『空海マオの青春』論文編 第 1

 始めに その1

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第 78―論文編1号

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           原則月1回 1日配信 2013年 5月 1日(水)

『空海マオの青春』論文編 1 始めに その1

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 本号の難読漢字
・四苦八苦(しくはっく)・雅(みやび)・滑稽(こっけい)・生老病死(しょうろうびょうし)
・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)・自足(じそく)
 以下は造語
・四喜八喜(しきはっき)・尊愛会喜(そんないえき)・愛別離喜(あいべつりき)
・知足得喜(ちそくとっき)・五蘊盛喜(ごうんじょうき)
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*********************** 空海マオの青春論文編 *********************************

 ご無沙汰いたしております。極寒の冬から駆け足の桜を経てようやく暖かくなるかと思いきや、4月末になっても寒の戻りが続きました。北国では季節外れの雪さえ舞ってまっこと自然は気まぐれです(^_^)。

 さて、『空海マオの青春』論文編――4月1日メルマガ配信開始を、と考えていました。
 しかしながら、論文編の巻頭に置くべき「始めに」をあれこれ練ってなかなかまとまらず、ひと月遅れとなったこと、お詫び申し上げます。
 「始めに」の内容として空海を書くに至ったわけ、空海青春期の謎を解くことができた経緯など、短くまとめようと思ったのに、いざ書き始めたら難渋して泥沼にはまってしまいました(^_^;)。

 そうこうしているうちにメルマガ発行主体から、「最近空海のメルマガが発行されていませんね」とやんわり警告が来ました。二ヶ月発行しないと送付されるのです。

「さて困った。取りあえず何か書いてつなぐか。別メルマガ《狂短歌人生論》の最新号をこちらに転載しようか」などと考えていたとき、ふとあることを思い出しました。
「そうか。狂短歌人生論メルマガの創刊号こそ『空海マオの青春』論文編の巻頭にふさわしいではないか」と思いついたのです(^_^)。

 それは「四喜八喜の人生」と題したエッセーで、2004年2月に始めた『狂歌今日行くジンセー論』の創刊号に置いた文章です。
 それは当時私が到達した境地というか、ある見方を提示しています。やがて空海を研究し、小説化することになるとは思いもしなかった頃の文章です。
 しかし、今振り返れば、それは間違いなく空海に至る初めの一歩としてとらえることができます。
 空海論文編の「始め」としてまずはこれをお読み下さい。 m(_ _)m


 ※注……《狂短歌》とは私の造語で、五七五七七の短歌形式ながら、短歌ほどの雅(みやび)がなく、狂歌の滑稽もない。いわば交通標語の五七五に似ている――との意味で狂短歌と名付け、それを冒頭に掲げてエッセーを展開しています。


 以下『狂短歌人生論』創刊号

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 (^_^)今週の狂短歌(^_^)                2004年2月4日


 ○ 四苦八苦 悩みばかりの人生と 嘆かず見ようよ 四喜八喜


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 (^O^)ゆとりある人のための15分エッセー(^O^)

 【 四喜八喜の人生 】

 人生について考えていたとき、ちょっと面白い親父ギャグを思いついた。
 題して「四喜八喜の人生」――もちろん有名なことわざ、「四苦八苦」の逆パターンだ。

 四苦八苦とは人がとても苦しいとき、一生懸命がんばっているときによく使われる言葉。しかし、この言葉は仏教本来の意味を持っている。

 それはまず人が抱える四つの苦しみ――「生老病死」の四苦を根本として、さらに次の四つの苦しみを言う。

 第一に、愛別離苦(あいべつりく)
 第二に、怨憎会苦(おんぞうえく)
 第三に、求不得苦(ぐふとっく)
 第四に、五蘊盛苦(ごうんじょうく)

 仏教では生老病死の四苦と、この四苦を合わせて《四苦八苦》と呼んでいる。

 生老病死の四苦とは――生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、そして死ぬ苦しみの四つ。正に人間の不安と恐怖、悩みと苦しみをずばり言い得て素晴らしい(?)言葉だ(^.^)。

