四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 24

「南都仏教への失望」その2


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第101 ―論文編 24号

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           原則月1回 配信 2015年10月10日(土)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・黎明(れいめい)・『続(しょく)日本紀』・法相(ほっそう)宗・三論(さんろん)宗・唯識(ゆいしき)・所依(しょい)・世親(せしん)・竜樹(りゅうじゅ)・僧綱(そうごう)・朕(ちん)・最勝王経会(さいしょうおうきょうえ)・成実(じょうじつ)宗・倶舎(ぐしゃ)宗・年分得度者(ねんぶんとくどしゃ、年間の得度者数)・論疏(ろんしょ、仏典の解説書。かつては仏典と同じように読誦されていた)・『金光明最勝王(こんこうみょうさいしょうおう)経』・『大般涅槃(だいはつねはん)経』・疎(おろそ)かに・戒壇院(かいだんいん)・観世音(かんぜおん)寺・下野国(しもつけのくに)・藤原永手(ながて)、魚名(うおな)、田麻呂(たまろ)・吉備真備(きびのまきび)・大中臣(おおなかとみの)清麻呂・藤原是公(これきみ)、継縄(つぐただ)・神王(みわおう、皇族)・橘諸兄(たちばなのもろえ)・志貴(しき)皇子・元興(がんごう)寺・『聾瞽指帰(ろうこしいき)』
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 『空海マオの青春』論文編――第24 「南都仏教への失望」その2

 第24 「南都仏教への失望」その2

 空海はなぜ寺院を飛び出して山岳修行に乗り出したのか。彼の著書のどこにも「南都仏教に失望したから」などと書かれていません。
 世の学者さんは事実が発見されないと、「そういうことはなかった」とか「わからない」として済ましてしまいます。しかし、私は学者ではありません(^.^)。それに、人間世界は「社会全体の感情と、それに賛同したり反発する個人の感情から成り立っている」と考えているので、個人の事実が発見されなくとも、社会全体の事実、そして感情さえわかれば、個人の感情を突き止めることができると思っています。
 それゆえ、史書の中から当時の仏教界の実情をながめ、その反照としてマオの内心を探ろうというわけです。前号は主として僧侶個人に対する失望でした。今回は南都仏教が陥った「学問仏教」について見ていきます。

 その前に、小説『空海マオの青春』執筆の裏話を少々(^_^)。
 空海が入門した当時の仏教界をいかに描くか――これは相当の難問でした。日本史の教科書はもちろん、もっと詳しい「日本史」専門の奈良時代とか平安時代編、あるいは、日本仏教黎明編などをかなり読みました。
 しかし、何度読んでも全くイメージが湧いてきません。たとえて言うなら、人や動物は肉に血が通い、皮膚や体毛を持っている。しかし、それら解説書はまるで骨だけ残った化石のようで、生身の声が全く感じ取れなかったのです。

 これは空海仏教編を書くにあたって最初にぶつかった壁でした。一年間悩んだ末に、「これでは書けない」と思って解説書の元となる原書にあたることにしました。それが『六国史』です。
 桓武天皇前後の史実は『続日本紀』と『日本後紀』にあります。文庫本を買ってまず通読し、関係ありそうなところに傍線を引きながら再読し、さらにトイレに置いて少しずつ少しずつ読みました。私は名にし負う痔主ゆえ、そんなことをしてはいけないのですが、やりました(^_^;)。
 結果、一年経ってお尻から出血したとき、「これはそろそろ史書を読むのは切り上げろというメッセージだろう(^.^)」と思って仏教編を書き始めました。やっと生々しい人間の姿が見えるようになったのです。特に時代の感情――現代とさほど変わらない社会と個人の感情が読みとれた点は大きな収穫でした。

 おかげで当時の天皇、朝廷、人民の姿がイメージできるようになっただけでなく、南都仏教の実態もかなりわかりました。そして、六宗に分かれていた南都仏教をどう描くか、どこまで描くかという悩みもあっさり解決しました。史書には朝廷が南都仏教をどう見ていたか、その記述があってそれを使えばいいと気づいたからです。
 奈良時代の南都仏教は六つの宗派と言うより、むしろ有力どころは二つの宗派でした。それが「法相宗」と「三論宗」です(なお、本論は空海を論じることを目的としています。法相宗、三論宗、その他の宗派、仏教語の詳細はネット事典をご覧下さい)。


