四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 48

「室戸百万遍修行」その6


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第125 ―論文編 48号

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           原則月1回 配信 2018年 5月10日(木)


 本稿後半「空海一夜洞窟」見学後の文章はかなりまとめて書いています。
 原文や画像が「四国明星の旅」(10〜12)にありますのでご覧下さい。
→ 「四国明星の旅」10

『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・伏線(ふくせん)・『聾瞽指帰(ろうこしいき)』・『三教指帰(さんごうしいき)』・求聞持(ぐもんじ)堂・先達(せんだつ)・金峰山(きんぷせん)・石鎚(いしづち)山・日和佐(ひわさ)・鯖大師本坊(さばだいしほんぼう)・鹿岡鼻(ししおかはな)・夫婦(めおと)岩・磐座(いわくら)・最御崎(ほつみさき)寺・祠(ほこら)・鬱蒼(うっそう)・宗像(むなかた)神社・壱岐対馬(いきつしま)・手水(ちょうず)・注連縄(しめなわ)・東屋(あずまや)・詭弁(きべん)
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 『空海マオの青春』論文編――第48「室戸岬百万遍修行」その6

 「室戸岬百万遍修行」その6――双子洞窟百万遍修行追体験(六)

 今回は前置きが長く、三点もあります(^_^;)。
 一つ目。みなさんは「伏線」という言葉をご存じでしょうか。小説や脚本作成上の用語です。
 教員時代小説教材では当然伏線について教えたし、文芸部顧問だったときは部員が書いた小説を、しばしば「伏線がない」と批評しました。
 よくあるのが最後の方で主人公が危機に陥ったとき、全く新しい人物が登場してその危機を救うというやつ(^.^)。後々重要な役割をする人物は早い段階からちょっと登場させておかねばなりません。これを伏線と言います。
 意外に知られていませんが、伏線は登場人物に限りません。主人公の性格も、穏やかだった人が最後に突如怒るとか、大きな事件を発生させるなら「伏線が必要だよ」と教えたものです。何にせよ「伏線」とはあくまで小説作法上のテクニックと考えていました。

 ところが、退職後本格的に小説やエッセーを書き始めてから、「どうも伏線は作り物の小説だけでなく実生活でもあるようだ」と感じるようになりました。実体験なのにまるで伏線があったかのように、突然の出会いや出来事が次の出会い・出来事の前兆になっているのです。特に人との出会いにおいて振り返ってみれば、その人物をほうふつとさせる出来事があって「あれは伏線だったか」と感じるようになりました。おそらく書いて振り返ることが増えたので、気づくようになったのだと思います。
 この前置き、もちろん本節の《伏線》です(^_^)。

 二つ目。空海は二度の百万遍修行を通じて何を感得したか。前節は「最後にもう一つ取り上げたい」として「自然の中の性衝動」を論じました。「最後に」と書いた通り、これをもって「百万遍修行」はひとまず終了、今号より新章「『聾瞽指帰』と『三教指帰』」に入るつもりでした。
 しかし、考え直してもう一点百万遍修行編で取り上げておこうと思います。テーマは「苦行を二度やる意味」です。もちろんマオが百万遍修行を太龍山と室戸岬の二度やったことについて。

 これは下書き段階にはなかった構想です。今回「百万遍修行追体験」と題していろいろ書きながら、二〇〇四年の紀行文「四国明星の旅」をかなり読み直しました。そして、「つらいことを二度やる体験が自分にもあった」と気づきました。
 「四国明星の旅」には室戸岬の帰途たまたま歩き遍路の若者と言葉を交わしたことが書かれています。
 当時は「こんな嬉しい出会いがあった」として取り上げただけですが、読み直して「彼と出会う前同じことを二度やっていた。それをやるのは無意味と思ってきつかった。しかし、そこで時間をつぶしたおかげで若者遍路と会って有意義な時間を過ごせた」とわかりました。「これは百万遍修行追体験の中に入れるべきだ」と思うに至ったわけです。

 三つ目。ちょっと本論風ですが、まだ前置きです(^.^)。
 空海マオは二十二歳のとき太龍山南の舎心岳で最初の百万遍修行を貫徹しました。その年は日数に余裕がなく、一日二度やったかもしれないし、雨の日や風の日には(今は「求聞持堂」と呼ばれる)建物内で行われた可能性が高い。それは真言百万回を貫徹することが最大目標の行であったろう、と指摘しました。
 終了後マオは物足りなさを感じ、「もう一度やりたい」と考えた。私は「明星との交感が足りなかったことが理由ではないか」と書きました。太龍山の感得は「谷響きを惜しまず」という称名中心であり、室戸岬では「明星来影」とあったことからそう推理しました。

