四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 25

「南都仏教への失望」その3


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第102 ―論文編 25号

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           原則月1回 配信 2015年12月10日(木)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
 前号読みの間違いについて「所依」は「しょい」ではなく「しょえ」でした。
・勤操大徳(こんぞうだいとく)・大僧都(だいそうず)・行賀(ぎょうが)・明一(みょういつ)・行表(ぎょうひょう)・孝聖(こうしょう)・真耀(しんよう)・出挙(すいこ)・還俗(げんぞく)・租庸調(そようちょう)・防人(さきもり)・『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』・山上憶良(やまのうえのおくら)・食封(じきふ、俸禄として下賜された特定数の公民。そこから出る租の半分、庸調の全てが貴族・寺社に支給された)・行乞(ぎょうこつ)・山行登拝(さんこうとうはい)・稚児(ちご)
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 『空海マオの青春』論文編――第25 「南都仏教への失望」その3

 第25 「南都仏教への失望」その3

 これまで南都仏教の問題点を取り上げ、空海マオは僧侶個人に失望し、南都学問仏教に失望したであろうとまとめました。本号では三点目としてまるで高利貸しのような大寺院の経済活動について眺めたいと思います。

 その前に『空海マオの青春』仏教編の登場人物について少々語っておきます。
 空海マオが大学寮に入学したのが十七歳。退学もしくは休学が一年後か二年後。私は二度の大洪水を経て平安京遷都が決まった十八歳の暮れと推理しました。そして十九歳の春、大安寺の門を叩く。

 大安寺でマオが間違いなく関係を持ったと言える人物は「勤操大徳」だけです。
 勤操は天平勝宝六(七五四)年の生まれだから、このとき三十九歳。大和国高市郡の出身で、十二歳で大安寺に入門しています。後に三論宗の論客として著名となり、最終的に大僧都まで上り詰めました。山岳修行体験者でもあったようです。

 しかし、勤操と空海の二人だけではさすがに物語が進展しません(^_^;)。そこで、私は以下五人の僧侶を枠役として登場させました。この五人は実在の人物で( )内は空海十九歳(延暦十二年)時の年齢です。

・興福寺小僧都「行賀」(六十五前後)……興福寺で学び、二十五歳から三十一年間遣唐僧として唐に滞在。帰国後の報告会で東大寺明一の質問に答えられなかった。
・東大寺「明一」和尚(七十前後)……入唐帰国後の行賀に「一体何を学んできたのだ」と罵倒した。
・大安寺「行表」和尚(七十一)……行賀と同郷の先輩僧。このころは病がちで四年後没。

 それからほぼ名前のみの登場ながら、勤操(と最澄)の師「善議大徳」。その他(名はあったでしょうが)名もなき先輩僧たち。こちらはマオの急所を突く質問に答えられなかったり、仏典の中身を知ることなく、ただお経が読めるだけの僧侶として登場します(^.^)。

 また、マオの友人として「孝聖」、先輩僧として登場させた「真耀」はちょっと重みのある脇役です。真耀は全くの虚構で出挙や僧侶の恋愛のところで出演数が増えます。かたや「孝聖」は実在の人物です。マオの友人としたことは虚構ながら、マオの大安寺時代と重なっています。

 この孝聖は延暦十九年(マオ二十六歳)に還俗したと『日本後紀』にあります。
 十月十四日の条に「大安寺の僧孝聖が次のように言上してきた。私はもと右京の田中朝臣名貞ですが、生まれつき体が弱く、修行についていけません。このままでは老母の世話ができませんので、還俗して母の許にいたいと思います」とあり、還俗が許可されています(「名貞」の読み不明)。

 これより二ヶ月前、薬師寺の僧「景国」も還俗を願い出ています。理由は「性格が愚鈍で僧侶としての修学についていけません」とあるものの、子を持つ僧侶は全て還俗させるきまりに従いたい――とあって妻子を持ったことが理由のようです。

 孝聖の場合も後段の「老母の世話ができませんので、還俗して母の許にいたい」が真の理由でしょう。一人息子を出家させたとは考えづらいので、次男ではないかと思います。そして、たとえば、長男が亡くなるなど異変が起こって彼が老母の世話をしなければならなくなった。それゆえ還俗したと推測できます。

