ワット乳海攪拌のレリーフ

ワット驚くアンコール

また旅日記


帰国後のメール

また旅日記 トップ

(画像説明はカーソルを画像の上へ)


 さて、これで私の『ワット驚くアンコールたび日記』は終了です。最後に、帰国後認(したた)めたいささかの後日談風考察があります。それを友へのメールの形にて紹介します。


 「帰国しました……」
 
 その後いかがですか。教職時代の友人とアンコール・ワットへ行ってきました。三月二日から六日まで、ツアーですが、カンボジア、アンコール・ワット周遊の旅です。幸い無事故で終えることができました。二日(土曜)は日本の冬から一気に夏(乾季)のカンボジアへ空間移動。その激変ぶりに体調が心配されましたが、身体の方が順応力が強かったようです。時差は二時間だからほとんど影響なかったし、カンボジアの食事も結構日本人に合っていて(他のツアー同行者もみなそう言っていました)、向こうの四日間私は快食快眠快便爽快。じっくりゆっくり現地の雰囲気を味わい、とても快適な旅となりました。
 心配された通風発作も出ず、よく歩き、よく石造りの遺跡をのぼりまくり、今は自宅パソコン机の前にいます。それがまた何とも不思議な急転直下(?)。以前中国北京に行ったときも感じたのですが、今こうして日本にいることに奇妙な違和感があります。
 現地最終日だった六日の午後、私は確かにアンコール・ワットのある町シェム・リアップにいた。カンボジアの若者が運転するバイク後席にまたがり、遺跡の一つバイヨン寺院に向かっていた(これが有名な観光用バイクタクシー)。そして、途中彼と片言の英語で言葉を交わした。さわやかな好青年だった。これはツアーにはなく、自分だけが取った自主的な行動、つまりはささやかなる冒険でした。
 今カンボジアの季節は乾季。日本で言うなら夏真っ盛り。バイクは左右密林だらけの道を風を切って疾駆した。このツアーはずっとエアコンの効いたマイクロバスでの移動だった。だから、現地の熱暑の風を身体で感じたのは初めて。バイクドライビングは爽快感満点でした。
 そして、夕方私はまだシェム・リアップの小さな飛行場にいた。ツアー一行十五名は現地ガイドの娘セィリーさん(日本語ぺらぺら)と別れを惜しんだ。その一時間後我々はまだタイのバンコクにいて、熱帯の暑さを感じていた。それが翌日朝は一気に日本の成田空港。効きすぎの冷房どころか冷え込んだ冬の日本に戻ってきた。そして、今は自宅でこうしてパソコンのキーボードを叩いている。こちらが現実の世界なら、まるで向こうは幻の世界のよう。あるいは向こうが現実なら、こちらが夢の世界なのかも知れない――などと、まだぼんやり夢うつつ状態に陥っています。
 今回のアンコール・ワット周遊はとても得ることの多い充実した四日間でした。
 
