四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 16

「誰がマオに仏教入門を勧めたか」 その3

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

|本  文 | 論文編 トップ | HPトップ


(^o^)(-_-;)(^_-)(-_-;)(^_-)(~o~)(*_*)(^_^)(+_+)(>_<)(^o^)(ΘΘ)(^_^;)(^.^)(-_-)(^o^)(-_-;)(^_-)(^_-)

『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第93―論文編16号

(^o^)(-_-;)(^_-)(-_-;)(^_-)(~o~)(*_*)(^_^)(+_+)(>_<)(^o^)(ΘΘ)(^_^;)(^.^)(-_-)(^o^)(-_-;)(^_-)(^_-)

           原則月1回 1日配信 2013年9月1日(月)

『空海マオの青春』論文編 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 本号の難読漢字
 前号「僧正げんぼう」の漢字が機種不明文字らしく「玄?」となって配信され、失礼いたしました。「ぼう」の漢字は[日]へんに[方]です。玄[日方] ・『続(しょく)日本紀』・編纂(へんさん)・藤原継縄(つぐただ)・藤原是公(これきみ)・藤原乙叡(たかとし)・皇太子傳(ふ)・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)・祈祷(きとう)・宮中禅師(ぜんじ)・和気清麻呂(わけのきよまろ)・別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)・流刑(るけい)・入唐(にっとう)・吉備真備(きびのまきび)・佐伯今毛人(いまえみし)・蔭位(おんい)の制・大僧都(だいそうず)・大極殿(だいごくでん)・山背(やましろ)の国葛野(かどの)・四神相応(しじんそうおう)・詔(みことのり)・岡田牛養(うしかい)・陰陽道(おんみょうどう)・最澄(さいちょう)・善珠(ぜんじゅ)・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
*********************** 空海マオの青春論文編 *********************************

 『空海マオの青春』論文編――第16 「誰がマオに仏教入門を勧めたか」 その3

 第16 「誰が仏教入門を勧めたか」 その3 奈良仏教と桓武

 奈良末期の仏教と桓武について語る前に、阿刀大足についてもう一つ推理しておきたいことがあります。『空海マオの青春』小説編の中で、私は大足が伊予親王の家庭教師だけでなく「正史編纂の仕事に就いている」と構想しました。その理由について説明します。

 マオの庇護者である大足最大の謎は藤原家とのつながりです。大足はなぜ南家伊予親王の家庭教師になれたのか。私はこれを解くヒントが当時編纂中であった『続日本紀』にあるのではないかと考えました。
 まず、南家伊予親王をめぐる家系図を掲載します。
 [藤原南家]
  ・継縄─┬兄乙叡
       └弟真葛
  ・是 公─┬兄真友
       └妹吉子─伊予親王

 藤原継縄と是公はいとこ同士で、伊予親王は是公の孫に当たります。マオが長岡に上京した頃、右大臣は是公でしたが、病に伏せっており、実質的な朝廷首座は大納言の継縄でした。よって、大足に伊予親王の家庭教師を依頼したのは是公ではなく継縄ではないかと考えました。では、継縄はなぜ大足と知り合ったのか。そこに継縄が責任編集であった『続日本紀』編纂と関係があるのではと推理したのです。

 『続日本紀』は『日本書紀』に続く正史として光仁天皇が命令を下し、未完成のまま桓武天皇に引き継がれます。最終的に全四〇巻として完成したのは平安遷都三年後(七九七年)のことです。そして、長岡京時代に後半を担当したのが藤原継縄、菅野真道、秋篠安人でした。
 第二十一巻以降の巻頭には「右大臣従二位兼行皇太子傅中衛大将臣藤原朝臣継縄等奉勅撰」とあり、筆頭責任者は藤原継縄です。編纂作業には当然事務方とも言える下級官吏が参加したでしょう。私はその中に儒教・史学の専門家として阿刀大足が入っていたのではと考えました。その姿が藤原継縄の目に留まり、伊予親王の家庭教師として推薦されたのではないでしょうか。
 この時代藤原四家の中では南家の天下でした。是公が右大臣となり、是公死後は継縄が右大臣となります。いずれにせよ、大足が伊予親王の家庭教師であれば、是公家、継縄家と深くつながっていたことは間違いありません。大足自身は昇殿できないものの、桓武や朝廷の機密事項を知り得る立場にいたと思われます。

