四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 40

「百万遍修行」その2


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第117 ―論文編 40号

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           原則月1回 配信 2017年 7月10日(月)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・蛭牙公子(しつがこうし)・表甥(ひょうせい)・奇(く)しき・大滝嶽(たいりゅうだけ、「太龍山」と同じ)・磐座(いわくら)・金峰山(きんぷせん)・東の覗(のぞ)き
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 『空海マオの青春』論文編――第40「百万遍修行」その2

 第40「百万遍修行」その2――太龍山と室戸岬が選ばれたわけ

 久しぶりに、私の卒論『暗夜行路』の話題から入ります(^_^)。
 卒論には口頭試問というのがあります。卒論提出後居並ぶ先生方から内容についていろいろ質問を受けるのです。もちろん成績にも大いに関係します。

 志賀直哉『暗夜行路』のラストは鳥取県の大山登頂です。主人公「謙作」は登山中体調を壊し、同行者に「下山するので先にいってくれ」と告げて一人残ります。しかし、疲れがひどく下山できないまま一夜を過ごし、翌朝日の出とともに目を覚まします。そして、背後にそびえ立つ大山の影が市街地を動く様子を眺め、全てのこだわりから解放されたかのようなすがすがしさを覚える……一般的にはここで《自然との溶融・浄化があった》とまとめられる場面です。

 私の卒論は『暗夜行路』成立過程が中心だったので、『暗夜行路』の解釈やラストについて触れていません。しかし、一人の教授から「君は大山に登ったか」と聞かれました。大学は松江にあり、私は市内在住でしたから、隣県の大山登頂は行こうと思えば行ける近さでした。
 当時の私はその質問が意外で「登ったことはありません。私の論文は現地を訪ね歩くようなタイプのものではありません」と答えたものです(^.^)。

 志賀直哉は私小説作家であり、若い頃から転居を重ねていました。既研究の中には論文と言うより関係地を訪ねた様子を伝えるエッセーか紀行文のような『志賀直哉論』もあったので、私としては「心外な」といった気持ちから出た言葉でした。

 その後四十歳前に成立過程と解釈をまとめて「我が青春の『暗夜行路』」を書き上げたときも、大山に登頂することはありませんでした(日々の教員生活があったし、作品のクライマックスはそこではないと読みとったこともあったので)。
 この話題、もちろん本号の伏線です(^_^)。

 以前『聾瞽指帰』の蛭牙公子は「表甥」と書くべき所「表姪」になっていたこと、しかし現代の活字本は「表姪」を単なる誤字と見て「表甥」に改めているので、そこに隠された深い意味が見落とされたこと。私が卒業した大学の先生方は「誤り・訂正を含めて原文にあたる」ことの大切さを指摘され、それが空海研究で大いに役立った話をしました。

 某教授の「大山に登ったことがあるか」との問いは、もう一つ《実際現地に行って思索する》大切さを教えていたのです。何かがわかるかもしれない、もちろん何も得られないかもしれない。だが、行ってみなければ、論文は所詮机上の空論に終わる可能性がある……。
 大学時代の私はその意味を理解できなかったけれど、空海を研究して小説を書こうと思ったときは教授の言葉を実践しました(^_^)。

 というのは、司馬遼太郎の『空海の風景』を始めとする諸論文を読んでも、なぜ百万遍修行の場として太龍山と室戸岬が選ばれたのか、その理由がわからなかったからです。「これは行くしかない」と思い、東京からはるばる四国まで文字どおり飛んでいき、レンタカーを借りて徳島・高知を周遊しました。

 訪ねたのは二〇〇四年の七月。日本で百二十二年ぶりに明星の日面通過が生起した年でした(この年は空海入唐一二〇〇年にも当たります)。車内はエアコンで涼しかったけれど、外はかんかん照り。なのに、道をてくてく歩くお遍路さんをしばしば見かけ、「自分にゃとてもできないなあ」と感嘆しました。札所のいくつかを訪ねたし、ちょっとした遍路気分でもありました。
 結果、太龍山南の舎心岳と室戸岬双子洞窟を訪ねて、行かなければ決してわからないことがわかりました。やはり先達の言葉は謙虚に耳を傾ける必要があるようです(^_^)。

 まず太龍山について。
 空海マオが百万遍修行を実践した太龍山は海抜六〇二メートル、とても低い。麓から眺めると、似たような小山が周辺にいくつもありました。マオは百万遍修行をなぜこの小山で行ったのか、大いなる疑問であり謎でした。

 司馬氏は『空海の風景』の中で、太龍山が選ばれたわけを次のように推理しています。
 四国を選んだのは厳しく寒い北国より暖かいからであり、「山の名になじみがあるだけでなく、自分の精神の体温に遇っている」からであろう。空海は四国上陸後「奇しき山はないか」と「土地の者に、土霊の棲みついている山をあちこち聞きまわ」り、「奇しきは大滝嶽こそ」と「教えてくれた者があったのであろう」と。
 残念ながら司馬氏は「奇しく」の内容を説明してくれず、結局「なぜあの山なのか」の疑問に答えていません

