『空海マオの青春』論文編 第 2

 「始めに その2」

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第79―論文編 2号

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           原則月1回 1日配信 2013年6月1日(土)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字――なし
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 始めに その2「理屈と感情」

 空海論文編を開始する前に、もう一つ語っておきたいことがあります。

 それは《理屈と感情》ということです(^_^)。

 よく言われる言葉として「理屈はよくわかっている……でもそう思えないんだ」というのがあります。

 たとえば、一昨年の東日本大震災――
 巨大地震だけでも未曾有のことなのに、大津波で家族を失い、同僚、友人を失い、家を失った。そして、自分は生き残った。
 すぐに立ち直って働いたり、復興活動に励む人もいます。しかし、悲しみに打ちひしがれ、何もやる気が起きない人も多数です。
 どうしても元気が出ない人は「いっそのこと自分もあの津波で死んでしまえば良かった」とまで思う。

 そして、身近の人にそのようなため息をもらせば、相手は言います。
「悲しいのはよくわかる。でも、いつまでもくよくよしたって仕方ない。前向きに生きなきゃ。あなたが元気に生きること。それが亡くなった人たちの願いだよ」などと励ましてくれる。
 確かにそのとおりだ。前向きに、積極的に、明るく生きなきゃと思う。
 でも……できない(--;)。

 なぜできないかと言うと、相手の言葉が理屈だからです。人は理屈では明るくなれない。
 自分の感情が――心からそう思い、心からそう感ずることができなければ、そちらへ進めないのです。

 もう一つ。相変わらず振り込み詐欺が絶えません。

 最近では高齢者だけでなく、中年のお母さん方も引っかかるとか。
 詐欺のやり方が巧妙で言葉巧みということはあるでしょう。しかし、テレビなどでは盛んに防御法を教えています。それでも、つられて金を振り込む人、自宅に来た受取人にお金を渡す人が後を絶ちません。あれは一体なぜか。

 私は思います。それは「息子の一大事になんとかしたい」と思うのは感情で、「この話は詐欺かもしれないから気を付けて」は理屈だからだと。

 理屈は大概感情に負けます。パニックに陥った感情は冷静な理屈なんぞ蹴散らすのです。

 かくしてお母さん方は息子の危機に対して「さあ大変だ!」とお金を用意すべく銀行に走る――私はそう分析しています。

 また、感情というのは不思議なもので、たとえば《セクハラ》問題。

 とある会社で、男性社員や上司が女性社員の肩に手をかけ「がんばれよ」と言ったとき、彼女がその人に好意を抱いていれば、それは親愛の情が示されたと感じるでしょう。最低限好意も嫌悪もない中立状態なら、本人は別に気にしないと思います。
 けれども、忌み嫌う同僚、上役だったりすると、その行為はセクハラと感じるはずです(^_^;)。

 いじめの場合はどうか。
 どこかでいじめられた子がこの世の地獄だと思って自殺する。それが全国ニュースで流される。
 そのたびに「命の大切さを学ぼう。いじめてはいけない」と言われる。識者・評論家がテレビで訴え、全国の学校では校長先生が「いじめてはいけない」と児童・生徒に語りかける。
 この言葉は万人が認める真理、真実の言葉でしょう。しかし、いじめはなくならない
 一体なぜか。

 私は思います。それは「命が大切だ。いじめてはいけない」が理屈に過ぎないからだと。

 このときいじめに潜んでいる感情は「弱々しい奴、気にくわない奴をいじめるのは楽しい、面白い」です。
 ある種の子ども、ある種の大人はこの感情にとらわれる。
 だから、いじめはなくならない。昔もあったし、今もあるし、将来もいじめは続く。
 なぜなら、いじめることは楽しいのだから(-_-)。

 こうして考えると、「命が大切だ。いじめてはいけない」なる言葉は真理かどうか疑わしくなります。
 この言葉は子どもや大人が心からそう思い、心からそう感じて初めて真理になるのではないか。
 逆に言うと、《どんなに正しい理屈も、感情がともなわなければ真理にならない》のだと思います。
 いじめの場合は犠牲者が出ることで、ようやく心から「いじめは良くない」と感じられるようになるのです。

 この最大の例が戦争でしょう。「平和は正しく、戦争は悪」――これは真理か?

 おそらく世界中の誰もが「それは真理だ」と答えるでしょう。
 普通の人も、議員さんも、大臣、大統領も。戦争のために日々訓練している兵士だって。「戦争は良くない。平和が大切だ」と答える。
 ならば、なぜ戦争はなくならないのか。二つの国や集団がいつ戦争が起こっても不思議ない対立・緊張関係に陥るのか。
 これもいじめと同じです。「平和は正しく、戦争は悪」――この言葉も《理屈》に過ぎないのです。

 たとえば、戦争が起こるときの感情はこうでしょう。
「理不尽な相手から理不尽な攻撃を受けた。何の罪もない国民が殺された。傷ついた。許せない! 報復だ! 国民を守り、国を守るためには反撃するしかない。報復しろ! 思い知らせるのだ!」と。
 この感情が理屈に勝ち、リーダーは戦争に走り、人々はそれを支持する。

 そして、戦争が始まり、多くの犠牲を出し、焼失した町を見て心から思う。「やっぱり戦争は良くなかった」と。
 感情がようやく理屈を認め、「平和こそ大切だ」――この言葉を心から受け入れる
 しばらくの間は……(-_-)。