 だが、私は思う。
 人生とはかく言うほどに苦しみの連続なのか。そんなに苦しくつらいことばかりなのか。むしろ、これを逆に言うことはできないだろうかと。

 そのようなことを考えているとき、ふと「四喜八喜(しきはっき)」の言葉が浮かんだ。人生における四つの喜び、さらに四つの喜び……人にはそれがあるではないかと。

 まずは生老病死の《喜び》(^_^;)について。

 第一に生きることの喜び――
 人生には自然の美しさに触れ、人の温かみや優しさに触れ、家族・友人と共に生きる喜びがある。学ぶことで新たに知る喜び。働くことで自己を実現する喜びがある。
 仕事は確かに辛いこと、いやなこと、苦しいことが多い。だが、働くことで張り合いと生き甲斐を持てる。あるいは、趣味やボランティアによって生き生きと活動することができる。それは人生における《喜び》と言えるのではないか。

 第二に老いる喜び――
 年を取ってようやくいろいろなことを味わえるようになる。食べること、遊ぶこと、仕事。若い頃はただがむしゃらに《食べる》だけだった。年を取るにしたがってようやく《味わえる》ようになった。そして、高齢者になったときは《長老》として後輩や若者達を見つめる喜びがあるのではないだろうか。

 第三に病気になる喜び(^.^)――
 病気になって初めて体験する感情がある。それは自分を「気にかけ、心配してくれる人がいる」とわかる感情だ。普段はしばしば口ゲンカをしたり、煙たい存在の家族であっても、病気になって「自分は愛されているんだ」と気づかされる。この人は《かけがえのない存在》であることに気づく。
 あるいは、病気になり、痛い目にあってやっと生活習慣が変えられる(^_^;)。病気になって初めて弱々しい人の気持ちがわかるようになる。それは病気になることで得られる、新たな喜びと言えないだろうか。

 第四に死ぬ喜び(^_^;)――
 死とは現世を離れ、違う世界へ旅立つことへの期待感……ということもできる。
 ある漫画家は人が永遠に生き続けることの苦痛を描いている。人にとって不老不死は永遠の願望かも知れない。だが、永遠に生き続けることが果たして幸せかどうか、ちょっと想像しただけですぐにわかる。いつかピリオドが打たれる。だからこそ限りある人生が光り輝く

 最後はかなりこじつけ臭いと言われそうだ(^.^)。
 しかし、私は「生老病死」とは四つの喜びではないかとあえて言いたい。
 もっと厳密に言うなら、四苦と四喜は五分五分だと思う。つまり、生老病死とは四つの苦しみであると同時に、四つの喜びでもあるのだと。
 もちろん四喜の前提として飢えがなく、戦争がなく、奴隷ではなく、差別や迫害を受けない世の中である必要があるだろう。

 さて、それでは愛別離苦をはじめとして、さらに四つの苦しみを四喜とこじつける方はどうだろう(^_^)。

 第一に愛別離苦(あいべつりく)――
 確かに愛する人と別れ、離れなければならないことはつらい。しかし、別れがあるからこそ新しい出会いがある。
 愛する親が死ぬことは悲しい。だが、もはや自分を束縛する根源がなくなる。愛する伴侶、愛する我が子が死ぬことはもっと悲しくつらい。ときには「一緒に死んでしまいたい」と思うことさえある。
 だが、悲しみを乗りこえれば、自分が生きて残された意味や使命に気づくことがある。そして、今までと違う人生をゆっくり歩き始めることができる。

 第二に怨憎会苦(おんぞうえく)――
 確かに人はどこかで怨(うら)み憎む者と会わなければならない。それはいやなことだし、心は不快と嫌悪でいっぱいになる。そいつに頭を下げなければならないときは、もっとつらくて苦しい。
 しかし、離れ小島で一人暮らしてみればすぐにわかる。ひとりぼっちで人恋しいとき、あんな奴でもそばにいたらと思う。普段はいみ嫌っていた相手でも、二人だけで暮らしてみれば、誤解していたことに気づくかもしれない。