 ※ 学問仏教への失望――法相宗と三論宗の対立

 法相、三論二宗についての詔はまず延暦十七(七九八)年(マオ二十四歳)九月十六日の条に出てきます。(以下引用は談社学術文庫『続日本紀』と『日本後紀』より)

・「法相宗は、諸法のあり方を究明して万有が唯識の変化であると説き、三論宗は空の立場で一切が本質的な存在ではないと論じている。共に教説は異なるが、真理をめざしている点で相違しない。両宗により仏教の知恵は松明のごとく明るく、悟りの教えはますます盛んになっているのである。
 しかし、最近の仏教者はもっぱら法相につき、三論を学習することを止めてしまっている。法相の所依である世親(四、五世紀頃のインドの仏教哲学者)の学説は伝わるものの、三論の所依である竜樹(二、三世紀頃のインドの仏教哲学者)の論説は絶えようとしている。僧綱の指導が欠如しているので、このような事態になってしまったのである。
 そこで僧綱が適切な指導を行い、法相・三論両宗を学習させ、空・有すなわち三論、法相の教えが永く頽(すた)れないようにし、大乗・小乗の教説が、地形が変化するほどの長期にわたり廃絶しないようにせよ。このことを広く僧侶に告知して、朕の意とするところを周知させよ」

・さらに、延暦二十一年(マオ二十八歳)一月十三日の条には、「いま聞くところによると三論・法相の両宗はお互いに争い、両宗を学ぶ者はそれぞれ一宗のみを研鑽しているという。しかし、両宗のいずれにも長所と短所があり、もし一宗のみを学び、他宗をすべて抑え退けるようなことをすれば、仏教は衰微することになろう。今後は、正月の最勝王経会と十月の唯摩経会においては六宗(三論・法相・華厳・成実・倶舎・律宗)の僧侶を喚び、それぞれの学業を広めるようにせよ」とあります。

  ・そして、延暦二十三年(マオ三十歳)一月七日の条に、「勝れた仏教の真理についてさまざまな説があるとは言え、主旨は同一であるが、三論・法相両宗の僧侶は相手を目にすると、論争を始めている。これは、後代の仏教を学ぶ者に教理を競わせ、学問を深めることを意図してのことかと思われるが、聞くところによると、諸寺において仏教を学ぶ学生は、三論を学ぶ者は少数で法相宗に所属する者が多く、宗勢の強弱を見て有力な宗派につく学生により教界が汚され、仏教の真理の追究が疎かになっているという。(中略)年分得度者は両宗五人ずつとするが、定員に達せずとも、他宗で補充してはならない」とあります。
 続いて「両宗の学生には諸々の経典や論疏を読ませることとし、『法華経』と『金光明最勝王経』は、旧例により両宗ともに読み、『華厳経』と『大般涅槃経』はどちらか一つを選択させ、経典と論疏双方に習熟した者を得度させよ。諸々の論疏を読んでも経典を読んでいない者は、得度を許さない。経典と論疏を広く学び仏教の教義を奥深くまで習得していれば、漢音を学んでいなくてもよしとせよ(延暦十二年四月の条制で漢音習得を義務づけていた)。今後は永く以上の決定を恒法とせよ」とあります。

 ここで注意したいのは「諸々の論疏を読んでも経典を読んでいない者は、得度を許さない」との文言です。「論疏」とは仏教解説書のことです。
 言い換えれば、仏教解説書は読んでいるけれど、経典そのものを読んでいない僧がいたことを意味します。ここには『法華経』・『華厳経』などが挙げられています。仏教に入門した以上、当然これらの仏典が読まれ、教義を勉強するべきでしょう。ところが、入門するやいなや渡された仏典は「論疏」だった、あるいは、『法華経』や『華厳経』が渡されたとしても、僧侶はそれを読まず、論疏ばかり読んでいる。「それっておかしくね?」てな感じです(^.^)。
 当時南都仏教では「論疏」が仏典と同じように読誦され、その内容について考え、研究されていました。結果、論疏は読んでいるけれど、『法華経』や『華厳経』などは読んだことがない僧侶がいたというのです。

 思うに、当初は仏典を読んだ後(あるいは同時に)論疏が読まれたのでしょう。しかし、時代が進むにつれ、難しくて大部の仏典を読むより、解説書の論疏を読めば簡単に仏教がわかると考えられるようになった。やがて仏教の真髄がそこに書かれているなら、それをとなえて信仰を深めよう……と変わっていったのかもしれません。