 もっとも、実際の所はどうだったか。室戸岬の「明星来影」は結果論だった可能性があります。最初の百万遍修行を終えて感じたことは「何か物足りない」であって、物足りないものが何かわかっていなかった。そう考えた方が自然かもしれません。
 我々は何でもかんでも自分の行動や心理についてうまく説明できるわけではありません。「何となく」そう感じ、そう行動することが多いものです。

 マオは二度の百万遍修行について「谷響きを惜しまず、明星来影す」とまとめています。私はそれを二つに分けて考察しました。しかし、数ヶ月に渡る太龍山の修行中「明星来影が全くなかった」なんてことはあり得ません。晴れていれば太龍山でも明けの明星を見ながら求聞持法をとなえたはずです。

 もしも太龍山百万遍修行が集団行動なら、主催者(先達)がいたはず。その人は「別に百日間全て明けの明星が見える必要はあるまい。そもそも無理だ」と考え、明星を見ながらの称名より百万回となえる方を優先したなら、新参修行者は当然従うしかありません。だから空海も「足りないものは明星来影だ」と気づかなかった可能性が高い。つまり、太龍山で感じたことはただ「何かしら物足りない」だけではなかったかと。

 そして、室戸岬に行き、一人で再度百万遍修行を実践した。今度は充分余裕があったし、夏から秋にかけて晴れの日も多かったでしょう。よって、百日間かなりの日数、明けの明星を見ながら実行したと思われます。結果「前年の修行で足りなかったのは明星との交感であったか」と気づいたのではないか。
 こうしたことは我々の実生活でもしばしば起こります。終わって初めて気づくのです。

 このように考えると、ここには「同じことをもう一度やるか。それとも一回で終わりにするか」というテーマが含まれています。いやなこと、苦しいことは「もう二度とやらないぞ」と思うか。それとも、もう一回挑戦するか。

 私的話題で恐縮ですが、三十代の後半、職員健診で初めてバリウムを飲みました。私は一回でこりごりして「もう二度と飲まない。次に調べるときは即胃カメラをやる」と決めました(^.^)。
 痔持ちにとって検査後バリウムを排泄するのは辛く、検査では寝台で逆さまにさせられ、支え棒を握る手がずるずる滑るのに、「動くな、動くな」と言われたからです。こんな非人間的検査はないと憤慨して「二度と飲まない」と決意しました(^_^;)。

 数年後胃の不調を感じたので、バリウムを飛ばして胃カメラ検診を受けました。そのときは胃カメラの直前、口に含む麻酔薬が苦痛の極みで、「胃カメラも二度とやらない。胃癌の早期発見はあきらめる」と決意して今に至ります。
 幸いその後胃の不調がないので、バリウムも胃カメラも飲まずに済んでいます。いやなことを体験したら、誰しも「二度とやらないぞ」と思うものではないでしょうか。
 ちなみに、その後鼻から管を差し込む胃カメラが生まれ、それはかなり楽だとか。三度目は「それが頼みかな」と思っています(^.^)。

 閑話休題。これまで私は求聞持法の真言を一日一万回となえるとか、それを百日間やるなどと簡単に書いてきました。しかし、いざ自分がやるとなったら、相当の苦痛が伴うだろうと思います。たとえば、厳しい峰々を渡り歩く山行登拝や滝に打たれる滝行。これはこれで辛そうですが、ひたすら座っているだけの座禅だってかなりしんどいはず。
 求聞持法百万遍修行も「のうぼう、あきゃしゃー」の真言を一日一万回となえるだけ。しかし、単純すぎてかえって苦痛だと思います。しかも、屋外で百日間。私も深夜太龍山と室戸岬の双子洞窟で真言をとなえました。おそらく合計一千回にも達していないと思います。

 空海は修験道修行で金峰山・石鎚山に登りました。金峰山では「雪に降られて往生した」、石鎚山では「道に迷い食料が絶えて大変だった」といやな目にあったことを記しています。弱っちい私ではないけれど、空海もその修行は「もうこりごり」と思ったのではないでしょうか。
 だが、百万遍修行だけは「もう一度やろう」と決めた。一度目にいやなことがなかったか、あったとしても「真言称名による効果」は感じられた。ただどこか物足りない、もっと何かを得られそうだと思った。