 どこに行ってもいやな人間はいる。だが、周囲の人間全てがそうではない。怨憎会苦(おんぞうえく)の裏には「尊愛会喜(そんないえき)」があると私は思う。愛し尊敬できる人と出会う喜びだ。
 その人と一緒にいると心が落ち着き、楽しくなる。わくわくする。友と一緒に遊ぶことはこの上なく楽しい。恋は成就しなければ苦しみばかりだけれど、出会いなくして恋は生まれない。つまり、人生には人と出会う喜びがあるのだ。
 そして、過去を振り返ってみたとき、「あの人と出会ったからこそ今の自分がある」――そう思える人が何人もいる。人と出会う喜びはこの人生にしかない。何と素晴らしいことかと思う(^_^)。

 第三に求不得苦(ぐふとっく)――
 確かに求めて得ることができないのは苦しくつらい。物質的なものであれ、精神的なものであれ、我々にはほしいものがたくさんある。
 だが、「限りないものそれは欲望」という言葉もまた真実。求めるばかりで満足を知らないと、この苦しみは死ぬまで終わらない。大切なことは《知足》(ちそく)――足るを知ることではないか。

 足るを知れば、求めて得ることのできない苦しみはその途端に喜びに変わる。ああ、これを得ることができた――その喜びが心からわいてくる。
 何かを求めて生きてきた。そして、これまで生きて獲得したものがある。取りあえずそこで立ち止まって振り返るなら、自分はなんと多くのものを得てきたことかとわかる。

 ただ、満足することと、そこで求めることをやめることは違うだろう。私は足るを知りつつなお求めていいと思う。求めることは生きる上での張り合いを与えてくれるからだ。
 そもそも求めること自体は苦しみでも悪いことでもないだろう。満足できないことが苦しみを生むのだ。「こんなに求めているのに得ることができない。苦しい」と目をぎらつかせるのではなく、「今はこれだけを得た」と満足する。
 求不得苦ではなく《知足得喜》(ちそくとっき)――足るを知れば、人生はいつでもどこでも喜びが得られる(^_^)。

 最後に五蘊盛苦(ごうんじょうく)――
 五感(五官)が盛んであること。これはもう苦しみでも辛さでもない。ものすごい人間的感情であり、生命の高らかなる賛美の表現だ。それはむしろ「五蘊盛喜(ごうんじょうき)」と言うべきだ。

 苦しみや悲しみ、自分の痛みと人の痛み、人間以外の動物の痛み、物の痛み……それを感ずることのできる人。それこそ五蘊(ごうん)が豊かで盛んな証拠。素晴らしい人間ではないか。

 逆に、痛みを感じない人。人の痛み、動物の痛み、物の痛みを感じない人……そのような人は強い人と思われている。だが、鈍感で無神経な感性の持ち主であり、やせ細った心の持ち主ではないか。
 傷つくことのできる人、人の痛みを感じることのできる人こそ素晴らしい。五蘊盛苦ではなく五蘊盛喜――五蘊が盛んであることは喜び以外の何ものでもない。

 生老病死の四喜、愛別離喜、尊愛会喜、自足得喜に五蘊盛喜。四苦八苦の裏面には四喜八喜がある――私はそう思う(^_^)。

 いや、表が喜びで、裏が苦しみと言ってもいい。そして、苦しみを表に出すか、喜びを見いだして表に出すか。それはその人の生き方しだいではないだろうか。


  ○ 苦しみと 悩みを超える四喜八喜 生老病死に喜びを見る


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 (^.^)忙しい人のための2分エッセー(^.^)

 四喜八喜(じいちゃん風に)

 おっほん、四苦八苦とはじゃな、仏教用語で言う四苦+四苦=八つの苦しみのことじゃ。それはまず生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、そして死ぬ苦しみの四つじゃ。みな覚えがあるのう。うまく言ったもんじゃて。

