四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 13

「蛭牙公子=空海マオ」論 その6

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第90―論文編 13号

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           原則月1回 1日配信 2013年5月1日(木)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・蛭牙公子(しつがこうし)・兎角公(とかくこう)・虚亡隠士〈きょもういんし〉・仮名乞児(かめいこつじ)・放蕩(ほうとう)・阿刀(あと)の大足(おおたり)・邁進(まいしん)・仮託(かたく)・祖先の名を汚(けが)し・醜名(しゅうめい)・叱咤(しった)・諫(いさ)める・夥(おびただ)しい・吐露(とろ)・功徳(くどく)
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 『空海マオの青春』論文編――第13「蛭牙公子=空海マオ」論 その6

 第13 「蛭牙公子=空海マオ」論 その6 草稿『聾瞽指帰』

 長々と蛭牙公子は空海マオの戯画化された自画像であると論じてきました。
 小論の最後に『聾瞽指帰』執筆前に『草稿』があった可能性について語りたいと思います。

 まず『聾瞽指帰』におけるモデル関係を再掲しておきます。

 1.蛭牙公子=大学寮退学前後の空海マオ
 2.兎 角 公=甥のマオをどうにかしようと腐心する叔父の大足
 3.亀毛先生=儒教を説く叔父の大足
 4.虚亡隠士=モデル不明
 5.仮名乞児=仏教を説く空海マオ

 マオは大学寮を退学して南都仏教に入門し、山岳修行を経て「仏教こそ儒教・道教の上を行く至高の教え」と主張する『聾瞽指帰』を書きました。
 その中で放蕩息子――ならぬ《放蕩の甥》蛭牙公子は三教論客の弁論を聞くや、まず儒教にひれ伏し、次いで道教を素晴らしいと思い、最後は仏教に賛嘆して「今後は仏教に邁進したい」と宣言します。

 ならず者として戯画化された点を除けば、正にマオが儒教→道教→仏教へと移りゆく様を描いているではありませんか。『聾瞽指帰』が若き空海の魂の成長を描くなら、三教を転進する蛭牙公子とはマオその人に他なりません。

 それにしても不思議です。これまでの空海研究者たちはなぜこのことに気づかなかったのでしょう。
 テレビ『相棒』の天才杉下右京と愛すべき凡人刑事の対比のように「私が杉下右京で、既研究者が凡人刑事」などと言うつもりはありません(^_^;)。
 おそらく「空海とはこのような人だ」との思いこみがあったのでしょう。真言宗創始者にして偉大な天才空海はとことん真面目な人で、ふざけたことは一切しないだろうと。その決めつけが捜査を迷宮入りさせたと言わざるを得ません。

 亀毛先生の戯画化は誰でも気づく。モデルが儒学者阿刀の大足であることも一目瞭然である。仮名乞児は仏教僧空海がモデルである――とそこで思考が止まって蛭牙公子の戯画化に思い至らなかったようです。
 私小説を例にあげれば、確かに自分を二人の人物に仮託するとは思いもしません。それだけでなく、マオは叔父さんまで兎角公と亀毛先生の二人に投影しました。
 その上蛭牙公子はギャンブル狂で酒飲み、女ったらしで礼儀知らずで生意気。とても空海とは思えない。戯画化と解釈すればなんでもないことなのに、そこだけまともに受け取ったようです。逆に言うと、マオは自分のことだから、それだけさんざんにけなせたとも言えます。そもそも「最も意外な人物が犯人」というのは推理小説の定番でしょう(^_^)。

 ただ、マオの名誉のために書くと、彼は決してふざけて戯画化したのではないと思います。『聾瞽指帰』から全ての戯画を取り払えば、三教をめぐるマオの思い、彼と叔父との関係など、とてもわかりやすい作品になったはずです。それこそ完全な私小説であり、告白小説です。彼は作品が《作者周辺の事実》として読まれることを恐れたので、戯画化を施したのです。
 かと言って「全く関係ない赤の他人のことを書いたわけではない。自分のことだと気づいてほしい」との思いから「蛭牙公子は母方の甥ですよ」と《おじ・おい》の関係を強調した。こうした思いから出た戯画化だったのです。

 もう一つ、私がこの点に気づけたのは志賀直哉の『暗夜行路』を研究したからだと思います。『暗夜行路』には大量の『草稿』があり、直哉の死後それが公になりました。
 実はその『草稿』研究によって志賀直哉の評価は一気に下がりました。小説は祖父の子と妻の過失という虚構の構想に基づいて書かれていながら、直哉は自身の体験をほぼそのまま『暗夜行路』(特に前編)に使ったことがわかったからです。「志賀直哉は小説家としていいかげん」とまで言われました。

