四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 21

「仏教入門」その1


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第98 ―論文編 21号

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           原則月1回 配信 2015年5月10日(日)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・大足(おおたり)・蛭牙公子(しつがこうし)・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき)・求聞持法(ぐもんじほう)・入唐(にっとう)・習合(しゅうごう)・神宮寺(じんぐうじ)・神仏混淆(しんぶつこんこう)・排斥(はいせき)・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)・檀家(だんか)制度・神祇(じんぎ)信仰・奉(たてまつ)る・混沌(こんとん)
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 『空海マオの青春』論文編――第21 「仏教入門」その1

 第21 「仏教入門」その1

 さて、今号からいよいよと言うか、ようやく仏教編です(^_^)。

 これまで書いてきたように、空海マオにとって仏教への転進は一つの挫折でした。本当は高級官僚・天皇側近の政治家を目指していたのに、それをあきらめたわけですから。
 今なら千人に一人の逸材であれば、東大に行って容易く(?)望みがかなえられるでしょう。しかし、あの時代は能力より門地の時代でした。親の身分が高く由緒正しき家柄であれば、ぼんくら息子でも(^.^)たやすく出世できたけれど、それがなければ出世の道はほぼ閉ざされていました。田舎郡司の子弟でしかないマオは大学寮入学後すぐにそれを悟ったでしょう。
 その絶望感を最もよく理解したのは儒学者である叔父大足であり、だからこそ彼は門地のない仏教界、能力が高ければ最後は大僧正となって政治と関わることさえできる仏教を勧めたのだと思います。新しい仏教創始は桓武朝廷の喫緊の課題でもありました。
 退学は挫折ではあるけれど、新たな目標を見出したことでマオの意気は高く、挫折感を引きずることはなかったろうと思います。

 大学寮に入学したのはマオが十七歳のとき。一年間通って授業に失望し、進路に絶望して退学を思い始める。しかし、十数年に渡って儒教を学んだ身の上ゆえ、ドロップアウトは決断しづらく、叔父や両親に言い出せぬままずるずる通い続けた。
 翌年「もう一年頑張ってみよう」、あるいは「やめてどうする? どうなる? 先のあてもめどもない」まま通ったけれど、相変わらずの大学寮に萎えた気持ちが回復することはなかった。この間《飲む打つ買う》の自堕落な生活があり、それは「蛭牙公子」としてやや自虐的に描かれました。
 そして、帝都を襲った二度の大洪水によって遷都が決まるや、「私も大学寮をやめて都を出よう」と決意し、叔父の勧めによって仏教転進となった……。
 よって、マオの仏教入門は十八歳の末か、十九歳、延暦十年(西暦791)に入ってからだろうと推理しています。

 余談ながら、みなさん方はこれまでの人生を百八十度大転換するような道に進んだことがあるでしょうか。もしあるなら、最初は「これまで学んだこと、やったことが全く無意味になった」と思われるはずです。
 しかし、それから十年、二十年経ったとき「あのとき学んだことは転換後の人生で大いに役立った」と振り返ることもあります。それはマオも同じだったでしょう。
 彼が儒学で学んだ「漢文読書術」は仏教典籍を読むにあたって大いに役立ったはずです。マオは仏教経典をすらすら読破していったに違いありません。わずか1年か2年で『聾瞽指帰』仏教編としてまとめられたことを見れば、それがわかります。

 『聾瞽指帰』仏教編には仏教のイロハが書かれています。今なら「これを読めば仏教の全てがわかる」とか、ネット事典によって仏教の初歩を知ることができます。しかし、事典も入門書もなかった時代です。原文の典籍を読みあさってそれを論文化するなど、一体どれほどの能力があれば可能なのか。マオは千人に一人どころか、一万人、十万人に一人の逸材だったとしか言いようがありません。

 ところで、進路変更の見方には少々いちゃもんをつけることもできます(^.^)。
 振り返ってみて「あのときは無意味になったと思ったが、その後役に立った」と言えるには、転換後の人生で何らかの《成功》が必要です。進路変更前に学んだことを使って成功できたからこそ、「役に立った」と言えるのです。
 もしも成功がなかったら悲惨です(^_^;)。進路変更はうまくいかなかったと思うし、学んだことは全てムダだったと感じるのではないか。そうして「進路変更なんぞしなければ良かった」と後悔するかも知れません。