 さて、ここで本題に入って桓武朝廷と仏教の関係について。
 仏教が日本に伝来して数百年、奈良時代になると仏教はかなり日本に浸透していました。しかし、奈良時代末期には仏教、仏教界の堕落も始まっていました。詳細は後日ということにしてここでは二点取り上げます。一つは僧侶・寺院の堕落っぷり。もう一つは仏教界が政界に影響を及ぼし始めたことです。有力貴族にとっては看過できない悪しき影響ととらえていたでしょう。

 前者は葬式仏教で布施を稼ぐ僧、仏典の意味も知らずただとなえているだけの僧。不毛と思えるような議論のための議論に終始する南都仏教界への不満。さらに、大寺院が高利貸しのようなことをやっているなどです。
 そして、後者――政界に悪しき影響を及ぼした象徴的な事件が弓削道鏡の「宇佐神宮御神託事件」(七六九年)でした。
 詳細はネット事典をご覧いただくとしてごく簡単に説明すると、祈祷力に長けた道鏡は宮中禅師となるや、孝謙上皇の病気平癒の効によって信頼を得ます。そして、孝謙が天皇に再即位(称徳天皇)すると弓削一族が重用され、道鏡は太政大臣に任命され、さらに法王となって政治に関与し始めたのです。
 称徳女帝は独身で子どもがいなかったため、次の天皇を誰にするか問題となったとき、太宰府より「道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になる」と宇佐神宮の神託があった旨の奏上があります。称徳(朝廷)は真偽を確かめるべく和気清麻呂を宇佐神宮に派遣します。道鏡は彼を手なずけようとするも失敗。清麻呂は宇佐より帰還すると「神託はうそ」と奏上したので、道鏡の天皇即位はなりませんでした(称徳天皇は報告を聞いて怒り、和気清麻呂を「別部穢麻呂」と改名させて流刑処分にしています)。その後称徳天皇が崩御して道鏡は失脚したのです。

 道鏡が亡くなったのは七七二年。マオが生まれる二年前であり、桓武天皇三十五歳のときです。称徳天皇後皇位に就いたのが桓武の父光仁天皇であり、桓武が天皇になったのが七八一年(四十四歳)のときでした。道鏡の専横を目の当たりにした光仁、桓武、彼らの後ろ盾である藤原氏にとって仏教は両刃の刃として感じられたことでしょう。民衆支配のためにもはや仏教は欠かせない。しかし、僧の堕落と仏教が政治に関与することには嫌悪感を持ったと思われます。

 結果、桓武天皇は長岡京に遷都した際、奈良の仏教寺院が新都に移転することを禁じました。平安遷都の際も同様です。桓武は《新しい仏教》を求めていた――これは桓武の仏教に関する定説でもあります。それを受けてまず最澄が登場し、やがて入唐帰国後の空海が続くのです。
 平安遷都が行われる頃、最澄は表舞台に顔を見せつつあったけれど、マオは楽屋の裏のその他大勢に過ぎませんでした。

 大足はこのような仏教をめぐる情勢を当然知っていたでしょう。帝が仏教界の現況を憂い、新しい仏教を求めていることも知っていた。

 現代なら優秀な人間は学会、経済界、政界で活躍できるでしょう。基本的に能力さえあれば、チャンスは平等だから実力を発揮できる。しかし、奈良・平安時代は門地家柄が重視される身分社会でした。過去数百年、下級身分から高位に到達したのはわずかに二人、吉備真備と佐伯今毛人だけです。桓武や藤原氏が蔭位の制を変えるつもりがないことは明らかでした。