 朝晩の勤行でとなえる仏典としては『般若心経』と『仏説阿弥陀経』が有名です。『般若心経』は五分から十分、早口でとなえれば一分か二分で終わります。『仏説阿弥陀経』はだいたい二十分から三十分程度でしょう。それ以外となえるに最適な簡略仏典はありません。
 空海が入唐後持ち帰った『理趣経』は前二書に続く簡略仏典です。それが真言宗でとなえられ、やがて東大寺でも読誦されるようになったのは簡略性の観点からうなずけるところです。

 ところで、「論語読みの論語知らず」にちなんで「マルクス読みのマルクス知らず」なる言葉がありました(今や死語?)。マルクスの著書は読んでも、思想の本質を理解していない人のことを言います。
 そのでんで言うなら、「論疏読みの経典知らず」とは解説書ばかり読んで経典を読まない僧侶と言えるでしょう。いわば、論語の解説書は読んでいるけれど、論語そのものは読んだことがない、マルクス哲学・経済学の解説書は読んだけれど、マルクス全集は読んだことがない――となります。

 もちろん今も昔も解説書を読むこと自体否定しているわけではないでしょう。しかし、あくまで原典を読んだ上で理解を深めるための読書法です。僧侶を目指すなら、まずは経典を読んで内容を理解しなければならないはずです。詔勅の言葉には「それを疎かにして解説書ばかり読むとは何事か」といった調子が感じ取れます。朝廷が「経典と論疏双方に習熟した者を得度させよ」というのは至極当然の結論です。
 この記述によって修行僧の多くが論疏――すなわち仏教解説書の研究に偏り、経典そのものを学んでいない実態があったことがわかります。「僧綱の指導が欠如している」と指導者への不満も述べています。これが南都学問仏教の実態だったのです。

 また、得度の詳細もこの記述によってわかりました。年間の得度者十名とあります。
 上限十名とはずいぶん少ない気がします。これは新規得度者の数であって僧尼の死亡による交替を勘定に入れていません。たとえば、全国各地に設立された国分寺一寺あたりの定員は二十人(国分尼寺は十人)。欠員が生じたときにのみ補充として得度が許されました。
 これで代表的な人は最澄です。彼は七八〇年、十四歳の時得度しましたが、近江の国の国分寺で一人欠員が出たため得度できたのです。

 この新規得度者十名は三論・法相両宗で各五名ずつと定められ、定員に達しなければ、他宗より得度者を出して構わないとしていた(六宗もあるのに、得度はなぜこの二宗だけなのか、詳細はわかりません。想像するに得度に関してはこの二宗に限り、その後他の四宗を含む六宗に分かれたのかもしれません)。

 ところが、詔勅によると「三論・法相両宗の僧侶は相手を目にすると、論争を始め」、「最近の仏教者はもっぱら法相につき」、「三論を学ぶ者は少数で法相宗に所属する者が多く、宗勢の強弱を見て有力な宗派につく」という好ましからざる状況になってきた。結果、得度者が法相宗にかたよるのは良くないこととして三論宗の新規得度が定員の五人に達しなくとも、「他宗より補充を行うな」と勅令が出されたのです。

 ここにも南都仏教の事実と感情がうかがわれ、朝廷の感情も見えてきます。当時の僧侶が「宗勢の強弱を見て有力な宗派につく」など、生々しい実態がさらけ出されています。教科書的知識としては「南都六宗」と呼ばれて並存していたように思えます。しかし、主流は法相宗と三論宗であり、マオが大安寺に入門した頃は法相宗が優勢だったのです。大安寺は三論宗ですから、彼は劣勢宗派の一員だったことになります。
 余談ながら、得度の儀式である受戒を行う場所を「戒壇院」と呼びます。当時戒壇院は全国三ヶ所に置かれました。東大寺・大宰府観世音寺・下野国薬師寺で、三戒壇と称されます。これは全国各地に分散した国分寺のためでしょう。

