四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 47

「室戸百万遍修行」その5


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第124 ―論文編 47号

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           原則月1回 配信 2018年 4月10日(火)

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)・称名(しょうみょう)・求聞持(ぐもんじ)法・阿刀(あと)の大足(おおたり)・読経(どきょう)・北辰(ほくしん)祭り・耽(ふけ)る・放蕩(ほうとう)・蛭牙公子(しつがこうし)・伎女(ぎじょ)・男色(なんしょく)・一物(いちもつ)・屹立(きつりつ)・考聖(こうしょう)・不埒(ふらち)・吼(ほ)える・毘盧遮那仏(るしゃなぶつ)・営(いとな)み・稚児(ちご)・理趣(りしゅ)教・云々(うんぬん)・読誦(どくじゅ)
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 『空海マオの青春』論文編――第47「室戸岬百万遍修行」その5

 「室戸岬百万遍修行」その5――双子洞窟百万遍修行追体験(五)

 これまで八節に渡って空海は二度の百万遍修行を通じて何を感得したか推理してきました。
 太龍山では「不安と恐怖を克服してくれた真言称名(念仏)の力」を。室戸岬では「自力だけでなく明けの明星(虚空蔵菩薩)に頼る他力の確認」を。
 そして、「獲得した真言称名の力を試そう」と、嵐の中襲い来る強風と豪雨に向かって求聞持法をとなえたのではないかと。

 最後にもう一つ取り上げたいことがあります。夏の真っ盛り、健康な若者が海岸沿いでただ一人暮らしたとき、否応なくわき起こるもやもや――「自然の中の性衝動」です。
 これは生身の空海を描くと決めた以上、避けて通れない構想でした。

 拙著『空海マオの青春』第一章は十四歳のマオが叔父阿刀の大足とともに、故郷讃岐から平城京奈良に向かう場面から始めました。
 桜井の寺で一泊した翌朝、マオはなかなかふとんから出られない……。
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 翌朝マオは本堂から流れる読経の声で目を覚ました。あたりはまだ薄暗い。大足はすでに起きており、顔を洗いに部屋の外へ出た。
 マオは先に起きねばと思いつつ、ふとんの中でもじもじしていた。目はとうに覚めている。だが、股間が突っ張っておさまらないのだ。一、二年前から毎朝のように感じる不如意であり、男として自然なことと思いつつ、すぐにふとんから出られない。どうにも恥ずかしさを覚える事態だった。
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 そして、論文編の巻頭もこの話題からスタートして、以下のような言い訳(^_^;)を書きました。「これは『空海マオの青春』一「上京」の一節です。本書を読まれた方が最初に感じる異和感かもしれません。「いくら少年時代とは言え、真言宗開祖空海の朝立ちを描くなどとんでもない」と。しかし、これが私の空海伝執筆の基本スタンスです。生身の空海を描きたいのです」と。

 その後も長岡京で勉学に励みながら、通りを歩けば、貴族のお姫様、その侍女達が化粧の香りをまき散らしながら歩いている。見物の人垣の中にマオもいる。まるで天女のようだと思う。
 また、川沿いを散歩すれば、百姓の女たちが胸をはだけて洗濯をしている。屋敷では下女の娘が行水する様子をかいま見る。夢を見れば天女が登場し、つかまえようとしたら精を放っている……健康な少年なら必ず起こる夢精も描きました。
 お盆の夏には「北辰祭り」があって今で言う盆踊りのルーツのような踊りを若い男女がくねくねと踊り、闇の中に消えていく。当時の長岡京は首都東京のようなものです。田舎から上京した無垢な少年がそういう刺激を受けてむらむらしないでいられましょうか

 そして、大学寮に行けば、都の貴族・高官の子弟が女遊びに耽っている。その頃のマオは仏教僧ではなく、修行僧でもなかった。ただ、健康な若い男です。
 やがてマオは大学寮に失望し、進路に絶望して放蕩生活に入る。彼が「蛭牙公子」のような若者であったなら、学友と女遊びをやって童貞を卒業したかもしれない。そのような構想の下、初めて触れた女として「伎女ナツメとの交流」も描きました

