四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 9

「蛭牙公子=空海マオ」論 その2

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第86―論文編9号

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           原則月1回 1日配信 2014年1月1日(水)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『聾瞽指帰』(ろうこしいき、三教を比較した空海初の著書)・『三教指帰』(さんごうしいき、『聾瞽指帰』の改題版)・蛭牙公子(しつがこうし)・傲岸不遜(ごうがんふそん)・高邁(こうまい)・嘉村磯多(かむらいそた)・時任謙作(ときとうけんさく、志賀直哉『暗夜行路』の主人公)・大山(だいせん)・登攀(とうはん)・溶融(ようゆう)感・施(ほどこ)す
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 『空海マオの青春』論文編――第9「蛭牙公子=空海マオ」論 その2

 最初に余談から入ります(^_^)。
 みなさん方はかつて自分が学んだこと、体験したことが十年後二十年後、あるいは三十年後に「役立った!」と言える経験をお持ちでしょうか。

 私が高校で国語教師をやっていたころ、生徒から「どうして古文とか漢文を勉強するの?」としばしば聞かれたものです。現代文なら、現代を生きる自分に役立つから勉強するわけがわかる。しかし、古文や漢文は役に立たないじゃないか――と言いたいわけです。

 この答えとして「古文は昔の日本語だ。漢文も外国語ながら漢字はすでに日本語のように溶け込んでいる。たとえば、登山は誰でも〈山に登る〉とわかるけれど、これはそもそも漢文なんだ。また、カタカナは漢字の一部だし、ひらがなは漢字をくずしたもの。今の日本語の元となった言葉だから学ぶんだ」と説いても所詮理屈です(^.^)。
 この質問を発した生徒は他の教科も「今役立つかどうか」で分けているからです。
 そこで私は言ったものです。
「確かに今役立つかどうかで言えば、役立っていないかも知れない。しかし、将来いつかどこかで役立つかも知れないよ」と。

 私は十五歳の時志賀直哉の長編『暗夜行路』を読んで感動を覚えました。大学の国文科では迷った末に『暗夜行路成立過程論』を卒業論文としました。それだけでなく三十九歳の時に卒論のテーマをさらに研究、まとめて『我が青春の「暗夜行路」』と題して冊子にしたほどです(これは空海伝終了後いつか公開したいと考えています)。

 なぜそこまで志賀直哉、『暗夜行路』にこだわったのか。当時その意味も、将来何かに役立つかもしれないなどと全く考えていませんでした。ただ、それに惹かれ、やろうと思い、やっただけです(^.^)。

 しかし、そのことが今「空海研究」に大いに役だったと感じています。
 それを一言で言うなら、《理屈と感情》や《悟りと癒し》というテーマであり、同時に《私小説》について学んだことでした。つまり、仏教・密教について理解探求し、空海青春期における様々な謎を解くにあたって志賀直哉と『暗夜行路』を研究したことは大いに役立ったのです。

 この志賀直哉・『暗夜行路』研究の上に立って断言すると、
空海初の作品『聾瞽指帰(ろうこしいき)』は私小説である》と結論づけました。

 またも傍若無人、傲岸不遜にしてど素人の結論です(^_^)。「儒道仏の三教を比較して仏教こそ最上位」とうたった空海の高邁なる思想書を、「低俗な私小説と比べるなど失礼極まりない」と集中砲火を浴びそうです。

 もちろん三教比較の思想書であることを否定するわけではありません。ただあの中には空海マオの思想遍歴が書かれている。空海自身の体験や考え、感情を吐露している――そこを指して私小説と呼びたいのです。
 なおかつ「私小説と見られたくない」工夫というか、操作もなされていました。志賀直哉と『暗夜行路』を研究した私だから気づいたのではないかと思っています。

 志賀直哉の『暗夜行路』を研究するには当然直哉が属した白樺派や明治・大正・昭和前期の私小説についても調べなければなりません。ちなみに、私小説の反対は「客観小説」――たとえば、SFや大衆小説など自分の体験に基づかず、調べたり取材に基づいて書かれた小説を指します。

 私小説は田山花袋の「蒲団」が元祖と言われます。作者らしい主人公の小説家が女弟子に恋心を抱きながら、うじうじぐずぐず悩むお話です。ラストシーンは当時かなり衝撃的だったとか(あくまで当時です。今なら失笑ものでしょう)。
 私、これ中三のときどきどきしながら読みました。純情でしたから(^.^)。

 私小説は大きく二種類に分かれます。作者の堕落しただらしない生活を描く破滅型と、自身と周囲の生活や心境を穏やかに語る調和型です。前者の典型は嘉村礒多とか太宰治。志賀直哉は後者と見られています。
 私小説は作者の実体験を「そのまま」書くことが基本です。起こったことを起こった通りに書く。嘘をつくのはルール違反となります。
 よって私小説作家がもしも架空のお話を書いて発表すると、妙なことが起こります。読者は作品の内容を「作者の実体験だろう」と思ってしまうのです。