 この報復感情というのは日常生活でもしばしば見かけ、自らも感じる《感情》です。気づいていらっしゃるでしょうか。

 たとえば、ある居酒屋でこういう光景がありました。
 仲むつまじげな若い男女が二人、向き合っていろいろ語りながら、楽しそうに飲み食いしている。
 そのときふと女性の携帯に電話がかかり、彼女はそれに出るといろいろ話し始めた。時折笑い声も聞こえる。時間にして数分から十分くらい。男性はその間黙って飲み、食べている。
 それから何分かして今度は男性が自ら携帯を取り出し、どこかに電話をかけて話し始めた。彼の声はこちらにも聞こえてくる。
 その間女性は黙って食べ、黙って飲んでいる。つまらなさそうに。
 男性の電話が終わると、二人はまた二人だけの会話に戻る。ところが、さらに何分か経って今度はお互い携帯でメールチェックをやり始めた。それが一段落つくとやっと以前の雰囲気に戻り、二人は楽しそうに飲んだり食べたりを続けた……(^.^)。

 私はその様子を見ながら、「ああ報復合戦をやっているなあ」と思ったものです。

 あるいは、夫婦間などで、夕食後奥さんがダンナさんに「ちょっと、あなた……」と声をかける。
 そのときダンナはテレビか新聞に夢中、あるいは、別のことを考えていて返事をしない。
 すると、奥さんは黙る。
 しばらくして今度はダンナが奥さんに「実は今日なあ……」と何やら話しかける。
 すると、奥さんは最初聞こえないふりをして(または、ほんとに聞こえてなくて?)ややあってから「えっ、何?」などと返事する。
 ダンナさんは「いや、いい。なんでもない……」と応ずる。若干気まずい空気が流れる。

 これもちょっとした感情のすれ違いであり、ちょっとした報復合戦だと思うのですが、いかがでしょうか(^.^)。

 こうしたすれ違いが長く続くと「これじゃあ一緒にいても仕方ない」とか「一緒にいたくない」となって離婚の危機が始まるのでしょう。
 そのとき「子どものためにも離婚は良くない」と押しとどめる言葉は所詮《理屈》に過ぎず、「もう夫婦関係は続けたくない」という《感情》に負けるのです。

 私は大学で志賀直哉を研究しました。実は志賀直哉の大きなテーマがこの「理屈と感情」でした。
 彼はしばしば書いています。「理屈ではわかっている。しかし、感情が許さないんだ」と。志賀直哉の場合は主として父子対立であり、妻との問題でした。

 しかし、この言葉は以上のようにあらゆる場面で使われる――それこそ真理だと思います(^_^)。
 「理屈ではわかっている。しかし、感情が許さない、受け入れない」――この事例は私たちが生きている限り、この身にたくさんふりかかるでしょう。そのとき理屈と感情を一致させることはとても難しいのです。

 残念ながら、多くの心理学・哲学は感情の問題に明確な回答を与えていないような気がします。あるいは、分析・研究することが不可能なのかもしれません。
 なぜなら、《感情》というのは人が100人いれば、100人の感じ方の違いがあるからです。
 報復の戦争を支持するかどうかにしても、アンケートをとれば、60人は「賛成」と同一の答えを出すかも知れません。しかし、その人たちの感情が同じかと言うと、とてもそうは思えません。ひとりひとりに聞いてみれば、それぞれ違う感じ方を答えるはずです。
 あるいは、開戦時はその戦争を支持したとしても、何年か経って再度聞いてみると、「あのときはみんなにつられてしまった。ほんとうは反対だったんだ」なんて答えもあります。
 周囲の人や大勢に流されやすいのも感情です。怒りや悲しみ、悔しさの感情にとらわれ、どうしようもできない――それも感情です。

 さて、まとまりもなく「理屈と感情」について書いてきました。

 ここで空海論に戻って本号の結論らしきものを提示してみると、私は「理屈と感情」について我々になんらかの答えを与えてくれるのは宗教ではないかと思っています。

 ただ、ここで勘違いをしないでほしいのは、どこかの宗教に《入信する》ことで、感情の問題が克服・解決できると言っているのではありません。
 宗教は《感情を受け入れ、克服するためのもろもろを教えている》と言いたいだけです。

 たとえばキリスト教なら、それは《神》であり《愛》だし、仏教では《慈悲》であり《地獄・極楽・無常観》などです。

 キリスト教の「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」は報復感情をいさめる言葉でしょう。仏教の慈悲も同じだし、「人を傷つけ、いじめるなどしたら地獄に落ちるぞ」も仏教の教えです。あるいは、「読経をしなさい、般若心経をとなえなさい」という言葉も「理屈と感情を一致させ、受け入れるための教えだったのか」と最近やっと理解しました。

 もっとも、キリスト教をバックボーンにするはずの英米両国はテロ攻撃を受ければ、すぐに「報復だ」と叫ぶし、「地獄は存在する」と思っている現代人は少ないでしょう。
 つまり、宗教の教義でさえも真理ではなく理屈だった――これが宗教に対する今の私の結論です。

 ならば、いかにして理屈を真理にするのか。いじめや戦争、報復感情をいかにコントロールするか
 私は『空海マオの青春』小説編でそれを描きました。いや、描いたつもり――と言うべきでしょう(^_^;)。
 うまく描けたかどうかは、読者の判断にゆだねるしかありません。

 そして、これから書こうとする『空海論文編』は《理屈》を使ってこの問題をさらに探求する試みです。
 要するに「理屈ではわかっている。しかし、感情が許さない」――このテーマを空海青春論で語ってみたいのです(^_^)。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
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