本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。
『空海マオの青春』論文編――第6「大学寮入学前のマオと長岡京」
空海マオは大学寮入学まで約三年間帝都長岡で暮らします。今で言うなら大学入学のための受験勉強期間であり、高校時代の三年間に当たると言っていいでしょう。
それは多感な十代後期であり、燃えたぎるような情感、怒りや憤りを感じるかと思えば、すぐに絶望したり暗い感情にとらわれる。周囲と社会を皮肉っぽく眺めたり、親や権威に反発するかと思えば、異性を意識して姓の目覚めもいよいよ盛んになる……そのような年頃です(^_^)。
しかし、空海マオはひたすら真面目に、ひたすら純朴に儒教の勉学に励んでいたようです。
そして、前号で触れたように、個人の思いや感情は時代の流れと無縁に生まれることはありません。空海マオの青春前期、長岡京はいまだ新都建設の渦中でした。『続日本紀』七八八年(マオが上京した年)九月の記に「水陸に便利な長岡の地に都を建てている。しかし、皇居は未だ完成せず、建設の作業はますます多くなっていく。人民は徴発されて大変苦しんでいる」とあります。
治める天皇はあの桓武さん。 重鎮の政治家は日本史で有名な藤原氏でした。一般的には藤原四家ですが、この時代は南家、北家、式家の天下でした。第二章とも関係するので、ここで藤原三家の家系図を掲載しておきます。
南家・継 縄―― | ┬兄乙叡 | ||
| └弟真葛 | ||
南家・是 公―― | ┬兄真友 | ||
| └妹吉子― | ―――――― | ─伊予親王 | >
北家・小黒麻呂― | ─葛野麻呂 | ||
北家・[楓麻呂]― | ─園 人 | ||
北家・[真楯]―― | ─内麻呂― | ┬兄真夏 | |
| └弟冬嗣 | ||
式家・[百川]―― | ┬姉旅子― | ―――――― | ―大伴親王 |
| └―――― | ―弟緒嗣 | |
式家・[良継]―― | ─乙牟漏― | ┬兄安殿親王 | |
| └――――― | ―弟神野親王 | |
式家・[種継]── | ―――┬― | ―兄仲成 | |
| └― | ―妹薬子 |
空海マオが上京したころ式家・北家は実力者であった五人の当主を失い、南家が朝廷の実権を握っていました。太政官の首班である右大臣は南家の是公。しかし、この頃是公は病気がちで実質的な首座は同じく南家の大納言継縄でした。七八九年に是公が逝去すると、翌年継縄が右大臣に就任しています。
また、ここに登場する女性――南家の吉子、式家の乙牟漏、旅子は桓武天皇の夫人であり、乙牟漏が皇后です。そして、乙牟漏の長子安殿親王が皇太子。是公の娘吉子の子が次男伊予親王で、大足叔父が家庭教師となりました。
他では第二章に登場する北家藤原真夏と冬嗣兄弟、式家の緒嗣に皇太子安殿親王、種継の子仲成も頭の片隅に留めてほしい名前です。七八八年時マオは十四歳。不思議な星の縁と言うか、真夏・緒嗣・安殿皇太子・仲成も同じ年の生まれなのです。
私はマオが上京後三人の著名人物と出会ったと構想しました。それは南家当主藤原継縄、重臣佐伯今毛人、北家の藤原園人です。
マオが大学寮入学を目指したということは将来学者か官僚への道を意識していたと考えるのが自然です。佐伯今毛人は佐伯姓で最も出世した官僚であり、聖武天皇以後六代五人の天皇に仕えた重鎮です。大足は当然今毛人にマオを紹介したでしょう。南家と連なっていれば、継縄にも挨拶に行ったであろうと想像できます。
園人は大足と若い頃からの知己であったとしました。史実に根拠はなくちょっと無理があるかもしれません(^_^;)。これは当時の社会情勢――土地制度、税金、貧富の格差、役人や国司の私利私欲、不正を園人に語らせるためでした。
詳細は小説と重なるので省きますが、継縄はぐちっぽい凡庸な人物、今毛人は眼光鋭い政治家、園人は大らかで民の立場に立つ良吏として描きました。これは私の空想による造形ですが、『続日本紀』や『日本後紀』の人物評を参考にしました。インターネット百科事典を検索してもらえば、さほど違っていないことがわかってもらえると思います(^_^)。こうしてマオは帝都の大人たちから社会を学んだのです。
藤原園人はまた《蝦夷》――今の東北地方との関係も語ります。この時代、九州を守る防人はあるものの、対外的な戦争、緊張関係はなく、問題は内憂でした。
奈良時代末期の日本は光仁・桓武天皇の元でほぼ統一されています。ほぼと言うわけは朝廷の威光が唯一及ばなかった地として東北蝦夷があったからです。これまでの東北侵攻によって西部はほぼ手中におさめられ、いよいよ東部制圧に乗り出したのです。マオが上京した年末、数万人の兵士が徴発され進発します。
蝦夷は文明圏大和朝廷に対して野蛮で未開の地との印象があります。史書にも「征服された民」として描かれているだけで、人々がどのような生活を送っていたか全くわかっていません。
しかし、朝廷に拮抗する力と文化を持った勢力だっただろうと思います。根拠は坂上田村麻呂によって征圧されるまで数十年も戦い続けているからです。官軍に充分対抗できる軍と勢力を持っていたことは間違いありません。
