ワットの夜明け

ワット驚くアンコール

また旅日記


9 現地最終日午前

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※ 残り物じゃなかった五つの遺跡 [20枚] 

   @ ワット薄曇りの夜明け
   A プリア・カーン……宗教戦争の激烈さ
   B ニャック・ポアン 〜 タ・ソム
   C スラ・スラン 〜 バンティアィ・クデイ



@ ワット薄曇りの夜明け

夜明けのワット第一回廊
 アンコール・ワットからのご来光鑑賞は不発に終わった。私たちは未明五時前には起きだして、まだ暗い中をアンコール・ワットへ向かった。これもまたアンコール観光の目玉であるらしく、ワットの参道には既にたくさんの観光客が集まっていた。セィリーは正門を入った所で、「待っているので、好きな所で鑑賞してください」と言う。山崎嬢が集合時間を指定した。私たちは先へ進み、左側の池のあたりで日の出を待つことにした。日の出までまだ時間があるので、私はM氏を誘って第一回廊へ行ってみた。第一回廊へ至る階段下には看板が立てられ立入禁止になっている。だが、係員はいない。そこに記された開場時刻は過ぎていたので、私たちは勝手に中へ入って行った。回廊内は暗くてしーんとしている。人っ子一人いない。壁のレリーフは暗過ぎてよく見えなかった。がらーんとした回廊はとても静かで、やや蒸し暑くよどんだような空気が漂っている。あるいは、昔まだ観光客が少なかった頃はこんな雰囲気だったのかも知れない。さらに想像したのは、ここがまだ密林に埋もれていた頃のことだ。樹木が生い茂った中で、この第一回廊のレリーフを見出したとき、人は身震いするほどの感動に打たれたのではないか。
 私とM氏は薄暗い第一回廊を一周した。それから、日の出の時間が近づいたので、池の所へ戻った。明るくなったが、まだ薄曇りの状態。結局、太陽は雲に隠れたままで、ご来光を拝むことはできなかった。やがて集合時間になったので、私たちは正門前へ戻った。セィリーが座り込んで携帯電話を使っている。もちろん現地語だ。同行の人からセィリーが婚約していると聞いていたので、私は「カレシへモーニングコールですか」とからかった。彼女は笑っていた。
 結局、私たちはややがっかりの体でホテルへ戻った。
 添乗の山崎嬢は当初ホテルに夕方まで滞在できるよう交渉していた。それだと最後の遺跡観光を、いつものようにお昼寝付きで、夕方までかけてゆったり回ることが出来る。だが、さすがにホテル側はベッドメイキングが終わった後の部屋使用は困るということで、朝の出発時がチェックアウトになった。つまり、午前中で遺跡五カ所を回ってしまうことになる。午後は未定だったが、山崎嬢は昼食をのんびり食べて「オールド・マーケット」と呼ぶ市場に案内するつもりだと言う。そして、夕方ホテルに戻り、ロビーで着替えてから夕食の日本料理屋に行くとのことだ。私はそれは却(かえ)ってラッキーだと思った。そういうことなら、午後は同行者と別れてアンコール・トムのバイヨン寺院をもう一度見に行こうと決めた。M氏が行かないようならバイクタクシーを使い、一人で行ってみようと思った。



