四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 23

「南都仏教への失望」その1


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第100 ―論文編 23号

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           原則月1回 配信 2015年7月10日(金)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき)・蛭牙(しつが)公子・招聘(しょうへい)・六国史(りっこくし)・続(しょく)日本紀・神祇(じんぎ)・八百万(やおよろず)の神々・鎮護(ちんご)国家・開眼(かいげん)供養・鑑真(がんじん)・『天平(てんぴょう)の甍(いらか)』・『摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみっ)経』・朕(ちん)・咎(とが)・僧綱(そうごう)・霊験(れいげん)・濫(みだ)りがましい・徒(いたずら)に・『金光明最勝王(こんこうみょうさいしょうおう)経』・濫行(らんぎょう、乱れた行い)・尼の法均(ほうきん、道鏡事件で有名な和気清麻呂の姉)・侮(あなど)る・度者(どしゃ、得度した僧)
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 『空海マオの青春』論文編――第23 「南都仏教への失望」その1

 第23 「南都仏教への失望」その1

 さて、これから空海仏教編について珍説奇説いろいろ語るつもりです。
 その前に若干情けないことを一つ告白せねばなりません(^_^;)。それは私が現実の仏教界と全く無縁であることです。
 もちろん仏教解説書・いくつかの経典・空海の著書、そして先人の研究書をある程度読んだ上で本稿を書いてきました。しかしながら、寺院内の日常を体験したことはおろか、僧侶の友人もいません。座禅の一日体験とかしてみたいと思っても、昔からの腰痛持ちで長く座れないのです。私は現在の仏教に関して全くの門外漢であることを白状いたします。また、過去の論文・典籍類もしらみつぶしに読破したとはとても言えません。それでも、空海の小説を書き、論文を書いています。

 ちょっと傲慢ながら「それでも書ける」と思っているのはなぜか。それは華厳経で有名な「一即多、多即一」の考え方に拠っているからです。つまり、一つの中に多があり、多の中に一つがある。多数を調べて共通点を見つけだすことに真実があるなら、一つであっても多に通じる真実を見出すことができる。私は「一即多、多即一」をそう解釈しています。

 たとえば、無限とも思える広大な宇宙の中に一人の人間――「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう、十のマイナス二十四乗)以下のちっぽけな存在があるなら、人間の内部にも「無料大数」(十の六十八乗)の宇宙がある(^_^)。

 ときどきNHKで人体の不思議がCG映像化されます。ミクロの世界で血液の内部を見ると、正に「宇宙だ」と思います。このことを最初に感じたのはSF映画の傑作『ミクロの決死圏』を見たときです(^.^)。
 多くの人間に通じる資質は一人の人間にある。それゆえ一人の人間を調べただけでも、多くの人間に通じる真実を見つけ出すことができる。それが「一即多、多即一」だと思います。
 それゆえ、空海関連の論文や仏教関係の典籍・研究書を全て踏破するほど読んだわけではなくとも、想像力を駆使して多に通じる真理・真実に迫ることができる、と考えています。そもそも関係書籍を全て読んでから書き始めることにしたら、棺桶の中にまで膨大な書物を持ち込まねばならないでしょう(^_^;)。

 私は特に先人の研究書より本人の著書を最も重視しました。空海入唐前の著書はただ一冊『聾瞽指帰』(改題『三教指帰』)だけです。
 私はそれを何度も何度も読んで、抱いた疑問に対する答えを推理しました。そのときひたすら空海マオの内心を想像しました。心理感情面において我々は一千数百年前の古代人であっても、その心を感じ取ることができる、今も昔も《人の感情は変わらない》と思っているからです。

 たとえば、現代の人間ひとりひとりが進路について家族について恋について悩んでいるなら、奈良時代、平安時代の人間だって進路や恋、家族について悩んだはず。制度が違う、環境はもちろん違う、生産力も低い。けれども、悩みの基本である感情は変わらない。
 あるいは、貧富の差がある、偏見や差別がある、苦しみがある。だが、正義や善意があり、喜びもある。それは今も昔も同じ。ならば、我々は時の壁を乗りこえて当時の人の心に肉薄できると考えています。

 その結果得られた結論が『聾瞽指帰』に登場する自堕落な若者「蛭牙公子」は若きマオの戯画化であること、彼が儒教から仏教、山岳修行に進むとき、悩んでいた証拠を見出すことができました。これらは既研究で見落とされた新発見だと思っています。

