四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 41

「百万遍修行」その3


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第118 ―論文編 41号

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           原則月1回 配信 2017年10月10日(火)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・太龍山(たいりゅうさん)・磐座(いわくら)・足摺(あしずり)岬・『風土記(ふどき)』・安殿(あて)親王・藤原仲成(なかなり)・緒嗣(おつぐ)・真夏(まなつ)・殿上人(てんじょうびと)・従五位下(じゅごいげ)・抜擢(ばってき)・稀有(けう)・疑似(ぎじ)・東の覗(のぞ)き・穿(うが)たれた岩窟(がんくつ)  参考…今回山の数え方と岬の数え方を調べて初めて知りました。高い山なら「座」ですが、普通は「山(さん)」、岬の類は「岬(こう)」だそうです。
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*********************** 空海マオの青春論文編 ********************************

 『空海マオの青春』論文編――第41「百万遍修行」その3

 「百万遍修行」その3――大いなる「偶然」について

 今号から空海二度の百万遍修行について詳しく語るつもりでした。が、その前に前号の補足と、さらに《偶然》について触れておきたいと思います。

 私は前号で「たまたま(偶然)」について否定するような言葉を結構書き連ねました。
 司馬遼太郎氏は百万遍修行の場として、なぜ太龍山と室戸岬双子洞窟が選ばれたか、その答えを提示できず、「たまたま」だったろうと『空海の風景』に書いています。
 太龍山は「土地の者に、土霊の棲みついている山をあちこち聞きまわ」ったら、「それならあの山」とたまたま教えてくれたので、登って百万遍修行をやった。
 室戸岬についても「誰かから室戸岬の名を聞いた。その後道なき道、やぶだらけのけもの道を切り開いて室戸岬にたどり着いた。すると、たまたま百万遍修行に最適な(東に開けた)双子洞窟が見つかった」と述べています。

 対して私は《磐座(いわくら)》を根拠として「修行の場が聖地であるとの理解に立てば、空海がやみくもに山々を登り、百万遍修行を実践できる場所を自分一人で探し、結果太龍山と室戸岬双子洞窟をたまたま見出したとは到底思えません」と書きました。

 以前触れたように、日本には大小一万五千以上の山々があり、各県平均三百はあるようです。とあるホームページで「山岳信仰の山」の数を調べていました。それによると、太龍山のある徳島県に六十山はあるそうです。この山々を次から次に踏破した結果、百万遍修行に最適の太龍山に行き当たった――なんて空海にそんな余裕はなかったでしょう。百万遍修行は明けの明星が見える時期でしかやれないし、空海は登山家ではないのです。

 もっとも、岬となるとそうたくさんあるわけではありません(^_^)。たとえば、高知県なら室戸岬と足摺岬が有名。これまたあるホームページによると、地図上で「岬・崎・埼・鼻」と名が付く《岬》の数は日本全国で三七〇〇岬(こう)ほどあるそうです。

 それによると四国太平洋側の岬はほぼ一三〇。こちらも百万遍修行に最適なところを探し歩けば、一体何年かかることやら。全て徒歩であればなおさらのこと。
 やはりここは単純にマオが先達の導きによって太龍山南の舎心岳と室戸岬双子洞窟の名を聞き出したと解するのが自然です。

 では、先達はなぜその名をあげたのか
 極端に言えば、明けの明星が見られる場所は全国どこにでもあるから、どこでやってもいいことになります。しかし、明けの明星が見られ、磐座のある山、聖地と見なされた場所(なおかつ人里にそこそこ近い所)はそう多くありません。

 太龍寺の境内に太龍山の由来を説明した案内板がありました。その中に「神武天皇東征の折この地で通夜して(東征の成功を祈願した?)」とありました。
 私はそれを読んだとき、おやっと思いました。そして、磐座とともに南の舎心岳・北の舎心岳があることを知ったとき、この山は聖地として人々に知られていた、だから祈願が行われたのではないかと思いました。

