四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 29

「山岳修行」その3


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第106 ―論文編 29号

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           原則月1回 配信 2016年 5月10日(火)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『杜子春(とししゅん)』・片目眇(かためすがめ)・役小角(えんのおづぬ)・役行者(えんのぎょうじゃ)・葛城(かつらぎ)・茅原(ちはら)・金峰山(きんぷせん)・使役(しえき)・讒言(ざんげん)・配流(はいる)・箕面(みのお)・入寂(にゅうじゃく)・光仁(こうにん)天皇・陰陽道(おんみょうどう)・神仙(しんせん)思想・『日本霊異記(りょういき)』・駿馬(しゅんめ)・先達(せんだつ)・汚(けが)れ・鬼魅(おばけ)・掌(たなごころ)・鉞(まさかり)・神奈備(かんなび)・磐座(いわくら)・『三教指帰(さんごうしいき)』
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 『空海マオの青春』論文編――第29「山岳修行」その3

 第29「山岳修行」その3――修験道

 突然ですが、みなさんは「仙人」なる言葉にどういうイメージをお持ちですか。
 私が思い浮かべる仙人像は立派なあごひげ、またはナマズひげを垂らし、白い着物を身につけたご老人です。よって、髪やヒゲは大概白い(^_^)。
 芥川龍之介の『杜子春』は貧乏な若者杜子春が仙人になろうとする物語です。そこに登場する仙人は白髪かどうか不明ながら「片目眇(すがめ)の老人」と書かれています。おそらく多くの人が「仙人は老人」とのイメージを抱かれているのではないかと思います。

 ここで素朴な疑問です。山水画や物語に登場する仙人はなぜ老人なのか。なぜ若者の仙人はいないのか。仙人とは不老不死のはず。なのに、なぜ年老いた仙人なのか(^.^)。

 私はこの答えを直ちに言うことができます。答えはこうです。
「仙人になるためには長く厳しい修行に耐えねばならない。何十年にもわたる修行に耐え抜いた者だけがようやく仙人になることができる。ゆえに、仙人になったときはすでに老人になっている」からであろうと(^_^)。
 そして、時間が巻き戻せないように、さすがの仙人も若者であったころに戻ることはできない。ゆえに、仙人は老人であると。
 杜子春が出会った仙人が「片目」だったのは厳しい修行の過程で目を一つ失った(かもしれない)ことをほのめかしています。

 さて、今の世の中で、どこかに仙人がいると信じ、修行を積めば仙人になれると信じて山岳修行に励む人がいるとは到底思えません。しかし、かつては仙人の存在を信じ、仙人になろうと修行に明け暮れる人がいたようです。空海マオが山岳修行に乗り出した頃は正にそのような時代だったろうと思います。

 日本で初めて仙人になったと伝えられる人物がいます。それは修験道の開祖と言われる役小角(えんのおづぬ)です。役行者とも、後に神変大菩薩とも呼ばれた実在の人です。

 役小角は西暦六三四年、大和国葛城上茅原(奈良県御所市)の生まれ(空海生誕の一四〇年前)。十七歳の時に奈良元興寺で孔雀明王の呪法を学ぶと、金剛山や熊野で山岳修行を続け、金峰山で金剛蔵王大権現を感得したと言われます。この来歴は日本の正統史書である『続日本紀』に書かれています(巻第一文武天皇三年六月二十六日条)。西暦では六九九年。

 さらに、その中には役小角が「呪術で賞賛されていた」とか「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり薪を採らせたりした」とあります。
 また、六九九年に人々を言葉で惑わしているとして讒言され、伊豆大島に配流となりました。そのときは島から海を歩いて渡って富士山に登ったと言われます。
 そして、二年後の大宝元年(七〇一年)一月、大赦によって茅原に帰り、同年六月七日、箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わります。享年六十八歳――ですが、『続日本紀』に没年の詳細は書かれていません。

