四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 52

「『聾瞽指帰』と『三教指帰』」その4


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第129 ―論文編 52号

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           原則月1回 配信 2018年11月10日(土)



『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・『三教指帰(さんごうしいき)』・『聾瞽指帰(ろうこしいき)』・仮名乞児(かめいこつじ)・体裁(ていさい)を殺(そ)ぐ・無知無明(むちむみょう)・兎角公(とかくこう)・蛭牙公子(しつがこうし)・虚亡隠士(きょもういんし)・邁進(まいしん)・虚心坦懐(きょしんたんかい)・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』・顕教(けんぎょう)・法相(ほっそう)宗
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 『空海マオの青春』論文編――第52 『聾瞽指帰』と『三教指帰』その4

 第52 『聾瞽指帰』と『三教指帰』その4――『十住心論』の萌芽

 前節で述べたように、空海マオは室戸岬百万遍修行を終え、『聾瞽指帰』を『三教指帰』に改稿したとき、結論に当たる十韻賦を「三教は我々を導く」という三教全肯定に変えました。
 では、本論はどうか。結論を変えたなら、本論だって変えるべきでしょう。「儒道仏三教は愚かな我々を導いてくれる」との内容に。

 儒教論者は道教・仏教について(二教を「知らない」とされていることもあって)特に批判・否定の言葉をもらすことはありません。儒者亀毛先生が批判・否定するのは愚か者蛭牙公子です。礼儀知らずで野蛮で自分勝手で飲む打つ買うに明け暮れるその生き方を否定し、儒教が正しい生き方を示すと教え諭します。
 対して(仏教を知らないとされる)道教論者は儒教の立身出世や仁義忠孝を束縛であり、自由のない生き方だと否定します。さらに仏教編の仮名乞児は儒教・道教を浅い見方だと批判します。三教の各論を読む限り『聾瞽指帰』、すなわち『三教指帰』本論は三教全肯定ではない……と読みとれるでしょう。

 ところが、空海マオは『三教指帰』の結論(十韻賦)だけは三教全肯定に変えました。序と十韻賦は手を入れたのに、なぜ本論は「変える必要がない」と思ったのか。私の推理はこうです。

 『聾瞽指帰』本論において三教はそれぞれの立場で自宗を肯定している(そのように書いている)。儒教は自宗の良さを強調している。道教もまた(儒教は批判・否定するけれど)自宗の良さを存分に述べている。仏教も二教を批判しつつ自宗の良さをとことん説明している。儒教・道教の問題点――特に批判すべきは現世の幸福追求のみで来世のことに触れられない点――これは仏教の最大特徴だから、どうしても書かざるを得ない。

 もしも本論の中に「三教は人を導く」を挿入するなら、仏教編でしょう。仮名乞児に「儒教にはこんないい点があります。道教にもいい点があります。だから、儒教・道教も我らを導いてくれる良い宗教です」と語らせればいい。
 しかし、それは蛇足と言うか屋上屋と言うか、余計な増補修正と言わざるを得ません。各論において良い点を存分に述べているからです。極端に言えば、「もうこれ以上の解説はない」ほどに書き込んでいる(^_^)。

 マオはおそらくこう思ったでしょう。「儒教論、道教論の長所にまた触れることは繰り返しでしかない。下手くそな論文ではないか」と。
 仏教編には親戚から「儒教に戻れ」と説教されたエピソードを盛り込みました。読みの浅い読者は「儒教の忠孝が再び繰り返されて下手くそな論文だ」と思うかもしれない。しかし、そのエピソードは儒教論、道教論には入らない。論文としての体裁を殺ぐ表現ながら、どうしても入れたい。「繰り返しはこの程度におさめるべきだ」と感じたはずです。

 さらに、儒教解説を聞いた無知無明の代表、兎角公と(ならず者の甥)蛭牙公子は「素晴らしい教えです。今後は儒教を信奉したい」と言っている(そのように書いている)。すなわち「儒教を初めて学んだ段階なら、儒教はいいものだ」と書いている。儒教編の結論は儒教肯定である。

 また、道教解説を聞いた後は、前二者に加えて儒教代表亀毛先生でさえ「今後は道教を信奉したい」と言わせている(そう書いている)。ここでも「道教を初めて学んだ段階なら、道教はいいものだ」と書いている。すなわち、道教編の結論は道教肯定である。

 そして、最後に仮名乞児の仏教解説を聞き終えると、兎角公、蛭牙公子、亀毛先生、虚妄隠士の全てが「今後は慈愛あふれる教えを悟りの世界に向かう船とも車とも致したい」と言う(そう書いている)。もちろん仏教肯定