 帰宅後『日本書紀』・『古事記』の神武東征を調べてみました。残念ながら神武天皇が阿波の国太龍山に立ち寄ったとの記述はないようです。しかし、もしも東征の成功を祈願するなら、儀式はそれにふさわしい聖地で行うでしょう。案内板に書かれた由来は磐座のある南の舎心岳、北の舎心岳がかなり前から聖地として、祈りの特異地として知られていたことを表しているのではないかと思います。

 現在の感覚では太龍山・太龍寺は「空海が百万遍修行を実践した場所」として有名です。しかし、空海が修行する前から聖なる山と見なされ、なおかつ南の舎心岳は東と南に開けているので、百万遍修行の場として絶好だと知られていたのだと思います。順序は《空海の修行→名所太龍山》ではなく、《聖地太龍山→空海百万遍修行》なのです。

 また、百万遍修行と言えば、空海が最も有名ですが、当時山岳修行においてブームだったとの指摘もあります。町田宗鳳氏の『山の霊力』(講談社選書メチエ、二〇〇三年)によると、当時奈良近郊の山々では修行者達が並んで求聞持法の真言をとなえていたであろうとあります。

 二〇〇四年頃私は東京町田市の郊外に住んでいました。町田の名を持つ町田氏の著書を読み終えた三月中旬、自宅近くで面白いものを見つけました。車で十数分のところにある回転寿司屋に昼飯を食べに行ったときのことです。

 食後そこの駐車場から西の方を見ると、ちょっと離れたところに周囲の家々から頭二つくらい抜けた大木があり、白い花が満開に咲いていました。桜でないことは明らかながら、何の花かわかりません。「おやまーきれい」と思い、散歩をかねて近くまで行ってみました。
 木の根本に着いて見ると、狭い石段があり、数メートル登った高台の上にその木がありました。大木のそばに小さな祠もありました。石段の下には高さ七、八十センチの石碑があって「馬頭観音」と書かれていました。
 私は石段を登り、立木の傍に立って見上げました。満開の木は「こぶし」でした。花を見ただけで木の名前がわかるほど、私は樹木に詳しくありません。木に「町田の名木百選」として名札が付いていたのです。小さな祠は馬頭観音をまつってあるようです。

 せっかくだからと参拝して石段を下り、石碑をもっと丹念に見ました。
 すると、その一面に「真言百万遍供養塔」と書かれていたからびっくり。おやまーてなもんです(^_^)。
 反対側には「文化□□十年〜」と築造年もありました。おそらく江戸時代の文化文政期でしょう。

 それから様々に思いを巡らせました。石碑は求聞持法を百万遍唱えた人の顕彰碑か、あるいは供養塔とあるから、百万遍修行貫徹後村人から尊崇を受けた人がこの地で亡くなった事を供養する碑でしょうか。
 いずれにせよ、その場所で百万遍修行を実践した人がいたことを示しています。真言宗関係の僧侶だったかもしれません。

 祠のある高台から東を見やると、高いビルもなく、家々の屋根の上に開けた空がありました。つまり、東と南の空を眺めることができます。当然明けの明星を見上げることもできたでしょう。
 私の知る限り、寿司屋の近辺に大きな寺も神社もなく、ごく普通の住宅地でした。江戸時代はもっと家が少なかったでしょう。なのに、百万遍修行をやった人がいたとは新鮮な驚きでした。時代は違えど、町田氏の言う「百万遍修行は一時期ブームだった」との言葉が信憑性をもって感じられました。

 私は修行者と祠の順番を考えてみました。百万遍修行があってから祠が建てられたのか、祠が既にあったところで百万遍修行が実践されたのか
 答えは明らかでしょう。馬頭観音をまつる祠がすでにあった。すなわちそこは小さな聖地だった。東と南に開けており、明けの明星を見ながら百万遍修行をやるには絶好の場所だった。だから、その場で一人の僧侶が真言百万遍修行を実践した。その人が亡くなると、村人が顕彰碑を建てた――そのような流れだと思います。
 供養塔に修行者の名は刻まれていませんでした。空海はその後有名になって歴史に名を残した。しかし、無名のまま歴史の海に埋もれた百万遍修行者は一体何人いただろう、そう思って感慨深かったです。

