四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 20

「前半の補足・伏線について」


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第97 ―論文編 20号

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           原則月1回 1日配信 2015年3月10日(火)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・大足(おおたり)・求聞持(ぐもんじ)法・入唐(にっとう)・『聾瞽指帰(ろうこしいき)』・『三教指帰(さんごうしいき)』・安殿(あて)親王・緒嗣(おつぐ)・妓女(ぎじょ)・蛭麻呂(ひるまろ)・蛭牙(しつが)公子・狎(な)れて侮(あなど)る・北辰(ほくしん)祭り・妻問婚(つまどいこん)・祥瑞(しょうずい)・幔幕(まんまく)・勤操(ごんぞう)・佐伯今毛人(いまえみし)・行基(ぎょうき)・盧舎那仏(るしゃなぶつ)・金星の日面(にちめん)通過・太龍山(たいりゅうざん)
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 『空海マオの青春』論文編――第20 「前半の補足・伏線について」

 二ヶ月ぶりのご無沙汰、御影祐です(^_^)。

 小説『空海マオの青春』は前後編に分かれ、前編四章の見出しは以下の通りです。
 第一章 志学――側近政治家
 第二章 挫折――大学寮退学
 第三章 迷い――三教の狭間
 第四章 仏教――室戸の覚醒

 空海マオは儒教を学び、高級官僚・天皇側近の政治家を目指し、意気揚々と大学寮に入学した。ところが、すでに学んだことが繰り返され、訓詁注釈でしかない授業に失望し、後ろ盾のない自分は首席で卒業したとしても、とても従五位下に到達できないと思う。こんなところにいても仕方がない。しかし、故郷では父母が、また叔父の大足も自分に期待しており、とても「やめたい」と言い出せない。人はぐずぐず迷うと大概堕落します。マオもそうだっただろうし、退学は一つの挫折と見なして若きマオを描きました。

 仏教に進んだのは叔父大足の「ならば仏教に進んで新しい仏教を生み出してみないか」の言葉ゆえで、マオは失意の中にも新たな意欲をもって僧界に転進する。ところが、仏教も一筋縄ではいかない。古い仏教を学び、今の仏教を学ぶうち、儒教・道教(修験道)・仏教の狭間で悩みが深まるけれど、「室戸の求聞持法体験」で覚醒に至るという流れです。

 空海を持ち上げるでなく、おとしめるでもなく、等身大、生身の人間として描こうと考え、その証拠を探し、推理の結果つくりあげた空海像です。
 これまでの論考は一章、二章についてなぜあのような空海像を彫り上げたか、その理由・根拠を語るものでもありました。道はまだまだ遠いようです(^_^)。

 で、今号よりいよいよ「僧界に進んだ空海マオ」について書き始める予定でした……が、これまで書いてきた前半部――仏教転進前のマオについて補足と言うか、小説編でほのめかしておいた伏線など、書き足りなかったことをいくつか補っておいた方がいいと思って一号設けることにしました。項目は二つです。

 1 マオと友人、マオと女性
 2 仏教・修験道に至る伏線

【1】マオと友人、マオと女性

 実は空海の青春を書くにあたって最も困ったことがこれでした。今の時代であろうが、過去の時代であろうが、男の十代、二十代に友人や初恋、初体験の女性との交流は切っても切り離せないものでしょう。偉大な宗教家の伝記を描くとしても、宗教に目覚める前の青春期、宗教創始後において家族、友人、女性はいやおうなく登場するはずです。その中に喜びがあるだろうし、悲しさ、悔しさ、苦悩もあるでしょう。空海マオとて例外ではないと思います。