 マオは第二の今毛人になれるかもしれない、大足はそう思って大学寮に入学させた。しかし、マオは不適応症状を起こして「大学寮をやめたい」と言う。やめて田舎に帰ったとして何ができよう。マオの高い能力を何かに活かせないか……大足がそのように考えたとしても不思議ではありません。
 奈良時代、政界以外で活躍できる場が一つだけありました。それが仏教界です。仏教に門地はない。やがて大僧都にでもなれば、政界に影響を及ぼすことさえできる。道鏡事件とは正にそういうことでした。大足が「我が甥ならば仏教界に入って新しい仏教を生みだし、やがて政界に対峙できるほどの存在になるかもしれない」と考えた可能性は高いと思われます。

 これらの考察を経て私は大学寮退学について話し合うマオと大足を以下のように描きました。
 この会話は帝都長岡が二度の大洪水を経て泥にまみれ、平安京遷都が決定した七九二年末のことと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 8 退 学

 年末休暇となる一週間前、マオは一足早く叔父の家に戻った。
 大足はいつもの書斎でくつろいでいた。マオは挨拶の後「叔父上、お話があります」と言って正座した。大足も座り直して向かい合った。
「ちまたでは来年にも遷都するのでは、とのうわさが流れております。本当でしょうか」
「ほう。早くもそのようなうわさが流れておるか。まことじゃ。来年には大極殿を始めとして官庁、貴族高官の家屋敷の移築が始まるじゃろう」
「山背の国葛野の地とか」
「四神相応の適地として白羽の矢が立てられた。一月に遷都の詔が出されるはずだ」
 淡々と語る大足だが、その表情には無念さが読みとれる。帝が決めた以上誰も逆らえないとでも言うように。
「長岡に遷都してまだ八年しか経っておりません。昨年ようやく朱雀門など諸門の移築を終え、これからというときにもう都を遷す。叔父上は私が上京したとき帝都長岡に新しい仁政の風が吹くであろうとおっしゃいました。この遷都は民のことを考えた御仁政なのでしょうか」

 大足は苦虫を噛みつぶしたかのように口をゆがめた。
「きついことを申すのう。確かにわずか八年でまたも遷都。これは帝や朝廷の勝手気ままな振る舞いかもしれぬ。だが、この地が帝都としてふさわしくないとなれば、やむを得ぬ仕儀であろう。二度の洪水でいやというほどそれがわかったからの」
「大学寮はどうなるのですか」
「もちろん新都に移る。平城京より長岡に移転したときは最後じゃった。しかし、今回は早いかもしれぬ。金はかかるものの、洪水に浸かった建物はそのままにして新しく建て替えるとの話だ。大学寮は遅くとも再来年までに引っ越すであろう」
「この家も移転するのですか」
「当然そうなる。正史編纂の仕事があるし、伊予親王のご進講を続けるわけじゃからな」

 そこで会話は途切れた。マオは遷都について批判するつもりはなかった。しかし、これから口にすることは遷都と無関係ではない。
 マオは身体から絞り出すようにして言った。
「私は……新都に、行きたくありません。大学寮は……やめたいと存じます」
 大足は沈黙した。驚くそぶりも見せない。ややあってあっさりと言った。
「やめてどうする。田舎へ帰るか」
 叔父の言葉は予想外だった。マオは厳しく叱られることを覚悟していたからだ。
 マオは戸惑いながら答えた。
「はい。いえ……とにかく、もう大学寮にはいられないのです」
「そうか。大学寮をやめたいか」
 大足はつぶやくように言って再び沈黙した。

