本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。
まずは「蛭牙公子=空海マオ」論の前置きとして司馬遼太郎『空海の風景』について語ります。
私は《人間空海》を描きたいと思いました。伝説の人としての空海ではなく、生身の人間としての空海です。
空海は密教真言宗の開祖として「遍照金剛、弘法大師」と呼ばれ、四国霊場八十八カ所参りで著名な宗教家です。
歴史上実在した人でありながら、謎に満ちた前半生から神秘的存在と化し、仏のような信仰を集めてきました。その名を知らない日本人はいないと言っていいと思います。
しかし、空海が何の迷いも悩みもなく、仏教に進んだのか。一直線に密教にたどり着いたのか――と言えば、とてもそうとは思えません。
そもそも仏教開祖のゴータマシッダルタ――シャカが「四苦八苦」に悩み煩悶し、辛い修行の末に「きつい修行など必要なかったんだ」と(^.^)生みだしたのが仏教です。
空海が密教に到達するまでに迷い、大いに悩んだことは想像に難くありません。しかしながら、特に前半生においてその実像は闇の中、霧の中でした。
前半生の実像に鋭い洞察を見せたのは司馬遼太郎でしょう。私も空海を書こうと思ったとき、真っ先に『空海の風景』を読みました。そして、感銘を受けました。
同氏はまるでタイムマシンに乗ったかのように空海の時代に飛び、現在に戻って空海関連の聖地を巡る。それは学術的にも小説としても素晴らしい空海論だと思いました。
けれども、私は『空海の風景』を読みつつ、ある異和感を覚えました。司馬氏は空海をあまりに誇大視、天才視(?)し過ぎていないかと思ったのです。
帰国後の空海は真言宗開祖として、またライバル天台宗最澄との関係においてかなり攻撃的な側面を見せています。また、国家護持をうたい、天皇・朝廷と密接な関係を持つなど、一見「権力側の宗教家」のおもむきを見せています。
司馬氏にはそのイメージに対する反感があったのではないか……と思えるほど、しばしば空海を(天才的存在にありがちな)傲岸不遜な人物として描いています。
たとえば、「空海はこの中間階級出身者にふさわしい山っ気と覇気を生涯持続した」とか、大学入学頃のマオを評して「清らかな貴公子という印象からおよそ遠く、それどころか全体に脂っ気がねばっこく、異常な精気を感じさせる若者」と描く。
さらに、山野を歩く乞食僧空海は「いやみなほどに野心のみなぎった青年」であり、私度僧を続けることを「かれは境涯上苦節の人ではなく、まわりから必要以上なほどによく保護されていたのではないかと思える」と見る。
空海は大安寺に入門した後なかなか得度せず、私度僧のままでした。司馬氏は空海が勤操の「私的給仕人ではなかったか」と推理します。そして、空海はその立場によって「諸官寺の経蔵をひらいてもらう」便宜を得た。つまり、仏典を自由にたくさん読むことができた。
司馬氏はそれを評して「後年の空海の、ときに目をみはりたくなるほどのずるさが、このあたりにすでに出ている」と書きます。
もちろん司馬氏も二十代前半の空海の苦悩を描出しています。破戒僧であったかもしれないと。
それでも空海は「強い人間」というイメージを終始持ち続けているようです。司馬氏は空海マオを《天才空海、強い人間空海》としてとらえている。『空海の風景』の中にめめしい涙を流す空海はいません。
私はそこに疑問を抱きました。はて、いくら天才的人間だからと言って悩みも迷いも持たない人間などいるだろうか、いただろうかと。
現在でも強いと見なされている人は多い。けれども、内面を聞いてみると、強くなるまでいかに悩んだか、いかに迷い、苦しんだか。それを吐露する人が大半です。
過去の宗教家、現在を生きる宗教家たちも悩みと無縁にその宗教にたどり着いた人などいない。果たして空海に弱々しい側面はなかったのだろうか。それが『空海の風景』を読了したとき、私が抱いた疑問でした。
そうして得た結論が前号大学寮入学直後の姿です。それを現代風にまとめるなら、田舎で優秀な成績を収めた若者が大いなる夢と理想を抱いて都市の大学に進んだ。ところが、いざ大学に通ってみると、すでに学んだ内容が繰り返されてちっとも面白くない。この勉強をこれから四年(大学寮は九年)もやるのか、とうんざりして大学に失望する。
そして、周囲を見渡せば、同級生の中には親が偉いというだけで、あっさり高位につく者がいる。これから九年間、我慢に我慢を重ねて官僚になれたとしても、親が田舎郡司では小さな昇進を続けるのが関の山ではないか。このように思って進路に絶望する――そうした姿です。ここには仏教の「ぶ」の字もありません。
けれども、田舎の両親は我が子が勉学に励んでいると思っている。立身出世して故郷に錦を飾る姿を夢見ている。それを思うとたやすく「大学をやめたい」とは言えない。しかし、もう大学に行く気はしない……(-_-;)。