 もしも空海が太龍山の百万遍修行だけでやめていたら、それは《自力で成し遂げた苦行による感得》にとどまったでしょう。求聞持法の称名による恐怖の克服、すなわち念仏の効能を確認できた。それはもちろん意義あることだけれど、それだけで終わっていた。
 しかし、彼は室戸岬でもう一度百万遍修行をやった。それによって《明けの明星との交感》を果たし、自力だけでなく仏に頼る他力の重要性を認識できた。ればたらはないけれど、二度目がなかったら、この感得もなかったのではないか
 二度の修行によって理屈でしかなかった仏教は感情と溶け合い、一体化したのだと思います。「間違いない。もう儒教・道教には戻らない。私は仏教に突き進む」と決意できた。それは苦しくとも百万遍修行を二度やったからこそ得られた成果でしょう。

 で、私の追体験……金星日面通過が生起した二〇〇四年、私は現地を訪ね、謎を解明する多くのヒントを手にすることができました。
 この追体験の中に「苦行と言うか、いやなことを二度やって良かったと思う体験がなかっただろうか」と振り返って室戸岬の一件に気づきました
 それは前日参拝した最御崎(ほつみさき)寺を翌日再び訪ねたことです。前日は車でしたが二度目は徒歩。空海一夜洞窟から寺まで六八〇メートル、崖の山道を登る行程でした。途中で引き返すつもりだったから、ペットボトルを持ちませんでした。
 私は猛暑の中汗をだらだら流し、喉の渇きを覚えながら、海岸沿いの崖を小一時間かけて登りました。もちろん途中で「このまま登ってもう一度寺まで行くか。やめて引き返すか」と考えました。前日参拝しているのだから、寺まで行かねばならない理由はありません。あとどのくらいかかるかわからなかったし、道は一貫して上り。引き返した方が楽なことは明らかでした。
 決め手はなかったけれど、私はそのときなんとなく進む方を選びました。その結果、二つの嬉しい出会いが起こったから、人生は不思議というか面白いのです(^_^)。
 百万遍修行追体験の結びとしてこの話題がふさわしい。「苦しくとも、もう一度同じことをやる意義」について語ろうと思いました。
 これで長い前置き終了です。

 さて、ここからようやく本論(^_^)。
 この追体験は室戸岬におもむく前日から語る必要があります。作り物ではない、実際体験したお話なのに伏線があったからです。

 七月十四日、私は太龍山近くの宿を後にして室戸岬に向かいました。道中二十二番札所「平等寺」に立ち寄り、日和佐に着くと二十三番「薬王寺」も参拝。この間真夏のかんかん照りの中、歩き遍路の姿を何人も見かけ、驚嘆するというか車中から「がんばって!」と声をかけたものです。
 エアコンをかけて窓を閉め切っているのだから、私の声が届くはずはありません。しかし、一人黙々と歩く姿を見れば、思わず応援したくなります。

 それから番外札所「鯖大師本坊」に寄り(前日の美形お遍路二人と再会するプチ偶然も楽しく)、以後室戸岬を目指しました。そこから室戸まで約五十キロ。海岸沿いの道をひたすら南下しました。
 途中おやと思うほど美しい景色もありました。特に「鹿岡鼻」の夫婦岩辺りはいい雰囲気で、帰路立ち寄ろうと思いました(これが翌日この場所で若者遍路と出会う伏線だったとは思いもしません)。

 日和佐を出て一時間後室戸岬に到着。双子洞窟の場所を確認して「ここも磐座かっ!」と大きなヒントを得ました。その後「室戸三山」と呼ばれる三つの札所を見学参拝しました。
 二十四番「最御崎(ほつみさき)寺」は双子洞窟などがある海岸沿いから数十メートル登った崖の上にあり、当然車で行きました。岬の突端から離れたところにあるくねくね道を登って寺に着きました。近くには室戸岬灯台があってそれも見学。雄大な太平洋を眺めました。

 そして、岬を過ぎて二十五番「津照(しんしょう)寺」、二十六番「金剛頂(こんごうちょう)寺」も見学参拝。「津照寺」は海の直ぐ近くの高台に、「金剛頂寺」はこれまた崖の上にあり、そこまでの道を歩いたり自転車で行くお遍路さんを追い抜いて「よくやるなあ」と感心したものです。