 マオの両目から涙がにじみ出た。なぜか涙がこぼれるのを止められない。
 マオは拳を握りしめて我慢した。しかし、涙はぽたりぽたりと膝に落ちた。
 大足は黙ったままマオを見つめると、ゆっくり語り始めた。
「大学の博士や助教はほとんど私の知り合いだ。時には酒の席で落ち合うこともある。自然お前の話も出る。今年になって岡田牛養殿からもお話を伺った。良い話も悪い話も。不思議なことに、どの先生方も共通して言う言葉があった。お前はあの学年の中で最も優秀であると。それは入学前大学寮数年分の内容をみっちり勉強した成果であろう。だが、彼らはこうも言われた。しかし、最も大学寮に合わない人間でもあると……妙な評価じゃのう」

 マオはなんとも答えられなかった。叔父は全てを知っていると思った。
 大足は続けた。「実はわしも大学寮に入った当初、大学とはなんとつまらないところかと思った。わしもまた入学前の十年間、儒学をとことん勉強したからだ。原典だけでなく古注もいやというほど学ばされた。おかげで大学寮低学年の頃、講義はなんの難しさもなかった。その結果、わしは大学寮の数年間で後の数年分を他の学友よりいち早く勉強し、先に進むことができた。もちろんそれは毎日の講義がいかに退屈でつまらなくなるかを意味している。しかし、わしはそのつまらなさを耐えることができた。そして、優秀な成績で卒業できたし、官職にも就けた」
 大足はそこで切った。
 マオは顔を上げて叔父の目を見た。今までになく優しい眼差しだと思った。
「しかしながら、マオ……お前には耐えられなかったようじゃ」

 マオはまた涙があふれ出た。叔父も同じだった。同じ勉強をして大学寮に入り、同じようにつまらなくて同じように優秀な成績だった。初めて聞く言葉、初めて知る話だ。
 いや、叔父が自分と同じなのではなく、叔父が先であって自分は叔父と同じ勉強法をやらされたのだ。それは一体なんのためだったのか。誰のためだったのだろう。
 しかし、なんにせよ叔父はそれに耐えた。耐えられた。けれども、自分は耐えられなかった。それは自分の情けなさ、不甲斐なさを意味しているのか。それとも耐えられなかった自分が正しいのか。どうにも考えようがなかった。ただ、なんとも言えず悔しく悲しかった。

 大足はしばらくマオが泣くに任せた。そして、穏やかに言った。
「そこまで思い詰めているなら、大学寮をやめることは致し方あるまい。だが、故郷讃岐へ帰れるか。帰って父や兄の仕事を手伝うか。退学するなら本家も戻ることを望むかもしれぬ。しかし、お前はそれで満足できるだろうか。帝都の刺激を受けた以上、もはや田舎へは帰れまい。お前が求めているのは新しい何かであろう。讃岐に帰ったとしても、新しいものを生み出すことはできないような気がする」
 マオは次第に涙が尽きるような気がした。叔父が自分のことをそこまで考えてくれていたのかと思った。
 マオはしゃくり上げつつ言った。
「その通り……だと思います。私も……讃岐に戻りたいとは思いません。ただ、大学寮はもうやめたい。それだけです」
 大足はうなずいた。そして、ふと思いついたかのように顔を上げた。
「仏教へ行ってみるか」
 それは意外な一言だった。マオは叔父を見上げた。
「仏教……ですか」
「そうだ。大学寮をやめるということは儒学をやめるということじゃ。官位を昇ることも、政治家になることもあきらめると言えよう。そうであれば、お前の能力を試し、活かし、新しいことを生み出す場として考えられるのは仏教界じゃ」
「仏教……」