 ……と誰も誉めてくれないので少々の自画自賛(^.^)を前置きとして、今号は空海マオが寺院修行から山岳修行に進出したわけを解いていきたいと思います。が、答えはとても単純です。
 マオはきっと南都仏教に失望したに違いない。ここでも、大学寮の《入学→失望→退学》とよく似た経緯――すなわち《入門→失望→寺院を離れての修行》があったのだと思います。

 マオは南都仏教に入門して大安寺で仏道修行に励んだ。前号で書いたとおり、漢文読書術を駆使して仏典をすらすら読破したに違いありません。周囲の僧侶達と仏教について、あるべき姿について議論を交わすこともあったでしょう。
 そして、現実の仏教に失望した。とりわけ大寺院と南都仏教に失望したのだと思います。

 マオの仏教入門はあくまで新しい仏教創始が目的です。おそらく一年も経たずして「このままでは新しい仏教を生み出せない。現実の仏教は腐っている」と感じたかもしれません。それゆえ、寺を離れて山岳修行に飛び出したのです。

 では、マオが感じた南都仏教の問題点とは何か。それについて解説する前に、現代仏教の問題点について触れたいと思います。
 以下四項目が考えられるのではないでしょうか。

 1 僧侶がただお経をとなえるだけで、意味を理解せず、説くこともしていないこと。
 2 葬式仏教であること、苦しむ人の心を救う働きかけがなされていないこと。
 3 ああだ、こうだと不毛の仏教論を交わす学問仏教になっていること。
 4 法事やお墓に多額の金銭を徴収する金儲け主義に陥っていること。

 このようにまとめると(もしも本稿を現実のお坊さんが読まれているなら)、 憤慨されて「こんな論文二度と読まないぞ」と画面を消去し、ファイルを[ゴミ箱]行きにされるかもしれません(^.^)。

 しかし、ちょっと待って。もう少々読んでください。
 この四項目のまとめは、実は奈良時代の仏教――寺院や僧侶に対する批判なのです。
 誰が批判したか。桓武朝廷です。
 どこにあるか。史書の中に書かれています。

 桓武朝廷が僧侶や南都仏教の腐敗堕落ぶりに怒って大寺院の長岡への移転を禁じ、平安京へも招聘しなかった、その理由がこれなのです。それを私が「現代仏教の問題点」に(若干修正して)書き換えただけです(^_^;)。
 もっとも、この批判は奈良から平安初期の仏教のみならず、現代仏教にも通じるような気がします。そう感じるのは私だけでしょうか。

 それはさておき、南都仏教批判の詳細を古代日本の公的歴史書「六国史」から探ります。使うのは桓武天皇治世前後が書かれている『続日本紀』(宇治谷孟訳、講談社学術文庫)と『日本後紀』(森田悌訳、講談社学術文庫)の二書です。


 ※ 僧侶の腐敗と堕落について

 まずは教科書的知識として仏教伝来を振り返っておきます。
 インドで生まれた仏教が中国や朝鮮半島を経由して日本にもたらされたのは六世紀半ばのことでした。五三八年とも五五二年とも言われます。
 ただ、これは国家間の伝来を意味する仏教公伝の年号です。実際はそれ以前から大陸系渡来人によって日本に入っていたようです。

 当時日本の土着宗教は神祇信仰、すなわち「八百万の神々」でした。世界各地の宗教・信仰がいずこも排他的であるように、日本とて例外ではなく、輸入当初は日本の神々と仏の対立があったようです。それは崇仏・廃仏論争と言われます。
 六世紀の終わり頃仏教受容派が勝ち、明日香に日本最古と言われる飛鳥寺が建立されます。そして、聖徳太子による四天王寺・法隆寺建立と続き、七世紀に入ると神仏習合も始まったようです。七一〇年奈良時代が始まるころ、仏教は鎮護国家の宗教として重要な位置を占めるようになります。

 その後諸国に国分寺・国分尼寺の設立、総本山としての東大寺建立。そして、天平十七(七四五)年、聖武天皇による大仏造像が発願され、七年の歳月をかけて完成するや、天平勝宝四年に開眼供養が行われました。この年唐僧鑑真が来日したことも日本仏教にとって重要なことでした。それまで受戒の作法(正式な僧となるための誓いの儀式)は日本に伝わっておらず、鑑真が初めて日本にもたらしたからです。
 余談ながら、鑑真来日の苦難を描いた井上靖作『天平の甍』はぜひ読んでほしい名著です。私は十代で挫折し、二十代でも挫折して(^_^;)五十代になってようやく全部読みました。そして、読書で久しぶりに涙を流しました。

