四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 30

「山岳修行」その4


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第107 ―論文編 30号

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           原則月1回 配信 2016年 6月10日(金)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき)・蛭牙公子(しつがこうし)虚亡隠士(きょもういんし)・糟(かす)や糠(ぬか)・鬼魅(おばけ)・側隠(そくいん)の情・泡(うたかた)・財物(ざいぶつ)・傲慢(ごうまん)・「傲然箕踞、莞爾微笑」(ごうぜんききょ、かんじびしょう)・鼬(いたち)・兎角公(とかくこう)・朱典(しゅてん)・金峰山(きんぷせん)・石鎚山(いしづちやま)・仮名乞児(かめいこつじ)・求聞持法(ぐもんじほう)・鉄冠子(てっかんし)・峨眉山(がびさん)・森羅殿(しんらでん)・未練未釈(みれんみしゃく)・階(きざはし)・気色(けしき)・健気(けなげ)・筐底(きょうてい)
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 『空海マオの青春』論文編――第30「山岳修行」その4

 第30「山岳修行」その4  道教の魅力と失望

 司馬遼太郎は『空海の風景』の中で三教について次のように書いています。
「当時、儒教も仏教も日本に入っていた。しかし道教は入っていたかといえばむろん、その時に組織的に入っていたわけではなく、また後世においても入っていない。(略)にもかかわらず空海が儒教、道教、仏教の三教をならべてその優劣を論じたのは当時の日本の現実からみてややそらぞらしく、儒教と仏教とくらべるだけでいいのではないか」と論じ、「道教はなんの関係もない」とにべもなく断定しました。
 それでも、空海が道教を入れて三教とした理由を述べねばなりません。司馬氏は「空海がその美意識において均衡と装飾をよろこぶ本能のようなもの」であり、「空海における論理的なくせとしてつねに濃厚にあらわれる完全主義」ゆえであろうとまとめています。

 これでは空海が「道教」を取り上げたのは二つより三つの方が整ってバランスがいいと感じた――つまりは単なる思いつきであり、美的センスであったかのような解釈です。残念ながら司馬氏は「なぜ三教か」の問いに対して我々を納得させる答案を出してくれたとは思えません。点数を付ければ四十点くらいでしょうか(^_^;)。

 私は『三教指帰』は思想書ではなく《私小説》であるとの見方を提示しました。空海自身を仮託したのは私度僧「仮名乞児」だけでなく、放蕩の甥「蛭牙公子」も空海であること。その他登場人物に施された戯画化を取り除くと、すこぶるわかりやすい私小説になっており、そこに描かれたのは空海自身の思想遍歴である。よって、『三教指帰』は論文ではない、強いて言うなら《私小説的思想小説・私小説的戯曲》と呼ぶべきであると。

 このように『三教指帰』を私小説であると解釈すれば、儒教・仏教の他に道教が並入した理由はすこぶる単純です。マオは山岳修行――取りわけ修験道修行の中に《道教》を見出した、だから、儒教・仏教に追加して道教を取り込んだのです。

 ここで結論を先取りしてまとめておくと、儒仏の二教対比であった『聾瞽指帰』草稿に、道教を取り入れたのは思いつきどころか、マオにとって必要なものであり、必然であったと思います。
 空海マオは儒教から仏教に転進する際、一度は儒教を完全否定する必要があった。ところが、儒教と仏教の二経対比だけでは儒教を否定できなかった。仏教によって儒教を否定するには何かが足りない。マオはその足りないものを神仙思想――道教に見出したのです。

 思うに、マオは道教にも大いに惹きつけられたと思います。神仙思想を語る修行者の言葉に、儒教を否定できる武器を見出したのです。それは道教の代弁者「虚亡隠士」が語る次の言葉に読みとることができます(引用は福永光司訳)。

 虚亡隠士は言います。「秦の始皇帝、漢の武帝といった連中は、それこそ道教の世界における糟や糠みたいなものであり、仙術を愛する人間のなかの瓦や小石みたいなものである」と。
 また、「巨大な富も塵芥のように踏んづけ、帝王の地位にあっても靴をぬぎ捨てるように未練を持たない。たおやめを視ても鬼魅(おばけ)だと思い、高位高官を前にしても腐った鼠だと見なす」とも言います。始皇帝、武帝は糟や糠、瓦や小石であり、高位高官は腐った鼠だと言うのです。

