四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編 第 53

「『聾瞽指帰』と『三教指帰』」その5


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第130 ―論文編 53号

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           原則月1回 配信 2018年12月10日(月)



『空海マオの青春』論文編 

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 本号の難読漢字
・仮名乞児(かめいこつじ)・亀毛(きもう)先生・虚妄隠士(きょもういんし)・兎角公(とかくこう)・喧々囂々(けんけんごうごう)・侃々諤々(かんかんがくがく)・放蕩(ほうとう)・蛭牙公子(しつがこうし)・行脚(あんぎゃ)・宗旨替(しゅうしが)え・邁進(まいしん)・所謂(いわゆる)・本地垂迹(ほんじすいじゃく)・凌駕(りょうが)・結願(けちがん)
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 『空海マオの青春』論文編――第53 『聾瞽指帰』と『三教指帰』その5

 第53「聾瞽指帰と三教指帰」その5―『三教指帰』脚本化の試み

 ちょっと脱線気味の一節となりますが、もしも空海『三教指帰』を戯曲として上演するなら、どのような脚本を書くか。映画や連続ドラマ用の脚本を考えることで、見えてくるものがあるはずです。

 というのは以前「『三教指帰』には親戚との論争に負け、自信をなくした仮名乞児(=空海マオ)がどうやって自信を得たか、その表現がない」と指摘しました。『三教指帰』を小説と考えるなら、かなり致命的な欠陥です。これは同作を脚本化してみると一層明瞭になります。

 最も簡単な戯曲は儒道仏三教について論じているのだから、全三幕として儒教論客亀毛先生、道教虚亡隠士、仏教仮名乞児が喧々囂々、侃々諤々の議論を闘わせる――といった脚本でしょうか。
 しかし、これはあまりに安易と言うか、下手くそな脚本と言わざるを得ません(^.^)。
 そもそも『三教指帰』においてこの三者が論争することはありません。亀毛先生は儒教について言いっぱなし。蛭牙公子と兎角公は「素晴らしい」とひれ伏します。次の虚妄隠士が道教を語ると、反論していいはずの亀毛先生はいともたやすく「おっしゃる通りです。儒教は浅薄な理論でした」とこれまたひれ伏して反論しません。
 そして、仮名乞児が仏教を説くと、これまた反論していいはずの亀毛先生、虚妄隠士は「素晴らしい教えです」と賛嘆して仏教への宗旨替えを告白します。つまり、三者の論争はない――と描かれています。

 このような状景、現実にはまずあり得ないでしょう。三教信奉者が集まれば、「お前は間違っている。私の宗教が最も素晴らしいのだ」と口角泡を飛ばして激論を交わすはずです。
 思うに、空海マオという人は仲間の議論を傍観的というか、ちょっと冷めた視線で眺めていたのではないでしょうか。「どうしてこんなに相手を批判、否定するのだろう。いい点があるのに」と感じて。
 三教信奉者だけでなく、南都仏教内でも《空無の解釈》をめぐって論争が交わされていた。マオはそれさえも「どちらもありではないか」と感じて眺めていたのではないかと推測します。

 とまれ、基本は儒道仏三教論だから、脚本は最低限三幕としてここに放蕩の甥蛭牙公子の行状、マオの仏教修行などを盛り込むと、以下のように五幕は設けたいところです。

 ※『三教指帰』脚本構想

 1 甥である蛭牙公子の放蕩三昧の様子、おじ兎角公の困り果てた様子
 2 兎角公の屋敷に儒教論客亀毛先生、蛭牙公子、道教虚亡隠士が集合
   まず亀毛先生の儒教論が語られる
 3 次に虚亡隠士の神仙思想・道教論が語られる
 4 仏教私度僧(仮名乞児)の諸国流浪
 5 兎角公宅に上がり込んだ仮名乞児の仏教が語られる

 各幕についてもう少し具体的に書き込んでみると、

 ※『三教指帰』脚本詳細

1 蛭牙公子の放蕩三昧の様子と、おじである兎角公の困り果てた様子
 ……兎角公は甥の蛭牙公子を寄宿させる。だが、彼は野生児のように礼儀も知らず、悪友と狩りや酒、女に博打にと遊びまくっている。兎角公は先達に指導をお願いしたいと思う。

 2 兎角公の屋敷に儒教論客亀毛先生、蛭牙公子、道教虚亡隠士集合
 ……兎角公はまず儒教論客亀毛先生に蛭牙公子への説諭を依頼する。亀毛先生は「いやいや私のような者は」と謙遜しつつ、儒教の素晴らしさをとうとうと語る。「仁義忠孝に励み、立身出世を果たすことが大切だ」と。兎角公と蛭牙公子は「儒教こそ素晴らしい教えです」と感嘆してひれ伏す。部屋にはたまたま虚亡隠士も居合わせ、亀毛先生の説諭を薄ら笑いを浮かべながら聞いている。さらに門の外にはぼろぼろの僧衣を着た一人の私度僧が佇んでいる。(ここで亀毛先生が幼い頃から儒教を学び、大学寮卒業後学者となった人生を挿入する構想もありか)

