四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 26

「南都仏教への失望」その4


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第103 ―論文編 26号

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           原則月1回 配信 2016年 1月10日(日)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・勤操(ごんぞう)・稚児(ちご)・淫(みだ)ら・濫行(らんぎょう)・卑猥(ひわい)・猥褻(わいせつ)・法華寺(ほっけじ)・孝聖(こうしょう)・同衾(どうきん)・冒涜(ぼうとく)・『理趣(りしゅ)経』・鎮護(ちんご)国家・『三教指帰(さんごうしいき)』・下賜(かし)・護摩(ごま)を焚(た)く・今上(きんじょう)・利益(通常「りえき」だが、仏教語としては「りやく」)・功徳(くどく)・六道輪廻(りくどうりんね)・八正道(はっしょうどう)・朕(ちん)・松明(たいまつ)・船の楫(かじ)・世を済(すく)い、人を強化(きょうげ)する・出挙(すいこ)・梵釈寺(ぼんしゃくじ)・勝(すぐ)れて・崇(あが)める・慈(いつく)しみ・黎明(れいめい)・標榜(ひょうぼう)・安寧(あんねい)・金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)・『聾瞽指帰(ろうこしいき)』・筐底(きょうてい)・阿刀(あと)の大足(おおたり)
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 『空海マオの青春』論文編――第26「南都仏教への失望」その4

 第26「南都仏教への失望」その4

 空海マオが山岳修行に乗り出した理由について、これまで《南都仏教への失望》という観点からまとめてきました。お経なんぞ読めればいいんだと言ってすましている僧侶個人への幻滅。ああだこうだと議論のための議論に終始する学問仏教への不満。そして、大寺院の経済活動に対する異和感があったのではないかと。
 マオは仏典を大量読破して仏教のイロハは学んだ。しかし、「このままでは新しい仏教は生み出せない」と思って外へ出ることを決意したのでしょう。当時心ある仏教者は山岳修行に出た。それがブームでもあったようです。

 マオは師事する勤操に「寺を出て修行したい」と話したと思います。勤操には新しい仏教創始を目指していることを語っていたはずです。理由を聞かれたなら、表向きの説明はした。しかし、寺が高利貸しのようなことをしていることは語らなかったと思います。そのおかげで修行僧が生きていけるのですから。

 私は語らなかった理由がもう一つあるのではないかと推理しました。それは「稚児を夜ごと床に呼び寄せるひそかな悪習」への嫌悪感です。これは空海の著書はもちろん史書にも見られないことで、全く私の虚構です。ただ、根拠がないわけではありません。

 どこからこんなエピソードを拾ってきたかと言うと、水上勉著『一休』です。
 児童書・テレビアニメで有名な「とんちの一休さん」こと一休宗純は室町時代に実在した禅宗の僧侶です。水上勉の『一休』は大人になってからの評伝で、飲酒・肉食、男色・女色なんでもありの破戒僧一休を描いています。

 私がひかれたのは一休その人よりむしろ作者の体験談でした。水上勉は十代初めの数年間小僧として禅寺に住み込んでいたことがあり、そのとき若い僧たちが男色に耽っている姿を目撃したことがあるそうです。
 空海を書こうと決めたとき、それを思い出し、僧の男色が現代にあり(と言っても水上氏の戦前の体験ですが)、室町時代にあったなら、きっと奈良時代にもあったに違いないと思いました。以前書いたように、人の感情は時代を問わないからです。

 史書にも一カ所だけ乱れた僧生活を伺わせる記述があります。
 延暦十七年(七九八、マオ二十四歳)七月二十八日の条に、「平城旧京には元来寺が多く、淫らな僧尼による濫行がしばしば発生している。正五位下右京大夫兼大和守藤原朝臣園人を起用して検察させよ」と。
 ここ原文では「元来多寺、僧尼猥多濫行」とあります。「猥」の字は「猥褻・卑猥」などで使われる漢字です。淫らでいやらしい乱行が多数発生しているから検察して正せと言うのです。乱れた実態の中に男色もあったのでは、と卑猥な想像をたくましくして私は小説に取り込みました(^_^;)。