 前者が成功の進路変更なら、後者は失敗の進路変更です。これもまた大いにあり得る人生ドラマでしょう。全ての人、全ての進路変更が必ず成功するわけではありません。
 もしも読者の中に「進路変更して失敗だった」と感じている人がいらっしゃるなら、一つアドバイスを提供します。私は「ならばもう一度進路変更しては?」と思います(^_^)。
 あるいは、それは元に戻る進路変更かもしれません。例えば、ピアノとかバイオリン、絵画など芸術方面に進もうとしたけれど挫折。その後進路変更したものの、それもうまくいかず二十年。そこに至ってもう一度楽器を弾き、絵筆を取ったとき、以前と全く違う表現力を身につけ、今度こそ成功に至るかもしれない……し、やっぱりダメかもしれません(^.^)。
 でも、それで良いではありませんか。一度しかない人生です。やりたいことをやりたいようにやれば。成功しようが、失敗しようが。

 あだしごとはさておき、仏教入門後マオが『聾瞽指帰』を執筆して改題『三教指帰』として公開したのは二十三歳の暮れです。それまで正味五年あります。
 この間に仏教修行と仏典研究→山岳修行進出→求聞持法百万遍修行との出会い→太龍山・室戸岬の求聞持法体験(この間『聾瞽指帰』執筆)と流れます。かなり濃密な時間を過ごしているものの、「新しい仏教」は生み出せませんでした(『聾瞽指帰』の仏教編にそれがないからです)。

 この五年間を仏教編前半とするなら、後半は『三教指帰』公開後の二十四歳から、遣唐使節の一員として入唐する三十歳までの七年間、さらに入唐の旅から長安滞在、帰国までの三年間となります。この結果、ようやく新しい仏教である《密教》を得て日本に戻るのです。

 まとめれば以下のようになります。
(ア)仏教入門から 『三教指帰』公開までの五年間――[19〜23歳]
(イ)著書公開後遣唐使節一員となるまでの七年間――[24〜30歳]
(ウ)入唐の旅から長安滞在、帰国までの三年間―――[31〜33歳]

 この三期間全てに解きがたい謎が含まれていますが、まずは仏教編前半における謎――と言うか疑問点を列挙しておきます。八項目にまとめました。

 1 なぜ寺院内の修学から山岳修行に進出したのか。
 2 『聾瞽指帰』執筆の意味――特に儒教・道教・仏教の三教を比較したわけ?
 3 求聞持法百万遍修行とはマオにとってなんだったのか。なぜ四国太龍山だったのか、なぜ室戸岬だったのか。
 4 なぜ求聞持法を二度行ったのか。これによって何を得たのか。
 5 修験道・山岳修行への失望と、道教を捨てて仏教に戻ったわけは?
 6 『聾瞽指帰』を書き上げた時期、完成『三教指帰』との関係は?
 7 『聾瞽指帰』と『三教指帰』の内容にはほとんど差がない。そのわけは?
 8 『三教指帰』に新しい仏教は書かれていない。なのに、なぜ公開できたのか。

 残念ながら、空海自身これらの疑問に全く答えていないので、推理するしかありません。これからじっくり解いていきたいと思いますが、私の推理が妥当かどうかはもちろん読者の判断にゆだねられます(^_^)。

 具体的なことは次号に回すとして、ここでは当時の仏教を語るにあたって最低限知っておきたいあることに触れておきます。それは《習合》ということです。

 現代では「神社仏閣」とまとめて呼ばれるお寺と神社ですが、基本的に寺院と神社は分離しています。
 ところが、江戸時代までは合体・融合していた。それを「習合」とか「神仏混淆」と呼びます。内面の程度はよくわかりませんが、外見的にも融合していた。つまり、神社の境内にお寺(神宮寺)があったり、僧侶が神社に奉仕し、神様に仏具を供えたりしていたそうです。それが江戸時代末期から明治元年にわたって出された「神仏分離令」によって「神道と仏教は習合してはならぬ」となりました。

 この結果、明治の始め全国各地で仏教排斥、廃仏毀釈運動がおこりました。
 詳細はネット事典をご覧下さい。分離令が出されたから廃仏毀釈運動が起こったというより、江戸時代の檀家制度(人は必ず寺院に属さねばならない)への不満も遠因としてあったようです。

