四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 39

「百万遍修行」その1


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第116 ―論文編 39号

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           原則月1回 配信 2017年 6月10日(土)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・求聞持(ぐもんじ)法・聾瞽指帰(ろうこしいき)・三教指帰(さんごうしいき)・六国史(りっこくし)・虚空蔵聞持(こくうぞうもんじ)・大聖(たいせい)・太龍岳(たいりゅうだけ)・勤念(ごんねん)・先達(せんだつ)
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 『空海マオの青春』論文編――第39「百万遍修行」その1

 第39「百万遍修行」その1――求聞持法百万遍修行について

 いよいよ本号より、空海マオが体験した「求聞持法百万遍修行」について探求を始めます。それはマオにとって新しい仏教を求め、行き詰まった自身を打開する試みでもありました。

 その前に一つ断っておきたいことがあります。これからはたとえて言うなら、カンボジアのアンコールワットで遺跡を求めて密林に分け入るようなものです。
 ジャングルのはるか先には廃墟となった寺院の尖塔が見えている(とします)。しかし、そこまでたどり着くにはどう歩いたらいいか、方位計はなく道しるべもありません。

 これまでは『聾瞽指帰』――改題『三教指帰』という大きな道標がありました。また、「六国史」も傍証として大いに利用できました。
 しかし、今後空海マオという密林の先に見えている尖塔は二つだけ。一つは二十三歳の暮れに『三教指帰』を完成させたこと、もう一つはその七年後遣唐使船に乗って唐へ旅立った――その事実のみです。

 一体百万遍修行とはどのようなものであったのか。その実態、何を獲得したのか、何を失ったのか。残念ながら『三教指帰』の序文以外、全く資料がありません。二つ目の遣唐使船に乗るに至った事情に関しても(私は遣唐僧ではなかったとの説に賛同)完全なる密林の中です。

 空海は唐より帰国後大量の文書をものしながら、自身の二十代について書き残す気持ちはなかったようです。『三教指帰』は儒道仏の三教比較論であり、同時に戯画化が施された私小説でもありました。ならば、自身密教に到達した思索過程を執筆しても良さそうなものです。
 あるいは、本当は書き残した。しかし「決して公にするな」とでも遺言があったか。死海文書ならぬ「空海文書」が秘匿されているかもしれません(^_^)。

 それはさておき、まずは二度の求聞持法百万遍修行について『三教指帰』に書かれた記述を紹介しておきます(福永光司氏の口語訳を参考に原文の漢字を活かす形で改訳しました)。
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 「爰有一沙門(ここに一沙門有り)……」
 ここに一人の沙門がいて、私に虚空蔵聞持の法を教えてくれた。その教説によると、「人はこの教典の作法に従って真言を一百万遍となえるなら、すなわち一切の教法文義を理解し暗記することができる」と記されている。
 ここにおいて私はこれこそ大聖の誠言であると信じ、木を錐(きり)もみすれば火花が飛ぶという修行の成果に期待し、阿波の国太龍岳によじのぼり、土佐の国室戸碕にて勤念した。
(その結果)「谷不借響、明星来影(谷響きを惜しまず、明星来影す)」
 私の称名に谷はこだまとなって答え、明星の光輝が私に向かって舞い降りるという得難い体験をすることができた。
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 これが百万遍修行の全てです。冒頭の「一沙門」とは空海の師僧や名のある高僧ではなく、山岳修行の最中たまたま出会った、百万遍修行を実践する修行僧だと考えられることは以前触れました。

 福永氏は最後の一行を、「その私のまごころに感応して、谷はこだまで答え、虚空蔵菩薩の応化(おうけ)とされる明星は、大空に姿をあらわされた」と訳しています。何らかの感得があったことは間違いないでしょう。