そのような気持ちでは生活が乱れ、自暴自棄になって遊び暮らすのはよくある話です。空海マオも正にそうだったのではないか。私はそう想像しました。
司馬氏も大学寮における空海の不適応症状について触れています。しかし、それは哲学的創造的人間にとって耐え難い場所としての大学寮であった、との指摘にとどまっています。
司馬氏には「強き人間、空海」のイメージがあるから、〈空海がやめるかどうするかぐずぐず悩んだ〉などと描きはしません。乱暴にまとめるなら「俺は悪くない。大学寮の方が問題だ。だから、やめるんだ」と受け取れるような空海像です。
現代でもこのようなタイプの学生がいるでしょう。その一方、「もう大学にいたって仕方ない。ほんとはやめたい。けど、両親は自分に期待している。息子のために田舎で懸命に働いている。それを思うと、やめたいと言い出せない。でも、今の自分は大学にも行かず悪友とバカなことをやって遊び暮らしている」とめめしく悩むタイプの学生もいます。
私が学生だった頃こうした悩みを吐露すると、新左翼系の友人から「観念的だ」とか「プチブル的悩みだ。くだらん」などと言われたものです(^.^)。
私は(少なくともこの段階において)空海マオは後者だったと想像しています。つまり、めめしくうじうじ悩む、弱々しい若者だったのではないかと。
そう考えるわけはこれまでマオが学んだのが《忠孝》の儒学であったことと大いに関係があります。親孝行、立身出世、長老を敬い、君主に忠誠を尽くす――空海はその教えを子どもの頃からたたき込まれ、迷うことなく《仁義忠孝》の道を突き進んできたのです。
そうした人間にとってそれに背くような発想、感情、行動は全て《悪しきもの》でしょう。自分はその悪しき道に進もうとしている。忠孝の道から外れようとしている。そう思ったとき、真面目であればあるほど悩まざるを得ない。それが儒学を学んだ人が陥りやすい傾向だと思います。
しかし、このような想像は「あなたの勝手でしょ」と言われかねない。当たっていそうだけれど、根拠を示せない(^.^)。
司馬氏は若き空海を《強いマオ》として描いた。それが同氏の空想なら、《弱くてめめしいマオ》を描いた私も、所詮空想に過ぎず「根拠はない」……。
それがこれまでの研究史でもありました。実態は闇の中であり、歴史の海に埋もれて掘り起こすことはもちろん、浮かび上がることもない――かに思えます。
しかし、私は見つけました。空海自身がこの頃の自分を「弱々しく自堕落な若者」と描いていた証拠を。これまで誰もその表現に着目しませんでした。
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ここに一人の若者がいる。「その心は狼のようにねじけ、人から教えられても従わない。心が凶暴で、礼儀など何とも思わない。賭博を仕事にし、狩猟に熱中し、やくざでごろつきのならずもので、思いあがっている。仏教でいう因果の道理を信ぜず、業の報いを認めない。深酒を飲み、たらふく食べ、女色に耽り、いつまでも寝室にこもっている。親戚に病人があっても、心配などしないし、よその人に対応して敬う気持ちもない。父兄に狎れて侮り、徳のある老人を小馬鹿にする」ような人間である。
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『三教指帰』の中に登場する一人の若者。彼はいわゆる「飲む打つ買う」――酒と女とバクチに耽溺する自堕落な若者です。
空海マオはこの若者を「蛭牙公子」と名付けました。「蛭」とは「ヒル」のことで、山間の沼地で動物や人間の血を吸います。ヒルに牙があるかどうか知りませんが、周囲から忌み嫌われるヒルのような存在との意味でしょう。
私は蛭牙公子とは空海の自画像――その誇張された姿である、と結論づけたのです(^_^)。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
後記:若い読者のために「プチブル的悩み」(死語?^_^)を解説しておきます。
プチブルとは「プチブルジョア=小ブルジョア・小市民」のことで、1960〜70年代の学生運動でよく使われた言葉です。本来の意味はネット百科事典で検索下さい。あのころ「頭の中だけでぐずぐす悩んで行動できない、解決しようとしない情けない奴」との意味で使われていました(^.^)。
さて、今年も「空海伝」をお読みいただき、ありがとうございました。
空海密教の到達点――《全肯定》を早くお伝えしたいと思いつつ、しばらくマオの迷宮をたどらねばなりません。遅々たる歩みですが、一歩一歩進めたいと思います。
2013年の大晦日も一ヶ月後に迫りました。よい年をお迎え下さい。 m(_ _)m 御影祐
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