 さて、これら南都仏教の内実を外から眺めているだけで気づくとは思えません。すでに帝都は長岡京に遷り、平安京に遷都した頃のことです。南都七大寺は政治の中心から離れてしまいました。
 そこで、これら詔勅が出る経緯を考えてみると、まず僧界から重臣の誰かに提起があったと思われます。たとえば、「今南都では法相宗と三論宗が対立しており、最近は法相宗が優勢です。そのわけは得度者が法相に偏っているからであり、三論を学ぶ者が少なくなったのは問題です」とでも。
 その訴えを受けて朝廷内で話し合いがもたれ、「両宗のいずれにも長所と短所がある。もし一宗のみを学び、他宗をすべて抑え退けるようなことをすれば、仏教は衰微することになろう」との結論が出されたのでしょう。

 なぜ三論派より法相派が増えたのか。「宗勢の強弱」とあるだけで明確な理由は書かれていません。なので、ここからは私の推理です(^_^)。

 当時法相宗の総本山は興福寺です。興福寺とは藤原氏の氏寺でもあります。藤原氏と言えば、家臣筆頭であり、朝廷の最大勢力です。現代において政権与党や有力政治家と親密な宗教・宗派、著名宗教家がいるように、奈良・平安初期においても、有力政治家である藤原氏とつながっていたい宗派、僧侶がいた――と見るのはちとうがちすぎでしょうか。

 いや、もっとうがって推理することも可能です(^_^;)。法相宗が藤原氏と結びつき、藤原氏の勢力が旺盛なら、果たして「法相宗が優勢で問題です」との訴えが浮上したかどうか。三論側がそう思ったしても言えたかどうか。朝廷がそれを取り上げたかどうか。
 南都学問仏教の実態は奈良時代当初(七一〇年)からある程度は知られていた(感じられていた)と思います。ところが、問題として浮上したのは七九〇年から八〇〇年ころのことです。この間には道鏡事件があり、長岡京遷都、平安京遷都と続きます。なぜ延暦二十年前後に突然これらの詔勅が出てきたのか、理由がありそうです。

 ヒントは藤原家の浮沈にあるのではないか。南都仏教に対する勅令が出された延暦二十年前後、藤原三家はエアポケットのように権力空白期にあたっているからです。そこに三論宗の側から「法相宗が優勢で問題です」との訴えが通った理由があるように思えます。

 奈良時代から平安初期において藤原三家が朝廷において常に筆頭の位置にあったことは左大臣・右大臣に任命された人名を見るだけで一目瞭然です。
 称徳天皇末期から光仁天皇時代における臣下の最高位は左大臣で、以下のように藤原氏の名が連なります。
 ・藤原永手(七六六〜七七一)
 ・藤原魚名(七八一〜七八二)
 ・藤原田麻呂(七八三)

 永手、魚名は北家、田麻呂は式家です。なお、右大臣は吉備真備、続いて大中臣清麻呂でした。
 そして、七八三年に桓武天皇が即位すると、それ以後左大臣は置かれず、朝廷の最高位は右大臣となります。桓武在位中右大臣となったのもやはり藤原氏、南家の二人です。
 ・藤原是公(七八三〜七八九)
 ・藤原継縄(七九〇〜七九六)

 つまり、称徳末期から光仁、桓武にかけて朝廷の最高位は藤原氏が独占していたのです。今で言うなら某与党の単独安定政権みたいなものであり、派閥間で総理大臣をたらい回しするようなものでしょうか(^.^)。

 ところが、七九六年に藤原継縄が亡くなると、二年間の空白を経て右大臣となったのは「神王」(七九八〜八〇六)でした。神王は志貴皇子の孫でもちろん皇族です。彼は八年間右大臣を務め、八〇六年桓武天皇が崩御すると、後を追うように逝去しました。

 私の推理はこうです。藤原氏の勢力が盛んな折は法相宗の勢いが強くとも、問題視することはなかった。したくてもできなかった。しかし、神王に代わってその重しがなくなったので、三論側から「法相宗の勢いが強過ぎて問題です」と訴えが出たのではないか。そして、それは朝議にかけられた。
 二宗に関する最初の詔は神王が右大臣となった延暦十七(七九八)年に出されています。神王はいわば中立的立場でしょう。だから、「両宗共に重んぜよ」と中立的な結論が出されたのではないかと思います。

 七九八年当時藤原氏では北家内麻呂と南家乙叡が参議として朝議に列席しています。しかし、首座は皇族の神王。南都仏教の議題が氏寺と関係していたとしても、二人はそれほど言及しなかったろうと思います。