 やがて夕方になったので双子洞窟そばのホテルに戻り、海洋深層水の露天風呂に浸かってゆったり太平洋を眺めました。夕食ではクジラの珍味「さえずり(舌)」の刺身をいただきました。すき焼き風の鍋の肉も鯨肉でした(^_^)。「このあたりは昔クジラ漁で結構裕福だったかもしれない」と思いました。
 そして、翌十五日未明双子洞窟追体験を経てホテルに戻り、仮眠を取ると朝食後チェックアウトして「空海一夜洞窟」を見学した――そこまでは以前書きました。

 その後私は一夜洞窟だけでなく、その先にあるという「ねじれ岩」、それに(昔女性の参拝専用だった)「小さな祠」を見に行く予定でした。その後の記述が以下、
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 一夜洞窟見学後さらに遍路道を登る。そこから最御崎(ほつみさき)寺まで六八〇米とあった。確か太龍寺から舎心が岳頂上までも六八〇米だった。面白い偶然だと思っておかしかった。
 しばらくの間くねくね道を登って行く。ずっと鬱蒼とした樹海の中で海も見えない。でっかい里芋(の葉)が群生したところもあった。途中木々の枝に小さなプラスチック製の札がぶら下げられ、そこに「遍路道」と書かれている。いくばくかの寄付で寄贈したのだろうか。迷わないための標識かもしれない。
 その案内札には県名や人名が記されていた。福岡市の人や川崎市在住者の名がある。「大分市何々」とある札を見かけたときは「へえっ大分の人も来たんだ」と妙に感心した。私の出身県である。
 八十八ケ所巡りは全国から集まる。だから、別に大分の人が遍路をしてもおかしくない。ところが、このときは妙に感心して妙に気になった。そして、後ほど大分市と書かれた札が伏線だとわかったから、ジンセーは面白い(^.^)。

 しばらく登ると「ねじれ岩」があった。でっかい岩ですき間がある。双子洞窟やこの岩など、裂け目に意味があるのではと思った。昨年十二月、家族で福岡の海岸沿いのホテルに泊まった。そのとき宗像神社の博物館で、壱岐対馬地方の風習を知った。それによると、かつて対馬地方では大岩のすき間に神を祀(まつ)り、祈りをささげていたらしい。洞窟や大岩のすき間というのはある意味、神の棲む聖地と考えていたのだろう。

☆ ねじれ岩のすき間
ねじれ岩のすき間

 その後は女性専用の祠を探してひたすら登る。ガイドブックにはねじれ岩から十分ほどで着くとあったのに、祠を発見できない。とうとう中腹の展望台まで来てしまった。展望台と言いながら、周辺の木々が伸びすぎて海は全く見えなかった。
 ここで一休みして額の汗を拭った。のどがからからで水を飲みたかった。しかし、祠まで行ったら引き返すつもりだったので、ペットボトルを持って来なかった。
 どうしようかと思った。さすがに半徹夜状態が二日続いただけに、かなりの疲労を感じた。

 もう祠の場所は過ぎたように思われた。祠を見つけないまま降りるか。それとも、ここまで来たら最(ほつ)御崎寺まで登ってしまうか。引き返せば、帰り道で祠を見つけるかもしれない。だが、どうしても見たい祠というわけではない。下りれば、水を飲むのはかなり後になる。すでに三十分は歩いた感じだから、最御崎寺の方に近いのではないかと思った。
 最御崎寺は昨日訪ねたから、こちらもどうしても行きたいところではない。ただ、そこまで行けばすぐに水が飲める。それに車遍路の人に出会えたら、車に乗せてもらい、下の駐車場まで連れて行ってもらうこともできる(^.^)。ここまで来たら最御崎寺まで登ってしまおうと決めた。
 さらに十分ほど登ってようやく最御崎寺の山門までたどり着いた。さすがにしんどかった。境内に入るとすぐに水を飲んだ。汗がどっと噴き出した。……
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 結局、このように無意味とも思える二度行をやってしまいました(^.^)。
 誰か「車に乗せて下まで送ってくれないかな」と身勝手なことを思ったほどだから、相当しんどかったことは間違いありません。しかし、境内には人っ子ひとりいませんでした。

