四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 32

「仏教回帰」その2


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第109 ―論文編 32号

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           原則月1回 配信 2016年10月10日(月)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『往生要集(おうじょうようしゅう)』・鵯越(ひよどりごえ)・『仁勢物語』(にせものがたり、江戸時代の作品、作者未詳。『伊勢物語』全段を一言一句対照させた緻密なパロディー作品)・邪(よこしま)な・麗(うるわ)しく・媚(こ)びを湛(たた)え・剃刀(かみそり)・欺(あざむ)く・厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)・阿修羅(あしゅら)・殺生(せっしょう)・梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・吉祥天(きっしょうてん)・韋駄天(いだてん)・現世利益(げんぜりやく)・天人五衰(てんにんごすい)・兆(きざ)し・披瀝(ひれき)・諫(いさ)める
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*********************** 空海マオの青春論文編 *********************************

 『空海マオの青春』論文編――第32「仏教回帰」その2

 第32「仏教回帰」その2  六道・輪廻転生について

 前号にて予告したように、今号は空海マオが説く仏説後半――地獄に続いて「涅槃に至る極楽」を解説する予定でした。
 が、ちょっと気が変わりました(^_^;)。マオがまとめた仏説を深く理解するには、六道・輪廻転生についてもっと知っておいた方がいいだろうと思ったからです。そこで、もう少々地獄・六道について補足いたします。

 余談ながら、私はかつて高校の国語教員でした。ゆるやかな時代でしたから、しばしば自主教材を作成して授業をしたものです。と言うのは、教科書に載っている作品は基本高尚なものが多く、インパクトある面白い作品を生徒に紹介したかったからです。古典の場合は《古文の面白作品》と題していくつか取り上げました。

 たとえば、『古事記』冒頭「国産み」の物語(日本最初のセックス描写がある(^_^)、『万葉集』より「貧窮問答歌」(今も昔も生きるはつらい(-_-;)、源信作『往生要集』の一節、『平家物語』より「鵯越の闘い」(義経ら人馬が崖を駆け下る描写は迫力満点)、『仁勢物語』の一段・六段(「おかし男」のパロディ)などなど。

 そして、『往生要集』より取り上げたのが「死の九相図」と地獄の一節です。九相図は絵も付けて紹介しました。さすがに女子生徒はいやな顔を見せ、男子生徒は度肝を抜かれていました。『三教指帰』の中で兎角公・亀毛先生等が「恐れおののいて気を失い、あるいは悲しみにうちひしがれて気絶する」ほどの衝撃を受けたのと同じように。

 生徒に紹介した地獄の一節とは前号でも引用した「剣山刀樹の山に追いやられる話」です。この詳細ご存じでない方が多いかも知れません。なので、もう少し詳しく紹介します。
 実は剣山刀樹の話は、刀剣の山に登らされて血だらけになるだけの責め苦ではありません。もっと奥深いのです。

 まず、剣山刀樹の罪人ですが、「現世で女性に対して邪(よこしま)な欲情を持った男」とされます。彼は地獄に堕ちると、鬼たちから剣や刀の木が生えた山に追い立てられます。
 原文(は漢文なので口語訳)は以下の通りです。
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 また、地獄の鬼は罪人を捕えて刀葉の林に置く。木の頂上を見ると、みめ麗しくきらびやかに装った女がいる。罪人はこの女に気がつき、すぐに木を上る。すると、木の葉は刀のように罪人の身体の肉を切りさき、筋を割く。こうして身体の全てをずたずたに切り割いた後、ようやく樹上に登ることができる。そして、かの女を求めるが、そこに女はいない。
 女は地上に立ち、媚びを湛え、欲情に満ちた眼差しをもって罪人を見あげてこう言う。「わたしはあなたを恋しさのあまりここに来ました。なぜわたしのそばに来てくれないの。どうして抱いて下さらないの」と。
 罪人は女を見ると、欲情が火のように燃えあがり、再び木を降りて行く。すると、剃刀のように鋭い刀葉は全て上向きに生え替わる。罪人は前のように身体の全てを残す所なく切り割かれ、やっと地上に降り立つ。だが、そこに女はいず、またも樹上にいて男を呼び招く。罪人は女を見ると、たまらず木を登って行く……。
 こうして無量百千億年の間、自分の心に欺かれ、地獄の中でぐるぐるめぐり、このように焼かれるのである。これは邪な欲情がその因である。(『往生要集』より)
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 読めば単純でないことがわかると思います。地獄に堕ちた男どもは鋭利な刀剣の木が生えた山に追い立てられる。ところが、刀剣の樹上には絶世の美女が座って男を手招きしているのです。「こっちにいらっしゃい。私と一緒に楽しいことしましょう」てな感じで(^.^)。