 さらに余談を続けると、八〇六年に平城天皇が即位します。そのとき右大臣となったのは藤原内麻呂(八〇六〜八一二)、次いで嵯峨天皇に代わったときの右大臣が北家藤原園人(八一三〜八一八)です。やはり天皇家が頼るのは藤原氏であり、聖武天皇から数えると桓武まで五代に渡って朝廷の筆頭は藤原氏であり、藤原氏でない大臣は橘諸兄と神王の二人だけでした。橘諸兄も臣籍降下した皇族だから、皇族外で朝廷首座となったのは藤原氏だけということになります。

 ここで、そろそろ本題に戻ります(^_^;)。
 空海マオは南都学問仏教を目の当たりにしてどう感じたでしょうか。彼は三論派の大安寺に属していました。先輩僧たちは法相派の僧侶と出会うと口角泡を飛ばす激論を交わしていたであろうと想像できます。
 議論の中身について史書は「法相宗は諸法のあり方を究明して万有が唯識の変化であると説き、三論宗は空の立場で一切が本質的な存在ではないと論じている」と極めて簡略にまとめています。

 このまとめを読まれてみなさんはどう思われますか。これは宗教と言うより、むしろ哲学の領域ではないでしょうか。現代でもかつて唯物論と観念論の論争がありました。「物が存在してそれが人の心に反映した」とする唯物論。それに対して「物は存在しない。全て心に映じた像に過ぎないのだ」とする観念論。

 法相対三論の中心部をもう一度読み直すと、「法相は万有が唯識の変化であると説く」とは我らの外の物は我らの心が変化したものであることを言い、「三論は空の立場で一切が本質的な存在ではないと説く」とは「物事は存在しない、我らの内心の反映である」と主張する観念論そのものです。
 つまり、法相対三論の議論は観念論の中の認識争いであり、現代に置き換えるなら、これは哲学に属する話題なのです。彼らはそれを経典そのものより、論疏を読んで「ああだこうだ」と論じていたのです。マオはそれをどう聞いたでしょう。

 空海マオにはすでに儒教・儒学の下地があります。儒教は哲学と言うよりむしろ実学に近いと思います。目指すのは仁義忠孝、立身出世であり、それは道徳に直結する実学です。それに対してマオが初めて目にした南都仏教はなんと(しゃれではありません)哲学的であることか。それは聞きようによって空理空論、議論のための議論と思われた可能性があります。

 そして、三論と法相の議論とは突き詰めると《空無》の問題に至ります。すなわち、『般若心経』の「色即是空、空即是色」をいかに解釈するか――その問題であるとも言えるでしょう。しかも、南都仏教の僧侶達はそれを仏典そのものではなく、解釈仏典を研究し、頭で考えることで仏教の真実に迫ろうとしたのです。

 マオが南都仏教に異和感を覚えたのはその点だったろうと思います。彼はおそらく法相と三論の先輩僧が「出会うと論争をしている」様子を見、その内容を聞いてかなり異和感を覚えたのではないか。そして「この論争から果たして仏教の真理に迫れるだろうか。国が、人民が必要とする新しい仏教を生み出せるだろうか」と考えたとしても、なんの不思議もありません。

 最初に書いたように、マオが南都学問仏教についてどう感じたか、直接の言及はありません。しかし、寺院を飛び出して山岳修行に進んだこと、その後書いた『聾瞽指帰』そのものもマオの南都仏教への思いと感慨が表現されているように思います。『聾瞽指帰』仏教編は「空無」について一言も触れられていません。ただひたすら仏教のイロハが書かれているだけです。失礼な言い方を敢えてすれば、マオは南都学問仏教をシカトした――それがマオの思いだったと言えるのではないでしょうか。

 マオは『論疏』を読誦し、「空無」についてあれこれ議論する南都仏教に疑問を抱き、原書である仏典を読み重ねたに違いありません。学問仏教を学んでも新しい仏教は生み出せない、そう見切ったからこそ外に、山岳修行に乗り出したのです。

 長くなりました。南都仏教の問題点の三つ目、大寺院が陥った金儲け主義については次号に回します。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:夏休みをいただき、秋の訪れとと共に本格的に仏教編の連載をと思っていましたが、わけあって来月も休刊いたします。ご了承お願いいたします。m(. .)m(御影祐)
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