 孝聖の年齢とか入門時期など詳細はわからないものの、空海マオが二十六歳の時まで大安寺にいたわけですから、交流の可能性はある――そう思って空海と言葉を交わす友人として登場させました。
 ちなみに、空海二十六歳の延暦十九年は西暦八〇〇年。この年富士山が大噴火を起こしたことは記憶の片隅に留めておいてください。


 ※ 大寺院の経済活動

 さて、当時大寺院が行った経済活動――つまり寺の運営費用は主として「出挙(すいこ)」によってまかなわれました。得度僧はもちろん官僧だから、桓武朝廷から生活費が支給されます。しかし、多くの修行僧は無給です。日々の托鉢などは行われたでしょうが、それだけでやっていけるとは到底思えません。そこで大寺院は運営費として「出挙」に頼ったのです。

 出挙とは百姓に種もみを貸し出し、稲が実った秋に[元本+利息]として収穫の一部を受け取る制度です。利息は最大5割、最少3割で変遷しています。出挙は当初国司などが行い、租税(三パーセント)で足りない分を補っていました。たとえば、大寺院が春に種もみ千俵を貸し出せば、秋には千三百から千五百俵の米が入ってくる勘定になります。

 私はこのことを知り、史書で「人民は出挙で苦しんでいる」との記述を見たとき、とても不思議に思いました。租税も出挙の利息もずいぶん少ないからです。
 もちろん利息5割だけ見ると、現代のサラ金もうらやむ、相当あくどい高利です。しかし、それは現金だったらの話。これは種もみと収穫後のお米の関係です。

 稲というのはひと粒の種もみから二粒、三粒のお米しかできないわけではありません。現在では稲1本で六〇粒ほど収穫できるそうです。奈良時代末期ですから、さすがにそこまで収穫できなくて五〇粒くらいとすると、すなわち収穫は種もみの五十倍になります。

 たとえば、種もみを1俵借りるとすると、単純計算で秋には五十俵収穫できる。対して返済は最大1俵半で良いのです。そのとき国に納める租税は三パーセントですから約一俵半。合わせて三俵。よって、百姓の手元には四十七俵くらい残ることになります(租税十パーセント説もあるそうですから、それで計算すると、税と出挙返済を合わせると六俵半で残りは四十三俵半)。
 これだったらこの世は天国ではないでしょうか。出挙は当初勧農とか災害などで種もみを失った百姓救済のために生まれたというのもわかる気がします。

 もちろん奈良、平安時代は「租庸調」と言って租税以外に特産品を国に納め、様々な労役(六十日間)に無報酬で参加せねばなりませんでした。また、東国には防人、すなわち兵役もありました。それらも大きく見て《税》と考えるなら、人民の負担をお米で換算すると収穫物の3分の1、場合によっては半分くらい取られていたと見なすことができます。
 ただ、それらを勘案しても出挙の返済が種もみ1俵に対して1俵半で良いのなら、国司や郡司が出挙を行おうが、寺院がやろうが、大した問題ではないように思えます。

 ところが、史書は以下のように南都七大寺の出挙が大問題だと指摘しているのです。

 まず宝亀十年(七七九、マオ五歳)、国司の出挙行政について勅令が出されています。
・「在外の国司は利潤をはかろうとして隠した稲を出挙して利息を取っている。(略)無知の人民は争って全部借りて食糧に充てる。その元利を徴収されるにあたって償うものがないから、ついには家を売り田を売り、他郷に浮浪・逃亡してしまう。人民が弊害を受けること、これより甚だしいものはない」と批判し、「今後このような行為は断罪して懲らしめよ」とあります。出挙の量は国ごとに上限が定められているのに、守れていない。結果人民が出挙による借金に苦しんでいるとの指摘です。

 延暦二年(マオ九歳)の条では平城京諸寺の出挙について触れています。
・「豊かな人民による出挙は禁止されている。先に(個人的な出挙を禁ずる)令を出したが、未だ懲りずに改めようとしない。いま京内の諸寺は利潤を貪り求め、家を質に取ったり、利子を元本に繰り入れたりしている。どうしてこうも官吏の道がたやすく国法に違反し、出家したはずの僧侶の輩が再び俗世間と結びつこうとするのか」と寺院の出挙を痛烈に批判しています。
 「利潤を貪り求め」とはずいぶんな言葉で、口語訳著者の誇張した表現のように思われるかもしれません。しかし、原文はちゃんと「貪求利潤」となっています。
 また、「僧侶の輩」も原文は「出塵之輩」だから「やから」と訳されます。ちりあくたの世界を離れ、清らかな身となったはずなのに、「なんという奴らだ」と、桓武朝廷のお怒りがうかがえる表現です。