 ところが、マオにはそのような気配が皆無だから参ります。
 と言うか、ないはずはなく、それを教えてくれる資料がないのです。入唐帰国後なら最澄や嵯峨天皇、著名貴族、弟子との交流がわかっています。しかし、入唐前は誰が友であったか、貴族も僧界も全く不明。いわんや女性をや、です。
 大学寮に友はいなかったのか、マオに初恋はなかったのか、初体験の相手は誰だったか。さらに、仏教入門後いかにして性欲を克服したか。これらに関しては『聾瞽指帰』にも書かれず、帰国後も触れられることがなくお手上げでした。
 よって、私が一章、二章で描いた友との交流、一女性との触れ合いはあくまでフィクションです。

 貴族編における藤原三家の安殿親王、真夏、冬嗣、緒嗣、仲成との束の間の交流。また、マオの恋の相手として妓女「ナツメ」を登場させました。ナツメに引き合わせてマオに《女》を教えたのは「雛麻呂」という同級生。ナツメと雛麻呂は全くの虚構です。
 雛麻呂は貴族の次男で、大学寮にも通わず、遊び暮らしている。学友からはヒルのようなやつとして蛭麻呂と呼ばれている(^.^)。

 もちろんこの人物、『聾瞽指帰』に描かれた堕落者「蛭牙公子」がモデルです。「その心は狼のようにねじけ、人から教えられても従わない。心が凶暴で、礼儀など何とも思わない。賭博を仕事にし、狩猟に熱中し、やくざでごろつきのならずもので、思いあがっている。仏教でいう因果の道理を信ぜず、業の報いを認めない。深酒を飲み、たらふく食べ、女色に耽り、いつまでも寝室にこもっている。親戚に病人があっても、心配などしないし、よその人に対応して敬う気持ちもない。父兄に狎れて侮り、徳のある老人を小馬鹿にする」人間として描かれています。これがマオ自身の戯画化であることはすでに証明しました。

 私は小説編においてこの人物像を雛麻呂とマオに分散しました。
 現代でも大学に通えば(いや、どこの世界であろうと)、良き友がいて悪友がいる。悪友は正に《悪い世界》に自分を導く。それは《魅力的な世界》でもある。大学寮に失望し、将来に絶望した男が落ちるところと言えば、酒であり、賭博であり、女とだいたい相場が決まっています。いわゆる「飲む打つ買う」です。マオは雛麻呂と遊び歩く。当然女色だってあったでしょう。以前書いたように、感情面において人は現代も中世も古代も変わらないと思っています。

 問題は平安時代に遊女がいたかどうか。表向き残された文献は雅な物語や恋の歌ばかりです。しかし、紀元前数千年前のエジプトに遊女は存在し、日本の江戸時代は東に吉原、西に京都島原の遊郭。道端ではゴザを持って男を誘った夜鷹もいました。明治以降も売春宿が公認・非公認で存在しました。よって、平安時代に遊女がいなかったとはとても思えません。

 庶民の間では「北辰祭り」というのがありました。北極星を見ながら踊り明かす祭りで、どうやら今の盆踊りのルーツのようです。これが男女の逢瀬の場であったことはまず間違いないでしょう。小説編でもこれを採用しました。
 マオは学生寮を抜け出し、雛麻呂と市中を歩き回って妙に興奮した……けれど、何もできず夜が明け、灰色となって浮かんだ明けの明星を見るのです。そのときのマオは平べったい言葉で言うと、童貞だったと思います(^_^;)。

 貴族社会の婚姻形態は妻問婚でした。男が女を訪ね、和歌をやり取りして結婚に至ります。男が行かなくなれば離婚状態となり、別の男が訪ねていけば再婚が成立する。この詳細は『源氏物語』や、来ない男をなじる和歌として多数残されています。基本的に一夫一婦制ではなかったのです。

 奈良から平安時代初期のころ、朝廷はしばしば《一人の男に生涯を捧げた女性》を「節婦」として表彰しています。つまり、庶民には一夫一婦制を勧めていたことになります。
 これを逆に言うと、庶民の主流も一夫一婦ではなかった。要するに、奈良から平安時代初期にかけて男女の間はかなりフリーであったと言えるでしょう。
 そのような時代背景の中、マオ一人性に無関心な朴念仁だったとはとても思えません。大学寮に行かなくなり、堕落し始めたころならなおさらです。こうなると「類は友を呼ぶ」ではありませんが、同じ匂いの悪友、ポン友が集ったはずです。