 一方、室戸双子洞窟を考えてみると……

 日本では和銅六(七一三)年に『風土記』が編纂されています。地方の歴史・文化・風土などを記した地誌です。各国で作成されたようですが、写本が現存するのは『出雲の国風土記』など五ヶ国程度。残念ながら土佐の国も阿波の国も「風土記」は現存しません(逸文として他の書に抜粋があるようですが)。

 思うに、もしも土佐の国が朝廷から「景勝地を差し出せ」と言われたら、室戸岬双子洞窟も取り上げたのではないかと思います。双子洞窟は景勝地として充分価値があると思います。海岸に洞窟があるだけなら珍しくもなんともないけれど、双子洞窟となるとめったにない景勝地です。

 双子洞窟そばにあった土産物屋の女性は「ここはかつて賽の河原でした」と言いました(現在洞窟内に石積みはありません)。幼くして亡くなった我が子を忍んで訪ねた人が石を積む。これもまたどこでもやられるわけではなく、洞窟内などある種聖地と目された場所でしょう。
 要するに、太龍山も室戸岬双子洞窟も当時《聖地》として知られていたのであり、先達はそこが百万遍修行に適した場として知っていたのだと思います。

 以上、空海百万遍修行の場が「聖地」として、かつ百万遍修行最適の場として知られていたであろうとの補足説明でした。

 次に(ここからが本号の主意ですが)、司馬氏の「たまたま」説は否定したけれど、私は人に起こる様々な偶然を否定するものではありません。
 むしろ我々は宇宙的な偶然、年単位の偶然、月日の偶然の中に存在し、そこから喜びや悲しみ、悩み・苦しみを感じて生きています。人生において偶然とは切っても切り離せない重要な要素です。私は「偶然には意味がある」とさえ思っています。

 と友人に話すと――我が友は唯物論者が多いからでしょう、彼らは直ちに反論します。「偶然は人の思惑に関係なく、たまたま起こったに過ぎない。だから、偶然に意味なんぞない」と。

 私も(基本唯物論者だから(^.^)、「その通りです」と応じて、さらに言葉を継ぎます。「偶然に意味などないというのは確かにその通りだと思います。しかし、人は偶然の出会い、出来事から何らかの示唆とかヒント、答えを見いだすことがある。その点に意味があるのです」と。
 こう言えば、さらに反論する人はまずいません。

 たとえば、発明家とか犯罪事件を捜査する刑事などです。
 一人の発明家が仮説を証明しようとたくさんの実験を繰り返す。しかし、なかなかうまくいかない。そのうちたまたま見かけた現象とか他愛ない偶然の出来事、家族知人の何気ない一言から、「そうか。こうしてみよう」とひらめき、実験の成功に至る。さらに、これまで捨てていた結果を再検証して別の素晴らしい現象を見いだすこともある。

 あるいは、推理小説など刑事や探偵が犯人らしき人物を突き止めた。だが、完璧なアリバイがあって崩すことができない。推理に推理を重ねてもわからない。ところが、ちょっとした偶然の出来事から「そうか。これだったのか」とアリバイを崩し、事件の解明に至る。
 これは小説上のつくりごとのように思われがちですが、実際の事件でもそうした「たまたま」から事件を解決することがあると聞きます。

 これは脳科学的にあり得ることとして証明されているようです。つまり、発明家も刑事も朝から晩まで、寝ても覚めてもそのことばかり考えている。そのとき実は脳内に解き明かすためのヒントとか答えがすでにある。しかし、もつれた糸のように、あるいは、まとまりのないばらばらの事実ばかりだから、隠された真実に気づかない。それが偶然の出来事によってもつれた糸がほぐれる。ばらばらだった事実が一つに繋がり、それによって答えを得る――そうしたことが脳内で起きるのだそうです。
 つまり、一つのことを一生懸命考えているからこそ、偶然の出来事がヒントとなって答えを見いだせるというのです。