「最近藤原継縄殿から新都の骨格を伺った。山背では京内に大寺院が建設されるとか。長岡で寺を排斥した反省があるからじゃろう。また、新都を守る周囲の山々にもかなり寺を建てるらしい。だが、それは南都寺院の移転や復活を意味しない。新都を守るための新しい寺じゃ。神社も陰陽道も家臣や民の心に安心と安定をもたらすには力が弱い。南都仏教もまたしかり。帝は新しい仏教を求めていらっしゃる。すでに何人か新進気鋭の僧の名が候補として挙がっており、各寺に配置されるはずだ。特に新都の北東、鬼門となる丑虎の方角をいかに守るか。そこには比叡山があり、折しも一人の青年僧が新しい仏教を創始せんと修行を続けているとか。そのうわさはすでに帝のお耳に入っており、いずれ取り立てられること間違いあるまい。二十代半ばの若い僧で最澄とか言うらしい」
「最澄……」
「阿刀家はもともと仏教界と縁が深い。遣唐僧となられた興福寺の玄ボウ僧正、秋篠寺の善珠和尚など出自は阿刀家じゃ。お前にも阿刀の血が流れておる。仏教界に飛び込み、新しい仏教を創始する――それこそお前にふさわしい世界なのかもしれない」

 なおも大足は新しい仏教を力説した。それは儒教を学び、儒学に身を捧げているかに見える大足の意外な素顔であり、意外な言葉であった。大足もまた儒教の限界を感じていたのかもしれない。
 マオは「新しい仏教」の言葉に限りなく惹きつけられた。いつの間にか涙が乾いたことに気づかないほどであった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 このような流れから、私はマオに仏教を勧めたのは大足であろうと考えたのです。そして、マオは仏教に進み、新しい仏教創始に突き進んだ(^_^)。
 空海は『聾瞽指帰』の序に仏教入門の理由を「立身出世や世俗の栄達を競う世の中をうとましく思い、夢・幻でしかない人のはかなさから悟りの道を考え、出家しようと思った」と書きました。これが定型に過ぎず、マオの真意を明かしていないとわかっていただけたのではないでしょうか。

 大足はマオの良き理解者であった――と考えると、マオが仏教入門後「南都仏教にこもって仏教を学ぶだけではダメだ。山岳修行に出よう」と考えたことにも理解を示したでしょう。
 ならば、マオが乞食のような格好でうろついていたとしても、大足が「その格好は何だ。親戚はみな恥ずかしい思いをしているぞ。儒教に戻れ」などと言うはずがありません。大足は新しい仏教を求めて突き進むマオを「理解あるまなざし」で見つめたと思われます。

****************************************

=======================================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)

後記:来月は個人的事情により休刊いたします。m(_ _)m

 また、次号より数回に渡って論文の最終部とも言うべき結論を先に公開したいと思います。つまり、空海マオの最終到達点である《全肯定》について語ろうと思います。理由は現在の公開ペースだとそれを明らかにするのが(下手をすると)数年後ではないかと思われるからです(^_^;)。
 空海の最終到達点は真言宗の勤行でとなえられている『般若心経』と『理趣経』の解釈に関わっています。
 そこで、読者各位にはネットにてこの二つの内容をある程度勉強しておかれるようお願いします。「般若心経」・「理趣経」と打ち込んで検索すると、「全文」・「口語訳」などがたくさん出てきます。原文と気に入った訳や解釈・説明をいくつか読んでいただけたらと思います。『般若心経』は短いけれど、『理趣経』はそこそこの長さと内容があって大変です。
 なので、『理趣経』の方は最低限「十七清浄句」と呼ばれる部分の原文・解釈を読んでいただければと思います。「妙適C淨句是菩薩位」に始まって「味C淨句是菩薩位」まで、男女の交わりは清浄であり、ものごとは全て清らかであると十七行に渡って書かれています。
 この二経を解釈することが空海の到達点を理解することなのです。私の二経に対する解釈は今まで誰も言っていない内容です。解釈・論文全て踏破したわけではないので、誰か言っているかもしれませんが、これまではお目にかかったことがありません。ご期待下さい(^_^)。(御影祐)
=======================================
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
 MYCM:御影祐の最新小説(弘法大師空海の少年期・青年期を描いた)      
  『空海マオの青春』小説編配信終了 論文編連載中     
  小説編PDFファイル500円にて販売  詳しくは → PDF版販売について
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


第 17 へ

画面トップ



Copyright(C) 2014〜 MIKAGEYUU.All rights reserved.