 そして十二年後の延暦十四年、マオは二十一歳ですでに大安寺に入門しています。
 この年朝廷は再び出挙について勅を出します。これは家臣から天皇への奏上という形式で書かれていました。
・「諸国で出挙する七大寺の稲は、施入されて以来、年月を経ており、年々の出挙による収益は莫大なものになっていますが、(略)革めることがなく、往時の出挙数を維持したまま、今日の疲弊した人民に貸し付けています。このため国司は出挙行政が円滑にいかず百姓は返済できない状態となり、家業を失い、家を滅ぼす人が続出しています」とあります。

 ここで貸す方の収益が莫大なものになるとの指摘は理解できます。
 たとえば、三割の利息として最初に一千俵を出挙に当てれば、毎年三百俵ずつ増えていく計算です。単利でも十年間で三千俵の利益、元本が四倍になります。
 余談ながら、以前郵便局の定額貯金が年利七パーセントくらいのときがありました。百万円預けていると十年後二百万円になって返ってきたそうです。ノー天気な私は後で知って「預けるんだった!」とほぞを噛んだものです(^_^;)。

 よって、貸す方は確かに「莫大な収益」をあげるでしょう。しかし、種もみが五十倍、控えめに見て四十倍、もっと控えめに見て三十倍としても、種もみ一俵に対して三十俵の収穫があるなら(この場合税と出挙返済は約二俵半〜四俵半)、借りる方にとってそれほど苦しいように思えません。

 史書に言う大寺院の出挙によって「百姓は返済できない状態となり、家業を失い、家を滅ぼす人が続出」しているとの記述、どうにも理解し辛いところです。
 別資料として(ネット事典の孫引きながら)、平安時代初期の作品『日本霊異記』には「出挙によって金銭亡者となったり返済に苦悩する都市住民の様子がまざまざと描かれている」そうです。

 そこで、ここからは私の推理です(^_^)。
 今一俵の種もみから現代の半分と見て三十俵収穫できたらと書きました。それでも税と出挙返済は二俵半だから、二十七俵は百姓の懐に入ると。

 しかし、もしも台風一過、干害などで稲が潰滅状態となり、種もみ一俵に対して十五俵しか収穫できなかったとすればどうでしょう。租税三パーセントは三十俵に対してかけられるだろうし、出挙の返済一俵半も必ず返さねばならないはずです。

 よって十五俵の収穫であっても、税と出挙返済はやはり二俵半。百姓の手元には十二、三俵しか残りません。そこから来年の種もみ一俵分を差し引き、残り十二俵で一年間暮らさねばならないとしたら、これはきつい感じがします。さらに、庸調の作業、無報酬労役に従わねばなりません。

 朝廷は自然災害などがあると、しばしば租税免除をしています。しかし、出挙の貸し主は免除してくれないでしょう。自然災害がもしも二年続いたら、もっと苦しいはずです。「家を質に取ったり、利子を元本に繰り入れたりしている」との記述は、自然災害で返済できないと、翌年種もみを貸すとき担保を求めたり、返済時に前年分も加えたことがわかります。こうなると、借金は雪だるま式にふくらみ、「百姓は返済できない状態となり、家業を失い、家を滅ぼす人が続出」するというのもわかります。
 これ、冷酷なサラ金的高利貸しがやっていることではありません。慈悲深き僧侶――大寺院が行っているのです。勅令を読むと「ごうつくばりの生臭坊主め」とでも言いたい感情が読みとれるように感じます(^_^;)。

 万葉集に当時の人民の暮らしを描いた『貧窮問答歌』(山上憶良)という長歌があります。そこには竪穴住居の中に家族五、六人が暮らしている。しかし、カマドに火は焚かれず、茶碗には蜘蛛が巣を張っている。しかし、里長は非情にも労役の呼び出しに来る――と描かれています。あれは決して誇張ではないでしょう。