 3 道教虚亡隠士の弁舌
 ……亀毛先生の説教が終わると、虚亡隠士は傲然たる口調で語り始める。儒教は「小石でありクソだ」と真っ向から否定。仙人を目指し、無為自然の道教こそ素晴らしいと熱弁をふるう。亀毛先生、兎角公、蛭牙公子はなるほど道教こそ最上であるとひれ伏す。(ここで虚亡隠士が仙人を目指して山岳修行に励む姿を一幕として挿入する構想もありか)

 4 仏教私度僧(仮名乞児)の諸国流浪
 ……仮名乞児はみすぼらしい格好、乞食と見まがうばかりの外見で諸国行脚に出る。ひなびた村に入れば、馬糞や小石を投げられ、追い払われる。都に戻ればたまたま親戚縁者と会い、「父母の孝養はどうする、能力があるのになぜ君主に仕えない。立身出世を果たし名を後世に遺す。それこそ人の生きる道ではないか。忠孝に戻れ」と説教される。乞児は反論するが、うまく説明できず尻切れトンボに終わる。仮名乞児は悩みを独白する――進むべきか退くか、どう生きればいいのだろうと。

 5 亀毛先生宅に上がり込んだ仮名乞児の弁論
 ……仮名乞児は門の外に佇み、亀毛先生と虚亡隠士の弁論を聞いていたが、勇躍部屋に上がり込み、儒教・道教の劣った点、それを乗りこえることができる仏教について堂々と語り始める
 やがて兎角公、蛭牙公子、亀毛先生、虚亡隠士は「仏教こそ素晴らしい教えです」と賛嘆し、今後は宗旨替えして仏教道に邁進することを誓う。仮名乞児は自信と決意に満ちた様子で舞台に立って幕となる。

 ――このように最低でも五幕必要だと思います(^_^)。

 さて、この脚本構想をお読みになって何か感じなかったでしょうか。
 第四幕の内容は仏教編の前半、第五幕は後半を脚本化しています。そこには飛躍と言うか、仮名乞児のある心理が欠けていることに気づきます。

 その心理とは仏教に進むかどうか悩み、儒教に戻れと言う親戚に対して仏教をうまく説明できなかった仮名乞児(空海マオ)が、なぜ儒教・道教論客に対して堂々と「仏教こそ二教の上をいく最高最上の教えです」と主張できるようになったか。いかにして自信を得たか、それを説明する心理・表現が欠けているのです。

 ただ、『三教指帰』にその説明がないわけではありません。仏教編には次のような記述があります。
「亀毛先生と虚亡隠士の二人は、それぞれに自分は正しく相手は間違っているという。そのとき仮名乞児は自分で考えた。溜り水のようにぽっつりとした弁舌、たいまつの火のようにちっぽけな才気の輝き、それでもこの程度にはやれる。ましておのれは法王すなわち仏陀の子である。いでや虎豹(こひょう)の威力をもつ鉞(まさかり)を抱きかかえ、蟷螂(とうろう)のちっぽけな斧を取り拉(ひし)いでくれよう」と(福永光司訳)。すなわち、仮名乞児は「仏陀の子」だから、儒教・道教論者二人と充分戦えると言うかのようです。

 さらに仮名乞児は二人に対してこう言います。
「獅子の吼える声にたとえられる仏陀の教えをともに学ぶがよい。孔子がその化身とされる儒道菩薩、老子がまたその化身とされる迦葉(かしょう)菩薩は、いずれもわたしの友人である。この両人は、きみたちの愚かさを憐んで、わが師である仏陀が以前に東方に派遣されたのだ。しかしながら東方の人々の能力が低かったため、天地造化の世界の皮相な道理を卑近に説いて、永劫の時間にわたる深遠な哲理はまだ説かれなかった。それなのにきみたちは、教えの違いを固執して議論をたたかわせている。なんと間違いではあるまいか」と。

 この内容は所謂「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」説です。本地垂迹とは神仏習合の理論で「日本の神は実は仏であり、仏が日本人を救うために、まず神となって日本に舞い降りた」との理論です。

 この理由付けは日本の「神仏習合」として有名ですが、インド発祥の仏教が元から持っていた理屈です。
 インドでは仏教が創始される前ヒンドゥー教があり、中国に渡ったときには儒教道教がありました。そこで仏教は「ヒンドゥー教の神々は実は仏だったんだ」と主張することで、ヒンドゥー教を取り込みました。この理屈を中国で押し進めると、儒教道教の聖人も「実は仏だったんだ」と言えます。マオもこの場でその理屈を繰り出しているわけです。
 普通生まれ変わりとは偉大な人が後世の人間に生まれ変わる――ことを指すでしょう。本地垂迹は真逆というか、仏が前の時代に生まれ、人々を教化してきたというわけです。