 『続日本紀』の後半にある「小角は鬼神を使役することができた」との記述は六九九年当時の事実と言うより、『続日本紀』の執筆時――すなわち光仁天皇の在位期間である七七〇〜七八一年ころ――に伝えられていたことが掲載されたと考えられます。空海マオが山岳修行に乗り出したのは七九四年前後。つまり、小角の没後百年経った頃であり、伝承の年代から数えると十数年後です。

 役小角の仙人らしい伝説は奈良時代末期の仏教説話集『日本霊異記』の中にも書かれています。いわく、五色の雲に乗って仙人と遊んだ、岩窟で暮らし、葛の衣を着て松の実を食べた、清流で沐浴して不思議な力を得、自由に鬼神を使役したと。『日本霊異記』の成立年は明確ではないものの、だいたい平安時代初期と言われます。

 このころ日本宗教は習合がキーワードです。山岳修行とて例外ではなく、当時の山岳修行には古神道とも呼ばれる山岳信仰、陰陽道、神仙思想の道教、仏教などが習合していたと言われます(これは定説だと思われるので、深入りせず結論だけ拝借します)。
 よって今の修験道とは少々違います。推測するに、当時山岳修行の主流は仙人を目指す人たちではなかったか。時代は小角伝説の十数年後だから、小角は「実在した日本人仙人」として修行者羨望の伝説的存在だったのではないかと思います。

 今なら「鬼神を使役した」と聞いても一笑に付されるでしょう。しかし、当時は神の存在、仙人の存在が信じられた時代だから、仙人を目指す若者にとって小角は目指すべき仙人像だったと思われます。かくして役小角は修験道の開祖と目されています。

 空海は『三教指帰』道教編において虚亡隠士にもっと詳しく仙人像を語らせています(以下引用は福永光司訳)。
 仙人になれば「日中に影を無くし、夜なかに文字を書くことができる。地の底まで見透し、水の上を歩くことができ、鬼神を召使とし、竜馬駿馬を乗馬とし、刀を呑みこみ、火を呑みこみ、風を起こし雲を起こす。こういった神仙術もきっとできるようになり、いかなる願いもみなかなえられる」と。
 さらに、「神丹や練丹」の仙薬を服用すれば大空を飛翔でき、道術の修得によって「たちまち、老いた肉体を若がえらせ、白髪を黒ぐろとさせ、長生きし寿命を延ばし、(中略)とこしなえに生きることができる。上は青空を踏んで天翔り、下は太陽を足もとに眺めて思いのまま遊び歩く」ことができるというのです。

 余談ながら、ここには「老いた肉体を若がえらせ、白髪を黒ぐろとさせ」とあります。してみると、若者の仙人がいてもいいはず。なのに、(物の本には)あまり見かけないような気がしてなりません(^.^)。

 それはさておき、これらの言葉は空海マオが道教関係の書物から抜き出したことは間違いないでしょう。しかし、私はかなりの部分、彼が山岳修行で知り合った修行者達から聞いた言葉ではなかったかと考えています。

 と言うのは、マオが一人で金峰山とか石鎚山に登ったとは到底考えられません。現代でも初めて両山に登るなら、大概集団であり、必ず道案内としての先達がいる――それは奈良時代であろうが、平安時代であろうが、同じだったはずです。

 今と違って鉄道、バス・自動車があるわけではありません。奈良から全て徒歩で金峰山の麓に行ったであろうし、石鎚山まで行くには四国に渡らねばなりません。トータル数ヶ月はかかったでしょう。
 その間共に歩き、共に寝泊まりすれば、先達や同行諸氏の言葉をたくさん聞いたはずです。彼らは口角泡を飛ばさんばかりの熱意を持って仙人像を語ったと思います。
 マオが「仙人はいるのですか」と聞けば、「いるに決まっている」と答え、「仙人になれますか」と聞けば、「必ずなれる」と応じたに違いありません。
 彼ら修行者は仙人がいること、仙人になれることをみじんも疑っていなかったと思います。

