四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 4

「空海の前半生」後半

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第 81―論文編 4 号

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           原則月1回 1日配信 2013年8月1日(木)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・入唐(にっとう)・『空海絵詞(えことば)伝』・最澄(さいちょう)・阿闍梨(あじゃり、寺の長、いわゆる和尚)
・得度(とくど正式な僧となるための儀式)・伝法阿闍梨灌頂(でんぽうあじゃりかんじょう、密教における
免許皆伝の儀式。)・抜擢(ばってき)・傍若無人(ぼうじゃくぶじん)・傲岸不遜(ごうがんふそん)
・『理趣釈経』(りしゅしゃっきょう、密教経典『理趣経』の解釈書)・三論(さんろん)宗 ・法相(ほっそう)宗
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 『空海マオの青春』論文編――第4「空海の前半生」後半

 みなさん方は推理小説が好きでしょうか。私は結構好きでかつてよく読んだものです。
 テレビでも刑事もの、探偵ものはいつも高視聴率ですね。

 私は中でも杉下右京の『相棒』が好きです(^_^)。とにかく右京氏の豊富な知識・教養と並はずれた観察眼、推理力が鮮やか。彼はそれをフル稼働して事件に当たり、解決していきます。

 しかし、いかに天才右京も時折推理ミスを犯します。それは何かを見落とし、前提を誤ったときに起こります。実際の刑事事件でも初動捜査で犯人像を絞り、決めつけてしまうとなかなか解決しないと聞いたことがあります。

 それは空海の謎を探求、推理するときも同じではないでしょうか。初動捜査を誤ると、妙な方向に行ってしまう……。

 たとえば、空海は幼い頃から仏教に進もうとしていた→南都(奈良)仏教に入門して室戸岬の神秘を得て得度した→その後遣唐僧として入唐、密教第八祖となって帰国→真言宗の開祖となって密教を広めた。これは『空海絵詞伝』に描かれた空海像です。

 このようにまとめると「ならばなぜ大学寮に入学したのか」がどうしても説明できません。大学寮は儒教や史学を学ぶ場であり、仏教とは全く無縁の機関だからです。幼い頃から仏教に進むつもりだったなら、物心ついたらまず行くべきはお寺でしょう(^.^)。

 それこそ天台宗の開祖最澄が取った進路でした。
 空海の七年前に生まれた最澄は十二歳の時に出家して十四歳で早くも得度しています。空海もそうすべきだったはず。がしかし、空海は寺ではなく大学寮に進んだ。

 ならば、初動捜査としての推理は《空海が大学寮に入ったのは儒教を学ぶためだった》とするのが自然です。私はそこから青春時代前期の空海を見ていきました。

 さて、青春時代後期の謎は以下の三点でした。

 5 室戸岬の修行後入唐まで、空白の六年間に何があったのか。
 6 突如遣唐使の一員となった経緯。
 7 入唐わずか一年で密教阿闍梨位を得たわけ。そもそも空海はいつ得度したのか。

 この難問に対して私が得た結論は以下の通りです。

 私はまず空海が長安の青龍寺に入門、わずか数ヶ月後に《密教第八祖阿闍梨位》となった理由を推理しました。指名したのは第七祖恵果和尚です。そして、恵果はまるでそれが最後の務めであったかのように、伝法阿闍梨灌頂を終えると入滅します。

 恵果が死の近いことを感じなかったはずはありません。彼はすでに何人かの高弟に伝法阿闍梨灌頂を授けています。おそらく恵果は「わしの人生も残り少なくなった。さて、最後の相承者として誰を選ぼうか」と考えたはずです。
 そのとき恵果はあまたいる中国人弟子ではなく、異国から突如現れた空海を選んだ。その重みを考えなければなりません。

 この不可思議を解く推理はただ一つです。
 それは空海が入唐したとき、すでに密教の深奥に達していた。いわば免許皆伝の境地に到達していた。だから、恵果は第八祖として空海を抜擢したという推理です。

 たとえば、華道茶道に囲碁将棋、剣道柔道などは指導者の教えを受け、作法を学び、練習を積む。何年かの鍛練を経て有段者となれば、弟子の一人が先代を継ぐにふさわしい者として免許皆伝を受ける。つまり、多くの技芸で免許皆伝とは指導者の資質・段階に達したと判断されたときに行われます。
 それは密教においても同じことです。密教は年功序列ではありません。ある境地に達していれば、年齢・経験は問わないと言ってもいいでしょう。

 空海は入唐したとき、すでに免許皆伝の域に達していた。恵果はそれを直ちに見抜いた。だから、空海を自身最後の継承者として抜擢したのです。
 もしも空海がその境地になかったら、恵果は「ここで十年修行しなさい」と言って中国人弟子を相承者に指名した――か、指名しないまま逝ったでしょう。