 さて、このような流れを経て空海マオが生まれたのが東大寺大仏開眼供養の二十二年後(七七四年)のことでした。同年四月十一日の条に『人民は般若心経をとなえよ』と詔勅があります。
・「天下の諸国に悪性の流行病」がはやっている。「『摩訶般若波羅蜜経』は諸仏の母である。〜(人民は)立っているときも座っている時も歩いている時も、皆『摩訶般若波羅密』を念誦するようにせよ」とあります。
 『摩訶般若波羅蜜経』とは『般若心経』のことです。これはお寺ではなく朝廷から出された指示です。おそらく全国津津浦々で立ってとなえ、座ってとなえ、歩きつつとなえる「ハンニャーハーラーミーター」の大合唱が聞こえたことでしょう(^_^)。

 マオが六歳となる宝亀十一年一月二十日の条には仏教の現況を語り、「僧侶は襟を正せ」と詔があります。
・「朕は思うに、仁徳のある王が暦にある毎日を幸せな日々になるよう導けば、仏法の日々は常に清く、仏弟子たる君主が仏道を広めれば、人々が幸福になる風を長く吹かせることができるであろう。そして、ついには人と天とが相応じて、国家は安泰になり、死後の世界と現世も互いに調和して、鬼神が暴れることはなくなるであろう。
 しかるに、この頃、天が咎を告げ知らせて、火災が寺の建物に集中している。〜朕の不徳は、この咎めを受けても仕方がないと思うが、仏門の人たちもまた心に恥じることはないであろうか。聞くところによると、近年の僧侶の行為は俗人と変わらず、上は無上の慈悲深い仏の教えに違い、下は国家の法律を犯しているという。僧綱(教団統括者、僧正・僧都・律師)が率先して行いを正すならば、他の者は皆正しくなるであろう」
 また、諸国寺院の統括管理者が「もっぱら権力のある者に私事を頼み込んでいる。このような不正は、この上放っておくべきではない。よろしく国を護る仏法を修め、禍を転じて福とする優れた因縁を弘めるようにせよ」ともあります。

 次に、桓武天皇即位二年後の延暦二(七八三)年(マオ九歳)の条には、貴族が田地を寺に寄進する問題について記述があります。「このままでは、もし年代がたてば寺でない土地はなくなるであろう」と言い、同年十二月六日には借金で苦しむ民の惨状が語られ、「寺は高利貸しに走り、官人は見逃している」として諸寺に詔が出されます。この詳細は後ほど「大寺院への失望」として取り上げるつもりです。

 マオが入門した平安遷都以降の記述を見ると、延暦十四(七九五)年(マオ二十一歳)五月二十五日の条に次のような記述があります。
・まず十年前の勅令について触れ、「出家した人は本来仏道を修行するのがつとめである。〜しかるに仏法の趣旨に背き、ひそかに『檀越』(だんおつ、寺の後見人である有力者)をきめて民間に出入りしたり、「仏の霊験と偽り称して愚かな民を欺き誤らせたりしている。このような僧尼は畿外へ追放せよ」と決めた。ところが、十年経っても守れていないとして次の勅令が出されました。
・「(この制令に従わぬ)違反者が多数となっている。髪を切り俗世間と縁を絶つのは、もとより修行のためであるのに、うわつき濫りがましいさまは右のとおりである。これでは僧尼でありながら、かえって仏教の教えを破り、徒に教界を汚すだけでなく国家の法を乱すことになる」とあります。

 また、延暦十七(七九八)年(マオ二十四歳)四月十五日の条に、
・「(僧侶の中には)『法華経』と『金光明最勝王経』の音読は学習しても、教説を理解していない者がいる状態である。仮にも僧侶となり課税されないという特権を与えられながら、かえって大切な仏教の戒律を棄て学業を廃しているのである。これでは形は僧侶でありながら、行いは在俗と同様である」とあります。
 続いて「現実の僧侶は仏教の優れた学業を大切と思わず、ある者は経済活動を営み村里に出入して通常の民と異ならない状態である。このため、多くの人たちが僧侶を侮り、仏教の教えが衰亡する事態となっている。道に外れた僧侶は仏教の真理を汚すだけでなく、国法にも違反している。今後はこのような僧侶を寺へ居住させたり、供養してはならない」とあります。
 さらに、同年七月二十八日の条に「平城旧京には元来寺が多く、淫らな僧尼による濫行がしばしば発生している。正五位下右京大夫兼大和守藤原朝臣園人を起用して検察させよ」とあります。これは僧尼による恋愛を指しているのでしょう。それを乱れた行いとして摘発したようです。