 これらはマオが山岳修行の最中、修験者から実際に聞いた言葉ではないかと私は想像しています。
 始皇帝や武帝の話を日本に当てはめると、「天皇は糟や糠であり、瓦や小石みたいなものである」と言っているのと同じことです。君主を糟や糠、瓦や小石みたいなものと言い切る強さ。それは仁義忠孝を学び身体の芯から儒教に染まったマオには決して口にできない言葉だったでしょう。

 南都仏教も朝廷の支配下にあって桓武帝にひれ伏し、勅令に逆らうことはできません。そもそも鎮護国家仏教であり、体制下の宗教です。後年僧兵を抱え武装化する仏教など想像だにできないほど穏やかな仏教界だったと思われます。

 また、儒教のキーワードは仁義忠孝であり、根本にあるのは《側隠の情》です。側隠の情とは弱い者、傷ついた人をいたましく思って同情する心です。それは仏教の根本である《慈悲》――生きとし生けるもの全てを慈しむ心――ととてもよく似ています。感情面から見ると、仏教から儒教を否定するのは難しいのです。
 ところが、山岳修行に励む道教信奉者は儒教の忠義をいともたやすく否定する、マオはそう感じたでしょう。

 マオに限らず、多くの庶民だって「帝は糟や糠、高位高官は腐った鼠」と言える人がそうそういたとは考えられません。現代なら「大臣なんぞ腐ったネズミだ」と言える人はかなりいるでしょう。ときに暴言や賄賂・口利きなどネズミでしかない議員・大臣さんが輩出されますから(^.^)。
 と同時に、地元のために奮闘する議員さん、天下の大臣を目の前にすれば、ひれ伏すかのように敬意を表す人も多いはずです。象徴天皇となった現代、災害が起こると被災地を見舞う天皇に対して「天皇は糟や糠」と言える人はほとんどいないのではないでしょうか。

 ところが、世のしがらみを離れ、山野にこもって仙人を目指す修験者(道教信者)たちは君主を糟や糠と言い切れる。それはおそらくマオにとって驚嘆の言葉であり、彼自身に欠けていた《強さ》であり、何事にもとらわれない《自由》だったと思います。

 彼らはまた日々の暮らしに追われる庶民についても語っています。
 虚亡隠士は「朝夕の食事のためにあくせくし、夏冬の衣服のために追いまわされ、浮き雲のように定めない富をこいねがい、泡(うたかた)のように空しい財物を蓄えこみ、身のほど知らぬ幸せを追い求め、稲妻のようにはかないこの身をいとおしんでいる」と批判します。人々はわずかな悲しみに振り回され、「泥にまみれ火の中に落ちたようにもがき苦」しんでいると。

 この言葉、まるで現代の我らについて語っているかのようです。我々もまた朝夕の食事と衣服や住みかのためにかつかつの日々を送り、定めない富をこい願って宝くじを買うのでしょう(^_^;)。
 ただ、虚亡隠士の言葉は庶民に対して《何をあくせく苦しんでいるのだ。仙人になれば願いは全てかなうのに》と言わんばかりの気持ちが感じ取れます。

 そして、これらの言葉に、空海マオが道教に失望した理由がにじみ出ています
 マオは修験道の修行者達――仙人を目指して苦行に耐えている人たちの強さと自由に驚くと同時に、異和感も覚えたはず。その核心を表す言葉が「傲慢」です。強さはしばしば尊大さ、傲慢につながります。

 虚亡隠士が儒教論客亀毛先生の弁論を聞き終え、やおら語り始めたときの様子は以下のように描かれます。
 彼は乱れた頭髪、ぼろぼろの衣服をまとっている。つまり、普段着であり、髪を整えることなく外見を気にしない。
 そして、「傲然箕踞、莞爾微笑」(傲然と箕踞し、莞爾微笑)してしゃべり始めます。

