四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 17

空海の最終境――「即身成仏」と全肯定

 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第94―論文編 17号

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           原則月1回 1日配信 2014年11月 1日(土)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・即身成仏(そくしんじょうぶつ)・数(すう)でいう零(ゼロ)である・抽象化された空(くう)の一点
・利他(りた)の行(ぎょう)・『般若心経』(はんにゃしんぎょう)・『理趣経』(りしゅきょう)・読誦(どくじゅ)
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 『空海マオの青春』論文編――第17 空海の最終境――「即身成仏」と全肯定

  「即身成仏」と全肯定

 前号で予告したとおり、空海論の結論とでも言うべき、空海が到達した最終境について一足お先に語ろうと思います。
 実はこれまですでに何度か触れていました。空海の到達点を一語で言うなら《全肯定》であると。

 空海の最終境は普通「即身成仏」の言葉で表されます。
 この「即身成仏」なる言葉、わかりやすいようで実はとても難解です。「成仏」が「死ぬ」の意味で使われるように、仏になるには死ぬしかない。生きて仏になるなど不可能――それが一般の理解でした。それに対して空海は「生きたまま仏になれますよ」と説いたのです。

 ところが、「即身成仏」の意味するところ、では一体どうすれば生きているうちに仏になれるのか。これに関しては空海の著書を読んでも、諸氏の解説書をつまみ食いしても、「なんだかよくわからない」と言わざるを得ません(^_^;)。
 たとえば、空海を最もわかりやすく解説してくれた『空海の風景』の司馬遼太郎は次のように説明しています。「自然の本質と原理と機能が大日如来そのものであり、そのものは本来、数でいう零である。零とは宇宙のすべてが包含されているものだが、その零に自己を即身のまま同一化することが、空海のいう即身成仏ということであろう」と。
 さらに、「空海はすでに、自己を密教の宇宙観によって抽象化してしまっている。その抽象化された空(くう)の一点であることが、即身にして大日如来になること」とも書いています。
 こう聞くと、なんとなくわかったような気になりますが、結局、「どういうことですか?」と聞き返さねばなりません(^_^;)。
 研究者や真言宗関係の方々もいろいろ解説しつつ、最後は「奥深く神秘的な宗教的境地」と言ってすましているように感じられます。まるで到達できたのはただ一人、お大師さんしかいなかったとでも言うかのように。

 私は『空海マオの青春』小説編の後書きで、この言葉について次のように書きました。
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 空海が最後に到達した境地は「即身成仏」と言われます。私はそれを「現世を楽しく充実させて生きること」と理解しました。現世でこの身のまま成仏するとは生きることが楽しくて仕方ない極楽の世界に行くことです。死後の極楽ではなく、現世で極楽のような充実した生を送ること。そして利他の行に励むとき、人は宝を得て夢を叶えることができる――私は本気でそれを信じています。
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 どうでしょう。これならわかりやすいのではないでしょうか(^_^)。
 現世を楽しく充実させて生きる。そして、死すべき時が来たら「これまで生きて辛いこと苦しいことはあった。でも、まとめれば楽しい人生だった」と思ってあの世へ行く。即身成仏の意味が《現世を楽しく充実させて生きること》であるなら、フツーの人だって充分到達できそうです(^.^)。
 私は空海はとても難しいことを言っていると考えていません。彼はただやさしくわかりやすく説明してくれなかっただけです。著書が全て漢文であることも難解さに拍車をかけています。私はそれを代弁したいと思って長編『空海マオの青春』を書きました。

 その結果、空海が到達した最終境を現代の言葉で表すと《全肯定》になりました。もちろん司馬氏もこれがまとめの一語であるとして「大肯定」と呼んでいます。ならば「即身成仏とはなんですか」と聞かれて「大肯定だ」と答えれば良かったのに、と私は思います。
 生きることが楽しくてたまらない「即身成仏」の境地に達するには《全肯定》が必要であり、逆に言うと《全肯定》の境地に至れば、この世は楽しく歓喜に満ち、ぎっしり詰まって充実していると感じられる。そして、「もっと生きよう。もっと生きたい。なぜなら、毎日毎日楽しくて仕方ないから」と感じられる境地なのです(^_^)。

 たとえば、遊びに夢中な子どもが時の経つのを忘れ、夕方になって「明日もまた遊ぼうね」と言って友だちと別れる。翌日も翌々日も遊ぶことは面白くて楽しくて仕方ない。やがて成長して学ぶことも楽しい時期があった。働くことが楽しくて仕方ない時期もあった。いつからかその気持ちが失われているなら、全肯定によって子どもの心を取り戻すことができるとも言えます。