 これを逆に言うと、ぼけーっと考えているようでは、偶然が起こってもヒントにできないと言えます(^.^)。たまたまの出来事をしっかり見つめ、「これは自分にとってどんな意味があるのだろう」とか、「今自分が思い悩んでいることにどんなヒントをくれるのだろう」などと考える必要があります。「答えはすでにある。ただ、気づかないだけだ」という名言もあるほどです。

 実は空海マオの前半生を眺めると、そうした偶然が結構あります。司馬氏はそれを「ラッキーな偶然があまりに多い」とうらやましげに語っていました。
 これまで私は空海の《偶然》についていくつか触れてきました。
 たとえば、マオと同年に生まれた有名人(?)に藤原三家四人の若者がいます。式家皇太子の安殿親王、同じく式家藤原仲成と藤原緒嗣、さらに北家の藤原真夏。
 安殿親王は次代の天皇となることが約束され、仲成と緒嗣は十七歳の若さで殿上人の一員である従五位下となっています。たかだか十七歳の若者が従五位下に抜擢されるなんて前後百年でこのときだけです。

 ちなみに、緒嗣は藤原百川の長男。百川は光仁・桓武天皇の即位に尽力したけれど、桓武の即位を見ることなく四十七歳で亡くなりました。桓武は嫡子緒嗣のことを常に気にかけ、宮中で元服を行って従六位下を授け、三年後に従五位下としました。
 かたや仲成は藤原種嗣の長男。種嗣と言えば長岡京遷都を進言し、七八五年帝都造営の監督中暗殺されたことで有名。桓武は直ちに仲成に従五位下を授けました。
 このように二人が従五位下に取り立てられたのは、光仁桓武両帝の忠臣であった父の死があったからです。もちろん桓武天皇の鶴の一声でしょう。

 思うにマオの能力は四人より上だったかもしれません。なのに、一人は次代の天皇であり、二人はすでに殿上人になって次代の天皇側近であることが確実。
 空海はと言えば、讃岐の田舎から大学寮に入学できただけでも相当のエリートながら、後ろ盾は儒学者阿刀の大足だけ。マオが「田舎郡司のせがれでしかない自分が殿上人になるなど夢のまた夢」と思ったとしても、なんの不思議もありません。それほどの偶然がマオの周囲に起こっていたのです。
 がしかし、もしもこの偶然がなかったら、マオは大学寮を続け、卒業後は有能な小役人として、あるいは大学寮の助教としてごく平凡な一生を終えたかもしれません。

 そして、大学寮入学後長岡京で起こった二度の大洪水は数十年に一度しかないような「たまたま」でした。結果、都は長岡京から平安京に遷ります。この天変地異と政治の変動がマオの「大学寮退学を決意する後押しになったであろう」と書きました。

 さらに、宇宙的規模で眺めるなら、マオが上京した翌年一二二年ぶりに金星の日面通過が起こり、八年後マオ二十三歳の時にまた日面通過が起こっています。この年マオは二度目の百万遍修行を室戸双子洞窟で実践しました。

 もちろんマオにその天文学的知識はなかったでしょう。しかし、日面通過の年は例年になく明星が光り輝く。おそらくマオはそれを感じ取り、明星が口の中に飛び込む神秘を得たのです。
 その後も数百年に一度単位の富士山噴火があり、遣唐使船をめぐる偶然や入唐後のたまたまなど、数多くの偶然が起こっています。これらについては追々語りたいと思います。

 さて、こうなると二〇〇四年、私が四国百万遍修行の現地を訪ねたときの稀有なる《たまたま》についても触れざるを得ません(^_^;)。

 まず宇宙的規模で言うと、空海の室戸百万遍修行の年から約千二百年――二〇〇四年とは一二二年ぶりに金星の日面通過が起こった年でした。次は二〇一二年で、そこから一〇五年待たないと次の日面通過はありません。

 私は二〇〇三年頃「空海を書きたい」と思い(なぜそう思ったかはいずれ説明いたします)、彼の著作や研究論文、資料を読み始めました。
 そして、翌二〇〇四年五月某日東京競馬場からの帰途、自宅アパート前で、薄暮の空にぽっかり浮かんだ明星を見いだしました。
 それは「今日もぼろ負けだったなあ(^_^;)」との沈んだ気持ちを振り払ってくれるほど、すっきり美しく輝いていました。