朝廷は捕らえた蝦夷の捕虜を四国や九州などに移住させ、根付かせようとしたことが『続日本紀』の記述でわかります。
たとえば、七七六年十一月には「出羽の国の俘囚三五八人を、太宰府管轄内や讃岐の国に分配した。七八人は諸官吏や貴族に分け与えて賤民とした」とあります。
また、七七四年の一月に「出羽の蝦夷〜を朝堂で饗応し、位を叙し、地位に応じて禄を賜った」とあり、七七九年の四月に唐の賓客が入京したときは「陸奥・出羽の蝦夷二十人を儀仗兵」として騎兵二百と共に並ばせています。
現代ではかなり不思議な感覚ですが、敵方であっても帰順の意を示せば、それ相当の地位や禄を与えて融和をはかっていたようです。
東部の蝦夷を率いたのはアテルイでした。アテルイは有名な《巣伏の戦い》に勝利したことで後世に名を遺します。
詳細は小説や歴史書に譲るとして簡単にまとめると、七八九年北上川沿岸で官軍四千八百対蝦夷軍一千数百が衝突し、官軍が大敗北を喫した戦いです。逆に言うと、蝦夷軍の大勝利でした。
官軍は待ち伏せされ、一旦退いた敵軍を深追いして前後を挟み撃ちにされるという、少数が多数に勝つときの典型のような作戦で敗れています。
この戦の様子は『続日本紀』第四十巻に詳しく書かれており、朝廷にとって相当の衝撃だったことがわかります。
私は戦の様子を聞いたマオの感想として次のように描きました。
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多数の戦死者を出した官軍はもちろん気の毒だ。その一方、心の片隅で蝦夷軍よくやったと言いたい気持ちもある。故郷讃岐で蝦夷の大人や子どもたちと交流した経験があるせいか。あるいは、佐伯家が蝦夷の末裔であることを意識するからだろうか。惨敗した官軍に同情しつつ、蝦夷軍にも共感できる。蝦夷の女子どもは戦勝を聞き、アテルイや兵士を賞賛しただろう。しかし、戦死した官軍兵士の妻や子どもたちは涙を流したに違いない。
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官軍侵攻によって捕らえられた蝦夷の捕虜は讃岐に多数移住しています。そもそも讃岐佐伯家は蝦夷の末裔ではなかったかと言われており、マオはかなり蝦夷に共感していたのではないかと思います。
人物造形で最も苦労したのはマオの叔父――佐伯大足でした。大足は伊予親王の家庭教師であることがわかっている程度で具体的な資料がありませんでした。
私は『三教指帰』の儒学者「亀毛先生」は大足を誇張した人物と考え、ひたすら真面目でいかめしい儒学者像として描きました。
大足についても根拠なく設定したことが一つあります。それは大足が伊予親王の家庭教師になったいきさつとして考えた構想です。
儒学者大足はなぜ南家と関係を持ち、伊予親王の家庭教師となったのか。私は『続日本紀』の編纂と関係があるのではないかと推測しました。
『続日本紀』(全四十巻)は『日本書紀』に続く史書として桓武天皇の命により編纂が始まりました。文武天皇元年(六九七)から桓武天皇の延暦十年(七九一)まで九十五年間の歴史が記述され、延暦十六年(七九七)に完成しています。空海マオ二十四歳のときです。
この『続日本紀』の編纂責任者が南家の藤原継縄なのです。あるいは、大足は編纂の事務方として儒教関係の作業にたずさわり、そこで継縄の目に留まったのではないかと想像しました。
そして、マオは大足家にあった『日本書紀』や『続日本紀』草稿を読んだのではないか。十代において過去の歴史を学ぶことは社会に対する眼を開かせるものです。後に唐から帰国後(有名になったとは言え)空海は天皇や朝廷の中心人物と大いに交わります。政治に口出しすることはなかったものの、関心は大いにあったようです。
そうした傾向は十代に政治や歴史への興味となって現れる。今ならいくらでも歴史を学ぶことができます。しかし、当時『日本書紀』や史書は門外不出で、限られた高位の人しか読めなかったはず。空海マオは叔父の関係でそうした書物を読み、歴史観を養ったのではないかと考えました。
最後に、この時代の大きな問題として飢饉があります。天候不順は米の生産に直ちに響き、旱ばつ、飢饉が毎年のようにどこかで報告されています。讃岐はマオが生まれた前後数年間特にひどかったようです。
奈良時代の人口は四五〇万人〜六五〇万人と推定されています。現代が一億二千万人余りですから、かなり少ないと言えるでしょう。ネットで各都道府県の人口ランキングを見ると、この範囲に入るのは北海道、兵庫、千葉です。そこの人たちが日本全土にちらばっていると考えれば、未開の地がかなりあるだろうと実感できます。
貧富の差があるとは言え、現代日本の生産量は一億人を養えるのであり、逆に奈良時代の生産量では五、六百万人しか生きていけなかったということです。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
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