 ここまでは若く健康な男であるマオの生身を表現することに抵抗はなく、「性の目覚めがあったに違いない」と自信を持って描きました(^_^)。

 その後マオは大学寮をやめ、仏教入門、寺で禁欲生活に入ります。僧侶の男色が後世あるなら、あの時代もあったはずと思って僧と稚児の話題を取り上げました。
 ただ、そこでのマオは新しい仏教を創始すると思い、南都仏教を批判的に眺めていた。だから、妙齢の尼に心動かすことがあっても、そちらに進むことはないだろうと思いました。

 その後修験道修行を経て太龍山南の舎心岳で一度目の百万遍修行。そして二十三歳の夏、室戸岬双子洞窟で二度目の百万遍修行。おそらく朝立ちは毎日あったと思います(^.^)。

☆ 「室戸岬海岸」

 以前も触れたように百万遍修行一度目は集団だった可能性が高い。山岳修行は初心者の場合集団行動を取るのが普通。現代の登山でも最初は誰か経験者と一緒に行きます。慣れてくれば、そのうち一人で登るようになるでしょうが。
 マオの太龍山百万遍修行が集団行動だったなら、そこに性衝動が入る余地はない。それゆえ、その件は全く書きませんでした。
 そして、マオは百万遍修行をもう一度やろうと思った。今度は一人で。だから、誰も行かないような室戸岬を選んだ。

 室戸岬突端は今でこそホテルや土産物屋がありますが、崖の下はすぐ海だから、平安時代初めに人家はなかったと思われます。よって、室戸岬の百万遍修行はずっと一人であった可能性が高い。
 季節は真夏。かんかん照りの下、身体は燃えるように熱い。室戸岬には「空海行水の池」と伝わる小さな池がありました。周囲に人目がなければ、すっぽんぽんの丸裸で過ごしたかもしれません。そんなとき、血気盛んな若者はどのような行動に出るか。生身の空海を描くと決めた以上、性衝動との闘いを描かざるを得ませんでした。

☆ 「室戸岬空海行水の池」

 第四章九節「双子洞窟の魔物」より
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 それから二十日。求聞持法を順調に消化して二十万回を超えた頃、太陽の輝きは真夏の頂点に達した。気温がぐんぐん上昇して強い日差しが浜に照りつける。マオはしばしば上半身裸で過ごした。
 双子洞窟近くには真水のわき出る泉がある。これまではそこで飲み水をすくい、洞窟に置いたカメに入れて使った。そして、泉のそばで身体を洗った。だが、ふと泉に入っても良いことに気づいた。付近に人家はなく、使うのは自分一人だけである。猛烈な暑さをしのぐこともできる。

 マオは素っ裸になって泉に浸かった。ほてった身体に冷たい水が心地いい。頭を岩にあずけ、水面に浮かびながら空を見上げた。晴れ渡った空に雲がいくつか浮かんでいる。その形が女人の乳房に見えて一人顔を赤らめた。
 目をつぶると脳裏に乳房が浮かぶ。マオの一物はむくむくと屹立して水面から突き出た。それは水上に出ると、まるでやけどのように熱を持つ。水に浸かるとひんやりする。浮いたり沈んだりしながら、マオは苦笑した。孝聖などがそばにいれば、「マオは相変わらず元気じゃのう」と言われそうだ。
 近くに人がいないとはいえ、さすがに股間の高ぶりを静めようと思った。それには求聞持法をとなえるのがいい。真言をとなえれば不埒な妄想など軽く消すことができるだろう。
 だが、真言をとなえようとしてやめた。これは人間として、男として正しい反応ではないか。自分の命の証でもある。否定することはない。

 マオは両手を伸ばし、目を閉じ大きく息を吸って吐いた。ゆったりしたさざ波の音が耳にしみこむ。この二十日間誰とも言葉を交わしていない。南の舎心岳では家に帰れば人がいた。修行と思って控えたものの、主人と話すことができた。いつでも話せると思うからだろう、さほど孤独を意識することはなかった。生駒山の修行ではもちろん仲間がいた。
 ここでは朝から晩まで自分一人だけ。他に誰もいない。人と言葉を交わしたいと思った日がある。孤独感にさいなまれ、このまま消えてしまうのでは、と思った夜もある。しかし、求聞持法をとなえれば、さみしさという感情は消えた。