 宵の明星をしみじみ眺めたのは一体いつ以来か。子どもの頃外で薄暗くなるまで遊び、親が「晩ご飯だよ」と呼びに来た。そのとき西の空に浮かぶ明星を見上げて「宵の一番星だ」と叫んだ。それ以来のような気がする明星でした。私は「おやーいつになく光が強いなあ」と思って見とれました。

 火星や木星と地球は何年かに一度大接近し、その年は大きく輝くと聞いたことがあります。火星は特に有名で、私も見たことがあります。
 そこで部屋に戻ると、「何かあるかも」と思ってネット探索をやってみました。その結果二〇〇四年は一二二年ぶりに金星日面通過が発生すると知ったのです。

 その後金星日面通過当日(六月八日)には、近くの百貨店屋上で観測会があると聞いて出かけました。残念ながら曇天で日面通過を見ることはできませんでした。しかし、関係者から「今年明星が最も輝くのは七月一五日です」との情報を得ました。私は「よーし、そのころ太龍山と室戸双子洞窟に行くぞ」と決意したのです。

 もちろんこの時点では空海が生きた時代、金星の日面通過があったなど知るはずもありません。「もしも百万遍修行の年に金星の日面通過があっていつになく明星が光り輝いていたら面白いなあ(^_^)」程度の思いでした。
 空海の百万遍修行において、明星が口に飛び込む神秘を得たとの話を知って以来、「もしかしたら当人だけではない、何か大きな事象が関係していたかもしれない」との予感を持っていたのです。

 それが……四国を訪れ、帰宅後空海関連の書物を読みあさる中、ネットで「紀元前三千年から紀元後三千年の金星日面通過一覧表」を発見し、空海十五歳と二十三歳の年に、金星の日面通過が起こっていたことがわかりました。
 そのとき私は予感の大的中と、一千二百年を隔てた大いなる偶然に打ち震えたものです(^o^)。
 そして、「これほどの偶然が起こったなら、私はきっと空海の謎を解き明かせるに違いない」と確信のような思いを抱きました……って大げさですが(^.^)。

 とまれ大いなる偶然の恩恵に大感激して、「ならば、私が南の舎心岳と双子洞窟で感じたことは空海の感じたことと重なるのではないか」そう思って空海二度の明星体験を描きました。

 それから私が四国を訪ねたとき、もっと小さな《たまたま》も発生したことを報告したいと思います。それによって私は空海の百万遍修行が聖地で行われたのであり、現地に到着する前から、「磐座(いわくら)」の答えを得ていたことに気づきました。これはちょっと面白い(下手すると失敗から生み出された)偶然の産物でした(^_^;)。

 四国疑似お遍路の旅程は以下のように、明けの明星が最も輝くという十五日を標的に立てました。

 7月13日(火)羽田から徳島へ。レンタカーにて太龍山へ移動。民宿泊
 7月14日(水)未明太龍山南の舎心岳で明けの明星を見る。室戸岬へ移動。ホテル泊
 7月15日(木)未明双子洞窟から明けの明星を見る。帰路に就く

 十三日は午前十一時に羽田を離陸、一時間後徳島空港に降り立ちました。すぐにレンタカーを借り、ナビを太龍山太龍寺に合わせて出発しました。
 空海修行の地と見なされる場所はネットで確認していました。しかし、太龍山がどのような山なのか全く知らないし、深夜明かり一つで山登りをしなければならない。だから、できるだけ早く太龍山に着いて明るい内に一度上っておく腹づもりでした。