 そこで私は悪友雛麻呂と妓女ナツメを登場させ、マオに「女」を体験させました。
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 マオはそこで妓女ナツメを知った。年はマオと同じか少し年下であろうか、たどたどしい物言いがナツメを年より幼く見せていた。切れ長の目を持ち、ほっそりした顔は必ずしも美人とは言えない。だが、マオはナツメを初めて見たとき、すぐに惹きつけられた。
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 当時の不美人ナツメは現代なら美人でしょう(^.^)。平安時代の美人は下ぶくれのぽっちゃりタイプですから、マオには美人と思えなかったはずです。

【2】仏教・修験道に至る伏線

 ここで記憶にとどめていただきたいのは妓女ナツメが「幸運を呼ぶおまじない」としてとなえていた言葉と大切に持っていたお宝です。おまじないの言葉は以下の通り。

 なむなむのー あきのしゃばには ぎゃらありてー おんないあまりー ぼうりのそわかー

 これはある坊さんから教わったとして、いずれマオとナツメの再会につながる伏線として描きました。

 もう一つは以下。
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 その夜マオはナツメの部屋で小さな飾り箱を見出した。
「開けていいか」と聞くとナツメはうなずく。中には小さな骨が七、八ヶ入っていた。
「なんだ、この骨は?」
「それはね。幸運を呼び寄せる祥瑞の骨よ」
「祥瑞の骨?」
「マオも聞いたことあるんじゃない。何年に一頭しか生まれない白い鹿のこと。白い雀に白いカラス、真っ赤なカラスもいるそうよ。みな幸運を呼び寄せる祥瑞の生き物として大切にされている。これはその中でも大瑞に当たる白い亀の骨なの。持っていれば必ず幸せになれるわ」
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 この件は私のつくりものではなく、当時堂々と流布していた風習です。
 今でもおめでたい席の幔幕なら白と赤。赤を黒に変えれば、お葬式の幕になります。
 また、白い馬、白い蛇などは現代も珍重され、神社では神のお使いのような扱いをされています。さすがに白い雀、赤いカラスは見かけませんが、当時はもてはやされたようです。

 たとえば、史書には七七八年四月に「摂津の国が白い鼠」、十二月に「太宰府が祥瑞の赤い眼の白い鼠」を献上したとあります。七九四年には「甲斐の国が白いカラス」を献上しています。七九一年(マオ十七歳)七月に伊予の国から「白い雀」が献上されたときには、具体的な報賞が書かれています。「帝は殊の外喜び、伊予の国司・郡司の位階を一級進め、白雀を捕らえた者に爵位二級と稲一千束を賜った」と。相当のご褒美です(^_^)。

 今でも突然変異の白い生き物はテレビの話題になります。しかし、毎年のように生まれるとなると、ちょっと疑いたくなります。別に白い塗料を塗っていたペテンと言いたいわけではなく、どこか山奥で交配によって作り出されていたかもしれません。差し出せば、お金になるからです。
 生物の先生に聞くと、「人為的に白い生き物を生み出すことはできないし、突然変異の白色は子孫に受け継がれない」と言います。しかし、山口県岩国市には代々続く白蛇がおり、国の天然記念物に指定されています。何か秘けつがあったかもしれません。
 この話は修験道への伏線として取り上げました。

 それから大安寺の「勤操」と重臣「佐伯今毛人」について。
 作品の冒頭、マオが讃岐から長岡に上京する際、叔父とともにまず旧都平城京(奈良)を訪ねる場面を描きました。叔父は明日香から藤原京跡をめぐってマオに歴史を講義する。これは時代背景を描くためであり、同時に大安寺の勤操大徳を登場させる意図もありました。マオが仏教入門後大安寺で師事したのは勤操大徳と言われているからです。彼は叔父大足の旧友と設定しました。もちろん虚構です。