 傲然とは傲慢、箕距はあぐらをかいて座ること、莞爾も微笑も微笑みを意味します。傲然とあぐらをかいて座り、莞爾微笑して道教について語り始めるのです。

 この「莞爾微笑」はどう口語訳されるべきか。福永光司氏はこの一文を「どっかとあぐらをかき、にっこりとほほえみ、唇を開き頬をゆるめて」と訳しています。

 確かに「莞爾として笑う」は「にこやかな様子で笑う」と訳されるのが普通です。
 しかし、私はこの部分「穏やかで暖かな微笑み」ではなく、「薄ら笑い」であり「人をバカにしたかのような笑み」ではないかと思います。それは「傲然」の語があるだけでなく、虚亡が亀毛先生について語る言葉の端々に読みとれる感情です。

 虚亡隠士は蛭牙公子に説教した亀毛先生に対して次のように言います。
「ああ、おかしなものだ。そなたの病人に対する薬の与え方は。(略)竜ならぬ小さな蛇、虎とは似てもつかぬ鼬(いたち)を見るお粗末さだ。どうしておのれ自身の重病を癒しもせず、たかが他人の足の腫れやまいぐらいをむやみとあばきたてるのだ」と。
 亀毛先生はそれを聞いて狼狽し「私は兎角公に言われてしゃべっただけです。軽率でした」と情けない言葉を吐きます。

 これは亀毛が虚亡隠士の自信に満ちた態度、口調――強さに圧倒された様子を描いています。私には単なる想像上の描写とは思えません。マオが出会った仙人を目指す修行者達の《強い人間》像、それがそのまま描かれているように感じます。
 彼らは君主は糟や糠であり、高位高官は鼠だと言う。おそらく儒教についても「小さな蛇であり、イタチだ」と言わんばかりに「お粗末な理論だ、くだらん」と言い切ったのではないでしょうか。

 強さはときに傲慢と紙一重です。山野で修行を続ける仙人志願者は確かに強い、何ものにもとらわれず自由だ。だが、マオはその内心に傲慢を見たのです。苦しい生産活動を続ける庶民に対する軽蔑の視線さえ感じ取ったと思います。彼らは庶民に「なにをあくせく苦しんでいるのだ。仙人になれば全てかなうのに」と言い切ったでしょう。
 マオは異和感を覚えたと思います。「この強さは自分に必要だ。しかし、この傲慢さにはついていけない」と感じたのではないでしょうか。

 拙著『空海マオの青春』の中で、私は修験道の友人として「朱典」なる若者を造形しました。
 朱典はマオの大学時代の友人として修験道に惹かれ、先に退学して仙人になるべく山岳修行に励んでいる。その後マオが寺院を離れて山岳修行に乗り出すことを決めたとき、たまたま彼と再会して金峰山や石鎚山の山行登拝を共にするという設定です。朱典の自信に満ちた態度や「仙人になれば全てかなう」といったところは虚亡隠士の人物像を投影しました。

 そして、空海マオは修行者に失望するだけでなく、修験道修行にも失望したことがわかります。失望をほのめかす言葉もとてもシンプルでした。

 『三教指帰』仏教編において仮名乞児は金峰山、石鎚山に登った体験を次のように振り返ります。
「あるときは金の嶽に登って雪に降られ難渋し、あるときは石鎚山に登頂して食糧が絶え散々な目にあった」と。
 マオは二度の山行登拝をいやな思い出として回顧しています。求聞持法百万遍修行を終えての言葉「谷響きを惜しまず、明星来影す」に比べたら、その差は歴然。

 今と違って車や電車があるわけではありません。二度の山行は全て歩いたことでしょう。奈良から金峰山までは数日の日程としても、四国に渡って石鎚山の麓に着くには最低でも数週間かかったはず。金峰山では西の覗きに東の覗き、断崖絶壁をよじ登り、蟻の戸渡りという狭い岸壁を怖々登ったはずです。おそらく秋の終わりころでしょう、雪が降った。足元はすべっただろうし、寒くて怖かったと思います。