 さりながら、私は論文編の初めで次のようにも書きました。
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 あらゆることを――いやなことも辛いこともあわせて全て肯定できる。それも理屈として肯定するだけでなく、感情でも肯定できる。つまり、心から「これでいい」と納得して許せる。それが密教最終境なのです。
 もっと現代風に言うなら、いじめられても、親から虐待されても、友人から裏切られても、失恋しても……それを肯定できる。仕事で辛いことがあっても、セクハラ・パワハラを受けても、差別されても、迫害されても、大病を患っても、事故で片腕を失っても、レイプされても……それを肯定できる。あるいは、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺されたり、戦争や災害で失っても……それを肯定できる。
 それも理屈として肯定するのではなく、心から肯定して許せる。これこそ密教最終境です。
 このように書くと、《全肯定》とは簡単な言葉ながら、この境地に達するのは相当難しいことがわかると思います。普通の人にはほとんど不可能とさえ思えます。
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 即身成仏とは「現世を楽しく充実させて生きること」と書けば、フツーの人でも到達できそうな気になります。「現在を充実させて生きよう!」とはしばしば聞く言葉でもありますから。
 しかし、上記のように具体的に書いてみると、全肯定の難しさが浮かび上がります。多くの人が「全肯定なんて無理無理無理。私には絶対無理!」と叫びそうです(^_^;)。
 あらゆることを心から許して肯定するなんて、フツーの人にはとてもできそうに思えません。

 しかし、我ら凡人が到達できるかどうかはともかく、《全肯定》は私にとってあなたにとって、日本や世界の人にとって必要だと思います。
 ちょっと大風呂敷を広げる発言で恐縮ですが(^_^;)、私はこの《全肯定》こそ、人を救い癒し、日々を生きるエネルギーを生み出してくれる源泉となり、個々の不和をなくし、民族・宗教の対立をなくし、戦争をなくすことができる究極の境地(言葉)であると考えています。

 この詳細は後に触れることにして、これからしばらく空海の最終境が《全肯定》であると結論づけた根拠を、二つのお経によって示すつもりです。一つは『般若心経』であり、もう一つが『理趣経』
 どちらも真言宗で読誦されている重要なお経です。『般若心経』は仏教伝来当初から日本にありましたが、『理趣経』は空海が唐より持ち帰った経典です。

 次号より二経について詳しく眺めますが、今号ではもう少し《全肯定》の誤解というか勘違いについて触れておきます。

 「全てを肯定する」と聞くと、全肯定とは「我慢することであり、あきらめることだろう」と思われがちです。我慢するもあきらめるも肯定系の言葉に見えます。しかし、よく考えると否定の言葉です。
 なぜなら、「我慢する」にはほんとうは我慢したくないのに自分を押し殺している、自分の自由な思いや行動を打ち消して「じっと耐えている」感じがあります。つまり、本当は我慢したくないのに耐えている。自分のあるがままの姿や思いを否定する言葉です。
 また、「あきらめる」の言葉も本当はあきらめたくない、本心はあきらめないで、なんとかしたいと思っている。だが、いろいろな理由でもうあきらめるしかないと感じている。本当はあきらめきれないのだから、やはり自分の内心を否定しています。

 愛する人が無慈悲に殺された、大地震や大津波によって死んでしまった。何をどう思っても、死んだ人は生き返らない。あきらめるしかない。そう自分に言い聞かせても、あきらめることができない。つまり、本当はあきらめきれないのだから、やはり自分の内心を否定しています。

 妙な言い方ですが「我慢する・あきらめる」には「我慢したくない・あきらめたくない気持ち」が隠されています。それを一生懸命否定して「我慢しよう・あきらめるしかない」と自分に言い聞かせているのです。
 ところが、全肯定は我慢しません。あきらめません。ただただ、事態を、自分を肯定するだけです。もっと正確に言うと、我慢できない自分を肯定する、あきらめきれない自分を肯定するのです(^_^)。

 さらに、生きて日々活動することを「戦う」と言うなら、なんでも肯定する全肯定は日々の《戦い》を放棄しているかに思われます
 我々は《戦う》とは相手を否定するための行動だと思っています。スポーツやゲームにおいて我々は確かに相手を負かし、自分が勝つために戦います。これは自分を肯定し、相手を否定するために戦っているように思えます。相手を負かしてやるとの思いがエネルギーの源泉だと考えています。それゆえ、相手を肯定してしまったら、戦う気持ちをなくすだろうと思われがちです。

