四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 14

「誰がマオに仏教入門を勧めたか」その1

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第91―論文編14号

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           原則月1回 1日配信 2014年7月1日(火)

『空海マオの青春』論文編 第14

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 本号の難読漢字
・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・出家遁世(しゅっけとんせい、又はしゅっけとんぜ)・厭(いと)う・山家(やまが)・入唐(にっとう)・蛭牙公子(しつがこうし)・従五位下(じゅごいげ、天皇とお目通りがかなう貴族)・外(げ)従五位下(地方官などの最高位。参内できない)・文選(もんぜん)・式部(しきぶ)省・藤原種継(たねつぐ)・早良(さわら)親王・冤罪(えんざい)・安殿(あて)親王・穢(けが)れる・藤原小黒麻呂(おぐろまろ)・紀古佐美(きのこさみ)・山背(やましろ)の国・葛野(かどの)郡・宇田(うだ)村・藤原南家(なんけ)
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 『空海マオの青春』論文編――第14 「誰がマオに仏教入門を勧めたか」その1

 第14 「誰がマオに仏教入門を勧めたか」その1 天が背中を押す

 誰が仏教入門を勧めたか――この表題も空海を知る人にとってかなり破天荒で「なにそれ?」の問題提起でしょう(^_^)。
 マオが大学寮退学後(もしくは休学状態で)仏教に進んだのはずっと《空海の意志》と思われ見なされ、誰も疑問にしなかったようです。

 以前触れたように、確かにマオは『聾瞽指帰』の序において仏教入門のわけを次のように語っています。
「立身出世や世俗の栄達を競う世の中をうとましく思い、夢・幻でしかない人のはかなさから悟りの道を考え、出家しようと思った」と。

 しかし、これは定型のような出家の理由であり、マオの真意を明かしていないと思います。
 そもそもこのような言葉から出てくる境地は「出家遁世」――世を厭い、俗世間を離れて仏門に入ることでしょう。出家後は寺院や人里離れた山家の独居生活であり、静かにお経を読み、ひたすら座禅に明け暮れる毎日ではないでしょうか。

 ところが、マオはその後寺院を離れて山岳修行に入り、さらに後年日本を飛び出して入唐、新しい仏教である《密教》を得て帰国します。帰国後は真言宗を創始して最澄の天台宗とともに平安仏教の二大勢力となり、政治の世界とも大きく関わります。定型のような出家の動機にはこの《能動性》と言うか《積極的な意志》が感じ取れません。私にはマオが入門当初から《新しい仏教創始》を思い描いていたと思えるのです。

 そもそもマオが大学寮退学を決意したとき、彼には「仏教に行こう」との気持ちはなかったのではないか。物心ついた頃から官僚(政治家)を目指し、ひたすら儒学一筋でやってきた少年です。その儒学を離れるなんて身についた肉をそぎ落とすようなもの。相当の痛みをともなっただろうし、そこを離れてどう生きればいいか、たやすく思いつくとは考えられません。『聾瞽指帰』の自堕落人間蛭牙公子は三教を聞く前の存在であり、それは仏教入門前、儒教にまみれた(だけの)マオ自身でもあるのです。大学寮退学前のマオにとって仏教とは未知の世界、異世界だったと思います。
 マオは「もうこれ以上は耐えられない」と大学寮退学だけは決意した。けれども、その先のあてはなかった。
 そのとき「大学寮をやめるか。ならば仏教に行ってみるか」と言った人がいるのではないか。私はそう推理しています。マオに仏教入門を勧めた人物がいるはずだと。
 しかも、その人は「腐敗堕落した仏教界で新しい仏教を生みだしてみないか」と言ったのではないか。こう考えることで、その後の能動性、積極性が納得できるのです。

 さて、この件について考える前に、空海マオが大学寮退学にいたった経緯を再度まとめておきます。
 ちょっと大げさな言葉ながら、人が人生や進路について悩み、何かを決断しようとするとき、人間だけでなく自然と言うか天のすう勢が大きく関わることがあります。
 大学をやめるか続けるか。その悩みを知人友人に打ち明け、アドバイスを得るとしても、最終的に決めるのは自分。しかし、なかなか決断できない。そのとき何か大きな出来事が生起して「そちらに進みなさい」と背中を押されたような気がする……そのような例です。

 空海マオの場合、個人的な経緯は次の通りでした。
 彼は幼い頃から儒学を学び、官僚、でき得るなら天皇側近の政治家を目指して大学寮に進む。しかし、新しいものが全くない訓詁注釈の授業に失望。周囲を見渡せば、親が偉いというだけですでに従五位下に達している同級生がいる。卒業後官僚になれたとしても、後ろ盾のないマオにとっては外従五位下止まりがいいところ。天皇側近の政治家になるなど夢のまた夢でしかない。そうしたことがわかるにつれ、生活はどんどん乱れる。授業にも出ず夜更かし朝寝。もう退学したい。大学寮にいても何の意味もない。しかし、その先にあてはない。帰郷するのか、何か別のことをやるのか……。

