本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。
15「誰が仏教入門を勧めたか」 その2 阿刀家大足
空海マオは自身仏教に進んだことを「叔父の大足に勧められた」などと一言も書き残していません。
よって、前号の記述もこれから書くことも「マオは大学寮をやめようと思ったとき仏教に進むとは考えていなかった。誰かに仏教転進を勧められた」との仮定で考えています。
これを突飛な空想に過ぎぬと黙殺するのは簡単です。しかし、そもそも空海は仏教入門前後の経緯から入唐帰国まで多くの情報を封印しています。いつ得度したかさえ残していないのです。私はいずれそのわけを語るつもりですが、それゆえ推理することが大切だと考えています。あとはこの珍説に説得力があるかないか――だけでしょう(^_^)。
かくして空海マオに仏教入門を勧める人物がいたとすれば、それは阿刀の大足こそ最適の人となります。
と言うか、当時のマオと最も密接な存在として浮上するのは大足だけなのです。
ここで阿刀家・阿刀の大足について触れておきます。
日本の史書「六国史」は成立年代順に『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』と続きます。この四書で「阿刀」について検索してみると(今やインターネットで語句検索ができる時代です)、宮中に参内できる《従五位下》以上を紹介する人名として《阿刀》の名はわずか一例しか登場しません(六位以下なら少々あり)。
その例は史書四冊目の『続日本後紀』にあります。承和二年(八三五)三月二十五日の記述で、原文冒頭部を抜き出すと以下の通りです(読みは無視して漢字を眺めてください)。
弔法師喪。并施喪料。後太上天皇有弔書曰。真言洪匠。密教宗師。(略)
法師者讃岐国多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅従五位下阿刀宿祢大足。
漢字をたどればわかるように、「法師の死去・香典・真言・密教宗師・讃岐の人・阿刀大足」などとあってこの日大僧都空海が亡くなったことを記録した箇所です。ここに空海が十五歳の時おじの「従五位下阿刀大足に就いた」と書かれています。これが阿刀従五位下の初出です。
これによって叔父の身分が従五位下であったことがわかりますが、これは空海十五歳の時ではなく、亡くなる時点の位階を書いています。つまり、叔父の大足は最終的に従五位下まで昇進したということです。
ならば、叔父が藤原南家伊予親王の家庭教師をやっていた頃は当然それより下位です。大足は大学寮教授や助教と記されていないので、身分的にはさらにそれ以下だったと思われます。大学寮の教授にあたる大学博士の身分は正六位下、助教は正七位下相当です。マオが十五歳の頃、大足は従七位程度だったかもしれません。
もう一つ大足家に関しては資産がわかっています。『三教指帰』の中に石高「二千石」とあるからです。これが真実を書いているとすれば、二千石とは現代どれ程の貨幣価値があるのでしょうか。
一石は十斗であり一斗は十升。つまり一石は百升(玄米約百五十キロ)です。一石は大人一人が一年間に消費する量にほぼ等しいと言われます。
二〇一四年現在、玄米は一キロ三百円〜八百円ほどですから、百五十倍すると一石四万五千円〜十二万円となります。よって二千石は九千万から二億四千万円。通説によるともう少し高くて奈良時代から平安時代の一石は十万から二十万と言われます。それに従えば二千石は最低でも二億だから、阿刀家はそこそこ以上(^.^)の資産家だったと言えそうです。
阿刀大足家が資産家であったとしても、《阿刀》の姓を持つ人間は大足の例が六国史四冊を通じて最も高い位階です。そこから考えると阿刀家は政治・官僚の世界においてあまり力を持っていなかったことが想像できます。とは言え、そこそこ以上の資産家であり、天皇の次男伊予親王のご進講(家庭教師)になっているのだから、儒学者であったことは間違いないと思います。
ところが、阿刀の名は意外なところに登場します。
『続日本紀』天平十八年(七四六)六月十八日の条に、
「僧玄■死。玄■俗姓阿刀氏」とあります(■部は「?」)。
これは遣唐僧でもあった僧正玄?の逝去を知らせる記述です。ここに「俗姓阿刀」とあります。また、秋篠寺の開祖善珠和尚も「俗姓阿刀」でした。
これが大足の阿刀家と連なっているかどうか確証はありません。ただ、大足が儒学者であったことと合わせると、阿刀の名は学問の世界、僧侶の世界では著名だったことをうかがわせます。
ここでもう一つ、前々号で触れた《乞食僧として放浪するマオに「忠孝に戻れ」と説諭する親戚は大足叔父ではない》と考えた理由について語っておきます。
空海マオはおそらく五、六歳の頃から『論語』を読み始めたでしょう。神童とも言われ「将来は中央官僚に」と大学寮進学が望まれた。それを受け、帝都で儒学者として暮らす阿刀大足がその世話を引き受けた。大足はマオが十四歳になると帝都に呼び、十七歳までみっちり儒学を教え、大学寮に無事入学させた。そのころ大足は南家伊予親王の家庭教師として右大臣藤原是公や大納言藤原継縄と関係を持っていた……。
かくしてマオは約十年間大学寮数年分の授業内容を頭の中にたたき込まれて大学寮に入りました。
さて、この大学寮入学のための勉強法は一体誰が教えたのでしょう。誰が命令したのでしょうか。
答えは叔父であり、儒学者である大足しかいません。
では、大足はどうしてこの勉強法をマオに取らせたのでしょうか。答えは彼自身がその勉強法を取っていたから――としか考えられません。
これも残されていないけれど、大足が大学寮卒業者であることはまず間違いないでしょう。儒学者として親王の家庭教師になっているのだから。しかも、かなり優秀――もしかしたら主席で卒業した人かもしれません。
よって、大足は自身の勉強法をマオに施したと考えるのが自然です。阿刀家が代々続く儒学者の家系なら、彼もまたその上の人たちから学んだ勉強法だったでしょう。