 それに対して私は『暗夜行路』と『草稿』を丹念に比較して同じ点だけでなく、違う点(変えた点)に着目しました。そして、直哉が自分の体験を取り入れなければ、実感をこめて書けない作家であること、しかし実体験を織り込めば、スキャンダラスな事実として読者に受け取られ、志賀家周辺に多大の迷惑をかける。そこで私小説として読まれないよういろいろ工夫をこらした――と論文に書きました。

 この観点から『聾瞽指帰』を私小説的な作品として読み直すと、『聾瞽指帰』にも『草稿』があったであろうことが見えてきます。

『聾瞽指帰』仏教編の最初に奇妙な部分があります。これから仮名乞児が仏教を論ずべきところに、再び儒教論客が登場して「忠孝」をとなえるのです。それは一読すると儒教編の主旨が繰り返されて余計な挿入に思えます。
 既研究においてもこの部分への異和感が指摘されていました。儒道仏の三教をきれいに分類してその特徴を論じていながら、仏教編の中に再び儒教が語られるなんて余計な論述だ。ない方がすっきりすると。

 仏教編で再度忠孝を語ったのは当然亀毛先生と思われます。ところが、ここには「或(あるひと)」とあって「亀毛先生」と書かれていません。つまり、著者のマオにとって仏教編の儒教論客は亀毛先生ではなく、別の人なのです。そこにこの部分を読み解くヒントがありそうです。

 「或(あるひと)」は仮名乞児――すなわちマオに言います。
「主君への忠義、父母への孝行こそ人の生きる道であり、地位と財産を築き、妻子を持つことが一生の楽しみなのだ。ところが、君には親があり、主君もいるのに、孝養せず仕えようともしない。ただ浮浪者と乞食の群れの中に混じって祖先の名を汚し、後世に醜名を遺そうとしている。親戚一同はそなたに代わって穴にも入りたい思いだ。人は目をおおっているぞ。今からでも遅くない。すぐに忠孝の道に戻りなさい」と。

 このリアルな説教(^.^)はどうでしょう。大学寮をやめ、仏門に入るところまでは良いとしても、乞食僧の格好でうろついているマオ。親戚(特に阿刀家の親戚)がたまたま彼と出会えば、一言説教せずにおれなかった――その様子が思い浮かびます。
 今で言うなら、一人の若者がせっかく大学に入ったのに、勉強もせず、ぐだぐだ怠けて遊び暮らしてばかりいる(かに見える)。そのような学生に対して「しっかりせんかい」と叱咤する親とか(親に頼まれて説教する)親戚縁者の姿と重なります。

 私にはマオと対面した人の言葉がそのまま記されているかのように思えます。正しく《私小説》ではありませんか。
 〈或る人〉がマオに説いた言葉は確かに儒教の忠孝論ですが、亀毛先生が説いた忠孝と少々趣が違います。忠孝を勧めるのではなく、ドロップアウトした若者――マオに「忠孝に戻れ」と言っているのです。
 ちなみに、この〈或る人〉ですが、「祖先の名を汚し」とか「親戚一同はそなたに代わって穴にも入りたい思い」とあるから、親戚の一人であることは間違いないでしょう。
 しかし、〈或る人〉とされた点だけでなく、私は別の理由で「亀毛先生=大足叔父」ではないと思います(この件についてはいずれ語ります)。

 さて、この説教に対して空海マオはなんと答えたか。
 《仮名乞児》のマオは「憮然」として反問します。「ではお聞きしたい。忠孝とは一体なんですか」と。
 〈或る人〉はひるむことなく答えます。「家庭にいるときはにこやかに親のご機嫌を伺い、外出や帰宅のたびに挨拶する。夏は涼しく冬は暖かいよう心を配り、全力を尽くして親に奉仕する。これが孝行であり、かつての主君もこの孝を実践して帝王となったのだ。また、仕官する年になれば、孝を忠にかえ、主君のために命をささげる。もしも主君が過誤を犯せば、諫め論争する。このように主君を助けて出世を果たせば、栄誉は子孫に及び、名声は後世に伝わる。これこそ忠である」と。

 これまた今の親御さんが不肖の息子や娘に聞かせたい説教ではないでしょうか(^_^)。「主君への忠」を「仕事」に置き換えれば、今でもそのまま使えます。
 これが今から一千数百年前の奈良時代になされているのだから、ほんとに人の心は時代と関係ないことがよくわかります。

 これに対して仮名乞児ことマオはどう反論したか。
「確かにそれが忠孝でしょう。私も人として父母の恩を片時も忘れたことがありません。親は年老い、家は傾き、親族も貧しい。私に託された期待を思うと胸が張り裂けんばかりです。しかし、非力な私に肉体労働はできず、仕官しようにも才覚がありません。かつての君子ももはや存在しないではありませんか。大たわけの私はこれからどのように生きたらよいのか。ただ途方に暮れ、ため息をつくばかりです」と。
 マオはこうした思いを四文字四行の漢詩にまとめます。最後の四行は以下の通り。