 もっとも、ここでも出挙同様マオの嫌悪感は単純な潔癖主義・正義感の発露ではなかったろうと思っています。それは若い男なら、否応なくわき起こる性衝動だから。
 作品では以下のように描きました。
 マオはたまたま尼寺の法華寺を訪ねた。そのとき出迎えた妙齢の尼僧に、もやもやしたものを感じる。寺に戻って孝聖に話をすると、「実はひそかに逢瀬を重ねて男と女の関係になった僧尼もいるそうだ」と聞く。また、若い僧が夜ごと稚児を床に呼んでいるうわさも知る。
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 そのときマオは始めて聞く秘話に驚きを隠せなかった。その一方、なぜか股間が騒いだ。就寝前に稚児が目の前に現れたらと思うくらいである。もしも尼僧と恋に落ちたなら、抱きしめたい気持ちを制御できるだろうか。禁断の世界は二人を一層燃え上がらせるかもしれない。(略)
 その夜マオは法華寺の尼とひそかな関係になることを想像してなかなか寝付けなかった。もしもあの切れ長の目の尼と抱き合ったら、口を重ねたら、と思うだけで股間がそそり立った。そんなことは許されないと否定して別のことを考えようとする。だが、一物はなかなか静まらない。あの尼はナツメによく似ていたと改めて思った。
 悶々とする状態が一時間も続いたとき、ふとなぜこの感情を否定するのだろうと思った。これは否定しなければならない、よこしまな感情なのだろうか。
 稚児と同衾する行為は絶対に許されることではない。しかし、年寄りの僧ならいざ知らず、我らはまだ二十歳前後の若者ではないか。若い僧と若い尼が出会えば、恋に落ちても不思議ではない。そうなれば抱き合うことはもっと自然な感情ではないだろうか、などと考えた。
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 女性読者はこのような表現に対して嫌悪感を持つかもしれません。しかし、いやらしいことを想像して股間がそそり立つのは(いつの時代でも)生身の男の健康な姿です(^_^;)。
 これもまた人間空海を描くための表現でした。後年表に出てくるマオの旺盛な行動力は若い頃からあったに違いない。そこには当然性に対する感情とか、抑制できず悶々とすることだってあったはずと思っての描写です。

 あるいは、空海を敬愛・尊崇する方々も、このようなことを描く私を軽蔑なさるかもしれません。聖人空海に対する冒涜だとして。
 ならば、敢えて言います。もしもそう感じるなら、あなたは一体『理趣経』をどうとらえているのだろうかと。『理趣経』を唾棄すべきお経として否定するのでしょうか。『理趣経』こそ男と女の性愛を肯定しているではありませんか。

 これらの表現は空海が後年入唐して『理趣経』を見出し、感激して日本に持ち帰る伏線でもあります。もしも空海が「仏教における性」を全否定するような人間であったなら、彼は『理趣経』を日本に持ち帰ろうと考えなかったでしょう。逆に言うと、空海は日本にいたとき、すでに「性を肯定していた」と私は考えています(この件についてはいずれ語ります)。
 よって、引用部の後段に書いたように、マオは僧侶の性を否定しなかったのではないか。僧であろうが、何であろうが、マオはわき起こる性衝動を自然な感情として認めていたのではないかと思えるのです。

 ともあれ、このような流れを経てマオは山岳修行に乗り出すことになります。

 最後にもう一つ、当時の日本仏教最大の特徴である「鎮護国家仏教」について触れておきたいと思います。仏教が国を護り、民を安らかにするという考え方です。
 これは「南都仏教への失望」というより、「国家仏教への失望」として一項目立てるべきですが、ここに入れたいと思います。

 私がここで「空海は鎮護国家仏教に対して失望・反発があった」とまとめると、研究者各位から「空海ほど鎮護国家仏教を唱導した宗教家はいない」と言われそうです。
 後に下賜された東寺がやがて「教王護国寺」と呼ばれたように、あるいは、空海が国の危機に際してしばしば護摩を焚いているように、鎮護仏教は空海の思想であると見なされています。
 私が言いたいのは二十代初め頃の空海です。そのときの彼は鎮護国家仏教に対して失望していたのではないか。失望が言い過ぎなら、ある種異和感を覚え、新しい仏教創始に鎮護国家の意味合いを持たせることはできない――そう考えていたのではないかと私は思っています。

 ※ 護国仏教への異和感

 そのように推理する根拠ですが、ここも単純です(^.^)。マオが『三教指帰』の仏教編に「仏教は民を守り、国を平らかに安らかにする教えである」と書いていないからです。「仏教は儒教・道教の上をいく最高の教えである。私は仏教に進む」とは書かれている。しかし、仏教が国を護り、平和にするとは書いていません

 なおかつ仏教編を《仏教解説書》として読むと、なんとも平々凡々であることに気づきます。いずれは死して骸骨となる人の世の無常、六道輪廻、地獄。生きるにあたっての十善戒、八正道。そして、仏道修行によって悟りの境地に至る……などと説かれている。
 私は初めて『三教指帰』を読み、次に史書を読んだとき、空海の仏教解説に失望を覚えました。なんとも平凡な解説だったからです。