 佐伯家の先達佐伯今毛人は仏教以後に登場しませんが、仏教編に至る伏線として一つ宿題を残しています。
 佐伯今毛人は東大寺創建において二十四歳の若さで造東大寺次官に任命され、役夫を巧みに使役することで聖武天皇の信を得ました。その後三十歳で七階を飛び越えて従五位下を授かり、最後は正三位まで上り詰めます。

 マオが叔父に連れられ佐伯家を訪ねたとき、今毛人に「東大寺創建で苦労したことは何ですか」と聞く。今毛人は自分で調べてみなさいと突き放す。マオは調べ歩き、役夫と大きく関わったのは大僧正行基であることを知り、「行基和尚が役夫を動かしたのですか。あるいは、仏教の力だったのでしょうか」と答えを述べる。そのときの描写が以下。
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 今毛人は「よくぞそこまで調べたのう」と言って微笑んだ。
 そして、やや黙した後口を開いた。「人は心で動く。金では動かぬ。鞭ではもっと動かぬ。理屈ではなく得心するかどうか。心から納得すれば、人を動かすのに金も鞭もいらぬ。それを成し遂げたお方が行基和尚じゃった」
 マオはなるほどと思った。だが、どのように役夫と対したのか、まだよくわからない。
「それでは行基和尚は役夫が心から納得して働くため、どのように説得されたのでしょうか」
 今毛人は目を細め、また遠くを眺める目つきになった。
「さてさて、一体どのようにしたか。実はわしにもようわからんのじゃ。役夫は我ら官人の指示や命令に対しては、のろのろ動くばかりであった。しかし、行基が一言発しただけで、生き生きと作業を始めたのじゃ」
「行基和尚はなんと言われたのですか」
「いや、特に変わった言葉を発したわけではない。大仏造像は人民を幸せにするとか、国を豊かにするとか……そのような言葉が記憶に残っておる程度じゃ。だが、それくらいのことなら、帝を初めとして我ら官人も盛んに言うたもんじゃ。ところが、同じ言葉でも行基がその言葉を発すると、役夫たちの顔色が変わる。そして鞭をふるわれることなく、自ら進んで懸命に働いてくれる。我らは不思議なことと思い、感嘆して眺めておったものよ。もしも行基がいなければ、東大寺造営はもっと時間がかかったに違いない。あるいは、盧舎那仏は完成しなかったかもしれぬ」
 今毛人は口を閉ざし、また庭園を眺めた。
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 この答えは仏教編で明かされることになります(^_^)。

 また、修験道への伏線としてマオより先に大学寮を退学した若者「朱典」を登場させました。
 彼は道教に引かれ、修験道に進むために大学寮をやめます。これも虚構ながら、あり得ただろう人物と考えています。
 以下はマオに退学すると告げたときの言葉です。
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「今後は仲間とともに山岳修行に励む。不老不死の仙人になれば、なんだってできる。大学なんぞにいても俺の理想は実現できない。孝行や忠君がなんだ。結局、小役人になって賄賂をせしめ、上役に媚びを売って小さな出世を果たすくらいが精一杯ではないか。自己保身しか頭にない連中ばかりだ。このまま大学寮にいても後は知れている。だが、仙人になれば世界を変えることができる。マオ、俺はきっとやって見せるぞ」
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 私の学生時代にも信じた道に進むため退学する学生がいました。そこに宗教や主義が絡みます。空海の時代だって道教・修験道に進んで大学寮をやめた若者がいてもおかしくないと思っての造形です。