 しかし、それはいわゆる「悟り」と呼ばれるような境地ではなかった――空海研究者たちはそう指摘し、私も同感です。後年到達する密教的境地でもなかったと言われます。
 百万遍修行によってなんらかの感動・感銘を受けたことはわかる。だが、具体的に何を得たのか、それに関しては正に密林の中、闇の中であると言わざるを得ません。

 ここで百万遍修行における問題点をまとめておくと以下の三点です。

 1 求聞持法百万遍修行とはマオにとってどのようなものであったのか。なぜ四国太龍山だったのか、なぜ室戸岬だったのか。そもそもこの修行を実践したのは何歳の時だったのか。

 2 なぜ求聞持法を二度行ったのか。この修行を通じて何を得たのか。

 3 その結果『聾瞽指帰』を改稿して『三教指帰』を完成させた。だが、二著の内容はほとんど差がない。そこにはどのような心境の変化(もしくは無変化?)があったのか。

 1の後段に関しては以前一度目の百万遍修行が二十二歳のとき、二度目が二十三歳のときであることを証明しました。再度百万遍修行の内容と合わせてまとめておきます。

 まず求聞持法百万遍修行ですが、正式には「虚空蔵求聞持法」と言い、次の真言を一日一万回、計百日間となえる修行です。

 のうぼう、あきゃしゃー、きゃらばや、おんありきゃー、まりぼりそわかー

 実践に関してこれ以上の説明はありません。とにかく一日一万回この真言をとなえ、それをひたすら百日間続ける。数の勘定は数珠を使うとのこと。
 この修行、一日も休まずやる場合は百日間――つまり三ヶ月強かかります。間が空いても構わないとすれば、約四ヶ月から五ヶ月でしょう。
 一説によると、修行の場所がお堂内の場合は壁に穴が開いており、「月を見ながら」とも言われます。しかし、本来は外で、明けの明星を見ながら行うのが基本のようです。虚空蔵求聞持法の「虚空蔵」とは虚空蔵菩薩のことであり、その化身・象徴が《明けの明星》だからです。

 空海が実践した太龍山南の舎心岳(舎心岳とは太龍山の東側中腹にある断崖の名)、室戸岬双子洞窟の場所は東と南に開けており、明けの明星を見ながら行った――これははっきりしています。宵の明星は西の空に浮かぶので、舎心岳や双子洞窟から見ることはできません。

 私は空海の十代後半から二十三歳までの間に、明けの明星がいつ出ているかを調べ、百万遍修行ができる年を探しました。以下の通りです(「可」は百万遍修行実践の可否)。

 【空海マオと明けの明星】
 年齢 明けの明星の 期間=可[宵の明星の期間]
 19歳 1月1日〜4月3日=×[4月から12月末]
 20歳 3月14日〜11月30日=○[1月から2月末と12月](平安遷都794年)
 21歳 10月21日〜12月31日=×[1月から9月末]
 22歳 1月1日〜7月7日=△[8月28日から12月末]
 23歳 5月31日〜12月31日=○[1月から5月18日](12月『三教指帰』完成)

 空海マオの大学寮入学が満十七歳。私は二年後の春、仏門に入ったと推理して小説『空海マオの青春』を書きました。
 これが的外れで(^_^;)一年後ただちに奈良大安寺に入門したとしても、百万遍修行に関しては大した問題ではありません。

 マオは入門後仏典研究を始めたであろうし、天才的読解力をもって膨大な仏典・解説を読み解き、『聾瞽指帰』草稿を書き上げたでしょう。その期間が一年から二年。その後道教的神道的習合修験道に乗り出して金峰山・四国石鎚山の山行登拝を実践する。冬山に登ったとは到底考えられないから、山岳修行は春から秋にかけて。それらに一年か二年を要したと考えれば、百万遍修行はその後になります。

 そうなると、百万遍修行を実践するに絶好の七九四年(マオ二十歳時)はまだ仏典研究中であり、山行登拝の渦中だったと考えるのが自然です。私はこのとき山中で百万遍修行を修する「一沙門」に出会ったのではないかと推理しました。