 行ってみてわかったけれど、今アンコール・ワットは日本人観光客でブームとなっていました。どこへ行っても日本人の声を聞き、日本人とわかる顔を見かける。団体観光は中年から高齢者で、一人旅や二人旅は若者でした。もしかしたら観光客の半分以上が日本人だったかもしれません。そして、現地の物売り娘や子供達は、遺跡巡りの私たちに近寄ってきて「エハガキ、イチドル! イチドル!」と日本語で叫ぶ。可愛い娘さんはきれいなテーブルクロスや布きれをかざしつつ、いいおばさんや熟年夫人に「オネッサン、コレ五ドルヨー」と言う。現地には日本語学校があり、お土産屋では日本語で話が通じる。それほどまでにアンコール・ワットは日本びいきとなっていました。
 アンコール・ワットに出発する前、私はあまりアンコール・ワットに期待していませんでした。遺跡巡りが面白くなかったら、テレビの電波少年でやっていた日本人の舗装現場にでも行ってみようか、などと思っていました。ところが、シェム・リアップで遺跡巡りを始めた途端、電波少年のことなんぞころりと忘れてしまいました。それほどアンコール・ワットの遺跡巡りは魅力的でした。
 何よりシェム・リアップは日本で言うなら、奈良明日香の雰囲気がありました。アンコール王朝時代の寺院や王宮を中心とした遺跡は著名なものだけでも数十。私たちのツアーはそれを古い時代から新しい時代へと眺めていったのです。約四日間、旅行はお昼寝付きでゆったりしたスケジュールの見学でした。最後に現地ガイドのセィリーは私たちが全部で二十三カ所の遺跡を見学したことになると言いました。駆け足二日程度の旅程なら、最も大きなアンコール・ワットとアンコールトム、そしてもう二つほど眺めるだけで終わったでしょう。言うならば、この旅は奈良明日香地方の主だった寺院や遺跡数十カ所、それらを数年かけて巡る旅を一度にやったのと同じツアーでした。
 アンコールの遺跡群を訪ねていろいろなことがわかりました。感動や驚きがありました。
 例えば一つ二つあげるなら、日本古代に明日香から奈良、京都へと政権がどんどん拡大していったように、アンコールの遺跡も徐々に徐々に大きくなっていました。
 最も新しいアンコール・トム(十二世紀末)の都城は一辺三キロの正方形の中にあります。そして、石造りの寺院や建物も時代と共に大きく複雑になっていく。最後に見たアンコール・トムのバイヨン寺院(仏教)はことに素晴らしかった。私はその第一回廊にあった一大歴史絵巻を描いたレリーフを感激して眺めていました。そこに描かれていた戦争や行軍、日常生活の様子はまるで平家物語をヴィジュアル化したかのようなリアルさを持ち、細かな人間ドラマ、人民の暮らしを描いていました。それも、自国クメール軍と敵国ベトナム軍を全く同じ比率で描いているのです。概して歴史を描いた遺物・書物は自国(自民族)に都合の良い歴史記述を残します。ところが、この壁画レリーフは自国と全く同じ比率で敵国を描いているのです。それは仏教寺院のレリーフとは言え、驚くほどの大らかさと懐の深さでした。
 そして、このバイヨン寺院を初めとして残された寺院などはほとんど正方形。普通の建物は表門があって裏門があり、左右の門があるでしょう。だいたい表から入るだけで、裏口は出るところであっても入る門ではない。ところが、アンコールの寺院類はだいたい左右対称、表裏対称(?)の完全シンメトリーが多かったのです。典型的な建物配置は、中央石塔があり、その周囲東西南北にやや低い四つの塔がある。つまり、表も裏もなく、右も左もない。どの門から眺めても同じ景色であり、どの門から入っても中心までほぼ同じ距離と壁や柱が続く。アンコール・トムは一辺三キロの正方形でした。外郭の城壁には東西南北四つの門(ともう一つ門)がある。中心には王宮ではなく、バイヨン寺院がある。だから、どの門から入っても、ちょうど一キロ半でバイヨン寺院にたどり着くのです。そして、バイヨン寺院には東西南北全てに入り口があり、そこから見上げれば、全部で四十九の石塔のうちいくつかが見え、四面観音像のお顔を拝むことができる。いや、もっと正確に言うと、建物は斜めから眺めても全く同じに見える。それはまるで人々がどの方角から来ても、必ず中心部の神(仏教だから仏?)や真理にたどり着けるのだと教えているかのようでした。
 だが、その一方で仏教とヒンドゥー教の悲惨な宗教戦争の傷跡も見かけました。特にプリア・カーン寺院はすごかった。この寺院も東西南北どの門から来ても全く同じ情景と距離の完全正方形タイプです。だが、東西通路以外は崩壊の痕が著しい。城壁や内部には至る所に仏教とヒンドゥー教関係の仏像やレリーフが刻み込まれている。その中で仏教関係の諸仏だけ顔や全身が削り取られていたのです。バラモン(ヒンドゥー教)の諸仏・神を描いたレリーフはそのまま。大から小に至るまで、それは完璧といっていいほど漏れがありませんでした。カンボジアはヒンドゥー教―仏教―ヒンドゥー教―仏教と変遷したようです。そして、ヒンドゥー教が宗教戦争に勝ったとき、そのような破壊活動を行ったのです。