 そして、「では仙人になるにはどうすればいいのですか」と聞けば、これにも答えが返ってくる。
 『三教指帰』の虚亡隠士は言います。「虫けらをも傷つけず、体にそなわったものは精液唾液も外に洩らさない。身は汚れから遠ざかり、心は貪欲を抱かず、目は遠く視ることをやめ、耳は久しく聞くことをせず、口は軽率な言葉を吐かず、舌は滋味をたしなまない。(中略)巨大な富も塵芥のように踏んづけ、帝王の地位にあっても靴をぬぎ捨てるように未練を持たない。たおやめを視ても鬼魅(おばけ)だと思い、高位高官を前にしても腐った鼠だと見なす。ひっそりと無為の境地に身をおき、心安らかに無事の生活を楽しみ、かくしてのち仙術を学べば、掌を指すように、容易にわがものとすることができるのである」と。

 もっと具体的には五穀を断ち、辛味を避け、酒は飲まず、豚肉魚肉を食べない。「みめうるわしき美女は生命を切る斧、音楽舞踊は年紀(よわい)を断つ鉞(まさかり)である」から避けねばならない。そして、これらのことさえできれば「仙術を修得することも甚だ容易である」と断言します。

 先ほど書いたように、当時の山岳修行には古神道、陰陽道、神仙思想の道教、仏教などが習合していたと考えられます。その中で空海マオが最も惹かれたのが神仙思想だったようです。『三教指帰』全体に八百万の神云々とか神奈備・磐座の言及はなく、陰陽道についても語られません。道教編として取り上げられた内容の多くも無為自然について詳しく説明するより、仙人像を語ることに主眼があるようです。要するに、空海は山岳修行(修験道)の中心部分として神仙思想――道教を見たのです。

 司馬遼太郎は『空海の風景』の中で『三教指帰』は「なぜ三教にしたのか、なぜ道教なのかわからない、儒仏の二教対比を書けば充分であったろうに」と述べています。
 司馬氏は『三教指帰』を論文としてとらえました。私は『三教指帰』を私小説的作品であると規定しました。
 論文として解釈する限り、「なぜ道教か、なぜ三教か」の答えを見いだせません。しかし、私小説ととらえれば、答えは直ちに出てきます。空海マオは山岳修験道の中に道教を見出した。そして、「これは面白い。儒仏二教にぜひ入れよう」と考えた。だから、二教を拡大して三教としたのです。

 では、空海マオは道教の何に惹かれたのか。さらに彼は道教と訣別して再び仏教に回帰します。それはなぜか――これらについては次号といたします。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前号において「自然は人に災いと苦しみ、悲しみをもたらします。日本には長らく自然を征服する科学、取りわけ地震学が発達しなかったと言われます。自然の猛威を目の前にすれば、ただただひれ伏すしかなく、征服しようなどと考えなかったのでしょう。〜科学万能のような現代においてさえ、雨が降らなければ雨乞いをするし、地震や噴火はいまだ予測できず、災害によって愛する人を亡くしても受け入れるしかありません。二千年前も一千年前も現代も、自然と日本人との関係はさほど変わっていないのではないでしょうか」と書きました。それが先月正に生起したので驚きました。四月十四日夜と十六日未明熊本で起こった大地震です。
 被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

 実は私も現在大分県の内陸に住んでいるので、最大時の震度5強を体験しました。これは人生初体験の激震でした。幸い実家の被害はなかったけれど、震度6を超えると家が倒壊したり、室内もぐちゃぐちゃになる――その違いがよくわかりました。

 日本は至る所に活断層が走っており、どこで大地震が起こってもおかしくないと言われます。ということは予知・防止など不可能だから、生起した後いかに受け入れ、克服して生きていけるか、その心構えが大切でしょう。
 最も大切なことは「自分の感情――辛さ、苦しさ、悲しさを、まずありのままに受け入れる」ことです。絶望していい、めそめそしていい、「こんなことなら死んだ方がましだ」と感じていい、前向きに生きられなくていいのです。前向きのエネルギーはこのようなマイナス感情を認めた方がより早く生み出されます。詳細はホームページの【般若心経講話】をご覧下さい。
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