 マオの股間は依然として静まらない。体中の活力が一点に集中したかのように固く張りつめている。水面から突き出たそれはまるで天狗の鼻のようだ。天に向かってそびえ立つ細身の塔のようにも見える。マオは再び目を閉じた。己がぐんぐん伸びて最後に雲を突き抜ける様を想像した。羽衣をまとう天女があきれかえって、いや、顔を赤らめ、ほれぼれと見とれる様を思い描いた。痛快だった。
 しかし、さすがに不埒な想像が過ぎると思った。そこで「のうぼう、あきゃしゃー」と真言をとなえ始めた。
 十、二十、三十……百まで達したとき、マオは不思議なことに気づいた。妄想は心から追い払われず、身体の芯からふつふつと力がわき起こる。一物は静まるどころか、はちきれそうに猛り立つばかりだ。真言は暗闇の恐怖を解消し、魔物を追い払ってくれた。だが、淫らな妄想は消してくれそうにない。むしろその思いを増幅するかのようだ。太陽の下では別の働きがあるのだろうか。あるいは、これは恐怖ではない。また、妄想でもないからだろうか。

 マオは求聞持法をやめ、再び目を開けた。雲は依然として乳房だ。マオは妓女のナツメを思い出した。あの夜、初めて背後からナツメの胸を抱きしめた。柔らかいのに固い、不思議な感触を今でもはっきり覚えている。
 みなぎる一物は爆発のときを迎えようとしていた。マオは腹の底から「うぉー!」と吼えた。そして「ナツメー!」と叫んだ。水中で股間の一点が膨らみ燃え上がった。
 もう一度ナツメの名を叫んだ瞬間、めくるめく快感の中でマオは精を放った。天に向かって何度も何度も股間を突き上げた。雲に届けとばかり己を解き放った……。

 ややあってマオは「いかん」とつぶやき、水中に漂う白い分身をあわてて泉の外に捨てた。そして「まー飲んで害のあるものではないだろう。自分自身なんだから」とつぶやいた。
 マオのそのような様子を眺めるのは枝に止まる小鳥と、上空を大らかに舞うカモメだけだった。
「いや、もう一つ見つめているものがある」とマオはつぶやいた。
 それは天上のお日様だ。マオは毘盧遮那仏が大日如来であることを思い出した。
 考えてみれば、太陽はいつから人間の営みを見続けているのだろう。太陽がなければ、この世は深夜の洞窟のように暗黒の世界だ。生命でさえこの世に存在しないのではないか。そして、この太陽の下で自分は精を放った。なぜ道教は、あるいは仏教もこの営みを否定するのか。日の光を浴びて己を解き放つ爽快感、解放感。これこそ命の営みではないか。
 若い修行僧の中には薄暗がりのふとんにこもり、夜な夜な稚児を抱きしめて精を放つ者がいる。なんと不健康なことか。いや、男と女が抱き合う営みにしても同じだ。なぜ夜の薄闇なのか。なぜお日様の下で抱き合わないのだろう。さぞかし痛快にして爽快な営みだと思う。大日如来は男と女の抱擁をきっと暖かく見つめてくれるはずだ。
 このように考えただけで、マオの股間はまたむくむくと頭をもたげてきた。
 マオはまた「ナツメー!」と叫んだ。
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 前半部に関しては自信があります(^_^)。しかし、後半部大日如来云々の部分は空海マオがここまで考えていたか、半信半疑の表現です。ただし、マオが燃え上がる性を否定していたか肯定したかで考えるなら、「肯定していたはず」との考えに変わりはありません。

 以前書いたように、入唐後密教の真髄を説く簡略教『理趣教』を見つけたとき、マオはそれが男女の性を肯定する内容であることをすぐに見抜いたはず。それは秘すべきかもしれないと思いつつ、日本に持ち帰った。そして、真言宗創始後朝夕のお勤めで読誦した。東大寺別当就任後は東大寺においても『理趣教』を読むことにした。
 空海がもしも男女の性を否定するような人間であったら、彼は『理趣教』を持ち帰らなかったでしょう。若きマオは男女の性を肯定していたと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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