 要するに、虚心坦懐に儒教を聞いた段階では儒教がいい、道教を聞いた段階では道教がいい。仏教の教えを聞けば、仏教がいいのだと書いている。三教について語った本論の趣旨は「儒教を肯定し、道教を肯定し、仏教を肯定している」と読めるのです。

 マオは室戸岬から戻って『聾瞽指帰』を読み返したとき不思議の感にとらわれたでしょう。「本論に書き直したいところがない……」と。
 書き直す必要がないと感じたのは儒教道教仏教全て肯定論が書かれていたからです。前節で書いたように『聾瞽指帰』執筆時には自作本論が三教肯定論になっていることを気付いていなかった可能性が高い。なぜなら、結論の十韻賦に二教の欠陥を書くという《二教否定》が入っているからです。『聾瞽指帰』執筆時は二教否定が入っても「いい」と思ったのです。

 つまり、『聾瞽指帰』執筆段階では理屈としては三教全肯定だけれど、感情としてはまだそこまで認めていない、許していなかった。それが二度目の室戸岬百万遍修行を終えて《感情》まで三教全肯定の境地に達した。そして『聾瞽指帰』を読み直したとき、儒道仏三教を肯定論として書いていたことに気付いたのだと思います。

 この件は小説と作家の関係において充分起こりえる事態と言えます。普通作家というのは登場人物の一人に寄り添って書くことが多い。それが主人公であり、他は脇役となります。
 私小説などは「主人公の私=作者」などと言われますが、厳密に言うとやはり違う。たとえば、作中の「私」がどんなに怒ったり悲しんでいても、作者はそれを冷静に眺め、周囲の状況・人物もしっかり把握して書くでしょう(そうでなければ小説になりません)。
 作者とはいつでもどんなときでも、登場人物と一線を画しているし、作中の過去、現在、未来に渡って何が起こり、どうなったかを知っています。ゆえに、どんな小説であれ、作者は登場人物に対して全てを知っている「神」の位置に立たなければならないし、立つはずです。

 空海マオの場合、『聾瞽指帰』は論文として書き始めたでしょう。しかし、登場人物の戯画化とか自身の状況や思いを書き込むことでだんだん小説のようなおもむきを見せ始めた。おそらく執筆当初は自分を仏教僧仮名乞児として意識し、書いていたと思います。だから、儒教を批判し、道教も批判し、結論にもそれを書き込んだ。
 ところが、室戸岬百万遍修行を終えて作品を読み直したとき、自分が単に仮名乞児の位置ではなく、「作者=神」の位置に立つことに気付いたのだと思います。作中の仮名乞児は儒教・道教を批判否定する。しかし、作者である《自分》は仏教はもちろん、儒教も道教も肯定できる位置にいる……という構図です(^_^)。図式化してみると、

※『聾瞽指帰』から『三教指帰』へ

『聾瞽指帰』執筆時――→ 『三教指帰』改稿時     
  儒教←否定―道教 
   ↑批判 否定↑
  仏教僧仮名乞児
  (=空海マオ)
 儒教←否定―道教 ̄|
  ↑批判否定↑    |←作者=空海マオ 
  仏教僧仮名乞児  |      三教肯定
  (過去のマオ)  _| 

 私にはマオのつぶやきが聞こえます。「結局、本論において三教はそれぞれの段階において我々を導いてくれると書いてあった。もちろん批判・否定はある。だが、最終的に三教全て肯定している内容だった」と。

 また、こうもつぶやいただろうと思います。「私は最終的に仏教に到達した。では、儒教は必要なかっただろうか。いや、儒教は必要だった。道教は必要なかっただろうか。いやいや、道教も必要だった。私は儒教を学び、道教修験道を体験することによって、より深く仏教を学ぶことができた。私は三教全てに導かれたのだ。蛭牙公子とは正に私自身だ」と。
 かくして三教全肯定の思いを『聾瞽指帰』に取り入れようと読み返してみたけれど、「その思いはすでに本論に書かれていた。本論を書き直す必要はない」との結論となった……(^_^)。

 しかし、こうなると逆に結論部「十韻賦」の冒頭が引っかかった。そこに儒教道教の欠陥を書いていたからです。全体のまとめとしては「欠陥をあげつらうより、良い点だけを言うべきだ」と思った。そこで、儒教を学べば「高官の列に入る」、道教を学べば「道観に地位を持つことができる」と長所を追加し、「三教は愚かな人間を導いてくれる」とまとめた。

 ちなみにこの儒教道教の良い点ですが、表面的と言うか一面的長所でしかない気がします。もっと儒教なら「惻隠の情」とか、道教なら「自由や無為自然」など根本概念を書くべきでしょう。それができなかったのは脚韻のせいだと思います。