 男は欲情にかられ、やもたてもたまらず木を登っていきます。すると、刀剣の枝は切っ先が下向きになって男に突き刺さり、身体を引き裂きます。男は痛さに叫び血を流しながらも、女を自分のものにしたいという欲情に抗しきれず、木を登っていく。
 ようやく樹上にたどり着いたと思ったら、そこに女はいない。ふと下を見ると、女は地面に立ってまた手招きする。「どうして来てくれないの。早く降りてきて私を抱いてくださいな」と。

 樹上の男はやはり女を抱きたいと思って木を降りてゆく。すると、刀剣の枝は切っ先が全て上向きになってまたも男をずたずたに切り裂く。男は痛みに叫び、血だらけになりながら木を降り、やっと地面に立つ。だが、またもそこに女はいない。見上げると再び樹上から男を手招きしている……この繰り返しが続くというのです。
 鬼どもは仕事をしていません。刀樹を登れと追い立てる必要もない。人間が自ら進んで登ってくれるのです。

 「邪な欲情」とは今で言うなら、浮気に不倫が代表例でしょうか。もっとひどい強姦、ストーカーもあります。一夫一婦制が正しいかどうかはさておき、とにかく「邪な欲情」から生み出された男女関係なのでしょう。「そんなことをしたら身の破滅だ」とわかっていても、男は欲に抗しきれず女に迫る。刀樹を登らせるのは自らの欲情なのです。しかも、女を抱きたいという思いは決して叶うことがない。何とも「深くて怖いい話」ではありませんか(^.^)。

 次に六道について。

 六道とは人が死んで生まれ変わる「天・修羅・地獄・餓鬼・畜生・人」の六つの世界を言います。車輪がぐるぐる回るように、人はこの六つの世界を生まれ変わっているというのです。『三教指帰』では餓鬼道・畜生道・修羅道について詳しく触れていません。なので、ここで再度六道全体を眺めておこうと思います。

 最初に誤解なきよう言っておきたいのは六道の中の「天」は「極楽」のことではありません。仏説の「極楽」とは六道の外に――と言うか、六道を超越した世界としてあります。
 極楽に迷いはないけれど、六道は全て「迷いの世界」であり、厭離穢土、欣求浄土の言葉が示すように、六道は汚れた世であるから、浄土を希求すべきだと言います。
 人間界を起点として極楽と六道の上下関係を図示すると、以下のようになります。

 《極楽》
  ↑[六道を脱して極楽・浄土へ]
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 《六道》[迷いの世界]
 1 天界
   ↑
 2 人間[人間界以下の五道を「欲界」と言う]
   ↓
 3 修羅
 4 畜生
 5 餓鬼
 6 地獄
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 人は死ぬと三途の川を渡って閻魔大王の裁きを受けます。生前犯した罪の軽重に応じて墜ちる世界が《三悪趣》と言われる「畜生道・餓鬼道・地獄道」です。罪が軽ければ畜生道、中くらいなら餓鬼道、最も罪深い者が地獄に落とされます。

 まず修羅界について。
3 修羅……奈良興福寺の阿修羅像が有名です。阿修羅(アスラー)とは本来ヒンドゥー教において帝釈天と闘う悪神でした。それが仏教に採り入れられて仏法の守護者となりました。生前妄執によって苦しみ、争いの果てに悪業を負った者が死後阿修羅として生まれ変わります。
 阿修羅は常に闘う心を持ち、闘いに明け暮れ、心休まることがありません。また、一度として勝つことがなく、ひたすら負け続けます。それでもなお闘う。闘い続け、負け続けて一生を終えます。

4 畜生道……生前愚痴や不平が多く感謝することの少ない者が、死後牛や馬など人に使役される動物として生まれ変わります。食べることと眠ることしか休息はなく、むちで打たれ、ひたすら働かされて一生を終えます。

5 餓鬼道……生前物惜しみをして嫉妬・羨望が強く、貪欲な行為をした者が死んで生まれ変わります。がりがりに痩せて腹がふくらんだ餓鬼は道の傍らにいて常に飢えと渇きに苦しみ、水や食べ物を求めてさまよっています。だが、食べ物や飲物を手に取った瞬間それは火に変わります。それゆえ、決して満たされることがないまま一生を終えます。

6 地獄道……最も罪の重い者が地獄に堕ちます。地獄には焦熱地獄、極寒地獄、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあり、無限とも思える長い間責め苦を受けねばなりません。それでも服役を終えると、再びこの世界に生まれ変わります。