ここで話はちょっとそれて私の大学時代のある体験を語りたいと思います。
かつてパソコンなど全くない時代、書物に語句(たとえば「阿刀」など)があるかどうか探すには検索専門の本を見るしかありませんでした。私の大学時代などそれがなければ、原本をしらみつぶしに探したものです。
私は今でも大学時代のある授業を覚えています。それは戦国時代末期を生きた地方武士が書き残した日記を読む演習(原文は変体漢文)でした。私が数行分の解釈を担当したとき、その中の漢字五文字に異和感を覚えました。単純に口語訳すると、前後うまくつながらないのです。私は「何か元がありそうだ」と思いました。つまり、「ある本ではこのように書かれているが」と解釈するとうまくつながるのです。
しかし、原文には出典が何か明記されていません。よって、担当者がそれを探し出さねばなりません。私はなんとなく出典は『法華経』ではないかと思いました。根拠はなく、全くの直感でした(^.^)。
法華経の原文は『大蔵経』の中にあります。しかし、検索本はありません。それゆえ、その五文字を探して一字一句目で追うしかありません。
図書館で作業を開始して数ページであきらめました(^_^;)。全体を探しきるには一体何時間、何日かかるのだろうと思い、しかもあるかないかさえわからないのですから。
何日かして私の発表となったとき、全体を解説して口語訳すると、最後に「この五文字は何かから引用されていると思われます。しかし、出典が何かわかりませんでした」と言いました。
すると教授が「元はどこにあると思うか」と聞きます。
私は「法華経ですか」と答えました。
教授は一瞬戸惑ったような表情を見せ、
「それがわかっていて何で調べなかった?」と言います。
私は「法華経があまりに膨大で、調べ始めてすぐ挫折しました」と応じました。
その後教授は引用の元を板書し始めました。「これは比較的初めの方にあった」と言って。
五文字の出典はなんと法華経でした。私の勘が当たっていたのです(^.^)。
もしもそれを探しきって発表していたら、教授から「よくやった!」と絶賛されたことでしょう。
それでも「法華経の中にあるのでは?」と当たりをつけたことはかなり評価されたらしく、成績は《優》でした(^_^)。
ところが、今や「法華経」も「六国史」もネットで原文が見られ、語句検索できる時代です。先ほど書いたように、昔なら阿刀の名が六国史にあるかどうか調べるには一冊一冊見ていくしかありませんでした。今では(原文がデータ化されていれば)わずか数分でその作業を終えられるのです。私がやったことは(法華経にあると当たりをつけた点は評価されても)今では最低限やってしかるべき作業でしかないでしょう。
これを空海で言うなら、大学寮で「この部分の出典が何かわかるか」と聞かれたとき、全く答えられない学友に対してマオだけはすらすら答えた。それを見て学友も教授も「優秀だ、天才だ」と思うかもしれない。しかし、マオにとっては頭の中のパソコンからその出典を抜き出しているだけ、「優秀でもなんでもない、ただ暗記しているだけだ」と感じたことでしょう。
パソコンなどない時代に多くの漢籍を丸暗記しているなんて誰でも「ものすごく優秀」と思います。ところが、本人はそう感じていない。その気持ちをわかる人がマオの周辺に一人だけいます。大学寮を優秀な成績で卒業したであろう大足叔父その人です。
マオと同じような勉強をして同じように大学寮に入って原文をすらすら読みこなし、「出典は何か」と聞かれればたやすく答えられた。学友や教授は「優秀だ」と絶賛した。
彼はおそらく主席で卒業し、卒業後は官僚としてスタートした。今は優秀な儒学者であり、いずれ大学寮助教、教授になるだろうと見なされ、「伊予親王のご進講に」と抜擢された。そのような大足だからこそマオの気持ちがわかったはずです。
そして、マオが「こんな勉強にはなんの意味もない。新しいものを何も生みだしていない。大学寮にいても無意味です」と打ち明けたとき、大足は自身を振り返ったでしょう。彼はその勉強法と人生に疑問を持たなかった。しかし、マオが抱いた悩みは理解できたと思います。
大足はマオの大学寮での行状もよく知っていたはずです。いわば保護者として。彼の知己が大学寮の教授・助教授であった可能性も高い。空海マオの《へんなところ》――年長者に対する畏敬の念に欠けているとか、朝寝ばかりして講義に出ないなど自堕落な生活をしていると報告を受けることもあったでしょう。しかし、みなが共通して言う一言があった。「ただ、佐伯マオはあの学年の中で最も優秀である」と。
それに対してマオが「そんなことは優秀でもなんでもありません」と訴えたとき、大足は反論できなかったのではないでしょうか。
マオが「このまま我慢して大学寮を卒業したとして私は天皇側近の政治家になれるでしょうか。官僚となって従五位下に到達できるでしょうか」と聞いたとき、大足は「できる」と答えられなかったでしょう。
そもそも彼自身が政界・官僚界において後ろ盾のない自分はとても従五位下になれない、せいぜい大学寮の助教か教授止まりと自覚していたはずです。阿刀家の男子でかつて従五位下に到達した人は一人もいないのですから(大足が最終的に従五位下になったのは空海の出世と関連しているのではないかと思います)。門地・家柄、天皇の鶴の一声で引き立てられる世の中では、どんなに能力があっても正当に評価されることはないと感じていたはずです。
それゆえ、大足はマオに「大学寮をやめるな。官僚を目指せ。出世できる」などと気安く言えなかった。
むしろ静かにうなずいて「そうか……大学寮をやめたいか。やむを得ぬな」と言ったのではないかと思うのです。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
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