 『三教指帰』冒頭の脚韻は [心・鍼]の「−イン」に変わりました。
 そして二連目の書き下しが以下([ ]内は脚韻)、

 綱常は孔に因(よ)って述ぶ
 受け習って入る槐林(かいりん)――[林]
 変転は老公の授くるところ
 依り伝えて道観に臨む     ――[臨]

 おそらくマオは「うーん。二教の長所としてはイマイチだが、脚韻を合わせるためには仕方がない」と感じたのではないかと思います(^_^)。

 空海マオは自作が他宗批判はあっても、他宗の全否定になっていないことに気付きました。本論が三教肯定なら結論も三教肯定にすべきだと思って結論を改稿した。本論を書き換える必要性を感じなかったのは三教肯定がすでに書かれていたからです。

 ところで、ここまで読まれて空海の全書籍を熟読研究された方は、ある書物を想起されたことと思います。『十住心論』です。

 後年空海が密教解説の集大成として執筆した『十住心論』――それは動物的本能的野蛮な人間が儒教道徳を学び、自然哲学・道教を学び、顕教を学び、法宗、三論、天台から華厳経を経て密教・真言宗に到達するという十の段階を解説した著書です。その根底にあるのは《全肯定》でした。

 空海は儒教も道教も顕教も否定しない。もっと言うなら、「動物的本能的野蛮で愚かな人間」でさえも肯定したでしょう。なぜなら、もしも人間が完璧な全人格的存在として生まれ、生きるなら、儒道仏三教も(全ての主義も)必要ない。人が愚かなニンゲンであるからこそ、儒道仏に目覚めることができる。ならば、愚かな人間であることも肯定できる。空海は魂の成長段階として全て必要であると感じていたはずです。
 このように『三教指帰』本論、序、結論(十韻賦)には『十住心論』の萌芽さえ見られる――私にはそう思えます。

 作家はよく「処女作に戻る」と言われます。処女作には「作家の人生と全体がすでに描かれている」とも言われます。
 私には空海の処女作『三教指帰』が正にそれだと思えるのです。『三教指帰』には『十住心論』の原型――野蛮で愚かな人間、儒教を学び、道教を学び、仏教(顕教)を学び、百万遍修行という密教につながる教えを学んだ――それが描かれているではありませんか。

 もう一つ。二度の百万遍修行はこれほど大切な重い体験でありながら、なぜ本論に取り入れなかったのか。この理由は単純です。「どこに入れたらいいかわからなかった」からだと思います(^_^)。
 儒教に入らないことは明らか。だが、山岳修行だったから道教に入るかも知れない。自身が読んできた仏教の中には何も書かれていない。後年百万遍修行が「密教のかけら」(司馬遼太郎氏の言葉)であったことは知ったでしょう。が、この段階では仏教編に入れていいかわからなかったのだと思います。本論で触れない以上、結論に入るわけはない。だから、「序」に入れるしかなかった。

 結局、室戸岬百万遍修行を終えて『聾瞽指帰』を読み返したとき、追加したいと思ったのは「自分がどう成長してきたか」であり、心底仏教に突き進むとの(理屈だけでなく感情も認めた)決意でした。儒教・道教を否定するものではなく、むしろ肯定することでした。

 自分の感情はどうかと考え、『聾瞽指帰』を読み直したとき、「自分は心から仏教に突き進むと書いていない」ことに気付いた。
 自分について取り上げていたのは仏教編の仮名乞児が語る来歴のところ。山岳修行中に親戚から「乞食みたいな格好をしておまえは何をやっているんだ。忠孝の儒教に戻れ」と批判されたとき、自信を持って返答することができなかった。
 しかし、室戸百万遍修行を終えた今なら、「私は自信を持ってもう儒教にも道教にも戻らない。仏教に突き進む」と心から言える。それを書き込みたい。『聾瞽指帰』には「自分がどう思ったか、どう決意したか」が書かれていない。だから、「自分のことをもっと書き加えるべきだ」と思った。入れることができたのはやはり「序」。そこに十五から十八の履歴、そして二度の百万遍修行を付け加えた。

 ただ、空海さん(^_^)。たったそれだけの追加で「私の魂の成長、百万遍修行の重みをわかってください」とおっしゃるのは無理がありますよ(と申し述べたい気持ちです)。

 かくして『聾瞽指帰』に欠けていたのは「私自身の成長だ。私の履歴を書き込もう」と思い、「序」に二度の百万遍修行までの履歴を追加した。そして、結論部「十韻賦」にあった儒教道教の欠点を述べたところを削り、儒教道教のいい点を追加して「三教は人を導く」との結論に変えた。最後に「出家=仏道邁進の決意」も書き込んだ。空海はきっと「これで本当の完成だ」と思ったことでしょう(^_^)。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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