 余談ながら先日某テレビ局の番組で興福寺の阿修羅像について語られていました。阿修羅像は正面から見ると悲しい顔をしているように見えます。「それは闘いをやめた」姿だと解説していたので、あれっと思いました。私はその解釈間違っていると思います。
 阿修羅は一生闘いをやめることができません。あの顔は戦い続けることの悲しさを表現しているのだと思います。

 犯した罪悪によって人は畜生、餓鬼、地獄に生まれ変わります。仏説によると、人は生まれ変わった世界で反省したり、心を入れ替えることがありません。つまり、「私が悪かった。二度と悪いことはしないので助けてください」と言うことはないのです(言っても聞いてくれないようですし)。剣山刀樹の例を見ればわかるでしょう。剣の山に登る罪人は自ら進んで登っています。痛い目にあうとわかっていても、欲に駆られて登り続け、降り続けるのです。

 生前闘うこと、争うことを生き甲斐のようにしてきた人間が「ならば死後は阿修羅に生まれ変わって一生闘い続けなさい」と判決が下されて阿修羅に生まれ変わります。よって、阿修羅は反省することなくただひたすら戦い続けます。
 また、阿修羅像は細い腕と身体、とてもひ弱な肉体の持ち主として造形されています。筋肉隆々の金剛力士像と比較すれば、とても戦士とは思えません。つまり、「阿修羅よ。あなたは闘うような存在ではないのですよ」と言っているのです。

 人間同士が闘う現実の戦争において負けた方が大きく傷つくなら、勝った方だって(その瞬間は戦勝に湧いたとしても)後日辛い傷を負っていたことに気がつきます。戦争を行っても真の意味で勝者は存在しない。なのに人よ、どうして戦い続けるのか、その愚かさと悲しみに気づいてほしい――そのような思いから阿修羅像は悲しい顔をしているのだと思います。

 最後に六道の最上部に位置する天界・天道について

 修羅道、三悪趣が罪深き人間が堕ちる世界なら、できれば生まれ変わりたい世界が天界です。
 天界は花々が咲き誇り、穏やかな気候で、まるで極楽かと思えます。そこに暮らす天人はみな長寿であり、人間の一年を一日として五百年から数千年も生きる。また、空を飛ぶなど神通力も持っている。天界は快楽に満ちており、苦しみの素がないというのです。うーん、天人に生まれ変わりたい(^.^)。

 ではどのような人間であれば天界に生まれ変わることができるのでしょう。いろいろネット資料をあさってみましたが、いまだその答えを得ることができません。

 ただ、悪行を犯した人間は当然のように下に堕ちるでしょう。仏教で言う悪行とは現実の法律違反を犯しているかどうかではありません。端的に言って「殺生」(生き物を殺すこと)・「妄語」(うそをつくこと)は仏教において重大な犯罪です。
 ところが、我ら人間で蝿・蚊・ゴキブリなど小動物を殺したことのない人はいないでしょう。牛肉・豚肉・鶏肉・魚肉を食べたことのない人もいないはずです。
「私は牛、豚、鶏を殺したことはありません」と言うかもしれません。しかし、誰かが殺してくれた動物の肉を買い求めて食べています。法律では金を渡して誰かを殺してくれと頼んだ者は実行犯以上の刑罰を受けます。
 屠殺場で毎日食用動物を殺す仕事をしている人がいます。「あなたは地獄に堕ちてください。私は肉を食べているだけで罪はありません」と閻魔様に言ったなら、閻魔は怒りの形相をもって断罪するでしょう。「お前こそ地獄に堕ちよ。だが、屠殺人は罪一等を減じて畜生道とする」と。
 また、生まれてこの方うそをついたことのない人も皆無だと思います。誰かと争ったことのない人もいないでしょう。

 よって、我ら人間は死ねば下に堕ちて修羅か畜生か餓鬼か地獄に生まれ変わること間違いありません。なのに、仏教では長寿・快適な天界を設定してそこに生まれ変わることがあるとしているのです。
 一体どういう人間だったら、天界に生まれ変わることができるのか。この答えは天界の住人を検討してみれば推測できます。

 そもそも天人や神々が住む世界を天界と呼んでいますが、彼らは基本的に仏教の守護神です。以前は仏教以外の神々であった。それが仏教に取り入れられて守護神となったのです。
 具体的には「梵天、帝釈天、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天=毘沙門天)、吉祥天、弁才天、鬼子母神、大黒天、竜王、夜叉、聖天、金剛力士、韋駄天、天龍八部衆、十二神将、二十八部衆」などです。
 これら天人は全て仏教・仏法を守る神々であり、七福神に代表されるように、人間に現世利益をもたらしてくれるありがたい神々です。阿修羅は当初天界に住んでいました。穏やかで争いのない天界にはふさわしくないとされたのでしょうか、修羅界に追いやられたようです。