 思うにマオは一年間は大学寮に通ったと思います。そして、二年目も「もう一年がんばってみよう」と思ったのではないか。心機一転の言葉もあります。科目が変われば何か開けるかも知れません。退学してもその先が決められないだけに、ぐずぐずとどまり続けたのだと思います。
 ところが、気を取り直して二年目の講義を受けても、授業は相変わらず訓詁注釈ばかり。やる気は失せ、再び講義をさぼって悪友と遊び暮らす日々。あの蛭牙公子のように。
 心の底で「これでは良くない」と思っても、どうすればいいか決められない。それが大学寮二年目の状態だったのではないでしょうか。

 ただ、マオがときたまのように講義に出れば、彼は異能を発揮したでしょう。マオは他の学生が四苦八苦する原文をすらすら読みこなす。教授が「この部分はある漢籍が出典となっている。それが何かわかるか」と問えば、マオは「それなら史記のあそこ、文選のあそこにあります」といとも簡単に答える。マオの頭の中には大学寮数年分の漢籍が完全にインプットされているからです。
 学友は驚きのまなこでマオを見上げたことでしょう。教授も「もっと講義に出てきなさい」の言葉を飲み込む。しかし、マオにとってそれがなんだと言うのでしょう。パソコンのデータ検索のように、頭の中の暗記事項をただ取り出しているだけではありませんか。

 そのようなとき、自然――というか天のすう勢がマオを退学へと導くのです。それは長岡を襲った未曾有の水害、そして遷都の決定でした。

 大学寮二年目の延暦十一(七九二)年。この年前半はずっと少雨で干害が広がり、各地で雨乞いの儀式が行われました。六月に入ってようやく降り出した雨はやがて長雨となり、長岡の東を流れる桂川が徐々に水かさを増します。そして六月二十二日、雷鳴と豪雨が帝都を襲って桂川が氾濫。濁流は左京に流れ込み、式部省の南門が音を立てて倒壊しました。通りは川となり、家々は床上まで水に浸かったことでしょう。
 さらに、その後始末も終えぬ八月九日、前回にも増して激しい雨が降ります。大量の雨は桂川からあふれ、堤防が何カ所も決壊。激流が朱雀大路を越え、右京まで泥水に浸かった――と『続日本紀』にあります。大極殿は丘の上にあるので被害を免れました。

 長岡を都としてから八年。前年には平城京の朱雀門など諸門を移築しています。さあこれからというときの二度の水害。これは朝廷と民に相当ショックを与えたようです。
 長岡京は藤原種継暗殺と早良親王冤罪事件から始まっています。遷都後天皇の母、皇后の突然死、皇太子安殿親王が原因不明の病気にかかるなど変事が続き、天候不順で飢饉が毎年のように発生しました。
 この年も皇太子の長患いで、占わせたところ「早良親王の祟り」と出ます。桓武天皇は帝都を見下ろしながら「この地は穢れているかもしれぬ」とつぶやいたかもしれません。

 一説によると、すでに数年前から遷都の思いがあったのではと言われます。二度の水害はその決定を早めただけかもしれません。おそらく九月には《遷都》が本決まりとなっていたのではないか。これ以後天皇の鷹狩りが長岡東部で盛んに行われています。平安京候補地の視察が始まっていたことは間違いありません。

 鳴くよウグイス平安遷都――は水害の翌々年ですが、すでに翌年一月十五日には大納言藤原小黒麻呂と左大弁紀古佐見が「山背の国葛野郡宇太村」(平安京の地)に派遣され、土地の様子を視察しています。『日本後紀』には「遷都のため」と記されており、二度の水害を終えた頃には遷都が決断されたようです。

 遷都のうわさが民に広まるのは早かったと思われます。貴族の建物などが倒壊したり、泥に汚れてもそのままであったら「おかしい」と感じるものです。民は朝廷より早く「変事は早良親王の祟りだ」と語っていたでしょう。
 遷都のうわさはやがて大学寮に流れ、マオの耳に入る。藤原南家に連なっている叔父大足は最も早くこのことを知ったはずです。しかし「機密事項」なら、叔父がマオに語ることはなく、マオはやはりうわさで遷都を聞きつけたのではないかと想像します。

 マオはそれを聞いてどう思ったか。遷都すれば、大学寮も当然新都に移る。建物は新しくなるだろう。だが、そこで行われる学問は千年変わらぬ訓詁注釈。何も変わることがない。ここでマオは決心したのだと思います。
いい機会だ。大学寮が長岡からなくなるなら、私もやめよう」と。
 その先のあてはない。しかし、やめることだけは決心した。それが水害後だったのではないか。自然がマオの決意を後押ししたのではないかと私は思います。

 マオは退学の決意を誰に告げたか。讃岐の両親でも大学寮の先生方でもなく、まずは大足叔父でしょう。
 私はこのとき大足が「大学寮をやめるか。ならば、仏教へ行ってみるか」と言ったのではないかと想像しているのです。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)

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