 最後に[開扉頁]に置いた以下の文章について。
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 西暦七八九年五月二十八日、金星が百二十二年ぶりに太陽面を横切った。太陽・金星・地球の直列による明星の日面通過である。さらに八年後の七九七年五月二十六日、金星が再び日面を通過する。
 それは空海マオ十五歳――讃岐より長岡に上京して一年後のことであり、室戸岬に急ぐ二十三歳の夏であった。
 ときの空海にこの天文現象の知識はない。ただ、明星がいつになく光り輝いていることだけは知っていた。
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 以前マオが大学寮の退学についてぐずぐず悩んでいたとき、「長岡を襲った二度の大洪水によって遷都が決まり、マオもそれによって背中を押された」と書きました。

 人は誰でも人生の中で分かれ道にやって来ます。右に行くか、左に行くか。前進するか、一旦退くか。さまざまに迷うとき、当人だけの意志や感情で全てを決められるとはとても言えません。家族、友人、恋人の言葉、ときには見知らぬ人の言葉によって背中を押されることがあります。世の中の動き、自然の動きも大きく関係するのは人が自然の中で生き、社会的動物だからでしょう。これは真理・真実として言えるのではないでしょうか。

 空海の青春期を眺めたとき、大きな自然の動きが三つありました。
 一つ目が今述べた延暦十一年の長岡京大水害(十八歳)。二つ目は延暦十九年(空海二十七歳)に起こった富士山大噴火です。
 大水害は数年か十年に一度の自然災害、富士山噴火は東日本大震災・大津波のように千年に一度クラスの出来事でしょう。
 これも空海自身何を感じ、考えたか全く残されていません。しかし、長岡大水害はマオが大学寮退学について悩んでいたときであり、富士山噴火は仏教入門後、室戸の覚醒を経て新しい仏教創始に突き進んでいたころです。たとえば、富士山噴火を知って「もっと大きく動けと自然が教えている」と感じ、それが遣唐僧へとつながったかもしれません。

 この二例は史実ですが、もう一つこれまで誰も注目しなかった天文現象が起こっていました。それが百年に一度生起する金星の日面通過です。現代では二〇〇四年に起こり、八年後の二〇一二年、再び話題となりました。

 空海が室戸岬の求聞持法百万編修行によって「明けの明星が口の中に飛び込む神秘を得た」というのは有名な話です。これが仏教入門後であり、山岳修行に進んだ後であることは間違いないものの、いまだ年代は確定されていません。

 私はそれが単なる個人的体験ではなく、何か大きな事象と関わっていたのではないかと考えました。そして、二〇〇四年に日本で金星の日面通過が話題となったとき、「もしかしたら空海が生きていた時代にそれが起こっていたかもしれない」と思いました。

 調べた結果、七八九年と八年後の七九七年に金星日面通過が起こっていたことがわかりました。それを突き止めたときはさすがに嬉しかったです(^_^)。そのときマオは十五歳、二十三歳です。
 二十三歳の暮れには『聾瞽指帰』を改題した『三教指帰』が公表され、その中に室戸の神秘体験が書かれます。私は太龍山と室戸岬の百万遍修行は二十二歳、二十三歳のときだと確信しました。

 ちなみに、二〇〇四年七月、空海の明星を追体験してみようと、四国太龍山と室戸岬に行きました。専門家によると金星の日面通過が起こる年は例年になく金星が大きく強く輝いており、その年は七月が最も明るいと聞いたからです。
 深夜真っ暗闇の太龍山南の舎心岳に登ってダイヤのようにきらめく明星を見上げ、翌日は室戸岬の双子洞窟から明けの明星を眺めました。
 残念ながら室戸岬は燈台の明かりがこうこうと照らして明星の輝きは前日ほどではありませんでした。それでも、千数百年前、空海もこの明星を眺めたのだろうと思って感慨にふけったものです。この体験はマオの求聞持法修行を描く際、大いに参考になりました。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)

後記:仏教入門後の論述がなかなかまとまりません。来月も休刊したいと思いますので、ご了承願います。m(_ _)m    御影祐

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