 私も現地に行って太龍山近くの民宿に泊まったとき、宿の主人に「太龍山はどの山ですか」と尋ねました。主人は南の小山を指さして「あの山です」と教えてくれました。

 そのとき周囲には高さも規模も同程度の山がいくつも見えたので、「はて?」と思いました。遠くから見上げただけでは空海が百万遍修行の場として「どうして太龍山を選んだのか」、さっぱりわからなかったのです。

 司馬氏は二度目の百万遍修行の場である土佐室戸岬、双子洞窟についても「なぜそこが選ばれたのか」の答えを提示していません。
 こちらも誰かから室戸岬の名を聞いた。その後道なき道、やぶだらけのけもの道を切り開いて室戸岬にたどり着いた。すると、たまたま百万遍修行に最適な(東に開けた)双子洞窟が見つかった――その程度の推理にとどまっています。

 私は太龍山、そして室戸岬双子洞窟の現地を訪ねてわかりました。
「なるほど、ここは間違いなく百万遍修行が行われたところであり、他の小山と区別できる大きな特徴があったのだ」と。
 なぜ数ある小山の中で太龍山が選ばれたのか。なぜ室戸岬双子洞窟だったのか

 答えは「そこが聖地だから」です。もっと言うなら、修行者達に聖地として知られており、百万遍修行を実践するに最適の場所として知られていたのだと思います。

 百万遍修行は明けの明星を見ながら呪文をとなえるので、東と南に開けている必要がある――それは最低限の必要条件です。しかし、それだけでは数ある小山の中でなぜ太龍山なのか、なぜ室戸岬双子洞窟だったか、その説明がつきません。最大の理由は修行の場が聖地である必要があった。逆に言うと、空海は修行の場として《聖地》を探し求めたのです。その際重要なキーワードは《磐座(いわくら)》です。

☆ 「舎心が嶽と双子洞窟上部の磐座」

☆ 「双子洞窟外観」

 空海が山岳修行を実践した場として明確なのは四ヶ所。まず金峰山(大峰山)であり石鎚山、これは山行登拝。そして、百万遍修行を実践した太龍山南の舎心岳と室戸岬双子洞窟。この全てに巨岩――磐座(いわくら)があります。

 太龍山で空海が百万遍修行を実践したのは「南の舎心岳」と呼ばれる磐座でした。そこから歩いて十数分の所には「北の舎心岳」と呼ばれる磐座もあります。太龍山は小さな山ながら磐座を二つ持つ聖地だったのです。
 ちなみに、金峰山の最重要地は巨大な一枚岩がある「東の覗き」と「西の覗き」であり、今も女人禁制の聖地と見なされています。
 東と西(の覗き)、南と北(の舎心岳)、磐座下の双子洞窟と二つあることも特筆すべき聖地として知られていたことをうかがわせます。

 修行の場が聖地であるとの理解に立てば、空海がやみくもに山々を登り、百万遍修行を実践できる場所を自分一人で探し、結果太龍山と室戸岬双子洞窟をたまたま見出した――とは到底思えません

 そもそも石鎚山や金峰山は初心者が一人で登れる山ではありません。先達や仲間と一緒だったろうし、太龍山と室戸岬双子洞窟も先達が指導したか、「百万遍修行を修するならこれこれの所がいい」と聞いたのでしょう。
 特に百万遍修行は最低でも四ヶ月間、戸外で深夜から早朝にかけて行われます。支援者が必要だったのではないか。であれば、適度に人里近いところである必要があります。

 これらを総合的に勘案すると、当時百万遍修行を実践する場としていくつか候補地が知られていたのであり、空海はそれを受けて太龍山と室戸岬に出かけたのだと思います。

 それにしても、博覧強記の司馬遼太郎氏が、なぜ太龍山と双子洞窟から磐座を想起しなかったのか不思議でなりません。無知浅薄な私でさえ、現地を訪ねて磐座に気づいたというのに(^_^;)。

 おそらく司馬氏は太龍山南の舎心岳に登らなかったのではないかと思います。
 『空海の風景』は一九七三年から七五年にかけて雑誌『中央公論』に連載されました。太龍山のロープウェイが完成したのは一九九二年。それまでは麓から山道を登らねばなりませんでした。一九二三年生まれの司馬氏は一九七〇年なら五〇歳前。まだまだ登れないほどの年ではなかったと思うのですが。
 一方、室戸岬の双子洞窟は近くまで行っているので(昼間のようです)、洞窟の上部が巨大な岩山になっていることは気づいたはずです。しかし、それ一つでは磐座を想起しなかったのでしょう。やっぱり「二つ」見る必要があるのです(^.^)。
 もしも司馬氏が南の舎心岳まで登って(北の舎心岳にも気づいて)いれば、おそらく磐座に思い至っただろうと思います。
 河童の川流れと言うか、弘法も筆の誤りと言うか、上手の手から水が漏れた例になったと言わざるを得ません。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本文に関連した「磐座」の画像や南の舎心岳の空海像、双子洞窟の内部などは「四国明星の旅」(3〜9)にありますので、ご覧下さい。 → 「四国明星の旅」3

 さて、遅々とした歩みで申し訳ありませんが、今年も8月9月は休刊とさせていただきます。
 また水害と暑い夏がやって来ます。お身体ご自愛の上お過ごし下さい。御影祐

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