四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 22

「仏教入門」その2


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第99 ―論文編 22号

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           原則月1回 配信 2015年6月10日(水)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・興福(こうふく)寺・元興(がんごう)寺・大安(だいあん)寺・斑鳩(いかるが)・南都(なんと)六宗(ろくしゅう、または「りくしゅう」)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)・論疏(ろんしょ、仏教の注釈書)・行表(ぎょうひょう)・勤操(ごんぞう)・善議(ぜんぎ)・行賀(ぎょうが)・明一(みょういつ)・善珠(ぜんじゅ)・阿刀(あと)・安殿(あて)皇太子・大足(おおたり)
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 『空海マオの青春』論文編――第22 「仏教入門」その2

 第22 「仏教入門」その2

 まずは南都奈良仏教について少々解説しておきます。
 空海十代から二十代の頃、仏教を学ぶには平城京奈良が最適の場でした。新しい仏教創始に突き進むと言っても、まずは古い仏教、今ある仏教を知らねばなりません。当時仏教修学の場として南都仏教にまさるところはありません。

 仏教研究――新仏教創始は今で言うなら、大学の卒論に似ているかもしれません(^.^)。
 私は卒論に志賀直哉の『暗夜行路』を取り上げました。当時先生方からよく言われた言葉があります。
「どの作品、作家を研究するにしても、現段階の研究状況を知り、君が考察した新しい成果をそこに付け足すこと。それがなければ研究は何の意味もない」と。別に国文に限らず、理系・文系全ての学問で同じことでしょう。

 しかし、大学三年目くらいから卒論のテーマを考え(国文で言うと古典や現代の作品・作家を決定し)、わずか一年ちょっとで、しかも就職関連のもろもろをこなしつつ、既研究の論文・書籍を読みあさり、同時に当該作家の著書(だいたい全集)を読んで、「新しい研究成果を出す」というのは容易なことではありません。

 私なんぞ(他の理由もありましたが)結局、四年目は卒論を提出せず留年して五年目にようやく「『暗夜行路』成立過程論」を書き上げました(^_^;)。
 それでも、ものになったのは予定の半分でした。ただ、諮問後の宴会で主任教授から「論文を仕上げたら、大学の紀要に出せますよ」と言われたときは嬉しかったものです。

 それはさておき、マオは長岡を出て旧都平城京に向かいました。ときは延暦十二年、マオ十九歳。長岡ではすでに建物の解体が始まっていたでしょう。弥生三月の頃なら、春の息吹を感じつつ「南都仏教は一体どのようなものか。儒教が仁の風とするなら、仏教はいかなる風を世にもたらすのだろう」などと考えたのではないでしょうか(^_^)。

 私は作品の構成上、マオが十四歳の時奈良を経由して長岡に入ったとしました。あくまで虚構ですが、長岡上京後大学寮入学までに、マオが奈良を訪ねたことはあったのでは、と考えています。
 と言うのは、佐伯家の偉大な先達、佐伯今毛人が隠居後奈良で静養し、そこで亡くなっているからです。もしも作品に描いたとおりなら、上京時から数えると五年ぶりの奈良となります。マオの目に奈良はどう映ったか。

 平城京から長岡に遷都したとき、当然多くの貴族・官人の家屋敷は移転しました。しかし、移転を許されなかった寺院はそのまま残っています。想像するに、周囲は更地となり、寺院の建物だけがぽっかり浮かんでいたことでしょう。五年前はまだ朱雀門など諸門が残されていたけれど、それも二年前長岡に移されました。ただ、大極殿など宮城の建物は残っていたようです。
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 約五年ぶりの奈良はまた違う印象をマオに与えた。以前と比べて百姓や浮浪者が増え、移築後の跡地は小さな家々で埋まっていた。朱雀大路を行き来する警護兵に変化はないものの、歩くのは僧侶と身分の低い百姓や商人ばかりであった。貴族の洗練さが消え失せ、ごみごみした町並みになったような気がした。(『空海マオの青春』より)
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 今も書いたように平城京から長岡に遷都した際、南都七大寺の移転は許されませんでした。平安京遷都が決まったとき、南都七大寺は新都への移転を夢見たかもしれません。ところが、七大寺は平安京に移ることもありませんでした。
 遷都後平安京には「帝都を守るため」東寺・西寺の巨大寺院、また周囲の山々に多くの寺院が建てられます。しかし、それらは全て《新仏教発掘・育成》のためであり、南都仏教の古老に声はかからなかったようです。新進気鋭の僧の中に比叡山の若き最澄がいたことはすでに述べたとおりです。