 欲進無才(進まんと欲すれば才無く)
 将退有逼(将に退かんとして逼らるる有り)
 進退両間(進むと退くの両間に)
 何夥歎息(何ぞ夥しき歎息をや)

 進もうと思っても自分に才覚はなく、退こうとしても私に期待する親や親族が迫る。進むのか退くのか、その間にいてどうしてこんなにもたくさんため息が出るのだろう――と言うのです。
 この何とも弱々しい言葉はどうでしょう。天才空海、自信家にして強い空海とはとても思えないひ弱さを露呈しています。しかし、これもまた(ある時期の)マオの偽らざる心中であったと思います。

 その場はここまでの会話で別れたのでしょう。その後言い足りないと思ったか、マオはその人に次のような「手紙」をしたためます。
「現実の忠孝は狭い世界です。親への孝行、君主への忠義以上にもっと大きい仁徳があると思います。私は国家に対しても、父母に対しても、常に隠れた善行を向けようと努力しています。この国と家とに向けられた功徳の総和こそ忠孝なのです。一時的な不孝は長い目で見れば孝行になるときもあります。なのに、あなたは忠孝をただうやうやしくお辞儀することとのみ理解しています。なんと狭い見識でしょうか」と一見強い言葉を並べます。
 しかし、最後に「とは言え、この手紙はまだ自分の心を充分述べ尽くしていません。後日改めて説明したいと思います」と記し、またも弱々しい側面をのぞかせるのです。
 最後の原文は「然此書未委心」とあって「委細言い尽くせず無念」の思いさえ感じ取れます。

 これこそ『聾瞽指帰』の中に私小説的要素(自身の情けない体験や告白)がまぎれ込んだ部分ではないでしょうか。自信家と見える空海マオも、ある時期は儒教理論に対して堂々と反論できなかった。むしろ議論を交わしても言い負けたり、尻すぼみに終わる時期があったことをうかがわせます。

 私は小論の最初に若きマオについて次のように書きました。
 現代の大学でも「もう大学にいたって仕方ない。ほんとはやめたい。けど、両親は自分に期待している。息子のために田舎で懸命に働いている。それを思うと、やめたいと言い出せない。でも、今の自分は大学にも行かず悪友とバカなことをやって遊び暮らしている」とめめしく悩む学生がいる。そのようにマオも大学寮をやめたいと考えたとき、同じように悩んだのではないか。ある時期のマオはめめしくうじうじ悩む、弱々しい若者だったのではないか――と。これは私の勝手な空想ではなく、蛭牙公子と仏教編のこの部分から抽出した推理だったのです。

 ところで、マオと〈或る人〉との会話はどの段階で交わされたものでしょうか。大学寮退学前か、退学して仏門に入った頃か。あるいは寺を飛び出し、山岳修行に励んだ頃か。

 ヒントがあります。説教した〈或る人〉の言葉の中に「ただ浮浪者と乞食の群れの中に混じって祖先の名を汚し」とあります。よって、マオが乞食僧の格好で山岳修行に励んだ頃――それも初期の体験だったと思われます。なぜなら、マオの反論として描かれた言葉や手紙の中に道教や仏教の理屈が見られないからです。

 この記述から、私は『聾瞽指帰』草稿を考えました。
 それは仏教入門後持ち前の天才的読解力で各種仏典を読破し、儒教と仏教、二教の対比のみで書かれた下書きです。登場人物にいまだ戯画化はなく、道教編もなかったでしょう。

 想定『聾瞽指帰』草稿
 1 儒教編
 2 仏教編前半(忠孝を説く親戚に対して書かれた反論の手紙まで)
 3 仏教編後半

 私は小論「その2」で《『聾瞽指帰』は私小説である》と大胆な仮説を提唱しました。読者・研究者の眉をひそめさせたかもしれません。しかし、作品から戯画化を取り払い、このように構成を組み立ててみると、この作品は正しく若き空海の「私小説」であると言えるのではないでしょうか。

 『聾瞽指帰』は三教を論ずる思想書――とすれば、仏教編において再び儒教が語られるなんぞ「下手くそな論文」でしょう。
 しかし、私小説として理解するなら、これは全く問題ない流れです。なぜなら、乞食僧の格好をしているマオに親戚が説教する場面は儒教編には入りません。当然仏教編の中に入るべきエピソードだからです。
 仏教編の《儒教論客再登場》は外から見れば、論旨一貫しない余計な挿入に思えたでしょう。しかし、マオにとってはどうしても語っておきたい実体験だったのです。

 結局、マオはこの構想に基づいて書かれた『草稿』を読み返して「このままでは儒教論客亀毛先生が叔父の大足だと思われる」ことに気づく。そこで戯画化を考え、次いで山岳修行に入ってから道教を追加し、今に残る形の『聾瞽指帰』が成立したのだと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)

後記:来月は個人的事情により休刊いたします。ご了承お願いいたします。

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