 作品全体としては儒教・道教・仏教を対比し、古書からの比喩や引用を散りばめた逸品であることに何ら異存はありません。しかし、こと仏教に限ると、現代数多くある「仏教入門書」の一種であり、仏教のイロハが書かれているに過ぎない。いわんや後年知ることになる密教の萌芽なぞ全く見られません。[追記――後に「密教の萌芽がある」ことに気づきますが、ここは改稿せずこのままとします]

 空海は「仏教の素晴らしさ」を力説しています。しかし、『続日本紀』・『日本後紀』を読めば、聖武天皇が国分寺・国分尼寺、東大寺を創建したころから今上桓武まで、朝廷は一貫して仏教の利益・功徳を民に説いていることがわかります。
 それら仏教を賛美する詔勅を読むと、「はて、空海は一体誰に対して仏教の素晴らしさを訴えたのだろうか」と疑問が湧くのです。

 まずは詔勅の一端を紹介します。《朝廷がいかに仏教を重んじたか》――その記述です。
 前号までに取り上げた仏教に関する勅令は主として僧侶や寺院に対する批判でした。話が複雑になるので、批判部のみ引用しましたが、同じ箇所には「仏教の素晴らしさ」も書かれています。

 たとえば、宝亀十一年(マオ六歳)一月二〇日の条は「僧侶は襟を正せ」との詔でした。その前段が以下。このときの「朕」は光仁天皇です。
・「朕は思うに、仁徳のある王が暦にある毎日を幸せな日々になるよう導けば、仏法の日々は常に清く、仏弟子たる君主が仏道を広めれば、人々が幸福になる風を長く吹かせることができるであろう。そして、ついには人と天とが相応じて、国家は安泰になり、死後の世界と現世も互いに調和して、鬼神が暴れることはなくなるであろう」とあります。
 天皇は仏弟子であり、仁徳ある王を目指す。結果人々は仏法によって幸福になり、国家も安泰となって死後の世界と現世は調和する。天皇は、朝廷は、仏教を信奉するとの言葉です。

 また、延暦十七年(マオ二十四歳)四月十五日の条は僧侶の勉強不足を批判し、得度試験を行うと決めた勅令です。その前段にも仏教礼賛の言葉が連なります。
・「西方のインドでおこった仏教は東方の日本へ伝わり、暗やみを照らす松明のごとく人を導き、船の楫のごとくありがたい教えである。この教えを弘め仏教の戒律が維持されるためには、真実の僧侶が必要である。世を済い人を教化する崇高な事業は、有徳の高僧の存在によって可能となる」と。

 年代は前後しますが、延暦十四年(マオ二十一歳)は七大寺の出挙を削減するかわりに水田百町が与えられた年です。この年同時に「梵釈寺」の創建が宣言されます。そのことについて触れた九月十五日の勅令が以下。
・「真実の教えである仏教には支えとなるものが伴うもので、それを興隆するのは国王である。万物の相状についての仏教の教えには限りがなく、その要諦を明らかにするのは僧侶である。(略)仏の果報とよき因縁を示しているところのこのうえなく勝れている仏教の教えを広めようと思っている」とあって梵釈寺が創建されるのです。

 さらに、後段には「願わくは、時が経過しても永く正しい仏教の教えを伝え、丘陵や渓谷の地形が変わるほどの時間が経っても、人々がこの寺を崇めることを。この寺院創建が良因となって、上は皇祖霊のいる宝界(浄土)が尊さを増し、下は仏教の教えが全国に及び、よく治まり、すべてが喜ばしくなろう。天皇の事業の基礎が永く固められ、代は永続し(略)内外共に安楽で冥界も現世も長く幸福となり、それがすべての人々に及び、慈しみの雲を見つつ迷いの世を出て、日光のような仏教の知恵を仰ぎ、悟りの道を進むことになろう」と仏教賛美、仏教広布の言葉が連なっています。

 文言をいくつか抜き出してみると、仏教は「ありがたい仏教、このうえなく勝れている仏教」であり、「暗やみを照らす松明」のような教えである。梵釈寺創建によって「宝界(浄土)が尊さを増し、下は仏教の教えが全国に及び、よく治まり、すべてが喜ばしく」なる。仏教によって「内外共に安楽で冥界も現世も長く幸福」となり、「慈しみの雲を見つつ迷いの世を出て、日光のような仏教の知恵を仰ぎ、悟りの道を進むことになろう」と言うのです。
 これらは仏教の内容をよく知った上で、仏教を尊崇していることを示しています。桓武朝廷が仏教を広布する決意を語り、人民に仏教を勧めている記述に他なりません。