 この推理が正しければ、「二十代空白の六年間に何があったか」の答えはこうなります。
 空海はその六年間で密教最終境に到達するための修行や体験を積んでいたと。日本国内で密教最終境に達していたから、入唐わずか半年で免許皆伝を得ることができたのです。

 しかしながら、空海は六年間の詳細を全く語っていません。何があったのか、どのような修行を積んだのか。何を得たのか、何を失ったのか。さすがにここだけは私もお手上げでした(^_^;)。

 よって、私が小説で描いたこの六年間は(歴史的事実を取り入れつつ)ほとんど私の想像です。
 けれども、私はこの想像に自信を持っています。それは私が密教最終境を解き明かしたと自負しているからです。

 密教最終境とは何か。それは一言で言い表せる境地でした。

 複雑にして難解な密教、その最終境をわずか一語で言い表す――なんて傍若無人、傲岸不遜にしてど素人のセリフです(^_^;)。

 もちろんすぐにわかったわけではありません。空海本、密教関係の書籍を読み重ね、仏教書をあさり、私自身ももろもろを体験し、何かを失い、何かを得てわかりました。
 そこまで到達するのに六年かかりました(^_^)。いや、物心ついてからの数十年が必要だったと言えるかもしれません。

 しかし、わかってみると、答えはとても単純でした。それは『般若心経』と大きく関わっています。『理趣経』とも関係があります。

 出し惜しみしないで答えを言うと(^.^)、その一語とは《全肯定》です。
 簡単でしょ?

 あらゆることを――いやなことも辛いこともあわせて全て肯定できる。それも理屈として肯定するだけでなく、感情でも肯定できる。つまり、心から「これでいい」と納得して許せる――それが密教最終境なのです。

 もっと現代風に言うなら、いじめられても、親から虐待されても、友人から裏切られても、失恋しても……それを肯定できる。
 仕事で辛いことがあっても、セクハラ・パワハラを受けても、差別されても、迫害されても、大病を患っても、事故で片腕を失っても、レイプされても……それを肯定できる。
 あるいは、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺されたり、戦争や災害で失っても……それを肯定できる。
 それも理屈として肯定するのではなく、心から肯定して許せる。これこそ密教最終境です。

 このように書くと、《全肯定》とは簡単な言葉ながら、この境地に達するのは相当難しいことがわかると思います。普通の人にはほとんど不可能とさえ思えます。

 空海は入唐したとき、この境地に達していたのです。第七祖恵果ももちろん到達していた。恵果の弟子である中国僧はいまだ達していなかった。それゆえ、恵果は最後の相承者として空海を選んだのです。

 私はこの流れがわかったとき、密教最終境である《全肯定》の境地に達するには、一体どのような体験が必要なのか考えました。それを考えた上で、空白の六年間を(さらに、その前の八年間)を描きました。

 なぜなら、この境地に達するにはただ仏教書を読み、考えただけでは到達しません。自分や人の体験から感じ、考え、その結果獲得されるものだからです。
 後に空海は『理趣釈経』の閲覧をめぐって最澄と対立します。最澄が密教経典を貸してほしいと申し出たとき、空海は当初快諾していました。しかし、『理趣釈経』だけは頑なに拒んだ。
 拒否したわけはそれが『理趣釈経』だったからと言うより、最澄が《密教について経典を読んで考えることで理解しようとした》からです。密教は「違うぞ」と空海は言いたかったのです。

 このような密教の最終境――全肯定の境地についてはなかなか理解しづらいと思います。今後詳しく語るつもりです。

 さて、最後の謎、空海の《得度》に関して。

空海は日本では得度していない。つまり、正式な僧となっていなかった》――これが私の結論です。これも詳細は今後述べていくことにしてここでは簡単な根拠を書いておきます。

 ちなみに、これは私の新説ではありません。私の知る限り最初にこう推理したのは松本清張のようです。同氏は『密教の水源』の中で「大使の通訳だったのでは」と推理しています(ただ根拠はあまり述べていません)。私も小説では通訳説を採用しました。

 空海は得度していなかったと推理する根拠は以下の通りです。

 そもそも、空海は新しい仏教を求めていた→それゆえ遣唐僧として入唐、青龍寺に入門して密教を得た。これは間違いのない事実として認知されています。
 しかし、ここで初動捜査としての単純な決めつけがなされていることに気づきます。それは「遣唐僧となるには得度していなければならない」という前提です。

 この前提で捜査をスタートすると「では空海はいつ得度したのか。仏教入門数年後か、室戸岬体験後か、入唐直前か」と仮説を立てて証拠を探し求めることになります。
 結果、決定的な事実が見あたらず、捜査は迷宮入り(^_^;)……これが今までの研究史だったようです。