 ところが、その願いがかなったから人生は不思議です。
 私は手水(ちょうず)の水をがぶがぶ飲んで休憩しました。すると、観光客らしき夫婦が現れ、室戸岬灯台を探しているダンナさんと言葉を交わしました。二人が車で札所のいくつかを回っていると聞いたときは「これはチャンスかも」と思い(^.^)、「下の双子洞窟は見学しましたか」と尋ねました。すると「通り過ぎたけれど寄らなかった」と言うのです。

 私はここぞとばかり、今年は金星日面通過の年であり、空海が百万遍修行をやったときも日面通過があったこと。空海の修行を追体験しようと、深夜太龍山に登ったことや今日未明の双子洞窟体験を語り、「ぜひ行くといいですよ」と勧めました。
 すると、ダンナさんが「それじゃあ行ってみます。一緒に乗っていきますか」と言ってくれたのです。よっぽど疲れた顔をしていたのかもしれません。
 私はもう願ったりかなったりで、「さすがに歩いて下りる気はしなかったので、ぜひお願いしたい」と乗せてもらい、双子洞窟まで行くことができました(^o^)。

 それから三人で洞窟に入り、私はまた前夜の体験を語りました。ところが、お二人は私の話にあまり関心を示しませんでした。奥さんがカメラを持っていたので、「せっかくだから、写真を撮りましょうか」と言うと、「ああここはいいです」と答えたことでわかりました。私はあれっと思って少々失望しました。
 双子洞窟には十分くらいいたでしょうか。彼らはさらに中岡慎太郎像そばの駐車場まで私を送ってくれ、そこで別れました。私は車の水を飲み、室戸岬を後にしました。「人の感動体験なんぞ、他人にとって必ず感動するわけじゃないからな」と思って。

☆ 鹿岡鼻夫婦岩
阿南海岸夫婦岩

 そして十分ほど車を走らせると、「帰りに寄ろう」と決めた通り、夫婦岩がある「鹿岡鼻」で車を下りました。この記述が以下、
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 夫婦岩は注連縄(しめなわ)の張られた二つの巨岩がなかなかの景観である。私はもっといい場所から写真を撮ろうと道を下った。すると右側の海岸沿いに東屋があり、そこに一人の歩き遍路らしい若者が靴を脱いで休息していた。
 私は夫婦岩の写真を撮ったら、すぐ出発するつもりだった。しかし、夫婦岩全体を写そうとバックしているうち、その東屋に近づいた。するとその若者が「撮りましょうか」と言ってきた。
 私のデジカメは寺や風景を写すことが目的だったので、自分自身はほとんど撮っていない。しかし、せっかくの好意を断る理由はない。だから私は「それじゃあお願いします」と撮ってもらった。

 それから私たちは東屋に座って言葉を交わし始めた。涼しい風が心地よかった。
 歩きですか。ええ。大変ですねえ。足に豆はできませんか。慣れました……と。
 彼は二十八歳だという。実家は妙心寺派で宗派は違うが、寺の住職から八十八カ所巡りを勧められたそうだ。そのうち彼は出身が大分であるとうち明けた。私はそれを聞いてえっと思った。「実は私も大分出身なんですよ」と言うと、彼も意外な顔を見せた。

 その場で私たちはいろいろなことを語り合った。私は空海のこと、双子洞窟のこと、昨日から今朝にかけての明星体験などを語った。彼はうなずきながら熱心に聞いてくれた
 特に双子洞窟が美しい聖地であったこと。それはこの海岸線の中でこの夫婦岩の所だけが美しいのと同じ事であると。すると人はそこに注連縄を張って、神がいますところ――聖地であることを示す。同じように双子洞窟も昔聖地だったと思うと語った。
 私はさらに今年一二二年ぶりに金星の日面通過が起こったこと、インターネットを検索して、空海が十五歳と二十三歳の時にも同じ日面通過現象があったこと。日面通過の年は特に金星が光り輝く。だから、空海の明星神秘体験は空海二十三歳の時だったのではないか……などと推理を語った。
 彼は私の説明に対して「私もそう思います」と強い口調で同意してくれた。うれしかった(^o^)。
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 私は若者遍路と三十分ほど言葉を交わして別れました。その後振り返って「同じことを二度やって良いことがあった例だったか」とわかりました。