 ここで、最初の疑問に戻ります。空海マオは『三教指帰』を通じて「仏教は儒教、道教の上をいく最高の教えである」と、一体誰に訴えたかったのだろうか。『三教指帰』が日本仏教黎明時代に書かれた書物なら、その意義はよくわかります。人々(朝廷)はいまだ仏教の価値を知らない、仏教を認めていない。よって、仏教の素晴らしさを世に訴えようと。
 ところが、『三教指帰』が公開された延暦十六年前後、朝廷は「仏教はこの上なくありがたく勝れた教えである」と盛んに述べているのです。
 もちろんそれらの狙いは「僧侶・寺院の腐敗、堕落ぶりを正すこと」にあります。ここで語られているのは「教えは正しく尊い。だが、人間が良くない」との主張です。

 余談ながらこの言い方は自由主義、民主主義、独裁主義、資本主義、共産主義など○○主義を主張する方々からよく聞かされる言葉に似ています。○○主義を標榜する国家が人民を抑圧している、あるいは、他国に戦争をしかけている。そのような状況を見て「○○主義そのものは正しい。だが、人間が使い方を誤っているんだ」と。とてもよく似ています(^.^)。

 それはさておき、もしもマオが『三教指帰』を手にして朝廷のお偉方に「私の本を読んでください。仏教の素晴らしさをうたい、人々に仏教を勧めています」と言ったら、どんな反応が返ってくるでしょうか。
 相手は「そんなことはわかっとる」と答えたのではないでしょうか。勅令の最終責任者である桓武天皇も当然そうおっしゃったでしょう。
「朕は仏教の素晴らしさをよく知っておる。我々は人々に仏教を勧め、国家安寧を願っておるんじゃ」と。

 そもそも国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」でした。天平十三年(七四一)に聖武天皇が「仏教による国家鎮護」を目的として各国に創建されたのです。奈良の東大寺は総国分寺、法華寺は総国分尼寺でもありました。朝廷は仏教によって国を治めようとしていたのです。

 マオが朝廷のこうした姿勢というか、仏教尊崇、護国仏教を知らないはずがありません。しかし、マオは『三教指帰』の仏教編で「仏教は国を護る」といった考えを全く述べていないのです。
 なぜ書かなかったかと言うと、マオにとって「新しい仏教が目指すものはそこではない」と考えたからだと思います。マオは空無について激論を交わしていた南都学問仏教をシカトしたように、鎮護国家仏教についても全く触れないことで、反発・異和感をほのめかしたのです。

 こうなると、『三教指帰』は全く別の側面と言うか、別の意義・価値を持っていると考えざるを得ません。つまり、「空海は儒道仏三教を比較して仏教の素晴らしさを力説した」などと、安易にまとめられるような著書ではないということです。

 以前書いたように空海マオは仏教入門後一年か二年で、儒教と仏教のみの『聾瞽指帰』草稿をまず作成した。次いで山岳修行に乗り出し、道教編を追加して『聾瞽指帰』は完成した。だが、巻物は筐底深く仕舞われた……。
 すぐに公開されなかった理由の一つが「新しい仏教が唱えられていない」からでしょう。これは公開しても仕方ない理由でもあります。マオが意図し、周囲から期待されたことが「新しい仏教創始」なら、それが書かれていないのですから。
 マオが仏教の素晴らしさを力説しても、朝廷は「そんなこたあお前に言われんでもようわかっとる」と冷たくあしらわれたに違いありません(^_^;)。

 それだけでなく、他に公開できない理由が二点ありました。
 以前解説したように、登場人物、特に儒教亀毛先生を戯画化した点が一つ。これは叔父阿刀の大足に「滑稽な儒学者を描きましたがよろしいですか」と許可を得ねばなりません。
 大足が許してくれたとしても、彼もまた『聾瞽指帰』仏教編に、新しい仏教像が何も描かれていないとわかれば、「全体は面白い。が、仏教はフツーじゃのう」と失望を露わにしたことでしょう。
 そうしたことが想像できるからこそ、マオは『聾瞽指帰』を没にしたのです。

 では、復活させた『三教指帰』の内容が『聾瞽指帰』とほぼ同じであるのに、それを公開できたのはなぜか。どう解釈できるのか。この点については後日といたします。

 そして、もう一点、最大の問題がありました。それはマオ自身三教を比較して仏教に進むと書いたけれど、本当に仏教に突き進むのか、それでいいのか、まだ決めかねていたことです。「理屈では仏教に突き進むことはもはや間違いないと思う。だが、心から進むかどうかいまだ確信が持てなかった」――私はこれが『聾瞽指帰』を没にした最大の理由であろうと推理しています。
 三点目の詳細はこれからとして、とにかくマオはこれらの課題を解決するため、寺を出て山岳修行に向かったと思われます。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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