 志賀直哉唯一の長編『暗夜行路』は主人公時任健作が出生に祖父の子という秘密を抱え、それを乗り越えたと思ったら、今度は妻である直子の過失に苦しめられるというお話です。最後は鳥取にある大山登攀によって自然との溶融感を体験し、全てのこだわりから脱したすがすがしさを覚えます。しかし、下山中高熱と下痢を発症して倒れ、病床に就きます。急変を聞いて駆けつけた直子は夫が死ぬかもしれないと思いつつ、穏やかな目で自分を見る謙作に対して「この人の後にどこまでもついていこう」と思う場面で終わる小説です。

 このようにあらすじを書くと、私小説とは作者の実体験に基づく小説だから、「そうか。志賀直哉は祖父と母の子だったのか。奥さんの不倫に苦しめられたのか」となってしまいます。
 ところが、直哉にそのような事実はない。これは志賀直哉が自分の体験を架空の構想の元に描いた、いわゆる《客観小説》の試みでした。

 これが私小説作家にとっていかに苦しい作業だったか、今では想像もつかないでしょう。『暗夜行路』の連載第一回(それは童貞の謙作が初めて遊郭を訪れる場面)が公表されたとき、直後の合評で「正直に書いていないなあ」と批判されています。
 この合評者たちはほとんど志賀直哉の友人で、直哉の芸者遊びを良く知っているからです。つまり、読む方は「暗夜行路は直哉の私小説だろう」と受け取っているのです。
 志賀直哉が激しく怒ったことは言うまでもありません。後に出生の秘密、さらに妻の過失が書かれる小説を「私小説」と見られてはたまったものではありません。

 よって、自作が私小説と見なされそうなときは、そう見られないよう何らかの措置を施さねばなりません。志賀直哉の場合、それが謙作を童貞にすることでした。
 ところが、使った材料は彼自身の体験、それもとうに童貞を卒業してさんざん遊郭遊びに耽っていたころのものだった。それがほぼそのまま描かれたものだから、友人たちは「(童貞の主人公なんて)正直じゃないぞ」といちゃもんをつけたのです。
 しかしながら、直哉は他の材料を思いつけなかった(厳密に言うと自分の体験でなければ実感をこめて描けなかった)。彼にとってそれは苦渋の選択であり、おそらく崖から飛び降りるような決断だったろうと思います。

 これを空海の『聾瞽指帰(改題「三教指帰」』にあてはめることができます。
 空海は儒教・道教・仏教を比較して仏教こそ最上位と主張した――要するに自分の思想遍歴を語った。当然自分のことを語ったのであり、必然的に自分と関係を持った人たちのことも触れないわけにいきません。その最大のものと言うか、人は《儒学を学んだ叔父の大足》です。

 空海は五歳の頃から約十年間儒教を学びました。さらに大学寮入学前数年間、大足の元で「これでもか」と言うほど儒教経典詰めになっています。大学寮入学後は儒学を捨てて退学。道教・修験道に進み、さらに道教も捨てて仏教に進んだ。空海の三教遍歴を時系列的に並べるとこうなります。

 おそらく仏教に入門した二十歳前後のことだと思います。空海はこの流れを作品化しようと考え、「儒教を語る人、道教を語る人、仏教を語る人」を登場させようと構想した。空海は書き始めてすぐ一つの壁に突き当たったはずです。それは儒教を語る人がどうしても大足叔父になってしまうことです。

 たとえて言うなら、明治・大正の私小説作家が自身の父親を作品に登場させた。悪く描けば、父を不快にさせる。ほめて描いたとしても、父は決して喜びはしない。調和型と呼ばれた志賀直哉ですが、若い頃は父との対立・不仲を小説に描き、和解するまで父と絶縁状態になっています。

 空海は儒教を捨てて道教、仏教へと進んだ。なぜ儒教を捨てたのか。その理由を書けば書くほど、儒教の問題点に触れざるを得ない。それはつまるところ儒学者である叔父に対する批判、悪口になってしまいます。
「はて、どうしよう」空海は悩んだと思います。

 ここで空海が思いついた手法が《戯画化》でした(^_^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)

後記:明けましておめでとうございます。m(_ _)m 本年もよろしくお願いいたします。

 年明けから堅苦しいお話で恐縮です。発行日を変えようかとも思いましたが、一日発行と決めてしまったので実行しました。
 ちなみに「戯画化」とは〈コロッケ〉さんが有名歌手のものまねをやるようなものです。本体はまじめに歌を歌っているのに、顔や所作を誇張することでお笑いに変えてしまう。まねされた方はたまったもんではありませんが、なぜか憎めないってやつです。(御影祐)
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