 確かに対象を否定する「許せない」とか「負かしてやる」との思いが戦いのエネルギーとなるでしょう。その気持ちがなくなったら、戦えないような気がします。
 しかし、これも間違いです。全肯定は日々の戦いをやめることではありません。否定のための行動を取るのではなく、肯定した上で戦うということであり、ひたすら肯定して今日を生きるということです。
 スポーツやゲームにおける肯定の戦いとは、相手を負かすために戦うのではなく、相手が私に勝とうとしていることを認め受け入れ、その上で戦うということです。「対戦相手は私に勝とうと思っている。私も相手に勝とうと思っている」――そう考えて戦うのが全肯定の戦いなのです。

 上記の具体例を再度取り上げるなら、かつていじめられた。親から虐待された。友人に裏切られた。失恋した。仕事で辛いことがあった。セクハラ・パワハラを受けた。差別され迫害された。大病を患い、事故で片腕を失った。レイプされた……。
 それらを肯定するとは、ひどい目にあったのに我慢することではない。あきらめることでもない。そもそも「許せない、我慢できない、あきらめきれない」感情を否定しては全肯定になりません。自分の外で起こった出来事を肯定するなら、自分の内面も肯定するのが全肯定です。

 また、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺されたり、戦争や災害で失った。殺した犯人、敵国の人間を絶対許せないと感じる。自然災害の場合は不運としてあきらめるしかない。しかし、理由が何であれ、悲しみと喪失感から「自分も死んでしまいたい」と思う。あきらめなければならないけれど、忘れられないし、あきらめきれない。「自分も死んだ方がいい」とまで思う。
 このどうしようもなく湧いてくる感情を否定してはやはり全肯定になりません。とにかく全肯定とは外の出来事、ものごとを肯定するだけでなく、自分の心を含めた全てを肯定することだからです。

 よって、愛する親や子、世界に一人、かけがえのない恋人を、理不尽な理由で殺され、「殺した相手を許せない、報復したい」と思うなら、その感情を肯定します。「犯人を殺してやりたい」と思っていいのです。
 あるいは、戦争や災害で最愛の人を失った悲しみから立ち直れず、「自分も死にたい」と思うなら、そう考え、そう感じていいということです。

 何をどう思っても、死んだ人は生き返らない。あきらめるしかない。あきらめきれない自分はダメな人間。前向きに生きられない情けない人間だ……などと思わず(否定せず)、いつまでも嘆き続ければいい。死んだ人の年を数えて悲しみに浸ればいい。前向きに生きられない自分を許していい――それが全肯定です。

 ここが愛の宗教キリスト教と大きく違うところでしょう。
 キリスト教の牧師に「娘を殺した犯人を絶対許せない。殺してやりたい」ともらせば、牧師は言うでしょう。
「気持ちはわかります。でも、そんなことを考えてはいけません。愛をもって許しなさい」と。
 あるいは、「もう生きる意味がない。死にたい」と訴えれば、「これからいいことがあります。決して死んではいけません」と言われるでしょう。

 読めばおわかりのように、これは否定の言葉です。事態を肯定し、相手を許しなさいと言いながら、あなたの感情は否定しなさいと言っています。
 しかし、全肯定は「娘を殺した犯人を絶対許せない。殺してやりたい」という感情を肯定します。そう思っていいのです。絶望感から「もう死んでしまいたい」と感じるなら、その思いも肯定します。それが全肯定です。

 この件の詳細は後日また触れたいと思います。ここには大きな問題である「ではその思いを実行するかどうか」がありますから。ここではただ全肯定についての誤解を指摘するだけにとどめます。
 自分の外で起こった不快な事実、不運な事実を全て肯定するのが全肯定なら、そこから生み出される自分の感情も全て肯定する――それが全肯定であるということです。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:文中「スポーツやゲームにおける肯定の戦いとは、相手を負かすために戦うのではなく、相手が私に勝とうとしていることを認め受け入れ、その上で戦うということです。相手は私に勝とうと思っている。私も相手に勝とうと思っている。そう考えて戦うのが全肯定の戦いです」と書きました。
 ここを読まれた読者は「なに言ってんだ。違いがないじゃないか」とつぶやかれたかもしれません(^.^)。
 実は全く違います。「相手を否定し、負かすために戦う」と考えるか、「相手は私に勝とうと思っている。私も相手に勝とうと思って戦う」と考えるか。この違いは読者への宿題にしたいと思います。どう違うか、考えてみてください(^_^)。

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