 ところが、当時私はナビに慣れてなく、しばらく走ると車はどんどん狭い道に入り、太龍山ではなく、一つ手前の札所鶴林(かくりん)寺経由で行こうとしていることに気付きました。そして、ある三叉路で右に行けば鶴林寺、左に行けば太龍寺の看板を見つけました。
 どうしようか迷ったけれど、三十分ほど鶴林寺を参拝してから太龍寺への道を進むことにしました。鶴林寺では美形の女性二人が白装束で参拝し、鈴のような声で「般若心経」をとなえる姿を見かけました。そして、その二人と翌日室戸岬手前の鯖大師堂で再会するという嬉しいプチ偶然もありました(^.^)。

 鶴林寺の参拝を終え、私はナビの案内に従って山中の道を下りました。その途中道のそばの林の中にコンクリ製の鳥居を見つけました。鳥居わきにはでっかい石柱があって、そこに「神光本宮山之宮(磐座)」と書かれています。「磐座」にはわざわざ「いわくら」とふりがなが振ってありました。
 珍しいな、見に行こうかと思ったけれど、山の中だしどのくらい時間がかかるかわからずあきらめました。もちろんこの時点では「磐座」の文字を見ても「ふーん」てなもんです(^.^)。

☆ 「神光本宮山之宮の石柱」

 その後太龍山南の舎心岳に登ってそこが磐座のある場所だと気づきました。ただ、そこで終わっていれば、まだ「磐座」と「聖地」はつながらなかったかもしれません。

 南の舎心岳や太龍寺を見学後帰路に就いたとき、分かれ道の案内板に「北の舎心岳」とありました。
 そのときの私の気持ちはと言うと、「なんだ。北の舎心岳もあるんだ」程度で、もう夕方だったし、夜また来けりゃならないし、早く宿に行って風呂に浸かって生ビール(^.^)……てなもんで、行くかどうするか迷いました。往復にどのくらい時間がかかるかわからないこともためらう理由でした。

 しかし、私は旅に出るとき、いつもあることを心がけています。それは目的地の近くで何か気をそそられる(?)ようなものがあったら、「つまらないかもしれないけど、とにかく労を惜しまず行ってみる」と決めていることです。

☆ 「北の舎心岳の祠」

 そこで、まー行ってみるか、と行きました(^_^)。幸い歩いて数分で北の舎心岳に着きました。そこも裸岩の断崖絶壁で、かなり見晴らしのいいところです。小さな祠があって案内板に「八大童子」と書かれていました。北に向かって開けているけれど、東に開けていないので、そこで百万遍修行はできないことがわかります。
 私はそれを見て修験の聖地金峰山の「東の覗き・西の覗き」を思いだし、《磐座》がぴーんとつながりました。そして、北の舎心岳から引き返しながら、「太龍山の中に南の舎心岳と北の舎心岳という二つの磐座があるとは。太龍山は小山だけれど、聖なる山だったに違いない」とつぶやいたものです。

 こうして「南の舎心岳、磐座」→「北の舎心岳、磐座」を知り、「あっ、神光本宮山之宮の石柱に磐座があったなあ!」と思いだし、さらに翌日室戸岬双子洞窟を訪ねて、洞窟が巨大な一枚岩の裾に穿たれた岩窟であるのを見て――「ここも磐座かっ!」と全て一本につながったのです(^o^)。
 太龍山や室戸双子洞窟で巨大な磐座を見出す前から「答えはすでに出ていたんだ」と思いました。

☆ 「南の舎心岳と双子洞窟磐座」

☆ 「室戸双子洞窟」

 もしもレンタカーが太龍山に直接向かう道を選択していたら、私はこの「磐座」を示す標識を見ることなく、太龍山に登ったでしょう。南の舎心岳の磐座はかなり樹木に覆われていたので、すぐに「磐座じゃないか」と気づいたかどうか。また、めんどくさがって北の舎心岳に行かなかったら、《磐座》が謎を解き明かす言葉だと気づかなかったかもしれません。
 車が鶴林寺を経由したのはたまたまであり、失敗の道程でした。しかし、この偶然の中に謎を解き明かすヒントが現れていたのであり、私はそこから真実をつかみ取ったのだと思いました。



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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本文関連の画像を御影祐のホームページに掲載しています。「四国明星の旅」(3〜9)にありますので、ご覧下さい。 → 「四国明星の旅」3

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