 翌二十一歳の春から秋は宵の明星だから百万遍修行はできない。よって、翌二十二歳の一月から七月七日までの間が一度目の百万遍修行、阿波の国太龍山
 そして、翌二十三歳五月三十一日から十二月末までの間に、土佐室戸岬で二度目の百万遍修行を実践したことになります。

 二十二歳の百万遍修行は春まだ浅い三月から開始しないと、百万回に到達しません。六月は今も昔も梅雨の時期です。曇っていると明けの明星は見られません。
 あるいは、一説によると、百万遍修行は一日二度行うこともあるとか。明けの明星が出る前の深夜から開始すれば、夜明けには一万回に達します。さらに昼間もとなえれば(かなりきついと思いますが)、一日二万回は可能です。
 これなら最短五十日、休みを取っても二ヶ月ほどで貫徹できるでしょう。もしも太龍山の百万遍修行がこれであったなら、四月に始めても五月末には百万回に到達します。

 ただ、こちらは虚空蔵菩薩の化身である明星との交感を探るより、ひたすら数をこなすというか、百万回となえることが最大目標となっているような気がしてどうなんでしょう。
 実態は不明ながら、どちらにせよ太龍山百万遍修行にある程度の感得はあった、しかし不十分だと思った、だから「もう一度やろう」と考えたのでしょう。

 翌年明けの明星は六月から年末まで輝いているので、時間はたっぷりあります。おそらく梅雨が明ける七月中旬くらいから開始したのではないか。曇りや雨天で中断したとしてもまだ余裕があり、十一月頃百万回に到達します。マオはこれ以上ない充実感をもって「明星来影す」と感じたのでしょう。

 以前書いた通り「空海はそこまで詳しく明けの明星の時期など知っていただろうか」との疑問に対しては回答可能です。
 空海は知らなかったかもしれない。しかし、百万遍修行は当時ブームと呼べるほど広まっていたのであり、大寺院の援助の下で行われていたと言われます。当然担当者(先達)は明けの明星の時期を知っていただろうし、空海はその情報を得て百万遍修行に入ったと思われます。

 もしもそうした大寺院主催による百万遍修行が団体行動であったなら(今でも山行登拝の修験道修行はほぼ集団行動です)、空海は団体百万遍修行に異和感を覚えたのではないか。
 私は一度目は奈良近郊で団体百万遍修行に参加し、途中から四国太龍山に渡ったと構想しました(当時の移動時間を考えると、この構想ちょっときついかなと自省していますが)。
 あるいは、太龍山での百万遍修行が一日二万回の団体修行であったなら、「次は一人で、一日一万回でやりたい」と考えた可能性はあります。翌年も太龍山で団体百万遍修行が開かれるなら、太龍山で一人行うことは難しい。そこでどこか他の場所を探さざるを得なかった……。

 マオは先達に「適した場所は他にないでしょうか」と尋ねたはずです。
 先達は「それなら室戸岬に双子洞窟があり、東と南に開けていると聞く。できるかもしれぬ」との言葉を得たのでしょう。
 マオは「双子洞窟」という魅力的な言葉を聞いたとき、すでに翌年の修行の成功を予感したのではないかと思います。

 かくして七九七年、空海マオ二十三歳の夏、彼は室戸岬双子洞窟に赴くことになります。
 この年五月、明星の日面通過が生起し、明星はいつになく明るく強く輝き始めています。
 マオは室戸岬に向かう途次、東の空に浮かぶ明けの明星を見上げて「何かを得られる、私を変えてくれる」との予感に打ちふるえたのではないかと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今年(2017)は3月26日から12月11日まで明けの明星です。数日前午前四時頃たまたま目が覚めたので、東の空に浮かぶ明けの明星を眺めました。夜明け前まだ暗いときはダイヤモンドのように光り輝いています。一度ご覧になってはいかがでしょう。何かしらの感得があるかもしれません(^_^)。
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