A プリア・カーン……宗教戦争の激烈さ

プリア・カーン正門前
 最初に訪れたのはアンコール・トムの北城門を出て一キロ半の所にあるプリア・カーン遺跡。プリア・カーンはアンコール・トムと同じジャヤ・ヴァルマン七世の建立。仏教寺院だが、レリーフはヒンドゥー教と仏教関係が混在しているらしい。私は最終日の見学はメインも終わったし、残り物のマイナー遺跡だろうと思っていた。ところが、このプリア・カーン寺院はマイナーどころではない。かなり広大な寺域を持ち、なおかつ私に強烈なインパクトを与えた。
 バスは西門前の参道に到着した。西門の石塔、外壁の高さ、参道の幅やその両側の石柱等がとても大きい。私は小さな寺院を想像していただけにまずその規模に驚いた。寺院本殿は東西八百、南北七百メートルもあるらしい。参道両側の石灯籠のような石柱はリンガとのこと。このリンガは一本一本に上下二種類のレリーフが刻まれている。下は半分鳥で半分人間のガルーダ像。上部は後背を持つ仏像。ところが、その仏像彫刻だけが全てきれいに削り取られている。辛うじて後背の炎のような形が残っている程度だ。セィリーによると、仏教とヒンドゥー教の宗教戦争の時、勝ったヒンドゥー教側が仏とわかるものだけを削り取ったのだそうだ。
プリア・カーン外壁ガルーダ像
 正門の左側の外壁には、高さ三メートルほどの巨大ガルーダ像があった。ここでツアーとしては珍しく一人の男性が全員の記念写真を撮ろうと言い出した。普通私たちは現地限りの束の間団体客。帰国後交流するわけではないので、業者が用意する全体写真以外、全員分を撮ることはない。しかし、考えてみると、今まで全体写真は全く撮られていなかった。シェム・リアップでは日本の観光地でよく見かける団体専用の写真屋さんがいなかったのだ。取りあえず、いやだとも言えないので、和気藹々(あいあい)の全体写真となった。その後私はふと外壁上を見上げた。すると、そこにも後背ばかりの石仏群がずらりと並んでいる。やはり仏像の部分はことごとく削り取られていた。
 正門を入って百メートルほど行くと、寺院本殿の門があった。入り口はやはり石塔で、上部にはヒンドゥー教の物語がレリーフされている。入り口左に神、右にはアスラーの像が立っている。プリア・カーンとは聖なる剣の意味。だからか、右のアスラーは剣を持っていた。門を入ると内部は完全な廃墟状態。壁や柱が崩れ落ち、真四角の石の塊が散乱している。中央部に通ずる通路だけは見通しが良い。面白いことに徐々に徐々に途中の扉口が小さくなっているのだ。そして、中央を過ぎるとまた少しずつ少しずつ大きくなっていく。セィリーによると、南北も同じようになっているらしい。つまり、東西南北の入り口から入ってくると、ほぼ同じ距離と同じような扉を通って中央にたどり着くのだ。ではそれなら中央に何かものすごい建造物があるかと言うと、単なる空っぽの中央塔があるだけだから面白い。しかし、ここプリア・カーンでは、中央近くの部屋に大きなリンガが残っていた。真四角の石造りの箱の中に円柱の(頭部も丸い)リンガがぴったり入っている。誰かが「リンガって何ですか」と聞いた。セィリーが恥ずかしそうに「男性のシンボルです。外の箱は女性」と答えた。ヒンドゥー教ではシヴァ神の男根を崇拝するらしい。おばさん達から、あらまあと奇妙な歓声が上がる。その後は「じゃあ撫でなきゃ」とわいわいがやがや。若いセィリーや山崎嬢と違って、私たちは中年以上のツアー一行だから、恥ずかしさのかけらもない感じだった。
プリアカーン、アプサラと削られた仏像
 通路を外れた所の柱や壁に女神やアプサーラのレリーフがある。また相変わらず削り取られた仏像レリーフもある。ところが、合掌しているあごひげ顔の仏像は削られていない。不思議だなと思ってセィリーに聞いてみると、ひげを生やした像はバラモン僧で、ヒンドゥー教にあたるから削られなかったとのことだ。この近辺の石仏はどこに行っても徹底した削られ方だ。私が「これが宗教の怖さですね」と言うと、M氏は「昨年アフガニスタンのタリバンはバーミヤンの仏教遺跡を破壊した。それも同じようなものだな」と言う。正にその通りだと思った。タリバンによる巨大仏像破壊のニュースは私も見た。そのときはどこか遠い国の出来事だと思っていた。しかし、こうして東南アジアの片隅でも、かつて同じことが起こっていたのだ。いや、日本だって明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)運動は激しかったと聞いたことがある。あれだって神道による仏教弾圧と言えよう。
 仏教を信仰したジャヤ・ヴァルマン七世は、ここプリア・カーン寺院では、仏教とヒンドゥー教の合体を意図したレリーフ群を造ったようだ。この寺院では当初仏教徒とヒンドゥー教徒がともに仲良くお参りしたのかもしれない。正直な話何だか想像しがたい。その後宗教戦争に勝ったヒンドゥー教側は、仏教レリーフだけを徹底して破壊した。おそらくヒンドゥー教寺院として使用したのだろう。対立する宗派のものは絶対に許容しない頑(かたく)なさと暴力。それは果たして宗教が本質的に持っているものなのだろうか。少なくともそこには個人の判断は入っていないように思える。誰か上位者が命令して、下位の人間一人一人がこの石仏を削り取る作業を行ったに違いない。無信仰の私から見ると、ひげ面バラモン僧も後背を持つ石仏も同じように見える。仏教とヒンドゥー教の統一、合体を目指したジャヤ・ヴァルマン七世の試みは素晴らしいと思う。だが、現実の宗教はそれを受け入れない。私はそんなことを考えながら、削り取られた数多くの石仏群に衝撃を受けていた。
 境内には石の下に根を下ろすガジュマロの木があり、ローソクの木も生えていた。ローソクの木も高さ二〇メートル以上はある高木で、地面すぐの幹が抉られて黒くなっている。そこから、松ヤニのような油分がにじみ出て来るらしい。地面に数センチ大の丸い実がいくつか落ち、その実から赤紫色の羽根が二本飛び出ている。セィリーに聞くと、それがローソクの木になった実だと言う。初日ロリュオス遺跡群で子供達が手にして一ドルで売りつけようとしていたものだ。私がきれいなものを拾ってバッグに仕舞おうとしたら、山崎嬢が検疫に引っかかるかもしれないと言う。外国からその地方の動植物を持ち帰るときは検疫を受けなければならない。どうしようかと思ったが、彼女は見つからなければ構わないと言った。M氏は押し花にしたら大丈夫だと言う。そこで私は花びらの部分だけをティッシュにはさんで持ち帰ることにした。