 先程書いたように、最御崎(ほつみさき)寺への遍路道を登っているとき、私の目の前には二つの選択肢がありました。そのまま登り続けるか引き返すか。上るより下りの方が楽。しかも、前日参拝した寺にまた行くなんてばかげている。水を持参しなかったので喉はからから。疲れていた自分にとって、進むことは辛く無意味な選択に思えました。だが、私はなんとなくそちらへ行きたいと思いました。

 その結果、自分には良い出会いが二つも起こった。一つは親切な熟年夫婦と知り合えたこと。彼らは双子洞窟まで車で連れていってくれました。ただ、残念ながら明星体験の話題には感動してくれませんでした。「人の感動体験なんて他人から見ればそんなもんだよな」と思いつつ、内心がっかりしたことは否めません。
 しかし、その夫婦と会ったおかげで――全体としてかなり時間を使ったから――夫婦岩ではぴったりのタイミングで若者遍路と出会えました。彼は私の明星体験を熱心に聞いてくれた。いわば自分の話に感動してくれる読者と出会えたのです。その前少々気分が落ち込んでいただけに、私を理解してくれる人に出会えた喜びはひとしおでした(^o^)。
 面白かったのは若者との出会いに「鹿岡鼻」だけでなく、もう一つ伏線があったことです。
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 最御崎(ほつみさき)寺まで登る急坂の遍路道には大分市民の名がある案内札があった。あのとき、それが妙に気になった。振り返ってみると、あれは大分の若者遍路と出会う伏線(ふくせん)だったのか、などと妙なことを思った。そして熟年夫婦と出会った後、夫婦岩で若者遍路と出会う。この「夫婦」つながりも面白い(^o^)と思った。
 さらに、これら全てのことはあの遍路道を一生懸命登り詰めることで果たされたのだと思う。坂の途中で下した、上まで登ろうという決断は正しかったということだ。
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 空海マオと比べるのは僭越ながら、私自身の旅にも「苦しかったけれど、同じことを二度やって良かった」体験があったわけです。

 これがかなりピンポイントの時間内にあったこと、そして、ミスも含めて全て必要だったこと――つまりミスや情けない出来事さえ肯定できる例でもあったことを最後に語っておきたいと思います。

 振り返ってみると、良き理解者となってくれた若者遍路と出会うのは、彼が鹿岡鼻の夫婦岩で休憩する時間帯だけです。国道で彼は徒歩、私は車だから立ち止まって出会うのはまずあり得ない。
 彼はその日の朝北部の宿を出て徒歩で室戸岬に向かい、途中の夫婦岩で休憩した。東屋で着衣や靴を脱いで涼んでいたくらいだから、そこに三十分は休息する予定だったと思います。時間は午前十時半くらい。私はその時間前後に行かねばなりません。早くても会えないし、遅くても会えません。

 もしも朝食後一夜洞窟を見ただけで駐車場に戻って出発したら、早すぎて彼はまだ国道をてくてく歩いている最中でしょう。
 また、一夜洞窟からねじれ岩を見て女人専用の祠を見つけていたら、私はそれ以上登ることをしません。山道を下り駐車場に戻って出発しても、若者遍路と会うにはまだ早すぎます。駐車場から鹿岡鼻まで距離は十キロ強。十分ほどで着くからです。当然寺に行かないのだから、親切な夫婦とも会えません。

 実際のところどうなったかと言うと、私は女人専用の祠を見つけることができず、どんどん登ってしまいました。中間の展望台に達して行き過ぎたことがわかりました。水を飲んでいないので喉はからから。ペットボトルを持参しなかったのは失敗だったと思ったし、「どうして祠がわからなかったかなあ。案内板くらい設置してほしかったよ」と自らを責め、誰かを責めたい気持ちも湧いていました。上るか引き返すか迷いました。

 そのとき一夜洞窟から展望台まで三十分ほど登った感じでした。もしもそこでやめて下りていたら、駐車場まで(道はずっと下りだから)二十分ほどで着いたでしょう。当然水を飲んですぐ出発します。
 振り返ると、寺で夫婦と言葉を交わし、三人で双子洞窟に行き、駐車場に戻って出発するまで一時間近く使っていました。だから、展望台から引き返していたら、やはりまだ早く、若者遍路とは会えなかったと思います。