 生きていくには、さらに四つの苦しみとも闘わねばならん。愛する人と死に別れるつらさ。毎日毎日いやな奴と会わなきゃならんし、ほしいものは手に入らん。つらつら考えてみるに、どうしてこんな悩みや苦しみから逃れられんかと言うと、それは苦しみや痛みを感ずるこの心があるせいじゃ――てなわけで生じる四つの苦しみ。それを合わせて、仏さんは四苦八苦と言うたわけじゃな。

 だがのう、人生はそれほどまでに苦しみの連続なんじゃろうか。それを逆に言うことだってできるんではなかろうか。

 例えばじゃ、生きていてああ良かったと思える喜び。誰でもあるんじゃないかのう。年をとってようやくものごとがじっくり味わえるようになる喜び。若い頃はただもう食うだけじゃった。
 あるいは、病気になったり、落ち込んだ時、初めて家族や友人がいるありがたさがわかる。最後に生命時間を全うしたときには、他の世界へ行く喜びがあるかもしれん(^_^;)。

 さらに、生きていく上で起こる四つの苦しみ。それを喜びと取る方はどうじゃろう。
 別れがあってこそ新しい出会いがある。愛する人と死に別れるのは確かに辛く苦しい。じゃが、その悲しみを乗りこえられれば、自分が生きる意味がわかる。使命に気づいたりする。そして、じっくり生きることの大切さを実感するじゃろう。
 それに人生いやなやつばかりじゃない。愛し尊敬する人と出会う喜びがあるではないか。

 いろいろなものをほしいほしいと嘆く前に、ここまで生きて得たものがある、と振り返ってみなされ。得たものに気づけば、足るを知る喜びが湧いてくるじゃろう。

 最後に、喜びや楽しさを感ずるのは心じゃ。自分の痛みと人の痛みを感ずるのも心。そんな心を持っている人こそ素晴らしい。五感が盛んであることは人間の証であり、喜び以外の何ものでもないではないか。

 ある出来事をただ苦しみばかりと取るか、その中に喜びを見いだすかは、本人次第と思うんじゃ。四苦八苦とは四喜八喜ではないじゃろうか(^o^)。


 ○ 苦しみと悩みを超える四喜八喜生老病死に喜びを見る


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 繰り返しになりますが、2004年の段階で私が仏教、空海なる存在についてどれだけ知っていたかと言うと、百科事典程の知識もなかった――と思います。
 創刊号の後記にも「本日より創刊号開始です。ちと宗教的じゃな……と思われるかもしれません。しかし、私は平均的日本人がそうであるように無宗教を自覚しております。何かの宗教に連れて行こうという意図はありませんのでご安心を」と書きました。当時《四苦八苦》を《四喜八喜》と取る見方は、仏教用語を借りた思いつきに過ぎなかったのです。

 ただ、人生を苦しみの連続と見るか、それとも歓喜あふれる人生ととらえるか。
 私が十数年前に到達した境地は正に後者であり、その思いをこれまで小説やエッセーに書いてきました。今振り返るなら、その結果として空海の姿が見えてきたと言えそうです。
 どうやら空海は人生を充実させて生き、歓喜あふれる生き方を説いているようだ。それは私の到達点と一致している……その感触から私は空海を読み始めました。

 偉大な歴史的人物と平々凡々たる自分を並置するなど、おこがましいことながら、私は空海を読めば読むほど確かな手ごたえを感じました。その結果、様々な謎を解くことができたと自負しています。
 次号より考察結果を具体的に書いていきます。ご一読いただけると幸いです。

 なお、本稿はわかりやすく自由気ままな論文を目指しています。メルマガ冒頭の大見出しを顔文字で囲っているのはその表れです。顔文字を多用するのが私のエッセーの常套手段でもあります(^_^)。
 さすがに小説編では遠慮しましたが、論文編ではふんだんに使いますので、よろしくお願いいたします。(次号は6月1日発行を目指します(^_^;)


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
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