 ちなみに、南都七大寺とは興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺の七寺を指します。法隆寺は奈良市内ではなく斑鳩にあるので、法隆寺にかわって唐招提寺を入れる説もあるそうです。

 マオは叔父の勧めに従って奈良仏教の門を叩いた。彼が入門した寺は大安寺と言われます。師事したのは勤操大徳とも。この件について私の新説はなく、定説に従いたいと思います。

 当時南都仏教は六宗に分かれていました。それが以下。中心的な寺院名も列挙します。
 《南都六宗》
・法相宗――興福寺・薬師寺
・倶舎宗――東大寺・興福寺
・三論宗――大安寺・東大寺南院
・成実宗――元興寺・大安寺
・華厳宗――東大寺
・律 宗――唐招提寺

 この詳細を語ることは本論の趣旨と外れますので、詳しくはネット事典をご覧下さい。全体の特徴として六宗は実践的仏教と言うより、学問仏教の趣が強かったようです。それも経典そのものの研究より、論疏が研究されていました。論疏とは先人が書いた仏典注釈書ですが、読誦されて経典のような扱いを受けていました。

 当時南都仏教における著名人としては以下のような名が史書に見えます。
 まず大安寺には東院に行表和尚、マオの師と言われる勤操、勤操の師の善議大徳。興福寺には小僧都行賀、東大寺に明一和尚。
 また、奈良北西にある秋篠寺には阿刀の出自と言われる善珠もいました。善珠は安殿皇太子の長患いを七日七晩の「大般若経読誦」によって治したとされ、皇太子から肖像画を下賜されたことで有名です。

 阿刀家と善珠に縁戚関係があったなら、マオはなぜ秋篠寺に入らなかったか。私は大学寮入学時の反省からではないかと推理しています。大学寮入学は叔父、引いては叔父が連なった藤原南家の推薦によっていた。ところが、わずか二年で退学したのだから、「今度は自力で」と考えたとしても不思議ではないと思います。

 作品では勤操が大足の知己だったとしましたが、これは全くの虚構です。空海二十三歳の著書『三教指帰』の仏教編に南都仏教のことはなく、入唐帰国後の著書でも触れられることがありません。マオが大安寺に入ったのはたまたまであり、極端に言えばどこでも良かったのかもしれません。そもそも南都六宗は全体で一つの寺のようなものであり、僧侶の行き来がかなり自由だったようです。

 後にマオは新仏教を求めて唐に渡ります。入唐留学僧の多くはほとんどが南都仏教出身者です。上記著名僧の中では行賀が三十一年間唐に滞在した留学僧でした。帰国後の報告会で明一から難しい質問をされて答えられず、「一体何を学んでいたのだ」と罵られたとして有名です。行賀は長期留学だったため「日本語を忘れてしまったのではないか」と史書にあります。
 大安寺の善議も入唐留学僧ですが、こちらは滞在一年ほどの短期留学僧でした。マオがこれら経験者から唐のこと、留学について話を聞いた可能性は高いと思います。

 私は大安寺の東院でマオが行表、行賀の重鎮二人と会う場面を描きました。
 マオは二人に質問します。
「私は仏教の何を学べばよいのでしょう。あるいは、仏教とはなんでしょうか。儒教は民に仁の風を吹かせることを目指しておりました。では、仏教は人々にどのような風を吹かせるのでしょうか」と。

 対して行賀が「仏教の何を学ぶか。その答えは我らよりも仏典が教えてくれるでありましょう。あるいは、貴殿が仏教に何を求めるか。それによっても答えが違うと思います」と応じ、「仏教とは何か。一言ではとても言えませんが、世界最短の仏典に答えがあるかもしれません」として『般若心経』の名を出す……。

 史書によると、当時の南都仏教は「法相宗・三論宗の全盛」とあります。そこでは《空無》について盛んに議論が交わされていた。であるなら、『般若心経』は当然読まれたであろうし、その意味が考えられたはずです。
 マオと行賀の対面はあくまで虚構ですが、もしも二人が出会っていたら、行賀は「般若心経を解釈できれば、仏教がわかる」と言ったかもしれません。

 そして、行表は仏教が人々に吹かせたい風として「慈悲の風」と答えたのではないか。
 マオは以後これらの言葉の意味を探って新しい仏教創始に突き進むのです(^_^)。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。(御影祐)
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