 次に思うのは駐車場に戻るのがもっと遅れた場合です。つまり、最御崎寺まで登ったけれど、親切な夫婦と会えなかった場合、または出会ったとしてもそこで別れていたら、私は同じ遍路道を下るしかありません。寺の水を飲んだ後、山道を歩いて駐車場まで戻ったでしょう。
 この場合は鹿岡鼻で若者遍路と会えたかどうか微妙です。車だと十分で到着するので、ちょっと早いような気がするし、会えたかどうか。若者は休憩を終え、すでに出発していたかもしれません。車で十分でも歩けば二時間はかかります。

 このように振り返ってみると、水を持っていかなかったこと、女人専用の祠を見つけることができなかったこと――これは普通ならミスであり、情けないこととして「何やってんだ」と怒り、否定したくなるような事態です。しかし(詭弁のように聞こえるかもしれませんが)、全て必要なことだったとわかります。

 なぜなら、水を持っていたら最御崎寺まで行こうと思わなかったし、女人専用の祠も発見していたら、そこから引き返すから、親切な夫婦と会えない。時間も早すぎて若者遍路にも会えないからです。
 妙な表現ですが、もう一度最御崎寺まで行って親切な夫婦と会い、さらに若者遍路と遭遇するためには「水を持っていかなくて良かった、女人専用の祠を見つけなくて良かった」と言えるのです(^.^)。

 私は良き理解者となってくれた若者遍路だけでなく、最御崎寺であの夫婦と会う必要もありました。それは親切に車で送ってくれただけでなく、私の明星追体験に感動してくれなかった――冷淡な読者がいることを教えてくれたからです。

 たとえば、美術・音楽に関わる画家や彫刻家、作曲家、そして小説など表現に関わる人は自作を理解して「いいね」と言ってくれる受容者を求めるものです。特に今までにない新しい試みをやったときはなかなか理解してくれず、逆に「どうしてそんなものをつくるんだ」と批判されたりします。
 後世称賛される印象派やゴッホ、ピカソなど登場したころは「こんなもの絵じゃない」と酷評されました。しかし、やがて「素晴らしい」という人たちが増えていきました。それが世の流れというか、人の心情なら、作品を理解してくれない人がいるのは当たり前のことだし、逆に理解してくれる人もいる――それが普通だと感じるべきでしょう。作者にしてみれば苦心の作品を、「どうしてわかってくれないんだ」と怒りたくなる。しかし、別に憤慨する必要もない。それが世の中なんだから。
 私もまた表現者の一人として四国明星の旅でそれを学んだことがわかります。

 最御崎寺で親切な夫婦――しかし私の読者としては冷淡な人と出会うことは良いことだった。美しい夫婦岩のある鹿岡鼻で、私を理解してくれる若者遍路と出会えたことはもっと嬉しい出来事だった。
 この二組の人と遭遇するために私は(前日参拝したけれど)もう一度最御崎寺まで行く必要があった。遍路道を途中で引き返していたら、どちらとも会えなかった可能性が高い。水を持参していたら、女人専用の祠を見つけていたら、もう最御崎寺には行かない。
 だとしたら、水を持たなかったことはミスではないし、祠を探せなかったことも情けないことではない。祠への案内板がなかったことも怒るようなことではない。むしろそれらのミスや不如意な出来事があったから、私は最御崎寺まで行った。結果親切な夫婦と会い、若者遍路と会えた。全て肯定できるではないか、と思ったことです。

 このように私の四国明星の旅で事態を肯定的にとらえる出来事がありました。本家空海もおそらく室戸岬百万遍修行を終えて「全肯定の萌芽」を見出したはずです。それについては次号より語りたいと思います(^_^)。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:一つ補足します。最後の方を読まれた読者は私が「何事も肯定する全肯定について(それは良いことだと)語っている」と思われたことでしょう。
 そして、「良いことが起こったのはたまたまであり、結果論であって必ずそのような良いことが起こるとは限らない」とつぶやかれたり、「全肯定を意識したからといっていつもいつも良いことが起こるわけではない」と反論されるのではないか。
 いいつぶやきであり、いい反論だと思います。できたら、もう一度後半を再読してください。テーマは「現在起こっている悪いことを肯定できるかどうか」です。

 以前『狂短歌人生論』第5・6号「分かれ道(問題編・回答編)」において次のような狂短歌を書いています。

〇 分かれ道 右へ行こうと左でも 未来を読めば良いことが待つ?

 つまり、私の結論は「どちらに進んでも良いことが起こるから、今の悪いことにくよくよしなさんな」いう見方を披露しているのです(^_^;)。
 6号「回答編」を読めば、なるほどと思われるかもしれません。

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