 また、石鎚山は三つの山の総称です。当時ロープウェイはありません(^.^)。麓から歩き始めて三山を踏破するのに一体何日かかったことか。石鎚山は今でも遭難者が出るほど厳しく険しい山だそうです。先達が道を間違え山中をさまよったのでしょう、食糧が絶えて往生したというのです。
 空海マオはそれを「難渋した、散々な目にあった」とまとめます。二度の山行登拝は失望に終わった――それは道教への失望も意味したと思います。

 マオは神仙思想に傾倒できなかった。冷静に考え、「ほんとうに仙人になれるのだろうか」と問うたとき、仙人になれるとは思えなかったのでしょう。

 芥川龍之介作『杜子春』の中で、仙人を目指す杜子春は老仙人(鉄冠子)から「仙人になりたければ、何があってもしゃべるな」との課題を出されます。それを成し遂げたときには「仙人になれる」というわけです。
 杜子春は高峰峨眉山に連れて行かれ、虎や大蛇に襲われ、天の神に突き殺されても一切口を利きません。とうとう死んで地獄に堕ち、閻魔大王から「なぜ峨眉山にいたのか」と聞かれても言いつけを固く守り、地獄の責め苦を受けても沈黙し続けます。
 怒った閻魔大王は畜生道に落ちて馬となった父母を連れ出し、「しゃべらなければ、お前の父母を痛い目にあわせるぞ」と言います。それでも杜子春は答えません。
 ここから先は私の好きな部分でもあるので、原文をそのまま引用したいと思います(^_^)。閻魔大王は言います。
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「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」
 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、ところ嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は――畜生になった父母は、苦しそうに身をもだえて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程いななき立てました。
 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答えを促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階(きざはし)の前へ、倒れ伏していたのです。
 杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。 「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」
 それは確かに懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、うらむ気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。
 杜子春は老人の戒めも忘れて、まろぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の首を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「おっかさん」と一声を叫びました。…………
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 空海マオは杜子春のように仙人になろうと思って修験道に乗り出したわけではありません。しかし、心情を比較すれば、マオは杜子春のように父母を捨てられない若者だったのではないかと思います。
 『三教指帰』仏教編に次のような言葉があります。
「月日は矢のように遠く過ぎ去って、余命いくばくもない親をおびやかし、わが家の資産は乏しくて、家屋は倒壊しかけている。二人の兄はつぎつぎに世を去って、涙は幾すじも頬にあふれおち、親族はみな貧しくて、わが心は涙にかきくれる。〜略〜退いて沈黙を守ろうとしても、わたくしの俸禄に期待する年老いた親がいる。わが身の進退のここに窮まったのを嘆き、居ても立ってもいられぬといううろたえに心は乱される」と。

 家族について語ったこの部分には少々誇張が感じられます。故郷讃岐の実家は郡司だし、親戚阿刀家も都で石高二千石の名家です。しかし、都の大学寮に進んだマオを見る目や期待――それはここに書かれているとおりだったろうと思います。
 マオはそうした周囲の気持ちを振り切って何事にもとらわれず、自由に生きて仙人になろうと思えなかったのでしょう。ひたすら仙人を目指し、父母や親族のことなど気にかけない修験者に対してマオは「自分は彼らのようには生きられない」と感じたに違いありません。

 かくしてマオは再び仏教に戻ります。儒教と仏教を対比した『聾瞽指帰草稿』に、山岳修行より見出した道教を付け加えて儒教を否定する。その上で仏教に戻り、南都学問仏教でも鎮護国家仏教でもない、仏教の原点を重視する『聾瞽指帰』を完成させました。

 マオは作品の最後に「仏教こそ最上」と書きました。しかしながら、新仏教のかけらも見いだせない作品を公開するほど、彼は厚顔無恥(無知?)ではなかった。「作品は完成した。だが、まだ何かが足りない、新しい仏教がない」と感じた。だからこそ『聾瞽指帰』は筐底深く仕舞われました。
 そこで、全く未知の世界に誘ってくれる山岳修行として「求聞持法百万遍修行」をやってみようと思うに至ったのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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