☆ ヒンドゥーと仏教戦う聖戦で削り取られた仏の数々




B ニャック・ポアン 〜 タ・ソム

ニャック・ポアン
 プリア・カーンを出て東に四キロ近く進む。すると、ニャック・ポアンの入り口が見えてくる。ニャック・ポアンとは「絡み合う蛇」の意味で、やはりジャヤ・ヴァルマン七世が築造した病院跡らしい。なぜ絡み合う蛇なのかは現物を見ればわかるそうだ。王は同種の病院をアンコール全域に百二カ所も築造したらしい。だが、残っているのはここだけとのことだ。
 バスを降りてしばらく歩く。また遠くから民族音楽の調べが流れてくる。そしてすぐにニャック・ポアン西側の窪地(池の跡)が見えてきた。ここには池の跡が合計五カ所ある。中央の池を囲んで東西南北に四カ所。寺院建築で何度もお馴染みの形だ。中央池の中心には高さ数メートルの円形の塔が立っている。その下部の石組みに二匹の蛇が彫られている。二匹は絡み合いながら頭は北を向き、尾は南側でとぐろを巻いている。正に絡み合う蛇だ。今は乾季なので水は一切ないが、雨季になると水がたまるらしい。周囲の池には中央池からの水を受ける石室があり、その中に象、人間、シシ、馬の頭がそれぞれ残っていた。その象やシシ等の口から中央池の水が流れ出す仕組みになっていたらしい。セィリーは「病院と言っても治療をしたりする所ではなく、安息所のような所です」と言った。この石室上部にも様々なレリーフが彫られている。本来はここに観音像があったらしい。ところが、ヒンドゥー教が征圧すると、その像をリンガに変えたとのことだ。
 私はM氏と駆け足で四つの石室を見て回った。そして、南側窪地の外で演奏していた七、八名の人たちに一ドルを恵んだ。何人かの人が演奏しながら頭を下げる。明らかに目が見えないと思われる人もいた。私の前にいた白人女性は現地の五〇〇リエル札を帽子に入れていた。日本円だと二〇円ほど。そうか五〇〇リエル札なら、もっとたくさんの人に恵むことができるんだなと思った。