 国司の出挙は現代で言うなら地方税のようなものです。だから、朝廷もそれは(上限を設定して)認めている。しかし、裕福な民、さらに大寺院が出挙を行うことは「許せない」との感情が「京内の諸寺は利潤を貪り求め、家を質に取ったり、利子を元本に繰り入れたりしている。〜出家したはずの僧侶の輩が再び俗世間と結びつこうとするのか」という強い筆調に現れています。

 こうした実態を経て朝廷は大寺院の出挙を大幅に削減させようとします。やはり延暦十四年(マオ二十一歳)のことです。
 このとき出挙削減を命令するまでの手順はなかなか巧妙です。まとめると、以下のような流れを取っていました。

 四 月…大寺院が土地を手に入れることを禁止
 七 月…南都七大寺へ使人を派遣して、常住する僧尼の数を調査
 閏七月…出挙の利息を五割から三割に削減する勅令
 九 月…寺院に水田百町、食封百戸を施入
 十一月…七大寺に居住する僧侶の必要経費を調査して出挙数を削減させる

 要するに、まず僧尼の数を調べ、生活費にあてるとして水田を与え、その後人数に合った必要経費分だけの出挙を認めようというのです。一町は十反ですから、水田百町とは千反。一反でだいたい一石(ほぼ一人一年分の食糧)が収穫できると考えれば、水田百町とは僧侶千人を養えるだろう。ということは実質「出挙は必要ない」との姿勢が見て取れます。
 大寺院に対してまずアメを与え、後に出挙削減を切り出す。寺院が「これでは僧侶が飢え死にします」と反論でもしようものなら、「すでに水田、食封も与えたではないか。居住する僧の数なら出挙はこの程度で充分」と言えたはずです。
 いずれにせよ、大寺院による経済活動と、桓武朝廷がそれをいかに問題視したか、わかっていただけたと思います。

 さて、こうした寺院の出挙や勅令に関して僧尼――とりわけ空海マオがどう感じ、どう考えたか、やはり言葉は残されていません。しかし、寺院内に暮らしていれば、当然出挙に関する話題は交わされたことでしょう。

 僧侶個人と南都学問仏教への失望に続いて寺院が高利貸しのようなことをやっているなら、マオの心中は充分想像できます。マオの感性の根本には儒学があり、仏教入門は「新しい仏教創始」が目的でした。高利貸しのような出挙の実態はうわさに聞いていた「腐った仏教」の一例としてとらえたのではないかと想像します。
 たとえば、大安寺の僧たちが出挙削減を受けて「大変なことになった。収入ががた落ちだ」と騒いでいたなら、マオは「当然のことではないだろうか」とつぶやいていたのではないでしょうか。

 もっとも、大寺院が出挙を盛んに行ったことを「ごうつくばりの高利貸しに堕落した」と糾弾することはできません。空海マオも単純に出挙を否定し、大寺院の経済活動を嫌悪したとも思えません
 なぜなら、そこには得度僧だけでなく、多くの修行僧を抱える大寺院がどうやって餓えることなく生きていくか――という根本的な問題があるからです。

 私は小説編でマオが孝聖や先輩僧と議論する様子を描きました。
 先輩僧は次のように言います。
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「だが、我らとて生きていかねばならん。大安寺には修行僧を含めて八百余名が暮らしておる。得度僧の生活は朝廷より保証されているものの、お主らのような修行僧は寺がめんどうをみる。行乞によって集まる米や銭は高がしれている。お主はわしらが毎朝毎晩食べている米や野菜をどこから手に入れていると思うておる。出挙によって集められておるのじゃ」
 孝聖が泣きそうな顔で「そうなんだよ、マオ。俺たちはこのおかげで仏道生活を送れるんだ」と言った。
 マオは口を閉ざした。それ以上反論の言葉が浮かばなかった。
 確かに先輩僧の言うとおりだ。米も金も天から降ってくるわけではない。仏がくれるわけでもない。布施と行乞だけでは大安寺の全僧侶が飢えるだろう。
 だから、百姓に出挙してその返済によって米を得、野菜を買う。確かにそれなくして我々は生きていけない。先輩僧や孝聖が言うように、出挙のおかげで大安寺の僧八百余名が生活できる。飯の心配をすることなく、修行に励み、仏教研究に専念できる。他の大寺院も出挙によって運営資金をまかなっているだろう。
 だが、マオは釈然としなかった。南都七大寺で集められた米の総量は一体どれほどになるのだろう。寺院によっては膨大な出挙によって全僧侶を養う以上の米を得る。それを金に換え、貴族や官人、商人に貸すことで、さらに利息を得ているとも言われる。寺が高利貸しのようなことをしていいのだろうか。大きく言うなら、僧は、寺院は、仏教はこれで良いのか。これは新しい仏教にとっても最大の難問だと思った。
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 マオはろくに学ぼうともせず、お経はよめればいいんだとうそぶくような僧侶個人に失望した。議論のための議論に終始している南都学問仏教にも失望した。
 しかし、出挙の問題は少し趣が違います。出挙が高利貸しのようになっている点は失望したしても、それなくしては僧侶が生きていけないという根本的な問題を抱えているからです(では、桓武朝廷が水田百町という運営費を出してくれたから、それで問題解決となったかどうか――これについてはいずれ考えたいと思います)。

