がいる。「それも良し」です。
 また、オリンピック目指して校外の施設・指導者の下で活動したい。世界クラスの演奏家目指して一日数時間は練習したい。大学進学も考えれば、高校に行かないわけにはいかない。結果夕方までは学校にいなければならず、夜間に出かけ、睡眠時間を減らして練習するしかない。
 そういう生徒に対しては校内外を問わず、午後は望み通り活動できる中学・高校にしようということです。

 しかし、問題はその後。いったん働いてみたけれど、「もっと学べば良かった、勉強しておけば良かった」と後悔する人が必ず現れます。プロを目指し、オリンピックを目指したけれど、挫折する人も大勢います。
 極端なことを言うと、100人中99人は体育系や音楽美術など芸術系の夢をあきらめる。その世界から離れる事もあるけれど、多くは「趣味」となります。そして、普通の人生を歩こうと決めます。だが、普通の人生を歩むには学びの基礎ができていない、しっかり勉強していなかったことに気づきます。

 そのとき中学や高校への再入学、もしくは(午後の)選択授業参加・再履修を認める(もちろん無試験)。そのようなシステムを構築するのです。そうすれば復学しても意識が違うので、はるかに身につく学びになると思います。

 また、再入学・再履修システムはリタイア後「もう一度いろいろ学びたい」と考える高齢者にも開放される。授業にお年寄りが参加するわけです。
 国語の小説・論説文の授業など、同年齢の生徒だけでなく、現に働いている人やお年寄りが加われば、かなり深い解釈・意見が聞かれると思います。これこそ多様化、混在を認め合う学校ではありませんか。

 おそらくそのような学校では制服は標準服となって着ても着なくても構わない、頭髪もフリーとなるでしょう。なぜなら、じいちゃんばあちゃんに「制服を着なさい」とか「白髪を黒く染めなさい」と言うことはないからです(そうしたい人は別ですが)。

 少子高齢化で過疎地の学校はどんどん統合されています。それでも生徒数は少なく、選択授業をやれば生徒数人となる可能性が高い。そこに成人後の人たちが入れば授業は成立するし、子供たちは多様な意見を聞けます。地方の学校はもっといきいきするでしょう。

 今夜間中学が見直されています。再入学・再履修システムは短命時代には難しかった。しかし、今や平均寿命80歳の時代です。30、40になって「もう一度学びたい」と思った人は中学校・高校で受け入れれば良いのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:世界大注目のアメリカ大統領選が終わり、どうやら花札大統領の敗北に終わりそうです。それにしても僅差でした。もしも新型コロナがなければ(彼よりもっと過激なリバタリアン党からの出馬がなければ)、花札大統領が勝ち、さらに4年世界を分断の嵐に巻き込んだだろうと思われます。
 これを機にいま大国中国小国に徘徊するエゴイズムと独裁のリーダーではなく、大局観に立ち、未来を見通せる理性的リーダーが生まれてほしいと思うのは私だけでしょうか。宇宙船地球号が滅亡に向かっているとき「狭い船内で争ってどうするんだ」と言いたいのですが……。

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「一読法を学べ」  第 46 へ (12月発行予定)

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