タ・ソム、ガジュマロの木
 ニャック・ポアンを出てさらに東へ二キロちょっと行く。するとタ・ソムに着く。同じく十二世紀末ジャヤ・ヴァルマン七世建立の仏教寺院。セィリーによると、ここでは建物の中は修復中で入れない。中はかつて蟻塚だらけだったそうだ。外側から見学するだけらしい。そして、反対側の門にあるガジュマロの木がものすごいと言った。
 私たちはバスを下りて建物の外側から中をのぞき見るようにして歩いた。やはり石組みやら壁が崩壊して廃墟の雰囲気。蟻塚は撤去されたのか見ることができなかった。カンボジアの人たちが数名働いていた。ここでは女神像で少し形の変わったのがあった。今まで見たのは大概豊かな胸を隠していなかった。ここで見かけた女神像は胸の真ん中に手を置いていたのだ。
 そこを通って反対側の門へ行く。確かにすごい景色だった。高さ七、八メートルはある石塔の門全体をガジュマロの木が覆っている。しかも、もう一本緑鮮やかな「チレイの木」も絡み合うようにして根を伸ばしている。門を入ると両側の通路にでっかい蟻塚があった。高さ一メートルほどで、白い砂の塊のように盛り上がっている。それが先ほどの寺院本殿の中にもはびこっていたわけだ。もしそれを目の当たりにしたら、ガジュマロの木に覆われた寺院以上に衝撃的だったかもしれない。
 私たちは門の外側から盛んに写真を撮った。白人の団体さんが先に来ていたが、おばさん達は彼らの前でぱちぱち写真を撮る。すると、大柄な男性が「イクスキューズミー」とやや怒ったような声を出した。どうやら自分たちが先に撮ろうとしていたのに、と言いたかったようだ。さすが日本のおばんたちだ。
 バスに戻りながら私は思った。かたやガジュマロが群生していたタ・プロム僧院。かたやタ・ソム寺院跡は蟻塚で覆い尽くされた。今日の見学は昨日までと全く違う趣で、小さな人間と大きな自然の関係を思い知らされたような気がした。面白いなと思ったのは、大きな自然と言っても実際は小さな植物や動物で、それが長い年月をかけて巨大になり、人間の文明を密林の中に埋もれさせてしまうのだ。