 ともあれ、空海マオはかなり朝廷と同じ感情を持ち、南都仏教の現状に失望したことは間違いないと思います。「このままここで仏教を学んでも、新しい仏教を生み出すことはできない」と感じたであろうことも。
 そのころ心ある仏教者は外に出ました。それが山岳修行であり、空海もまたその道に進むことを決意したのだと思います。
 以下は山行登拝に出てみたいと勤操に申し出たときのマオの言葉です。
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「最初の頃は三論、法相について各自の考えを自由に述べ、議論を重ねる点など大いに面白うございました。しかし、それを続けているうちに、さてこれは仏教なのだろうかと疑問に思い始めたのです。まるで議論のために議論を行っているかのようでした。仏教の基本はまず読経にあり、さらにその意味を考えることでしょう。しかし、意味を考えれば読経を忘れ、読経に走れば意味など考えることなく、ただ経をとなえているだけではないか、と感じました。そんな折、山岳修行に出た一人の先輩よりお話を伺いました。その方は山行登拝によって何かしら開けるものがあったと言います。私も外に出ることによって現在の行き詰まりを打ち破れるかもしれない。そのように思いました」
 そこで切ったが、言いたいことはまだあった。稚児を夜ごと床に呼び寄せるひそかな悪習。寺を運営するための出挙と高利貸しのような実態。葬式で多額の布施を求め、身分が上がることをこい願う僧。それらを知るにつれ、南都仏教、現実の寺院、僧侶に対して嫌悪感が芽生えつつある。だが、さすがにこれらのことは口にしなかった。
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 ここに描いた稚児の件は次号に回します。

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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:ここんとこ史書からの引用が増え、全体も長くなっています。多忙にして賢明なる読者の中には「引用部を飛ばし読みする」方がいらっしゃるかもしれません(^_^)。それは私の本意ではありませんので、ぜひ引用部もゆっくりお読みになって下さい。と言うのは引用のまとめは所詮《化石》です。引用部にこそ当時の生の声と感情があります。それを読みとり、感じていただきたいのです。
 空海論文編も遅々たる歩みが続いております。月一発行くらいは果たしたいと思っているのですが、来年ものんびり流れそうです(^_^;)。

 さて、世界は「対テロ戦争」に振り回されています。私は《全肯定》ですから、テロリストを人間扱いして交渉すべきだと思っています。自爆行為を「崇高なる殉死」と思っているのは戦前の日本人と同じ精神・感情です。だから、交流して「それは違うよ」と教えねばなりません。特攻隊の歴史を持つ日本人ならそれがよくわかると思うのですが……。
 日本国家も今また「国のために産め」とか「国のために死ぬことは当然だ」と言い始めています。我々はその気持ちを受け入れつつ、「それは違うんじゃない?」と言いたいものです。

 世界と皆様方に来年も良き年が訪れることを祈って大晦日を迎えたいと思います。
 えっ、「来年も、って今年は良いことなかったぞ」とおっしゃいますか?
 いえいえ、きっと何か良いことがあったはずです。全肯定ならたくさん良いことを見つけられます(^_^)。

 今年も読んでいただきありがとうございました。m(_ _)m
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