 仏教入門後のマオがこの本地垂迹説を知らなかったとは到底思えません。
 乞食のような格好でうろつくマオに対して親戚の一人が「情けない奴だ。親戚はみな恥ずかしい思いをしているぞ。儒教に戻れ」と説教する。
 ならば、仮名乞児ことマオは堂々と本地垂迹説を持ち出せばいい。「儒教の孔子は仏が前もって東方に派遣したのです。実は孔子は仏です」と反論できたはず。しかし、彼はその理屈を口にしなかった。
 言えば親戚の反応が予想できたからだと思います。「何をたわけたことを」と(^_^;)。

 ここらのことは理屈と感情を使って説明することもできます。理屈としては儒教を説く親戚に本地垂迹を主張できる。しかし、マオの感情はまだそれを認めていない。自信を持って「孔子は仏なんです」と言えない。だから、親戚に対してうまく反論できず、「進むべきか退くべきか悩んだ」との独白になったのです。

 つまり、本地垂迹説は仮名乞児・空海マオが「なぜ自信に満ちて仏教理論を語れるようになったか」その理由とは言えません。あることをきっかけに自信を獲得したから、堂々と本地垂迹説を主張できるようになったのです。結局『聾瞽指帰・三教指帰』本論において仮名乞児の自信の裏付けと言うか、「どうやって自信を得たか」――その理由・経緯は書かれないままです。
 では自信を獲得したあることとは何か。もちろん百万遍修行です。

 そこで4幕と5幕の間に入るのが、仮名乞児すなわち空海マオの金峰山・石鎚山の山岳修行であり、一度目の太龍山百万遍修行です。
 金峰山・石鎚山登拝によって取り入れた道教によってまず儒教を否定した。そして、百万遍修行を実践することで、仏教に対して自信が持てるようになった。百万遍修行後仏教の三世にわたる哲学・思想が明確になり、二教論者と戦える自信がついた……という流れです。

 まとめると以下のような脚本構成となります。第五幕を六として間に「百万遍修行体験」を挿入します。

1 甥である蛭牙公子の放蕩三昧の様子、おじ兎角公の困り果てた様子
2 兎角公の屋敷に儒教論客亀毛先生、蛭牙公子、虚亡隠士が集合
   まず亀毛先生の儒教論が語られる
3 次に道教虚亡隠士の神仙思想・道教論が語られる
4 仏教私度僧(仮名乞児)の諸国流浪
   仮名乞児は進むか退くか、どう生きればいいのだろうかと悩みを告白
5 仮名乞児の太龍山百万遍修行
   百日に渡る太龍山百万遍修行によって仏教の素晴らしさを体感、
  「仏教こそ二教を凌駕する理論だ」と確信
できた。
6 亀毛先生宅に上がり込んだ仮名乞児の弁論
  儒教・道教の劣った点とそれを乗りこえることができる仏教について堂々と語る。
  邸宅の四人は仮名乞児にひれ伏す。乞児は舞台に立って《明日》を眺める気配にて幕(^_^)。

 このように『三教指帰』の脚本化は六幕終了でいいとして、空海マオ青春期全体の脚本として考えるなら、もう一つ七幕をこしらえる必要があります。七幕こそ室戸岬双子洞窟の百万遍修行であり、そのラストは結願でもある百万回に達した日でしょう。
 ここに室戸岬百万遍修行における著名な空海伝説――「明けの明星が自分の口に飛び込んだような気がした」というエピソードを取り入れないわけにはいきません(^_^)。

7 室戸岬双子洞窟前に立つ空海マオ。一人百万遍修行を開始する。
 洞窟内のとてつもない恐怖、真言称名、入り口の外で輝き始める明けの明星、そして台風襲来、求聞持法をとなえて自然の脅威さえ克服。いよいよ百万遍修行最後の一万回を開始する。称名が百万回に近付いた頃、明けの明星が自分の口に飛び込んでくると感じる……それは幻覚か、真実か。だが、もう間違いはない。私は仏教に邁進する。誰がなんと言おうと、人が信じようと信じまいと自分は仏教に突き進む。新しい仏教をきっと生み出してみせる(これは独白?)。マオは夜明けと共に東に浮かぶ太陽を見つめる姿にて幕。

 問題はこの流れで「室戸岬の百万遍修行によって全肯定に達した」と描けるかどうか――その考察は次節とします。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:2018年新語流行語大賞に冬季五輪カーリング娘の「そだね〜」が選ばれました。彼女らはあのとき「なんでも前向きにポジティヴにプレイするという意味で、そだね〜を使った」と語っていました。
 それってある意味「全肯定」ですね(^_^)。普通「それじゃダメだよ。無理だよ。こっちがいいよ」と言いそうです。そこを「そだね〜。それもいいね。でも、この方法もあるね」と言うんでしょう。
 日本も世界も独裁的リーダーが自国エゴイズムを発揮させようとしているし、半数の支持も得ています。他国や他人を否定する感情は世界に蔓延している感じです。しかし、先行きを悲観することなく、「そだね〜」と言いつつ自身を保持したいなと思います。
 今年も『空海マオの青春』論文編をお読みいただきありがとうございました。(御影祐)
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 MYCM:御影祐の最新小説(弘法大師空海の少年期・青年期を描いた)      
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