 プリア・カーンはジャヤ・ヴァルマン七世が仏教とヒンドゥー教を合体しようとして建立した寺院のようです。その破壊の爪痕を見る限り、統合の試みは失敗に終わったと言えるかもしれません。だが、おそらく彼の治世の何年間かは仏教徒とヒンドゥー教徒が仲良くプリア・カーン寺院に参詣したのではないでしょうか。カンボジアに出かける前、私は自分の小説にキリスト教、イスラム、仏教の統合・合体を構想しました。今そんな話をしたら、アホな奴と笑われかねません。しかし、過去にそのような無謀と思える試みに挑戦した王がいたとは思いもしませんでした。私の構想はあながち破天荒な考えではないのかもしれないと、勇気づけられた気がしました。
 このアンコール・ワット周遊の旅には、一日一日に新しい発見があり、いくつかの偶然もありました。そもそもアンコール・ワットに行くこと自体友人が決めて私は乗っかっただけの偶然でした。初日さっそく一つの偶然が起こりました。午前と午後の行程が入れ替わり、私たちは着いて早々トンレサップ湖を見に行ったのです。行程がひっくり返ったのはたまたまでした。そのとき私は湖まで数キロに渡って続いたスラム街のようなヤシ葺き掘っ建て小屋を見ました。私はその風景に少なからず衝撃を受け、湖畔では一ドルを乞う幼い子ども達にまとわりつかれました。赤ん坊を胸に抱いた女の子はとても切なげに一ドルを求め、土色の水の中に足を踏み入れてまで必死に手を差し伸べて来ました。その眼差しはずっと私の心に焼き付けられ、私はお金を恵まなかったことを後悔しました。それ以後私は遺跡周辺の子ども達をとても注意して眺めていました。そして、二日目の夜私は初日に起こった偶然の意味するところにやっと気づいたのです。まずはカンボジアの子供達を見なさい。それも最底辺の子供達の姿を。それは私にとってメッセージだと思いました。そして、後半はひたすら遺跡群に目を奪われ、何よりたまたまバイヨン寺院を二度訪れる機会があり、その歴史レリーフに大感激したのです。
 今カンボジア、シェム・リアップでの数日間を振り返ってみて、この旅は私にとても大きなものを与えてくれた。ある意味自分の進むべき道を(それが正しいと)指し示してくれたような気がします。
 偶然と言えば、帰国後ある歌番組を見ていたら、またもカンボジアが出ていたので、面白いなと思いました。十代の男女二人組の歌手がカンボジアを訪ねた話でした。そのうち男の子は昨年失踪騒ぎを起こしたのですが、心機一転を期してカンボジアの子ども達へ靴を送る企画を行ったようです。番組はその二人が現地を訪れ子ども達と交流する様子を放映していました。彼らは現地の子ども達との交流に感激してたくさんの涙を流していました。最初はどこの国かわからなかったのですが、「オークン(ありがとう)」の言葉を聞いてカンボジアだとわかりました。偶然とは言え面白いなと思いました。彼らのように今の日本の若者にカンボジアの姿を見せることができたら、素晴らしいだろうなと思ったりしたものです。
 そんなことをいろいろ考えつつ、最近もよくシェム・リアップのことを思い出します。ガイドのセィリーは今頃例の達者な日本語で、日本人ツアー客を案内しているだろうなと思ったりします。
 今日私はふっとワット第一回廊にあった「乳海撹拌(かくはん)」図を思い出しました。ヒンドゥー教天地創造の物語をレリーフ化したものです。神々とアスラー達が大海の上で巨大な蛇を綱として綱引きをする。そして、海をかき回し様々な創造物(当初の目的は不老不死の妙薬)を生み出す。第一回廊一辺二百メートルの壁に刻まれた等身大の神々とアスラーの綱引きはど迫力でした。綱引きの下の海には様々な魚が多数描かれていました。それが生み出された生命ということになるのでしょう。物語の中身はもちろん単なる創造伝説に過ぎません。しかし、私はふっと思いました。これってもしかしたら単調にしてマンネリズムに陥りがちな日常生活をかき回し撹拌する――その大切さを教えているのではないかと。
 日々の多忙とストレス、新鮮みを失いがちな他者や家族との人間関係。それはまるで流れることなくよどんだ川。どろどろとからみつく泥のように停滞した海。それは新鮮な感情を生み出してくれない日常であり人間関係。乳海撹拌とはそこをかき混ぜて新たな何かを生み出すことではないか。そのきっかけが「偶然」の出会いと出来事なのかもしれない。偶然の出会いや出来事が日常をかき回し、撹拌してくれる。さらに、日常から非日常世界へ旅立つことも撹拌になるだろう。日々の生活の中から抜け出せないなら、向こうからやって来る偶然をしっかりとらえること。その偶然の出会いや出来事から新しい何かを感じ取ること。そして、偶然がやって来なければ、こちらから出かけていって偶然を起こすことだってあるだろう。いつもは行かない所へ出かけ、いつもと違う行動を取る。ちょっと遠い所へ出かけ自然や過去の遺物に触れる。もっと遠い外国へ出かけ、違う国、違う民族の人たちと触れ合う。旅とは人の日常をもっともリフレッシュしてくれるもののような気がします。それが小さな旅であっても、大きな旅であっても。(了)

2002年3月28日



また旅日記 トップ






旅に学ぶ トップ

HPトップ



Copyright(C) 2003 MIKAGEYUU.All rights reserved.