C スラ・スラン 〜 バンティアィ・クデイ

スラ・スラン
 王の沐浴場であるスラ・スランはもう何度もそのそばを通った。そして、バンティアイ・クデイはスラ・スランのすぐ近く、道をはさんだ反対側にある。スラ・スランもバンティアイ・クデイもやはり十二世紀末ジャヤ・ヴァルマン七世の建設になる。スラ・スランは東西七百、南北三百メートルはある広大な池だ。
 タ・ソム寺院から南下すると、道路右側に象が四面をにらむ東メボン跡がある。セィリーが「みなさん復習です。あれは何ですか」と聞く。みんななかなか答えられなかった。そこからさらに南下して数キロ行くと、左側に広大なスラ・スランの池が見えてくる。
 私たちはバスを降りて湖畔へ向かった。右側に七、八軒並んだ土産物屋から娘や子供達が寄ってくる。スラ・スランの湖畔まで来たのは初めてだ。乾季だが、池の水はかなり美しい。私たちはかつて王が眺めたであろう西側岸辺にあるテラスに立った。普通の池かと思ったら、池の周囲全体に赤色の石段が六段築造されている。それを見て人造湖だと納得できた。湖面から吹き寄せる風は爽やかだった。左方向に見える道は車やバイクが盛んに往来している。向こうの原っぱでは水牛二頭が角突き合わせてケンカしている。池の真ん中辺りで水牛の姿が浮き沈みしているのも見えた。
 ジャヤ・ヴァルマン七世は巨大なアンコール・トムを造営し、王宮や数々の寺院、病院、この沐浴場を造った。彼はアンコール王朝の中にあって最大にして最強の権力を握っていたに違いない。だが、歴史はいつだって最盛期が衰退と滅びへの始まりでもある。この後これ以上の都城や建造物は生まれず、やがてアンコールから人々が去っていき、廃墟は密林の中へ埋もれてしまったのだ。
 セィリーによると、池の中央には石塔があったらしい。それはポルポト時代に取り壊され、池全体が水田になっていたそうだ。私はこの池が田んぼとなり、そこに稲が生えている様を思い描いてみた。飢えから身を守るためには、遺跡保存よりまずは食料。それもまた人間の営みだと思った。

バンティアイ・クデイ
 その後バンティアイ・クデイ(僧の砦)へ向かう。スラ・スランから歩くこと数分、道を隔てた反対側にバンティアイ・クデイはある。これもジャヤ・ヴァルマン七世建立の仏教寺院。東西七百、南北に五百メートル。石塔の高さはさほどでもないが、寺域全体はかなりの広大さだ。外壁正門にはやはり巨大な四面観音像。参道には巨木が立ち並んでいる。参道をしばらく歩いて、私たちは東側正門から建物の中に入った。正門石塔にも四面観音像のレリーフが彫られていた。その下にはアンコール・ワット第一回廊北壁と同じ絵柄。建物内の通路はやはり中央に行くほど、扉口が小さく狭くなり、中央塔を過ぎるとだんだん広く大きくなる。これは南北方向でも同じとのこと。しかし、南北の通路は石がごろごろしていて歩けない。内部はやはり崩壊が著しい。そして、ここでも仏像のレリーフはけずられ、ヒンドゥーの守り神であるガルーダ像は残されていた。西門まで行くと、ガイドブックによく出ている壁に貼りつき根をむき出しにしたガジュマロの大木がある。そこがこのツアー最後の写真タイムとなった。私が持ってきた四十枚撮りの使い捨てカメラは今日朝の段階で残り五枚だった。昨日までは私やM氏一人ずつの写真を撮ったりしていた。しかし、今日見学するのは五カ所。だから、全て同行の人やセィリーにお願いして、私たち二人が入った写真を撮った。それもちょうどここで終えたわけだ。
 これで全ての遺跡見学は終了。セィリーによると、合計二十三カ所回ったことになるらしい。もう昼近かった。昼食のためバンティアイ・クデイを出て中心街へ戻った。午後はゆっくり昼食を摂り、オールドマーケットで夕方まで買い物をすることになった。バスの中でセィリーはまとめて持っていた遺跡用パスポートを一人一人に配った。他の人にとってこれはもう単なる記念品だが、私は今日の午後まだこれを利用する。私は先ほどセィリーに午後は別行動を取ってバイヨン寺院をもう一度見に行きたい。だから、バイクタクシーを世話して欲しいと頼んだ。山崎嬢も了解してくれた。彼女は午後四時までにホテルへ戻って来て欲しいと言った。M氏は結局行かないことになった。だから、午後は私一人だけでもう一度アンコール・トムのバイヨン寺院を訪ねる。完全保護の団体旅行を外れるのは若干怖さがある。だが、これも旅に来てのささやかなる冒険だ。


→「ワットまた旅日記」 その10





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