 ということは天人に生まれ変わりたいなら、仏教を信奉し守り広めることでしょう。そうすれば、その功績によって閻魔様から「天界に生まれ変わることを許す」と言われるのかもしれません。

 しかし、この天界、前述したように極楽世界ではありません。あくまで六道の一つであり、迷いの世界であると言います。それはなぜか。
 まず数千年生きると言っても、天人は不死ではありません。やがて年老いて「天人五衰」という兆しが現れ、死を迎えます。初めは体が垢にまみれて悪臭を放つようになる。脇から大量の汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭上に咲いていた花がしぼんでしまうというのです。

 天人としての一生が苦もなく快楽に満ちていただけに、それがなくなるかと思えば、不安感と恐怖はいかばかりか。たとえて言うなら、貧乏人がわずかな全財産を泥棒に盗られてもあまり痛みは感じないけれど、お金持ちが全財産を失ったら、ものすごい痛み、苦しみを感じるでしょう。そのように天人に死が近づいたときの苦痛は地獄の責め苦の十数倍にもなるとか。人が生老病死の苦を持つように、天人もまた同じ苦を持つというのです。
 かくして天人も死を迎え、三途の川を渡って閻魔大王の裁きを受けます。その罪業(などないように思えるのですが)に応じて人間界から地獄まで五道のいずれかに生まれ変わるのです。もしも生まれ変わる前の記憶を持っていたら、元天人は人間界を最悪の世界だと感じるでしょう。

 私は六道の中で天道と修羅界が最も不可解でした。天人は七福神に代表されるように人の御利益のために活動している存在です。なのに、天界は極楽ではない、六道――すなわち迷える世界の一つと言うからです。
 最近ようやくこの不可解さを解く理屈を思いつきました。これ私が見いだしたものか、すでに誰かが言っていることかわかりません。取りあえず我が解釈を披瀝したいと思います(^_^)。

 注意したいのは天界の神々も阿修羅も「仏法の守護者」と見なされていることです。六道は当初五道(五界)であり、阿修羅は天界に入っていました。それが独立して修羅道となり、合わせて六道となったのです。
 彼らは仏教を守り、仏説を広めています。阿修羅など仏教のためにひたすら戦い続ける存在なのです。ところが、天界も修羅界も《人が生まれ変わる世界として良いこと》とはされていない。
 と言うことは仏教を守って闘うこと、仏教は御利益があると人々にすすめ、大いに広めること――それさえも迷いの世界であり、それだけでは極楽ではない、極楽には行けないと言っていることになります。一般的には「仏教を守って闘う者は極楽に行けるぞ」と信者に言うでしょう。

 某宗教の原理主義者は「我らが宗教・宗派を守り、無知蒙昧の民に布教せよ。他宗・他宗派が攻撃して来れば闘え。敵をせん滅するまで闘え。死ねば天国に行けるぞ」と言って自爆テロを強要しています。信者はその言葉を信じて爆弾を身に巻き付け人混みの中に入ります。

 かつては仏教も武器を持って時の権力と闘い、他宗教・宗派間で殺し合ったことがあります。彼らにとってそれは仏教を広め、守るための闘いだったでしょう。だが、それは修羅道であり、迷いの世界であると言うのです。阿修羅は当初天界に住んでいたけれど、独立して修羅道となりました。これは何を意味するか。それは仏教のために武器を持って闘うこと、慈悲の心と真逆の敵を殺したり、争うことは仏教の求める姿ではないと言っているのではないでしょうか。むしろそうなりがちな仏教信者に対して諫める言葉、戒める言葉ではないかと思います。

 要するに、仏教弘布に尽くす者も、仏教のために武器を持って闘う者も、閻魔大王の裁きを受けて地獄に堕ちることがある――そう説いているのなら、仏教とはなんと奥深い宗教なんだろうと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本文中地獄や六道の解説に際して引用媒体を書いていませんが、ネット事典――特にウィキペディアを参照したことを報告いたします。
 さて、今年の夏は連続の大雨とか日照りがあり、台風が東北・北海道に上陸するなど、異常気象の連続でした。私が暮らすところは三度台風がかすったけれど、大きな被害はなく稲の刈り入れなど無事終わったようです。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
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