 しかし、白紙に戻って「得度しないまま入唐したかもしれない」と考えると、多くの矛盾が解消されるのです。

 当時得度するには二つの宗派のいずれかを学ぶ必要がありました。一つは三論宗であり、もう一つは法相宗です。
 空海は大安寺で学びました。大安寺の宗派は三論宗です。よって空海が得度するとすれば、三論宗――となるのが自然です。

 しかし、空海は新しい仏教を求めていました。三論宗も法相宗も、空海にとって奈良仏教は新しい仏教ではありません。
 可能性があったのは東大寺の華厳宗でしょう。後に華厳宗は密教直前の段階にあると空海も認めています。しかし、当時の空海にとって華厳宗も自身が求める新しい仏教ではなかった。だから、得度しなかったと考えるのです。

 もう一つは《遣唐僧》が持つ意味です。
 当時正式な密教は日本に招来されていなかった。室戸岬の体験後空海は『大日経』を手に入れる。それが密教の経典らしいとわかったとき、彼は唐で学ぶことを考えたでしょう。そのためには遣唐僧として渡唐するしかない。
 しかし、当時の遣唐僧は国を代表して、宗派を代表して唐に渡ります。単なる一個人、一僧侶の入唐はあり得ないのです(結果はそうなったとしても)。

 仏教は中国から渡来しました。経典の多くは中国で書写されたものです。だから、飛ばしとか誤写・脱字など不備がたくさんあって意味が取りづらい。書かれている内容もなかなか理解しにくい。
 よって宗派は経典に多くの疑問を抱えています。何十年に一度の遣唐使。宗派は遣唐僧を選び、彼にその疑問を託す。選抜された遣唐僧は入唐してその疑義の答えを求める――それが遣唐僧です。

 何度も書きますが、空海は新しい仏教を求めていました。よって三論宗の代表として、あるいは南都仏教の代表として数々の疑義を託されたのでは、唐で新しい仏教に関わることができません。だから、得度しなかったのだと思います。おそらく空海は取りあえず唐に渡り、その後かの地で得度しようと考えたはずです。

 このように推理すると、入唐直後の不可解な事件(空海が入京メンバーから漏れたこと)が見事に解決されます。

 大使藤原葛野麻呂と空海の乗る遣唐船が漂流して予定地の明州よりはるか南方の福州に着岸したとき、まずは海賊と間違われてひどい目に遭う。しかし、空海が「我らは日本国遣唐大使である」と格調高き請願文をものすることで誤解が解ける。

 その後いざ入京人員を選定したとき、そのメンバーに空海の名がなかった。日本側から空海の名を書かないわけはなく、これは唐国側から削除されたのです。
 この謎は空海が遣唐僧ではなかったと推理すれば簡単に解けます。もちろん姿形は僧侶であっても、正式な得度僧でなかったという意味です。

 当時、遣唐僧はその身分を証明する文書を持って入唐しました。証明書は日本国政府――朝廷が発行する『得度証明書』です。しかし、得度していない空海はその証明書を持っていない。
 当時唐の慣例では外国使節が訪れた際、入京人員の数は交渉によって決められたようです。ときに四十人以上となることがあれば、二十数人のこともある。大使・副使など三役、留学生・留学僧が入るのは当然ながら、それ以外に関しては交渉によってどんどん削られたようです。このときは最終的に二十三名でした(入唐したもう一船は二十七名)。

 削られる理由は入京メンバーの移動・宿泊費用を全て唐国が持つからです。かたや使節団はより多くを入京させたい。かたや唐国はできるだけ抑えたい。そのやりとりが交わされる中、単なる下役は当然除外された。通訳だって使えなければ(あるいは、日本語を使える現地人がいれば)必要ないとして削除されたでしょう。
 大使葛野麻呂は当初空海を入京メンバーに入れた。通訳とか何か別の身分・役職の一人として。しかし、唐国から空海を指して「この身分の者は除外せよ」と言われた。

 空海はあわてたと思います。入京できなければ、密教どころか翌年には帰国しなければなりません。そこで空海は「自分は留学僧である」と主張した。
 おそらく唐国は「ならば、得度僧である証明書を見せてほしい」と言ったはずです。
 証明書を持っていない空海は「むーん……」と困り果てた(^.^)。

 最終的に空海は「自分は仏教を学ぶために入唐した遣唐僧である」との申請文を書き、それが認められてようやく入京できた――という流れです(私はこのとき唐国が中国僧に使用される「得度証明書」を発行したのではないかと推理しています。空海が留学僧として各寺を回るには身分証明書が必要だからです)。

 以上、空海は日本で得度していなかったと推理する根拠を語りました。
 さて、この推理、果たして杉下右京ばりの名推理となっているかどうか(^_^)。
 判断は読者にお任せします。



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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
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