・翌延暦十八年二月二十一日の条には当時の法事について尼の法均が語った言葉が残されています。「初七から七七に至る七日ごとの仏事や年々の忌日に追善の供養をする必要はない。二、三人からなる少人数の僧侶と遺族が静かな部屋で礼仏と懺悔の仏事をすれば十分である」と。
 これは逆に言うと、法事をやり過ぎている現実――当然お布施が絡んでいる――があったことを示しています。注意したいのはこの時代今の檀家制度のようなものはありません。おそらく寺は国家の支援だけではやっていけない。在家の有力者とつながり、支援をあおぐ風潮があったのでしょう。

 延暦十七年とは空海マオ二十四歳のときであり、前年十二月に『三教指帰』を公表しています。それは仏教入門から山岳修行を経て出された一つの結論です。その頃仏教界が陥っていた状況が上記抜粋のとおりです。

 これらに対してマオがどう感じたか。『三教指帰』やその後の著書から読みとることはできません。しかし、その渦中に身を置いていたわけですから、もろもろのうわさを聞いただろうし、勅令は全僧侶に伝えられたはずです。マオもまた何らかの感想・感慨を持ったことは間違いありません。

 特にお経の「音読は学習しても、教説を理解していない者がいる」とはいわゆるお経読みのお経知らずです。あるいは、村里に出入りして経済活動を行う僧がいる。大寺院は高利貸しのようなことをしている。朝廷は「このため、多くの人たちが僧侶を侮」っているとまで指摘します。そして、「淫らな僧尼による濫行がしばしば発生」しているので検察せよと続きます。
 この僧尼検察がどのように行われ、摘発された僧尼がどうなったかなど、具体的な事後報告は書かれていません。しかし、わずか一行ながら、乱れた僧界の一端を知ることができます。
 『空海マオの青春』の裏話となりますが、藤原園人を大足の知己として登場させようと決めたのはこの記述からです。マオは先輩僧から「実は尼と交際している」と打ち明けられ、僧尼検察の長官が園人と知って一肌脱ぐエピソードとして描きました。

 これら仏教界の現状を改めるべく、桓武朝廷は(今までなかった)得度試験 の実施を決定します。
 延暦十七年四月十五日の条に「年ごとに定員枠のある年分の得度者は若年の者から採用することが慣例となっているが、『法華経』と『金光明最勝王経』の音読は学習しても、教説を理解していない者がいる状態である。〜今後、年分の度者には年齢が三十五歳以上で出家としての心構えが定まり、仏教の知識・修行共に十分で漢音を習得した、僧侶たるにふさわしい者を選んで充てるべきである」とあります。
 具体的には毎年十二月以前に得度試験を実施する。内容は十条の口頭試問を行い、五ヶ以上答えられた者を仮の得度とし、受戒の日さらに十の試問を行う。そして、八ヶ以上で合格とすると決められました。

 マオの周辺には二十代の修行僧がたくさんいたと思われます。「お経は読めればいいんだ」とうそぶいていた連中があわてふためく様子が想像できます。しかも、それまでは二十代で得度僧になれたのに、今後三十五歳まで得度できないのです。

 この勅令に対してマオはどのような反応を見せたか。
 同輩僧が「大変だ。得度試験が始まる。しかも、三十五歳になるまで得度できない」と駆けてくれば、マオはすずしい顔で「本当に仏典の内容を理解しようと思えば、入門後十年二十年かかって不思議ではない」と応じ、「よいことだ」と言ったのではないでしょうか(^_^)。
 この年マオは二十四歳。仲間が「お前は三十五になるまで得度できないのだぞ。それでいいのか」と言えば、マオは「私はまだ新しい仏教を生み出していない。それまで得度するつもりはなかったから、どうってことはない」と答えたのではないかと思います。
 さらに、「これからはお経をとなえるだけでなく、内容までしっかり理解しなければならないということだ。本人のみならず仏教界にとっても良いことだと思う」と続けたような気がします。

 長くなりました。南都仏教が空理空論の学問仏教に陥ったこと、寺院が高利貸しのような経済活動に走った点については次号といたします。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:毎年八月は夏休みとして全てのメルマガを休刊しております。今回はわけあって再来月九月もお休みさせていただきます。次号は十月からということでお願いいたします。
 これから暑い夏が始まります。お体にご留意下さい。(御影祐)
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