 私はこれまで一人だけ廃仏毀釈運動の惨状を語るお坊さんに会ったことがあります。大学のころ国文学研究室の研修旅行で隠岐島に行ったときのことです。
 寺の名前は忘れましたが、あるお寺で住職から寺や仏像の説明を受けたとき、「明治の廃仏毀釈によって……」と仏像が破壊されたいきさつが語られました。廃仏毀釈運動からすでに百年経っていたけれど、住職本人は淡々と(しかし、ある憤りの感情をもって)語ったことが記憶に残っています。
 寺の一角には壊された仏像が置きっぱなしになっていて「ぜひ見て帰ってください」と言われたものです。
 現在中東各地では偶像崇拝を禁止するイスラム原理主義者が仏像を破壊したりしています。それは日本でもあったのです。

 要するに、明治時代以前日本の仏教は神道――むしろ神祇信仰――と融合し、混淆していた。空海が生きた奈良末期から平安初期にかけてはもちろんです。
 私たちは神仏分離した現代に生きています。よって、習合の実態がどうであったか、どのような心理状態だったか、なかなかわかりづらいところです。
 しかし、この宗教的融合の状態、案外今も続いているのではないか。続いているのに、我々が自覚していないだけではないか。私にはそう思えます。

 そもそも我ら日本人は明治以降現代まで、外来のものや思想・習慣を取り入れるとき、すべからく日本に合わせて《習合》させてきたではありませんか。日本が外国の言語・物・技術を輸入するとき、日本風に改良(改悪?)してしまうのは有名なお話です。

 宗教に関して言うなら、本来他宗の宗教行為であるはずなのに、気軽に実行している例はいくらでもあげることができます。
 たとえば、正月は神社に初詣に行き、お賽銭を投げて柏手を打つ。観光でお寺に入ると仏像に合掌する。あれって間違いなく宗教行為です。
 あるいは、結婚式を教会であげ、葬式はお坊さんを呼んでお経をあげてもらう。初七日に初盆に一周忌、三回忌をこなす。その都度お経とお香、終わるとお坊さんにお布施を渡す。これも厳然たる宗教行為。
 神社で結婚式ができることはよく知られていますが、葬式も神道でできることはあまり知られていません。

 あるいは、キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝い、ハロウィンでカボチャをくり抜き仮装する。2月14日のバレンタインデーは本来「聖バレンタインデー」であり、キリスト教の行事でした。それが商魂たくましき日本人によってチョコの恋愛物語に仕立てられました。おそらく日本人の誰もバレンタインデーが宗教と思っていないでしょう。正に習合しているではありませんか(^_^)。

 宗教に厳格な外国人から見れば、これらはみな「何それ?」の習慣・伝統でしょう。キリスト教とイスラム教は(あがめ奉る神は同一なのに)決して融合することはありません。しかし、日本人自身はこの宗教的混淆状態に、何も不都合を感じていません。

 それゆえ、私たちは奈良時代に仏教と神祇宗教――だけでなく修験道・道教が習合していたときの心理・精神状態を想像できるはずです。なんのことはない、「今と同じか」と思えばいいのです(^.^)。
 現代日本人がこうだから、奈良時代の日本人はしごく当然のこととして習合宗教を受け入れていただろうと思います。

 ところで、この習合現象、一体どちらの側から働きかけが始まったのでしょうか。
 仏教はインドで始まったときから、ヒンドゥー教と習合したと言われます。いい例が「持国天・増長天」など仏を守護する四天王はインドの神様でした。また、中国に渡ってからは道教と混淆したとも言われます。こうした例から考えると、習合を意図したのは仏教の側だったように思われます。
 しかし、今も書いたように、現代日本においても習合現象が続いている以上、日本人自身が《習合》の資質を持っていたと言えそうです。

 この傾向は古代――奈良時代もそうであったし、空海が生きた時代もそうで、誰もそれを「へんなこと」と思わなかったのでしょう。しかし、平安時代が始まる頃、一人だけ、習合を「おかしい」と思う人がいた。
 私はそれが空海マオであると考えていますが、この詳細は後日といたします(^_^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
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